神の子どもたちはみな踊る(村上春樹)

2011-05-25 00:00:34 | 書評
kaminoko村上春樹の少なくとも小説は全部読んでいたつもりだったが、先日、『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(市川真人著)を読んでいたら、一冊だけ落としていた。それが、この『神の子どもたちはみな踊る』。

2000年の刊行ということで、なぜ読み落としたか、今となったらまったくわからないのだが、時節柄というか、6編の短編に共通する大テーマが、「阪神淡路大震災」である。

「UFOが釧路に降りる」では、主人公の小村の妻が、震災後、テレビに見入ってしまい、ふっと実家に帰り、そのまま離婚ということになる。なぜか東京から釧路に向かった彼が会うのは謎の女性であるシマオさん。物語は「まだ始まったばっかりよ」と宣言される。

「アイロンのある風景」では、事情により神戸東灘区より飛び出して茨城県の海岸に住む順子さんの話。海岸に流れ着く流木で焚き火をおこすのが得意の三宅さんという男が登場。地震のあと、家出した実家のことが心配になる順子をなぐさめているのかどうかよくわからない。(今度の地震では、その鹿島灘に津波が押し寄せる。当面、焚き火の原料になる流木には不自由しないだろう)

「神の子どもたちはみな踊る」は、もっとも奇妙な構造である。というか1Q84の原型の一つなのだろうか。耳の一部が欠けた男(医師)と交わったため妊娠したという母親からの記憶に基づき、千代田線の中で耳の一部が欠けた男を発見した善也は、男の追跡を始める。そして辿りついた深夜の公園で見たものは?(二つ目の月ではないから)

「タイランド」。6編の中で、もっとも筋書きがあいまいな小説である。甲状腺の専門医であるさつきが主人公。筋書きが進行する場所はタイなのだが、神戸の地震のあと、そこに何らかの関係があることがわかる。彼女に関係する実在の人間なのか、本人の意識化の架空の人間なのか、あるいは単に夢の中に登場する人間なのか。残る5編のバランスを取るために存在するような1編のようにも感じる。

「かえるくん、東京を救う」は1996年2月17日に発生することになっていた都心の直下型地震を防ぐ話だ。神戸の地震のあと、東京の地下で眠っていた「みみずくん」が大地震を起こそうとしていた。それをかえるくんが登場して、主人公片桐と協力して戦うことになっていた。しかし、片桐は作戦決行直前に、銃撃される。結局、地震は起こらず、かえるくんは、戦死。片桐の頭の中には、「機関車」という言葉が浮かんでくる。

「蜂蜜パイ」は、いかにも「ノルウェーの森」の原型のような小説であるが、実際にはノルウェーの森の方がずっと前に出ている。主人公の淳平と同級生だった高槻と小夜子。奇妙な三角関係が崩れ、結局長い九十九折りの時間の末、淳平は小夜子と生活することを決断(するはず)。一方、淳平は、作家であり、奇妙なことに芥川賞の候補になっても、結局受賞できなかったことが書かれている。自分の投影なのかもしれないが、それなら、彼が神戸に住んでいる両親に対し、安否確認の連絡すらできない関係であることが、彼の小説の原点になっているのかもしれないのだが、同様のことを市川真人も書いていたと、思い出したのである。


個人的には、時々見るシリーズ物の夢というのが何種類かある。新橋駅の横にある雑居ビルの中二階のドアの向こう側とか、国会議事堂に近い建物の地下室とか千葉県の海岸沿いにある横断歩道のない国道から繋がる都内の神社とか森の中の起伏の大きな道をいつまでも走り続けるエンドレスマラソンとか。それぞれの夢にはそれぞれの登場人物がいて、私の頭の中の夢の世界なのに、思いもつかない唐突な話をしてくれ、別の登場人物がさらに饒舌で論理的なことを喋るわけだ。

そういう小説なのだろう。

ちょっと気付いたのだが、1994年から1995年にかけ、「ねじまき鳥クロニクル」という長編小説が刊行されている。1巻と2巻が同時発売で、翌年3巻が登場。「1Q84」と同じパターンである。「ねじまき鳥」と阪神淡路大震災は、同年である。「1Q84」の翌年が東日本大震災である。もう三部作を書くのはやめてもらうしかないかもしれない。総理大臣の要請とか。

東日本大震災についても何か小説を書くのかもしれないが、できれば平安時代初期に遡って、貞観地震とその前後の皇室や藤原家、そして菅原道真の怨念などを底流とした王朝時代小説でも書いてもらえないだろうか。ノーベル賞からは遠ざかってしまうけど。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿