江戸歌舞伎発祥之地

2020-01-12 00:00:15 | おさんぽ
京橋の中央通り沿いに、「京橋大根河岸青物市場跡」の碑と並び「江戸歌舞伎発祥之地」という石碑が並んでいる。見ただけで歌舞伎の碑の方が市場の碑より三倍くらい立派だ。スポンサーの違いだろう。寛永元年(1624年)に猿若(中村)勘三郎がこの地に猿若座を建てたのが江戸歌舞伎の発祥とされる。



場所についてだが、調べていると「日本橋と京橋の間にある中橋に猿若座があったが、碑はこの場所に建てた」と書いてあるものがいくつかあるが、古地図で調べると日本橋と京橋の間には川や掘割はない。そもそも銀座線の駅が混乱を招いているが、日本橋というのは今も立派な橋が架かっているが駅は橋よりも中央通りの南に下った方にある。一方、京橋の駅(交差点)は実際の橋だった京橋より少し北に上がったところにある。ちょうど碑がある場所が京橋だった。そこから中央通りを直角に山手線の方に曲がる道(今は首都高になっている)は江戸時代は外堀から八丁堀に抜ける水路であった。外堀から京橋に流れる水路の途中に中橋が架かっていた。その水路の北側に大根市場があり、南側に猿若座があったことになっている。

*ここで余談1だが、現在の京橋交差点だが、その一角(AGCスタジオ)あたりに畠中恵著のしゃばけシリーズの本拠地の長崎屋があったとされるが、漢方薬と海産物の問屋だったはずだが、上に書いた通り、現在の京橋と実際の水路はずれているので、海産物をどうやって陸に揚げたのか疑問が残る。

余談2。幕末の西郷×勝会談。勝海舟は血気盛んな幕軍の中を通って三田にある薩摩屋敷に行ったというのは不自然と思っていて、会談に使われたのは薩摩藩が持っていた裏口が海に面した蔵屋敷だったこともあり、江戸城から船に乗ってむしろを掛けて隠れて水路を使って海から三田に行ったのではないかと考えている。ちょうど、京橋の下をくぐっていたのだろうと推測。


ところで歌舞伎は阿国(出雲出身)が「かぶき踊り」を創始したことによるとされ、関ケ原の戦い以降、急速に全国に広がり、江戸でも江戸城内で阿国が上演した(1607年)ことになっている。発祥の地である京都には、阿国歌舞伎発祥の地の石碑がある。

一般に阿国由来の歌舞伎は遊女歌舞伎と言われ、遊女多数が出演したり、題材が性愛中心だったこともあった。阿国は女性だが男性の役を演じ、その男役の妻を演じるのが男性だったり、倒錯の世界が売り物だった。

一方で、若衆歌舞伎というのは、すべて男が男役も女役も演じるもので、現代までつながっているのだが、創始期は若手役者は男娼を行うことが必然とされていた。

実際には江戸時代のそうした黒歴史は資料も乏しく、詳細を明らかにするのは困難だそうである。結局、すべて男が演じる歌舞伎とすべて女が演じる宝塚とあまり倒錯的ではない奇妙な分類が生じているわけだ。