キバラカと魔法の馬/さくまゆみこ:編・訳 太田大八・画/冨山房/1979年
大きさを表現するのに、なるほどこんな表現もありかなという話。山と川がどうしてできのかも一味ちがいます。
男たちが狩りに出かけましたが、そのなかにとてつもなく大きな男ムウーカがいて、ユーカリの木ぐらいの弓、普通の人間の腕三つ合わせたほど弦をもっていました。
男たちはサイ狩り、ゾウ狩りをもちかけますがムウーカは、獲物が小さすぎるといいます。次にキリン狩りをいわれて、まずは腹を満たすため、ムウーカは片足で十頭のキリンをけり倒してしまいます。
何日も旅をして広い平原にでると、ムウーカはンザンガムヨ狩りをしようといいます。男たちが見たことも聞いたこともない獣でした。
二か月がすぎて、ンザンガムヨがやってきますが、平原の彼方に小さく見えていたンザンガムヨの頭が見えたのは六日目。ツノが四本、幅は人間の腕十本ぐらい、口は頭のてっぺんで空のほうにひらいていました。
ところが首がみえたのが二日目、肩が見えたのは三日目、胸が見えたのが四日目。
ムウーカの矢はンザンガムヨをたおします。
肉は二日間休まず食べて、どうやらひと月分のはらごしらえ。そのあともやすまず五日間食べ続きます。
これだけ食べると、でるほうも巨大。大きな大きなうんこをしたので、それが山と丘になり、おしっこは平原を横切って流れ、このあたりの川となったという話。
何日もかかってようやく全体像が見えるという表現がイメージをふくらませてくれます。
ところで、アフリカの昔話には「ンザンガムヨ」の例にみられるように”ン”からはじまる名前がよくでてきますが、ちょっと発音しにくいですね。
キバラカと魔法の馬/さくまゆみこ:編・訳 太田大八・画/冨山房/1979年
スワヒリ語で語り伝えられてきた昔話のひとつ。アフリカの地図をみると国境線が直線というのが多いが、これはヨーロッパ列強が人為的にきめた国境線。
スワヒリ語は、国境線にかかわらず、東アフリカのインド洋沿岸で話されていたといいます。
キバラカという男が、荒れ野を歩いていると突然魔神があらわれ、おる城につれていきます。
城の留守番を頼まれたキバラカは、魔神から鍵をわたされ、どの部屋を見てもいいが、地下室だけは、あけたら食べてしまうと言い残してどこかへいってしまいます。
キバラカはさっそく各部屋をみてあるきます。
一番目の部屋には、勝手に戦っている刀。自分を使ってくれる勇士を探しているといいます。
二番目の部屋には、生きた心臓を食べるという短剣
三番目の部屋には、はらをすかせたライオン。キバラクは食糧庫から肉を見つけてきてあたえます。
四番目の部屋には、これもはらをすかせたヒョウ。肉をあたえます。
もちろん、見てならないという地下室も見たくて仕方ありません。そこには大きな馬。
キラカバが大きな馬にいわれて、魔神にとらわれていた人と、牛、ヒツジ、ロバ、ヤギなどを放してやると、大きな馬は、それらをすべて飲み込んでしまいます。
さらに馬に言われて、海の瓶、泥の瓶、火の瓶、いばらの瓶、石の瓶、針の瓶、つる草の瓶の七つをさがしだします。
逃げ出すキラカバと、おいかける魔神とその仲間。障害物が七回でてきたり、おいかける魔神と仲間が大勢というのもほかの話にはみられません。
つる草の瓶を投げるとつる草がはえ
いばらの瓶を投げると、いばらのジャングル
針の瓶を投げると針が根を張ってアロエのように生い茂り
泥の瓶を投げると、あたり一面は泥沼に
石の瓶を投げると高い山
火の瓶を投げると野火がぱっと燃え広がり
海の瓶を投げると大きな海が
次はサルタンの七人の娘の花婿選び。レモンを投げて、それがを受けとめた若者が花婿になります。
一番目か六番目までは、それぞれ偉い人の息子の手におさまります。
七番目が投げたレモンは、キバラカへ。ところがどうしても気に入らないサルタンは、二度、三度とレモンをなげさせますが、やはりキバラカのもとへ。
神のおぼしめしにちがいないと、めでたく結婚式をあげた二人です。
これだけでなく、サルタンの二度の病気を、部屋で見たライオン、ヒョウのミルクで直し、その次は戦いです。
他の種族におそわれ、キバラカの義兄も出陣しますが、敵が攻めてくると義兄たちは逃げ出す始末。そのときヒョウに乗った若者が刀と短剣で敵を追い散らします。もう一度敵が攻めてくると、今度はライオンに乗った若者があらわれ、また敵をおいはらいます。
若者が消えていったので、義兄たちは手柄を自分のものにしようとしますが、サルタンが自分の目で確認し、若者が末娘の夫キバラカであることがわかり、自分の後継者にします。
逃げ出す場面やレモンをなげて花婿を選ぶ場面、最初に助けたライオン、ヒョウの恩返しと、どこかであったことのある場面がそろっています。
昨日、坂戸図書館の宮沢賢治二人芝居を観てきました。
さわたり組の「黒ぶだう」「革トランク」「セロ弾きのゴーシュ」の三本。
原作に忠実だというので、どんな風になるか興味がありました。
芝居といっても、大道具や照明はなく、最小限の小道具だけ。
芝居ですから、内容に応じた身体表現があるのですが、こちらも最小限。
今頃になって新しい発見?があったのが、「注文の多い料理店」の序。
「わたしたちは・・・ きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます」「あなたのほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません」。
風をたべる、桃いろの朝の日光をのむことができるというのは、賢治さんならではです。「注文の多い料理店」が収録されている文庫本の全部にはいっているわけでもないのですが、賢治の思いを知ることができました。
以前から、複数で語ってみるのもありかなとおもっていたのですが、この芝居を見て、ボランティアでは、ここまでこなすのは無理だともおもわされました。
何十年と宮沢作品を上演されているというので、じっくりと楽しめました。
語ってみたい作品の中に、「セロ弾きのゴーシュ」もあり、何度も読み返してはものにならずあきらめていたのですが、この芝居をみて、とどめをさされた感じ。
45分間という長時間を語るのは、自分の今の力では到底無理のようです。
「セロ弾きのゴーシュ」は7冊ほどが展示されていました。
さわたりさんの切り絵も味がありました。
きんいろのきつね/文:大川 悦生 絵:赤羽 末吉/ポプラ社/1968年
天と地がわかれてまもないころ、いっぴきのめぎつねが生まれました。
金色の毛でおおわれ、尾が九つにさけていて一万年たっても死にません。
人間の国が栄えはじめると、まずは中国の殷の王のお妃に化け、一度に千人もの人を殺させたり、金銀、珊瑚をかきあつめてかざらせたりて、人々の苦しみ、悲しみが響いて、殷が滅びると、金色のきつねは、今度はインドへ。
インドでは王子のお妃になりしまし、毎晩夜になると近くの町をあらすやら、泣き叫ぶこどもを、わしわしとって食べるやら。しかし、ここでも正体をみやぶられそうになり、もう一度中国の周の幽王のお妃ににのりうつります。
このお妃は、一度も笑わないという褒姒。幽王は褒姒を笑わせたいあまり、戦でないのに、敵が来たという合図の狼煙をあげさせ、かけつけた兵士が、きつねにつつまれたように、ぼけっとなるを見た褒姒は、はじめて笑い出します。しかし、本当の敵がやってきたときには、だれもかけつける兵士などなく、城は焼かれ、幽王も殺されてしまいます。
きつねは、こんどは、かわいげな女の子にばけ、遣唐船で日本へ。
飢饉はおこし、わざわいごとをふりまいていたきつねは、占い師の”あべなりやす”におわれて、那須野が原に逃げ込みます。
ここで大勢の軍勢に囲まれ、ぎゃおおおーんと悲鳴を上げて、稲妻が静まると、金色のきつねの屍は、大きな石に代わり、黄色い毒煙をしゅうしゅうとはきだします。
インド、中国、日本と、日本の昔話にはあまりみられない壮大なスケールで、周幽王の褒姒のエピソードがでてきます。占い師とあるのは陰陽師のことでしょう。”あべ やすなり”は安倍晴明のことかも。
このきつね、ばけるのは女性。男を知り尽くすこわーい女性です。
これは栃木県那須町・那須湯本温泉にある「殺生石」にかかる伝説がもとになっているようです。
付近一帯には硫化水素、亜硫酸ガスなどの有毒な火山ガスがたえず噴出しており、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」として古くから知られており、訪れた松尾芭蕉が「おくのほそ道」に、その様子を書いているといいます。
有害なガスは、きつねの怨念をしめしているようです。
大人は歴史の知識もあり興味がわきますが、子どもにとっては説明が必要かもしれません。
(さてさて、きょうの おはなしは・・・/瀬田貞二:再話・訳 野見山響子・絵/福音館書店/2017年)
イギリスのジェイコブズ再話を、瀬田貞二さんが再話したものです。
ある冬の夜、やっと帰ってきた墓掘が、うちのとびこむなり、「トム・ティルドラムって、だれのことだね?」とききます。
「あらまあ、いったい、なんのこと? トム・ティルドラムがだれのことだか、しりたいの?」とおかみさんがきくと、墓堀が話しはじめます。
「フォーダイスじいさんの墓をほっていて、ついついねむっちゃたらしいのさ。ニャーオとねこがなくので目がさめたら、九ひきの黒ねこが、なにをかついでいたとおもうね。黒いビロードがかけてあって、その上にちいさな金の冠がのせてある小さな棺桶を一つ。ねこども、三歩あるいちゃあ、ニャーオってなくんだよ。ねこの目はみどりの火みたいにひかって、しだいにおれのほうへきた。八ひきは棺桶をかついで,一番大きなねこが先をあるいていて。そのねこが<トム・ティルドラムにいってくれ、チム・トルドラムが死んだとな>。だから、トム・ティルドラムは誰かとおまえにたずねたのさ。トム・ティルドラムがだれだかわからなければ、トム・ティルドラムにおしえてやれないだろう?」
墓堀が話しているあいだ、この家のくろねこのトムが、タイミングよくないたり、男をじっとみたりと、なにやら思わせぶりです。
「トム公をごらん、トム公をごらん!」とおかみさんがかなきり声をあげたさきで、トムは、みるみるうちにふくれだし、ギロギロ目をもやし、口をあけて、キーキー声でさけびます。
「なに!? チムが死んだと! それじゃ、このおれが、ねこの大王だ!」
そして、トムは暖炉の煙突の穴におどりあがって、それっきり、いなくなります。
季節は冬、時間は夜、黒猫、仕事は墓堀と舞台仕掛けは万全。最後に「トム・ティルドラム」の正体は墓堀一家のねこだったとわかるのですが、そこまでは謎解き風で進行していきます。
かいねこ?もトムですから途中で結末も予想させながら、そこまで引っ張っていく小憎らしさが魅力です。
ときどき、ミステリーな結末の昔話にであえます。
おっとあぶない/マンロー・リーフ:作・絵 訳:わたなべ しげお・訳/フェリシモ出版/2003年
2018年11月に復刊ドットコムからも出版されています。子どもころ読んだ方も多いようです。
ちいさい子のまわりには危険がいっぱい。それをどう理解させたらいいか。
叱る、やさしく話す、それとも驚かす。これってどちらかというと説教かな。でもなかなか効き目がありません。そのときは、この絵本の出番かも。
信号がない道路横断での車への注意。
「ひかれなきゃ いいんだよと とびだして、くるまのまえを よこぎるまぬけ
こっちの くるまは よけたけど、はんたいがわから トラックが きているのもしらない まぬけ」
「でんきのこぎりや のみで 手足が、ばらばらに なってからでは もう おそい」
さわってみたいとおもっても もしかして 先には、恐ろしいことになるかも。
ぼんやりまぬけ、つよがりまぬけ、やけどまぬけなど「○○まぬけ」が、ぞろぞろいて、なにかのときに、おもいだしてくれると役に立つかな?
アメリカでの初版はだいぶ古そうで、一見落書き風で親しみやすい絵ですが、「スピード違反の おとなと いっしょに くるまにのる ドライブまぬけ」など首をひねりたくなる ”まぬけ”もあります。
ダメと言っても、やってみたくなる子どもの性格をあらかじめ予測して対応するのも大人の責任です。
そして、「ほかのまぬけ しっていたら ほんを つくってごらん」と結ばれていますから、大人の「しらないまぬけ」「へいこらまぬけ」「ほこりをうしなったまぬけ」など、この続きは大人版の出番もあるようです。
同じルース・エインワースの作。「しおちゃんとこしょうちゃん」の発行は2016年ですが、初出は1993年「子どものとも年中向き」です。両方とも「おはなしのろうそく」(東京子ども図書館編)にはいっています。
「こすずめのぼうけん」では、初めて飛んだこすずめが、羽を痛めてあちこちでやすめせてもらおうとしますが、仲間でないとことわられてしまい途方に暮れます。
「しおちゃんとこしょうちゃん」では、双子のこねこが、どっちが高いところまでのぼれるか競争して、もみの木のてっぺんまでのぼりますが、いざ降りる段になって、にっちもさっちもいかなくなります。
どちらも、冒険がつづきハラハラしますが、最後には必ずお母さんが助けに来てくれるという安心感があるお話です。
こすずめのぼうけん/石井桃子・訳 堀内 誠一・ 絵/福音館書店/1977年
はじめて飛んだこすずめが、途中で羽をいため、鳥の巣をみつけては休ませてください,とお願いします。
からすからは「かあ、かあ、かあって、いえるのかね?」
やまばとからは「くう、くう、くうって いえますか?」
ふくろうからは「ほうほう、ほうほうって いえるかね?」
かもからは「くわっ、くわっ、くわって いえる?」
どれにもこたえられないこすずめ。繰り返しと鳥にも興味が持てそうです。
しおちゃんとこしょうちゃん/こうもと さちこ:訳・絵/福音館書店/2016年
双子のこねこの名前がしおちゃんとこしょうちゃん。
双子ですから、なにをやるにも いっしょ。
目をあけるのも、ミルクをなめるのも、自分のしっぽを追いかけるのも一緒。
真っ白なねこは”しおちゃん”、灰色の毛がまじっているのが”こしょうちゃん”
ということは 塩と胡椒?
作者の遊び心でしょうか。
高いもみの木にのぼった双子が、小鳥や 飛行機、風に助けをもとめますが、だれも助けてくれません。夜になって、みどりいろの ひかりが ふたつならんで木をのぼりはじめます。正体は?
どちらの絵も、お話のイメージにピッタリです。
うしとトッケビ/文・イ・サンクォン 絵・ハン ビョンホ 訳・おおたけ きよみ/アートン/2004年
まず表紙のおなかが大きくなった牛をだいた困惑顔のトルセが、なんともいい味です。
韓国の昔話でおなじみのトッケビがでてきますが、ネコっぽく描かれています。
ある冬の日、トルセが牛を連れて帰る途中、術を使うのに必要なしっぽをかまれたトッケビが現れます。そして傷が治るまで二か月のあいだ牛のおなかに入れてくれるよう頼まれます。そのかわり牛の力を十倍にしてくれるというのです。
開いた口がふさがらないトルセでしたが、ことわればトッケビの子は、こごえて死んでしまうか、おなかをすかして死んでしまうだろうと思い、いまより十倍の力持ちにしてくれるのも悪くないと「どうしたらいいかい?」と、牛に聞く、牛はこっくりこっくりうなずきます。
なまけもののトルセは、薪売りをして暮らしていましたが、トッケビが牛のおなかにはいってからは、これまで十倍も薪を運ぶことができて、お金もたくさんたまります。
ところが約束の日がちかづいてくると、牛のおなかがどんどんふくれはじめます。トッケビが毎日横になっておいしいものを食べていたら、太ってしまい、牛からでられないというのです。
あくびをしてくれれば、そのとき ぱっと外にでられるというので、わきばらをつついてみたり、鼻の穴に、ながいぼうをつっこんっでみたり、くすぐったりしてみますが、あくびはでません。
トッケビは外にだしてくれたら、今度は牛の力を百倍にしてくれるはずでした。
トッケビがどんどん大きくなって、牛のおなかが破裂しては大変です。しかし、何でも知っているという老人までがいい知恵を教えてくれません。
思い悩むトルセでしたが・・・・。
結末はあっというまの出来事です。
百倍の力持ちになった牛をつれたトルセは 鼻歌をうたいます。「トッケビこぞうじゃなくっても たとえ こわい おばけでも かわいそうなら たすけなきゃ」。
人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくるということ。
巻末に、近代韓国の代表的作家 イ・サン(1910-1937)の唯一の絵本という紹介がありました。
牛を馬に、トッケビを悪魔におきかえると、日本の豊島与志雄さんの「天下一の馬」に類似しているということです。
しかし、世界各地に同じような話があり、さらにさまざまな形で再話もされていますから、翻案というのは意識しなくてもよさそうです。
数ってどこまでかぞえられる?/作:ロバート・E・ウェルズ・作 せな あいこ・訳/評論社/2016年
数えていったらどこまでも続く数字。行きつく先は無限。
宇宙にあるすべての原子!をあつめたより、まだ大きい数字。それがグーゴル。
れっきとした数学用語で、1グーゴルは10の100乗。
巻末にこの名称が生まれたエピソードがのっています。1930年代後半、アメリカの数学者エドワード・カスナーがゼロが100個つく数字をかき出し、当時9歳の甥ミルトン・シロッタにたずねると、ミルトン君は「グーゴル」とこたえ、それがグーゴルという言葉のはじまりになったといいます。
絵本のタイトルには「グーグルの もとに なった ことば」とつづいていますが、なんとグーゴルの綴り間違いからつけられたという。日頃お世話になっているグーグルですが、綴り間違いとは!
100の数字のところで、100羽のワシが気球を運んだり、100羽のペンギンがそれぞれ10個のアイスをもっている楽しい絵もあります。
あ/大槻あかね/福音館書店/2008年(初出2005年)
間違いではありません。これ以上みじかいタイトルの絵本はないでしょう。
そういえば”ん”と、一文字がタイトルの絵本もありました。
針金でできた人が、いろいろなものにであって「あ」「ひょ」「よ」「は」「あー」「む」「キャッ」「はあ」、一番長いので蚊取線香のところでつづく「ウン ンンー タタ ンー ウン タ」というだけです。
けれども、この短い言葉がみょうに具体的です。耳かき綿棒をもちあげるときは「は」ですが、力が入る様子がよくでています。
コップからビールがこぼれるところでは「アワワー」。これってダジャレ?
針金人間は随分小さくてでてくるものとの比較も注目です。
でてくるポット、マヨネーズ、本、食パン、耳かき、ファスナーなどは、すべて写真。
南アフリカの民話/バーナ・アーダマ:編著 ディロン夫妻・絵 掛川恭子・訳/偕成社/1982年
徹底的に奇想天外な話。
マブンドウという怪獣がでてきますが、とにかくばかでかい。南にのびたしっぽのさきでは冬なのに、北にのびた鼻のさきでは、かりいれまえの秋のはじめ。
ルングレベというのは半分人間。手も足も、そのほかのなにもかもが人間の半分。ルングレべからいわせると、人間は手も足も二本なので、二倍人間というわけです。
しゅう長の娘トウシがおいしいものを食べると、ふとって歩けなくなるほど。それだけでなく頭が口をあけると大切なものをつめた籠を飲み込んでしまいます。
しゅう長の娘トウシがマブンドウに連れ去れますが、あまり目的がなかったようで、トウシは次にルンベルグのもとへ。
あやうく食べられそうになりますが、トウシが天を仰いで歌うと、雨がどっとふりだして、鍋の火を消し、さらに稲妻がはしり、おおぜいの村人がいのちを奪われます。ルンベルグで生き残った人は、ごくわずかでした。
なんとか家にかえりついたトウシでしたが、今度は、よその村のしゅう長から結婚を申し込まれます。二度とむすめを手離すつもりはないと父親がいいますが、遠い国に住むあるしゅう長がなんとか手に入れようと大臣を派遣します。
大臣はきれいなカエルに姿をかえ、トウシを連れ出します。そして、すこしいくとしゅう長があなたを花よめにむかえたいということを話します。しかしトウシがきれいで、しゅう長にやることはないと、どこかよその土地に連れていって、自分の手元におこうとします。
トウシは、大臣が年とっているので妻になんかなりたくありません。
そこで、もっていたものを頭の口へ押し込むと、トウシは大きくふくらんでしまいます。太ったトウシをみた大臣は、嫁にきてくれとはいわなくなります。
やがて大臣がつかえているしゅう長の村で、追い払われそうになりますが、しゅう長の妹のとりなしで、そのまま村にいることになりました。
このあとトウシの頭はもとどおりになるのですが・・・。
あっとびっくりする話ですが、昔話は、理屈ぬきで楽しめるのがいいところです。
いじわるなないしょオバケ/作:ティエリー・ロブレヒト 絵:フィリップ・ホーセンス 訳:野坂 悦子/文溪堂/2009年
このところサラちゃん少し変。パパのひざにすわりたいのですが遠慮。だっこしてもらいたいのに離れてソファにすわります。
学校にいくとすごくいらいらしているといわれたり。
というのも、さわっちゃいけないと言われているママの真珠の首飾りを首に巻いたら、あらあら、真珠が部屋中のころがって、ころころ ぱらんぱらん。真珠は全部探して引き出しのうしろにかくしたのですが、ママには内緒。
ママから「どうしたの?」ってきかれて「ううん、べつにって」答えると、口からオバケ。
オバケといっても、とってもかわいい白いおばけ。でも内緒ごとをしたり、うそをつくと、どんどん増えていきます。
大人でも嘘をつくと、いつかばれるのではないかとドキドキします。嘘をつくのは自分を正当化するためだったり、しられてほしくないなど、結構身勝手からです。
子どもだけでなく、大人も反省させられることが多い絵本でしょうか。
サラちゃん、部屋中がないしょオバケだらけになって、すみっこからうごけなくなって、本当のことをママにいうと、オバケたちが さっーと きえて・・・。
嘘も方便といいますが、まあ、やっぱり嘘はつかないほうがいいでしょうね。
カナリア王子/イタロ・カルヴィーノ・再話 安藤美紀夫・訳/福音館文庫/2008年初版
なしっ子が、ほかの召使から、魔女の宝物をとりにいくんだと自慢しているというわさをたてられてしまいます。
うわさを聞いた王さまから「自分のいったことは、ちゃんとやりとげなければならん」といわれ、宮殿からおいだされてしまいます。
なしっ子が宮殿で、働くことになったのは、毎年納めなければならないナシの数が少なくて、父親がナシの量を水増しするために、かごに入れられて、宮殿にいったのがきっかけでした。
かごにはいっていたのをすぐみつけられてしまいますが、運よく台所仕事をすることになり、はじめはうまくいっていたのですが、大きくなるにしたがって、ほかの召使からねたまれるようになっていました。
魔女の宝物をさがしにいったなしっ子は、ひとりのおばあさんから「ラードを三ポンド、パンを三ポンド、きびを三ポンド」をもっていくよう助言されます。
歩き続けていくと三人の女の人が、お互いに髪の毛をむしりあい、かまどの掃除をしていました。なしっ子はもっていたきびでかまどの掃除をするよう一ポンドずつやります。三人は、髪の毛のかわりに、そのきびで、かまどの掃除をはじめます。
次に、喧嘩好きの犬のところにやってきたなしっこは、三匹の犬に一ポンドずつパンをなげてやり、そこをとおりぬけます。
歩いて歩いて血のように赤い水をした川は、おばあさんからおしえてもらったように、川をほめてとおりすぎます。
やがて着いた大きな宮殿の扉はギーギーバタバタ。三ポンドのラードを、門のちょうちがいにぬってやってなかにはいり、宮殿で見つけた宝物の小箱をみつけかえることに。
小箱は、門をとうろうとすると、「この子をころしておくれ」、川のところにやってくると「この子をおぼれさせておくれ」、犬のところにくると「この子をたべておしまい」、かまどのところにくると「かまどよ、この子をやいておしまい」と、いろいろ邪魔をします。
しかし、小箱のいうことはだれもききません。
なしっ子が小箱のなかをみようとすると、金色のひよこをつれためんどりがとびだしてきます。
ここでもおばあさんに助けられて、宮殿に戻ったなしっ子でしたが、王さまの息子が「私の父が、ほうびとして、なにがほしいかとたずねられたら、地下室にある、すみのいっぱいはいった箱がほしい」というようにいいます。
王さまから望みのものをいうよに言われたなしっ子が、王さまの息子にいわれたようにこたえると、箱の中からは、王さまの息子があらわれます。
長めの昔話によくあるように、何かをさがすにいくとき、行く手を邪魔するものがあらわれますが、主人公が親切に言い分をきいてあげたので、それがあとになって、いきてくるという構成です。
主人公を助けてくれるおばあさんがあらわれるのも昔話らしいところです。
世界の水の民話/外国民話研究会/三弥井書店/2018年
いにしえの王や皇帝がおいもとめた不老不死の薬。
あのガイウス・ユリウス・カエサル、ナポレオンからも大英雄とみなされてアレクサンダーを模した二本角アレクサーダーが永遠の命を手に入れるため<命水の泉>をもとめて旅に出ます。
<命水の泉>は、ガーフ山の中の<闇>という洞窟の中。洞窟の入り口までは70年かかります。
到達から逆算して10歳、20歳の若者を随行者としてつれていくことに。
随行者の中に、年をとった父をもつ若者がいましたが、父親は一緒につれていけと息子にいいます。
この父親の知恵で、闇の中を前進して、泉に到着しますが、たくさんの泉で、どこの泉から水を汲めばいいかわかりません。
ここでも、年取った父親から「干し魚を泉になかに投げ入れて、魚が生き返った泉が命水の泉だ」といわれて、そのとおりにすると魚が生き返ります。
若者が、そのような策を考えられるはずがないと、アレクサンダーが問い詰めると、若者は、本当のことをはなします。
命水を手に入れたアレクサンダーは、来た道をもどっていく途中で、水を飲んで永遠の人生をはじめようとしますが、どこからか「こんにちわ。アレクサンダー。命水おめでとう」という声。よくみると一匹のハリネズミがいました。
ハリネズミから、命水を飲むとこんな姿になると聞いたアレクサンダーは、命水をどうしたのでしょうか。
往復140年で、随行者の命も保証がありません。命水を飲んでハリネズミになる道を選んだかは、さだかでありません。
皮肉なことにアレクサンダー大王は33歳で亡くなっています。
さめびとのおんがえし/原作・ラフカデイオ・ハーン 再話・はなしまきみこ 絵・ふじかわ ひでゆき/新世研/2001年
ある日、藤太郎という若者が、琵琶湖のほとりで、まっくろで目は緑色、髭は竜のようにそりあがっている”さめびと”にあいます。
竜宮で王さまにつかえていたが、ささいな失敗をしたために、王さまに追放されてしまったというのです。
彼は、悲嘆にくれるさめびとを可哀そうに思い、自宅の池に住むことを許します。
ある日、藤太郎は7月の女人詣の中に、珠名という女性をみつけ一目ぼれします。
娘のあとをおって、瀬田の村の屋敷に母親と泊っているのをつきとめます。娘も結婚相手をさがしていましたが、ある特別な条件をきめているというのです。それは結納として、一万の宝石の入った箱をおくれるような立派な若者でなければならないという条件でした。
藤太郎はがっかりしてしまいます。いくら裕福でも一万の宝石をおくるのは、到底無理です。
娘のこととが忘れられない藤太郎は、食べることも寝ることもできないほど思いつめ、病気になってしまいます。
さめびとは、藤太郎が病気になっているのを聞いて、一生懸命看病しますが、藤太郎はよわっていくばかり。「わたしの命はながくはない。それはしかたがないが、一人残されるお前のことがきがかりだ」という藤太郎の言葉を聞いて、さめびとは、わんわんとなきだします。すると不思議なことに、さめびとの涙の粒が、光か輝くルビーにかわっていったのです。
それを見て、藤太郎は生きる力をよみがえらせます。
しかし、ルビーは一万にたりません。あと少し涙をながしてくれるようさめびとに頼み込んだ藤太郎でしたが・・・。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、むかしの国語の教科書で名前だけは記憶にありますが、作品は読んだことがありませんでした。今頃になって絵本でふれることになるとは思ってもみませんでした。
この話は昔話そのもの。ただ藤太郎や珠名の年齢がでてきますが、昔話に年齢がでてくるのは少ないので、どんな意図があったのでしょうか。
小泉八雲は、1850年、ギリシャのレフカダ島で生まれ、40歳のときに来日。島根県松江市で英語教師として働きます。
15歳のとき、ブランコの結び目が左目にあたり、失明してしまったというのは、はじめて知りました。