どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

ふしぎな力をもった七人の鉱夫・・チリ

2024年04月09日 | 昔話(南アメリカ)

     新装世界の民話Ⅱ/アメリカ大陸Ⅰ/小沢敏夫他・編翻訳/ぎょうせい/1977年初版

 

 「ふしぎな力をもつ」といえば、それこそ”とんでもないやつら”。教訓めいたものがなく、冒険を楽しむ話。

 むかしひとりの王さまが、城の外にオレンジを三つのせたテーブルを置き、姫の額にオレンジをぶっつけることができたものに、めあわせようという看板を掲げた。城の外からだから中にいるお姫さまにぶっつけることは不可能と考えたのだろうが、お姫さまにとってはいい迷惑。ひとりの巨人が馬に乗ってきて、オレンジをすぐさまお姫さまの額にあてたので、お姫さまは巨人と、巨人の住む島へ。巨人の留守番をしていたのは蛇。

 ある日、一羽の鳩がやってきて、「あなたを救い出せるのはふしぎな力をもった七人の鉱夫けだといいます。お姫さまは、すぐに手紙を鳩に託し、鳩は手紙を城に落とします。

 王さまから、七人の鉱夫をみつけだすように命令された荷場の馬方は、二、三日旅をして七人の鉱夫を見つけ出しました(艱難辛苦というのが当たり前ですが、すぐに見つかるというのは、話の本質には関係がないということでしょうか)。兄弟は王さまの命令ですぐにでかけます。

 末っ子は、さきにおこることは全部わかる力がありました。長男が作ったのは空飛ぶ船。そして力持ちの男と腕利きのどろぼうが、見張りの蛇を盗み出しました。五分もたたないうちに目を覚ました蛇がピーと口笛を吹くと、巨人は銃をつかみ、みんなに撃ちはじめました。射撃の名手が巨人に命中させますが、それでも巨人は死にませんでした。巨人の撃ったたまが、お姫さまにあたって、お姫さまは死んでしまいました。だがすぐに組み立ての名人がお姫さまをもとどおりにし、死人をよみがえらせる男が、お姫さまを生き返らせました。   さらに、鉄砲うちは、巨人の生命力があるという、くつのかかとをねらって撃つと巨人は死んでしまいました。

 王さまはなんでも望みのものをあげようといい、長男はなにもいらないとことわりますが、結局はロバ十頭につみこんだ 金銀をもらって家に帰りました。

 

 鉱夫がでてくるのはお国柄でしょうか。死人をよみがえらせるといえばリンゴや薬などがでてきますが、この力を持つ男がいれば永遠の命をえられたのか?


黄金になった小麦粉・・ペルー

2023年12月13日 | 昔話(南アメリカ)

    大人と子どものための世界のむかし話6 ペルー・ボリビアのむかし話/インカにつたわる話/加藤隆浩・編訳/偕成社/1989年初版

 

 みすぼらしい姿の者が、一夜の宿を乞うと、裕福なところでは、ことわられ、まずしい家にとめてもらうと、そこの家には、幸せ?がまっているという話。

 このケチュア族の話では、ひとりの老人が、だれからも食べ物をめぐまれず、ふたりの男の子と三人暮らしの女の人にものごいをすると、女は老人を家に入れ、スープをめぐんでくれました。女の人は、しばらくゆっくりやすんでいくよう老人にすすめますが、老人は、女の人がくれた水で、のどをうるおすと、こしに下げた袋から、小麦粉をひとにぎりとりだし、ヒョウタンのうつわに小麦粉をいれると、たちさっていきました。

 ブタの世話をしていた子どもたちがかえってきて、たべるものがないか たずねられますが、たべものは何もありませんでした。夕食のスープをぜんぶ、ものごいの老人にあげてしまったからでした。そのとき女は、老人がくれた小麦粉のことを思い出し、小麦粉で夕食をつくろうと台所に行って、ヒョウタンの小麦粉をとりだそうとすると、小麦粉は、うつわいっぱいの金貨にかわっていました。女と子どもたちは、その金貨のおかげで、たべるものにこまることはなかったという。

 

 日本では、弘法大師などがでてきますが、この老人が何者であったのは 不明のまま。宿を断る理由がいろいろ出てくるものが多いのですが、たんに”ことわれた”と、さっぱりしています。


黄金をなげた山・・ペルー

2023年12月11日 | 昔話(南アメリカ)

     大人と子どものための世界のむかし話6 ペルー・ボリビアのむかし話/インカにつたわる話/加藤隆浩・編訳/偕成社/1989年初版

 

 アンコイリャス山は、ポマバンバ村に、アプチャリャス山は、そのちかくのパタス村にある山。アンコイリャス山には金や銀がたくさんうまっていて、村人は金銀をぜたくにつかい、お祭りのときは、ごちそうやお酒を飲んでは、大騒ぎ。アプチャリャス山にあるのは、石ころばかりで作物もみのらず、村人は、いつもおなかをすかせ、みじめな暮らしをしていました。

 ある日、アプチャリャス山は、アンコイリャス山の財産を奪ってやろうと決心し、石ころを拾うと、つぎつぎにアンコイリャス山になげつけました。はじめは命中しなかった石ころでしたが、だんだん命中するようになるとアンコイリャス山も怒り出して、投げ返すようなりました。アプチャリャス山が投げるのは石ころ、アンコイリャス山がなげるのは金銀です。

 両方の山が何日もなげあって、アプチャリャス山は、黄金が命中し、傾いて死んでしまいました。しかし気がついてみると、アンコイリャス山のあたりは、石ころばかりになり、アプチャリャス山のあたりは金や銀が山となっていました。こうしてふもとの村の人々の暮らしは逆転することになりました。

 

 擬人化された山どうしが喧嘩するという思いもかけない展開です。カッとなって結果には思いがいたらなかったということでしょうか。ケチュア族の話です。  


人はなぜ はたらくのか

2023年12月04日 | 昔話(南アメリカ)

    大人と子どものための世界のむかし話6/ペルー・ボリビアのむかし話/インカにつたわる話/加藤隆浩・編訳/偕成社/1989年初版

 

 天と地をつくり、太陽や月や星に光をおあたえになり、人間や動物、植物をおつくりになった神さまは、自分の気持ちを伝える役目を、まちがって、うそつきのキツネに、おあたえになってしまいました。

 神さまは、「人間は裸で暮らすのだから、衣服はいらないだろう。そのかわり、こしから下がかくれるように、ひざまで羽をはやしてあげよう」といいましたが、神さまの声がよく聞こえなかったキツネは、「女たちは、はたらいて、衣服を作るように。指がはれあがり、胸が痛くなるまで、糸を紡ぎ、布をおるように。」といいました。

 また、神さまが、「人間は、畑に種をまかなくてよい。木の草もどんな植物も、しぜんに、おいいしい実をつけ、人間はかんたんに、それをとって、たべてくらせるだろう。トウモロコシの穂をとったあとは、小麦の穂が出てくるだろう。」といいましたが、キツネは、「人間は大地に種をまき、働いて、じぶんたちのたべるものをつくるように。また神さまのこどもである、ほかの動物たちのためにも、たべものをわけてやるように。」と、人間にうそをおしえました。

 神さまが、「人間は、一日一度の食事をすれば、それでじゅうぶんだ。」というと、キツネは、「人間は一日に三度食事をするように。」と、またうそをおしえました。

 ほかにも、人間がはたらかなければいけないことがらを、神さまに意向だとしたキツネ。

 神さまにふまんをもった人間たちは、かんたんに糸をつむいだり、布をおったりする方法はないか、教えていただきたいと、キツネにとりつぎをたのみました。「つぼのなかに、じぶんの糸巻き棒と、わずかの羊毛をいれておいたら、なにもしなくても、わたしが、きれいな布や、すばらしい糸にしてあげよう。」と、神さまは、おこたえになりましたが、キツネは、「わたしのことをあてにするなど、とんでもないことだ。女たちは一生のあいだ、糸を紡ぎ、布をおりつづけるのだ。」と、わらいながらいいました。

 いまの、この世のなかは、キツネのうその結果できたものなのです。

 「この世の中にある、まちがったことや、よくないことは、みんな、このうそつきのキツネのせいなのです。」といいますが、もしかすると、楽せずにくらしなさいというキツネは人間の恩人なのかも。「楽をする」ため、努力してきたのが人間ですからね。


森の精と三人の娘・・ギアナ

2023年11月27日 | 昔話(南アメリカ)

     新編世界むかし話集10/アメリカ・オセアニア編/山室静・編著/文元社/2004年

 

 めずらしいギアナの昔話で、呪術逃走譚です。”ところかわればしなかわる”で、逃げ方もさまざま。

 逃げるのは三人娘の末っ子、追いかけるのはユルパチ(森の精)。一羽のカラングが、あっという間に、若者にかわり、娘といっしょに、ユルパチから逃げ出します。

 はじめは、姉の骨を投げると、もうもうと煙が立ちのぼります。ユルパチがおいつくと、こんどは塩と灰を燃すと、大きなイバラの藪ができ、骨と塩と灰をいっしょにして、火をつけると、そこに大きな川ができて、大きな川を越えられないユルパチから逃げ、母親のいる小屋にたどりつきます。

 姉の骨というのは、暗い中、おじさんというユルパチに騙され、洞穴に連れ込まれた姉妹のふたりが、血を吸われ骨になっていたのです。

 ユルパチの足は指が後ろ向きについている存在。洞窟には、見張り番のオウムがいて、「旦那、旦那、カラングがあなたのカタツムリをつれて逃げていきますよ」と、逃げたことを教える存在。

 ”カラング”には注釈もなく、なにかは不明です。


月の神マンチャコリ・・ペルー

2023年11月05日 | 昔話(南アメリカ)

     大人と子どものための世界のむかし話6 インカにつたわる話/加藤隆浩・編訳/偕成社/1989年初版

 

 この世に太陽がなく、真っ暗な時、人間は洞穴に住み、何日もかけて、食べられる土のとれる洞穴へでかけ、その洞穴の土を食べて暮らしていました。ある家で、娘を一人残して、土をとりに出かけたとき、見知らぬ男がやってきました。ごそごそする音をきいて、へんに思った娘は、音のするほうへ、つばをはきかけました。

 「とんでもないことをしてくれたね。どうして、わたしの顔に、つばをはきかけるのだ。しみになって、のこってしまうだろうに」という男は、つづけて両親のことを尋ねます。両親が食料にする土をほりにでかけたことをきいた男は、「これからは、わたしが、ここにもってきたものを食べるがいい」と、ソンビキ、パマキ、ブチャタロキなどの木をうえてくれました。この男はマンチャコリ、つまり夜空にのぼる<月>だったのです。

 マンチョコリは、「木に実がなっても、いちどにぜんぶとってはいけない、また違う木の実を、まぜこぜにとってはいけない、そして実は熟したものだけとるように」というとかえっていきました。ところが、みんなはマンチョコリのいいつけにしたがわず、てんでに実をもいでむさぼり食ったのでばらばらにおとされた実は、ごちゃまぜになりました。そこへマンチャコリがやってきて、いいつけにしたがわなかった人を、みんな虫にしてしまいます。いま、土の中にすんでいるカイツィコリや、ウマイロという虫は、このとき人間たちがすがたをかえた虫です。

 人間のままのこったのは、むすめとその両親、妹の四人だけでした。やがてむすめはマンチョコリの子をみごもりました。むすめが子どもをうむとき、マンチョコリは、「この木をつかんでいなさい。そうすればいたくないし、やけどすることもないからね。」といいますが、むすめは、ちがう木をつかんでしまい、子どもをうむとどうじに、焼け死んでしまいました。生まれた子は、人間でなく、まっかにもえた火の玉でした。この子がカツィリンカインティリ、つまり<太陽>でした。カツィリンカインティリには長いしっぽがありました。マンチョコリは、そのしっぽをこまかくきって、いいました。「これは白人、これは黒人、これは悪人、これは善人、そして、さいごのきれはしは、アシャニンカ族だ。」。やがて、風がたいそうつよくふき、白人、黒人、善人、悪人、アショニンカ族をふきとばしました。こうした人々は、あちこちの土地に、別々にすむようになったのです。

 つぎに、マンチョコリは、むすめの父親マオンテをよび、カツィリンカインティリを、とおくまでつれていって、うめてくるようにいいます。マオンテは、つれていくとちゅうで、けっして水をかけてはいけないといわれていましたが、あつくてたまらず、おもわず水をかけてしまいます。さらに遠くにいって、カツィリンカインティリをうめてかえると、それまでまっくらだった空にから、くらやみがさって、あかるくなりはじめました。太陽が東からのぼってきたのです。ところが太陽がのぼると、もやがかかりました。それをみたマンチョコリは、いいました。「おまえはカツィリンカインティリに水をかけたな。だから、もやがかかったのだ。もやがかかれば、かならず雨がふる。みんなおまえのせいだ。しかし、おまえが水をかけたのは一部分だけのようだ。だから、雨がふる土地もあれば、ほんのすこししかふらないとちもあるだろう。」。

 マオンテは、自分のしたことを、深くくやんでいました。あわれにおもったマンチョコリハ、マオンテを鳥にかえてやりました。アマゾンのあちこちにいるマオンテ鳥が満月の夜になるとなくのは、じぶんがまちがった行いをしてしまったことを、後悔しているからです。

 雨が降るようになり、昼までに、この世をてらすものができましたが、夜をてらすものがありません。そこでマンチョコリは、じぶんで夜をてらすことにしました。満月がちかづいて、月がだんだん大きくなっていくと、顔のしみがみえるようになりました。それは、マンチョコリがはじめてむすめにあったとき、かけられたつばのしみだということです。

 

 壮大な由来話です。

 今年は、日本とペルー外交関係樹立から150年です。


好奇心のつよいむすめ・・ボリビア

2023年10月31日 | 昔話(南アメリカ)

     大人と子どものための世界のむかし話6 インカにつたわる話/加藤隆浩・編訳/偕成社/1989年初版

 

 ある夜好奇心のつよいむすめが、まどごしに通りをながめていると、マントをまとい、ソンブレロ(つばのひろいぼうし)をかぶった男がちかづいてきて、大きなつつみをさしだしながら、むすめにいいました。「こんばんわ、おじょうさん、めいわくでなかったら、このろうそくの箱を、あすまであずかっていただきたいのですが・・・。いまとおなじくらいの時間に、かならずうけとりにきますから。」

 男があずけていった箱からは、なにかへんなにおいがただよっていました。そのため、むすめは好奇心をおさえることができず、そのつつみをあけてしまいました。お驚いたことに、箱になかに入っていたのは、ろうそくではなく、死人の腕と、ふとももの骨でした。

 むすめが、神父さんに相談すると、神父さんは言いました。「その男は、この世の者でなく、亡霊なんじゃ。そいつから逃れる方法はたったひとつ。そいつがくるときに、ないている赤ん坊をおおぜい集めて、その中にいることじゃ。亡霊にとって、泣いている赤ん坊は、なによりもこわいものじゃからな。」

 その夜、好奇心のつよいむすめは、近所の赤ん坊をみんなあつめ、窓際で、気味の悪い男のやってくるのをまちました。男がやってくると、むすめは、まわりにおいてある赤ん坊たちを、つぎつぎにつねりました。ところが、赤ん坊たちは、ぐっすりとねむりこんでいて、だれひとり、おきようとしません。

 男はこの世のものとはおもえない声で、「おまえの好奇心が、いのちとりになったんだぞ!」と、さけぶと、つぎのしゅんかん、むすめを火の車におしこみ、全速力で、地獄へとひっぱっていきました。

 

 死神ではなく亡霊なので、この世になにか未練があったのかも。好奇心のつよい誰かに、酷い仕打ちにあったか?


あらずもがなのことば・・コスタリカ

2022年12月07日 | 昔話(南アメリカ)

           ラテンアメリカ民話集/三原幸久編訳/岩波文庫/2019年

 

カタールワールドカップ一次予選で対戦したコスタリカの「こぶとりじいさん」の話。

 

コブのある貧乏な男が山へ薪を取りに行って、夜中の一軒家で出会ったのが、魔女たちの祭り。

魔女たちがとびはねながら歌っているのが

”月曜と火曜と水曜で三つ”

魔女たちが、同じ歌を歌い続けるので飽き飽きした男が、ダミ声で付け加えたのが

”木曜と金曜と土曜で六つ”

叫び声や踊りがとつぜんやみ、「わたしたちの歌にあんなにうまく続けたのはだれ」「なんてすばらしいでしょう」「歌った人にほうびをあげなくちゃ」と、魔女たちが声の主を探し、コブを切りとってしまいます。さらに、お礼に金貨の入った袋も男にくれます。

男が家を離れていくとき、魔女たちの歌声が聞こえました。

”月曜と火曜と水曜で三つ  木曜と金曜と土曜で六つ”

このあとは、「アリババと四十人の盗賊」風。

家に持ち帰った金貨がいくらあるか量ろうと、妻が金持ちの家にマスを借りに行きます。不審に思った金持ちの妻が、マスの底にニワカを塗りつけます。そして返されたマスの底に金貨がくっついているのを見つけ、夫にそのことを話すと、金持ちは貧乏な男から、ことの次第を聞き、山奥へでかけ、魔女たちがお祭りしている家につきます。

魔女たちは”月曜と火曜と水曜で三つ  木曜と金曜と土曜で六つ”と夢中になっていました。

金持ちが、ここで「日曜で七つ」と、付け加えます。魔女たちは、「どうしてそんなことをいいだすのよ」「わたしたちの歌をぶちこわすようなことをいった横着者はだれなの」と、怒り出し、男を見つけ出すと、貧乏な男から切り取ったコブを首にくっつけてしまいます。

金持ちの男は、山へ行ったとき連れて行ったロバをなくし、コブを二つ付けて家へ帰りました。

 

日本では、鬼と踊りですが、魔女と歌という組み合わせは 外国らしい。


ヘルンビー・・ベネズエラ

2022年11月17日 | 昔話(南アメリカ)

          ラテンアメリカ民話集/三原幸久編訳/岩波文庫/2019年

 

 ヘルンビーは子どもの名前。母親と暮らしていましたが貧しいため、出世を求めて世の中へ出ていく決心をしました。

 野生の果物さえ満足に口にしてないほどの長い道中で、一軒の家につき泊めてもらうことに。

 ここは、子どもにとっては天国のようなところ。たくさんの子どもが、見たこともないようなすばらしいおもちゃで楽しそうに遊んでいました。それからこの家の老婆がお菓子や果物をヘルンビーに持ってきてくれました。好きなだけここにいて、好きなおもちゃで遊び、好きなだけ食べて、夜になったら、清潔で真っ白なベッドで寝られるのだよと、老婆。

 寝る時間になって、みんなが床につくと、老婆は明かりを消し、台所の引き出しから大きな包丁を研ぎはじめました。研ぎ終えると老婆は、少し様子を見てから子どもたちの名前を呼びはじめました。子どもたちは寝ていたので誰も返事をしません。すると老婆は家じゅうの明かりを消しました。

 つぎの日、子どもたちは起きて朝食のあと、いつものように遊びはじめました。そのとき、ヘルンビーは前日いっしょに遊んだ、よく肥えた元気そうな顔つきの子がいなくなっているのに気づきました、みんなにこのことを知らせると、みんなも、そういえば毎日同じようなことが起こっているのに気づきました。

 その夜、誰も眠ろうとしませんでした。ヘルンビーが、こっそり老婆が何をしているのか見にいき、包丁を砥石でこすっていることをみんなに話しました。ヘルンビーは、みんなといっしょに逃げ出すことにことにしました。

 老婆が名前を呼ぶと、みんないっせいに返事をします。それから窓から飛び出したとき、また老婆の呼ぶ声がします。みんな家の外に出てしまっていましたが「なんですか。おばあちゃん」と答えました。何回か繰り替すうちに老婆の耳には、子どもの返事が聞こえなくなりました。老婆が寝室に行って誰もいないことをみて、箒に乗って子どもたちを追いかけました。

 子どもたちは逃げる途中、トカゲに食われそうになっていた蝶をたすけました。驚いたことに蝶はだんだん大きくなり、美しい少女に姿を変え、助けてもらったお礼にと、糸玉と小さい鏡、赤い小石をもらっていました。

 老婆が子どもたちに追いつくと、子どもたちは恐れて立ちすくんでしまいます。ヘルンビーがすぐに、少女からもらった糸玉を後ろに投げると、子どもたちと老婆の間に天まで届くカズラの茂みがあらわれました。老婆がそこから抜け出し、子どもたちに追いつくと、ヘルンビーが鏡を投げたので両者の間に広くて深い湖があらわれました。老婆が水を飲みほして子どもたちに追いつくと、ヘルンビーが赤い小石を投げると地面からとつぜん火の壁があらわれ、老婆が炎を乗り越えようとすると、炎の頂上で力がつき、炎のなかに落ちて黒焦げになってしまいました。

 ヘルンビーは、こどもたちのひとりひとりを父母の家につれていくと、子どもの親はみんな喜んでヘルンビーとかれの母親に贈り物やお金をくれ、ふたりはたいへんな金持ちになって、もう離れてくらすこともなくなりました。

 

 類話の多い昔話で、ここにでてくる老婆は、日本でいえばやまんば、ヨーロッパでいえば魔女でしょうが老婆と訳されています。ベネズエラはスペイン語が公用語で、ヨーロッパの昔話の影響があるのか知りたいところ。

 主人公の援助者(魔法をかけられていた野原の仙女)がとちゅうで現れるのは、ほかの昔話にあまり見られないかも。逃げているとき投げるものや障害物もいろいろ。


さっかく・・ブラジル

2022年11月02日 | 昔話(南アメリカ)

           ラテンアメリカ民話集/三原幸久編訳/岩波文庫/2019年

 

 雌のヒツジをつれている老人に声をかけたのは、ペドロというずる賢い、人を騙すのが好きな男。

 連れているのはヒツジなのに「どこへ、このかわいい」子犬をつれていきなさるのかね?」と話しかけます。もちろん驚いた老人は取り合いません。

 だが、ペドロは変装して道端でまち、また老人に声をかけます。「やあ、よい天気だね。その子犬は売るのかい。いい値をつけようじゃないか」。「子犬なんか持っていないよ」と、老人。

 しばらくたつと、ペドロはまた顔つきを変え、衣服も着替えて、老人のそばをとおりかかり、「その犬を売ってくれないかね」と尋ねました。「いや、だめだ」と老人。

 ところが、老人は立ち止まって、じっと自分のヒツジをながめていましたが、やがて心の中で考えました。「悪魔が犬にかえよったに違いないわい」。そうして老人はそのヒツジを道端に放り投げると、さっさと去っていきました。林の中に身を隠していたペドロは、それを見るとすぐさまヒツジを捕まえ、そのヒツジでおいしい料理をつくりました。

 

 ペドロが口のうまさで、老人を疑心暗鬼にさせ、ヒツジをいただいてしまいます。そんなことはないと思っていても、何度も繰り返し言われ続けると、相手が言っていることもあながち嘘ではないと思ってしまう心理がどこかで働きます。


子ヤギ・・アルゼンチン

2022年10月31日 | 昔話(南アメリカ)

          ラテンアメリカ民話集/三原幸久編訳/岩波文庫/2019年

 

 最も弱いと思われる動物が、恐ろしい動物をやりこめる話。

 

 あるおばあさんがもっている野菜畑に、子ヤギが一匹畑に入ってきて野菜を食べていました。おばあさんが子ヤギを引き出そうとすると、足蹴にすると脅したので、お婆さんは逃げ出し、誰かに助けを求めようとしました。

 キツネに出会い、おばあさんが「子ヤギがわたしの畑に入ってきて野菜を食べているのを見ていても、自分の力で追っ払えないんだよ。これが泣かずにおかれましょうか」と答えると、キツネは、おばあさんと子ヤギのところへいきますが、「ぼくは子ヤギの中でもえり抜きの強い子ヤギだ。出て行ったらお前をけとばしてやる」と言われ、去っていきました。

 おばあさんが雄牛に会い、おなじように子ヤギのところへでかけますが、キツネと同じように、子ヤギに驚かされ、子ヤギを追い出す力はないといって、去っていきました。

 次に小アリと、野菜畑に。小アリは草むらに身を隠し、子ヤギの足によじ登り、ここぞと思うところにくると、思い切り刺しました。子ヤギはあまり痛いのでびっくりして立ちあがり、畑から飛び出して逃げて行ってしまいます。

 おばあさんがお礼に小麦をやりましたが、小アリはその中から一粒だけ受け取って家にかえりました。

 

 ここでは、強いと思われる動物が二匹だけですが、さらに追加することもできるし、アリでなくてもハチでもよさそう。動物の登場にも工夫ができるし、応用範囲が広そうです。


知らない人に買ってもらいな・・グアテマラ

2021年05月12日 | 昔話(南アメリカ)

        ラテンアメリカ民話集/三原 幸久:編訳/岩波文庫/2019年

 

 熱心なキリスト教信者のチェスとっつあんと呼ばれる男が、袋いっぱいのお金で買ったのはラバ。

 とっつあんは、その夜はとても心配で、眠るどころではなく五分ごとに外に出て自分のラバを見に行きました。これを見張っていたのは、ふたりの泥棒。泥棒はちょっとしたすきにラバを盗み、泥棒のひとりが、ラバをつないでいた綱を自分の首筋に結びつけ、四つんばいにはっていました。

 少したって、たいまつを持ったとっつあんが、四つん這いの泥棒をみて驚きます。すると泥棒は、「たいそう罰当たりなことをして、魔女に魔法をかけられてラバになってしまったんでさ。でも、もし心の底からまっとうな男に買ってもらったときにゃ、魔法は消えて、人間にもどれる。幸運なことに、聖者さまのようなあなたさまが、わっしを買ってくだせえましたので、三十分前にもとの姿にもどれた。」と答えました。

 ラバを買ったお金はどうなるか心配するおとっつあんに、ラバの男は「綱をほどき、五ペソほどお金を貸してくれれば、神さまがお金をかえしてくだせえますよ、だって神さまが借金をしたままだなんて聞いたこともねえですから」といい、おとっつあんから放してもらいます。

 なくしてしまったラバの代わりを見つけようと市に行ったとっつあんは、前とよく似たラバを見つけます。色合いと焼き印をじっとながめ、前の日の売り渡し証文をみて前日に買ったラバとわかり、そのラバに近づいて小声で言いました。

 「この馬鹿者め。また悪いことしやがって、わしゃもうお前を二度と買いもどしてやらねえぞ。お前の素性を知らねえ人に買ってもらいな」


ホアン・ソンソとペドロ・アニマル・・ドミニカ

2021年01月12日 | 昔話(南アメリカ)

          ラテン・アメリカ民話集/三原幸久:編・訳/岩波文庫/2019年

 

 ホアン・ソンソは仕事にいくとき、ばかの兄に、留守中母親をぬるま湯に入れ、昼食には卵を食べさせ、よく看病するようにいいつけておきました。

 ところが兄のペドロは、湯をぐらぐらわかし熱湯のなかに母親を入れて死なせてしまいました。

 ホアンは母親の死体をロバにのせ、神父が教会で告解を聞いているところへロバを放ちました。

 神父は母親に二、三度声を掛けましたが、何の返事もしないので腹をたて、母親に平手打ちをくらわせると、母親はロバから落ちました。

 するとホアンがやってきて「あなたはわしの母親を殺したな、さあいっしょに警察に行こう」といいました。神父は「袋にいっぱい銀貨をあげるから警察にだけは黙っておいてくれ」と頼み、ホアンも承知してお金の袋をもらいました。

 つぎに、ホアンは母親の死体をロバに乗せ、馬をたくさん持っている地主が馬を放している囲いに、ロバを放ちました。すると何匹もの馬がロバを追い回し、ロバの背から母親の死体が落ちてしまいました。

 ホアンは地主に「旦那の馬がわしの母親を殺しました」と談じ込み、ここでもたくさんのお金を手に入れます。

 

 死体を利用して大金持ちになるのは、死者を冒涜していますが、こうした類話も多いというのは、どう理解したらいいでしょうか。


石のスープ・・ボリビア アイマラ族

2020年12月17日 | 昔話(南アメリカ)

    世界むかし話6 ペルー・ボリビアのむかし話/加藤隆浩:編訳/ほるぷ出版/1991年

 

 「石のスープ」というと、詐欺ですが、じぶんたちがだまされた話が、伝承されてきたというのはいましめでしょうか。

 あるインディヘナの家に白人がやってきて、お金を払うから食事を用意してほしいと頼みますが、インディヘナたちは「だんなさま。わたしたちは、なにももっていないのです。」と、ことわります。まずしいこの村に、余分な食べ物などなかったのです。

 いくらお金を出すといわれても、じぶんたちで動物を飼い、畑を耕し、布を織って暮らしているインディヘナたちにとっては、お金など必要なかったのです。

 しかたなく白人たちは、つぎの村へむかおうとしました。そのとき、白人たちのなかで、インディヘナのことをよく知っている男が、鍋を一つ貸してくれと頼み、あたりに落ちている石を、いくつか拾っていれました。インディヘナたちは、おどろいてなにをしてるかたずねると、「石を料理しているのさ。とてもおいしくなるんだよ」と、男はこたえました。そして白い粉を鍋にほうりこんでみせました。それは、ただのふくらし粉でしたが、何も知らないインディヘナたちは、じぶんたちの食事と、石の料理を交換してくれるようたのみます。もちろん白人たちはよろこんで、ねがいをかなえてあげます。人を疑うことを知らないインディヘナたちは、石のスープをのんで、このめずらしい、やすあがりの食事に、すっかり満足します。

 

 白人が現地の人を騙すのは、この時代の反映でしょうか。

 

 マーシャ・ブラウンの「せかいいちおいいしいスープ」(こみや ゆう・訳/岩波書店/2010年)も、石からスープができると村人を騙す話ですが、これはフランスの昔話がもとになっています。

 集団が、催眠状態になるというのも、考えてみれば怖い話です。


天国にいったファン・・コスタリカ

2018年03月29日 | 昔話(南アメリカ)

      ふしぎなサンダル/世界むかし話 中南米/福井恵樹・訳 竹田鎮三郎・絵/ポプラ社/1979年

 人間の寿命をあらわす石油ランプ。

 突然天国にいったファン。まずは待合室に案内され、そこで待つようにいわれます。

 ファンは自由に歩き回り、ある部屋に行くと部屋中に石油ランプが燃えていました。ランプは、どれも生きている人の命をあらわしているといわれます。自分のランプがどれかと聞くと、あまり明るくないランプ。

 ファンは、いったん部屋をでますが、聖ペテロが門のところにいるのをみると、すぐに部屋にもどり、自分のランプの灯心をきれいに掃除して、そこに新しい油をいれます。

 ここで、寿命がのびるのかと思ったら、聖ペテロにみつかって、禁じられたことをしたら、地上にもどることになるぞと注意されるだけで、その場はすみます。

 昔話では、地獄に寿命をかいた帳面があったり、ろうそくが寿命をしめしたりとあらかじめ予定されているという考え方が多い。

 そこで、なんとか寿命をのばそうとする人間と、閻魔さまや天国の聖ペテロなどの、やりとりがお話として成立しやすいのでしょう。