カール・ユーハイム物語(2)

2006-01-18 00:01:35 | カール・ユーハイム物語
0505a790.jpg20歳になった彼に持ちかけられた話。それは、菓子店協会のボスからの依頼なのだが、地球の裏側にある、青島で菓子職人を捜しているという求人話だった。

この青島だが、1897年にドイツ人神父2名が殺害された事件にことを発し、ドイツ軍が占拠し、翌1898年に独清条約で99年間の租借を規定したもので、多くのドイツ人が移住していた。

カールは、まだ20歳。新天地までは、ベルリンからモスクワまで「ショパン号」という特急列車に乗り、そこからシベリア鉄道に乗らなければならない。ただ、シベリア鉄道は数年前まではバイカル湖の手前で一旦終了し、船で湖を渡りさらに乗り換えなければならなかったが、日本との戦争が近づいた1905年に前線開通していた。そして、満州から中国領内に入り、出発から約2週間をかけ、ドイツ軍が入ったばかりの青島(チンタオ)へ到着することができた。1906年の末だった。

最初はプランペック氏の経営する洋菓子店の店員としてだ。当時、ドイツでは菓子職人は免許制で、一定の技術に達すると資格が与えられることになっていた。特に、バウムクーヘンは、完成までの行程が複雑で、約3日間寝ずの番が必要という大作業であり、バウムクーヘン焼き職人は寿命が10歳短い、とも言われていた。カールがその資格を取得したのは25歳のこと。そして、彼は一旦、ドイツに帰る。目的は花嫁探しだった。

当時の世界の状況を思えば、どこの国でも国力=人口という考え方が一般的であったわけで、カールのような海外での単身生活者がいると、たちまち世話人があらわれる。どういう縁か彼に紹介されたのは、エリーゼという22歳の女性なのだが、両親を早く亡くして商業学校に通っていたそうだ。そして、ドイツらしいのは、お見合いの場で出てくるのが「ビール」。緊張のあまり、飲みすぎて思いもかけないことをカールは言ってしまう。「青島は田舎だが、もう少し資本を集めて、米国進出するつもりだ」と・・・

そして婚約した足で一足先にカールは青島に戻る。そして、以前の店から独立し、「ユーハイム」という欧州風の菓子と喫茶店の経営を始める。心は既に、アメリカ行きを決意していた。そして遅れてエリーゼが、シベリア鉄道を乗り継ぎ到着。そして彼らは、将来の無限の夢のため、青島の教会で結婚式を挙げることになる。

しかし、二人が結婚式を挙げた日、1914年7月28日は、ドイツがフランス・ロシアに宣戦布告した第一次大戦開戦日のわずか5日前だったのだ。

ドイツが戦争準備する間に、抜け目なく行動していた国があった。「日本」だ。日英同盟を結び国力の増強時期ととらえ、密かに遼東半島のドイツ権益を狙っていたわけだ。早くも開戦後4日目の8月4日には、英国と同時にドイツに宣戦布告。8月23日には青島攻撃が始まった。守備すること二ヶ月強。ついに11月7日午前3時。ドイツ軍青島守備隊降伏。

そして、日本軍が上陸。この時、カールとエリーゼはどうなったかというと、カールは他の一般人男性と一緒に市内のある場所に集合させられたわけだ。そして、一旦、帰宅する。本来、一般市民に対する保護は国際条約で規定されているわけで、そのまま市民生活を送ることができるはずなのだが・・・

事実は、ドイツ兵4,300名のうち、戦死者800名を除く者が捕虜として日本国内に移送されていったのだが、その後、約1年をかけ捕虜が徐々に追加されていく。非戦闘員であるカールがエリーゼと別れて捕虜の扱いを受け、日本に送られたのは1915年9月20日とされる。なぜ、非戦闘員を日本が連行したかは、よくわからないし、その後の第二次大戦で同盟国だったこともあり、追求されることはなかったのだが、三つの推定原因が考えられる。

まず、日本側には青島攻略時に戦闘ではなくチフスによる病死者が多数出たそうで、捕虜の数を膨張させて犠牲に対するバランス上、戦果を水増ししたという可能性だ。そして、二つ目はドイツ市民であるということが、何らかの予備役という性格だったという可能性だ。そして日本に連行されたものの多くが技術を持ったものであることから、産業移入あるいはドイツの産業レベルの破壊、といった意図性があったという説である。いずれにせよ、戦闘状態の時に兵士でなかったものまで、多くの男子が捕虜となった。

そして、カールが収容されたのは、当時、大阪市西区恩賀町にあった捕虜収容所である。その時の彼の最大の悲嘆は、身ごもったまま青島に一人取り残されることになった妻エリーゼのことであったことは想像に難くないのである。  


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