ディスカバー、ディスカバー・ジャパン

2014-10-12 00:00:31 | 美術館・博物館・工芸品
discov1東京ステーションギャラリーで開催中の『ディスカバー、ディスカバー・ジャパン』へ。

この長いタイトルの意味だが、1970年代になって始まった「ディスカバー・ジャパン」について、再び見直してみようという企画である。といっても、当時のムーブメントについて、肯定的に再評価しようという強い意志は感じられない。あくまでも判断は「各自自由に」ということ。

もともと「ディスカバー・ジャパン」は国鉄によって、「実用」に重点を置いた経営から「観光」に傾斜していく過程で必要だった「広告」と言ってしまえばそれまでなのだが、突然にそういうことが起きたわけじゃない。

一つのキーワードは「モーレツからビューティフル」にという価値観の転換期にあったということ。「美しい日本の私」というコピーがあった。それを後押ししていたのが、日本ゼロックスによる「人間と文明」という意見広告だった。世界各国の親日家を中心とした論客が、日本あるいは日本人あるいは日本文化の持っている固有の特質を強調。新聞紙面で連載していた。

そして、国鉄による大キャンペーンが始まったのだが、なかなかポスターの画面が決まらないのについに突入。そのため、次々に必要となる新しいポスターは、結構素朴なものになり、それが功を奏して、都会に絞ったキャンペーンになり、都会人に対して、「ローカルには美しい日本がたくさんある」という誤解とも言うべき空前の旅行ブームが起きる。

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もっとも、都会自体が人間無視の生産性重視のゴミの街になっていたから、それでも旅に出れば、それだけでも酸素濃度の高い空気が吸えたのだから、旅に出ると健康な気分になるというのは、はずれていたわけではないだろう。

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さらに「美しい日本の私」とか「ディスカバー・ジャパン」に便乗したのが、雑誌「アンアン」。元々、あの男性用「平凡パンチ」の女性版として試験的に年1冊とか発行して様子を探っていたのだが「平凡パンチ女性版」では売れるはずもなかったのだが、ついに旅行ブームに便乗(いや、同乗か)し、当時は女性向け旅行雑誌的な編集で増刷していった。

一方、「美しい日本」なんて、すべて「作り物」で、現実の日本はもっと汚く、楽しくないではないか、という考え方の人もあらわれる。反ディスカバリー主義と言われたそうで、そういう現実感のある写真を撮り続ける人たちもあらわれる。

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ただ、カメラというのは現実を現実のように写すというのが、実は苦手で、どうしても写真家の個性が作品に現れてしまうものだ。

案外、この展覧会、東京駅という鉄道の起点で行われているのに、「本当に美しい日本を探しに旅に出ることでいいのだろうか、醒めた目でみるように」といっているように感じる。


東京五輪にしても、開催賛成派が圧倒的に多いのだが、その実、その動機は結構「景気や交通関係のインフラ整備や雇用」といった副次効果に期待している人ばかりだという調査もあるようだし。

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そして、今回の展覧会のぶあついガイドブックを購入。お目当ては、「人間と文明」の連載を読むことだが、新聞記事を縮小して、それを掲載しているため、おそろしく文字が小さい。それを何らかの方法で読む根気があるかどうか、怪しい。