さめびとのおんがえし/原作・ラフカデイオ・ハーン 再話・はなしまきみこ 絵・ふじかわ ひでゆき/新世研/2001年
ある日、藤太郎という若者が、琵琶湖のほとりで、まっくろで目は緑色、髭は竜のようにそりあがっている”さめびと”にあいます。
竜宮で王さまにつかえていたが、ささいな失敗をしたために、王さまに追放されてしまったというのです。
彼は、悲嘆にくれるさめびとを可哀そうに思い、自宅の池に住むことを許します。
ある日、藤太郎は7月の女人詣の中に、珠名という女性をみつけ一目ぼれします。
娘のあとをおって、瀬田の村の屋敷に母親と泊っているのをつきとめます。娘も結婚相手をさがしていましたが、ある特別な条件をきめているというのです。それは結納として、一万の宝石の入った箱をおくれるような立派な若者でなければならないという条件でした。
藤太郎はがっかりしてしまいます。いくら裕福でも一万の宝石をおくるのは、到底無理です。
娘のこととが忘れられない藤太郎は、食べることも寝ることもできないほど思いつめ、病気になってしまいます。
さめびとは、藤太郎が病気になっているのを聞いて、一生懸命看病しますが、藤太郎はよわっていくばかり。「わたしの命はながくはない。それはしかたがないが、一人残されるお前のことがきがかりだ」という藤太郎の言葉を聞いて、さめびとは、わんわんとなきだします。すると不思議なことに、さめびとの涙の粒が、光か輝くルビーにかわっていったのです。
それを見て、藤太郎は生きる力をよみがえらせます。
しかし、ルビーは一万にたりません。あと少し涙をながしてくれるようさめびとに頼み込んだ藤太郎でしたが・・・。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、むかしの国語の教科書で名前だけは記憶にありますが、作品は読んだことがありませんでした。今頃になって絵本でふれることになるとは思ってもみませんでした。
この話は昔話そのもの。ただ藤太郎や珠名の年齢がでてきますが、昔話に年齢がでてくるのは少ないので、どんな意図があったのでしょうか。
小泉八雲は、1850年、ギリシャのレフカダ島で生まれ、40歳のときに来日。島根県松江市で英語教師として働きます。
15歳のとき、ブランコの結び目が左目にあたり、失明してしまったというのは、はじめて知りました。
100まんびきのねこ/ワンダ・ガアグ:文・絵 石井 桃子・訳/福音館書店/1961年
むかし、あるところにすんでいたおじいさんとおばあさんは、きれいな家に、花に囲まれていましたが、ふたりは幸せではありませんでした。ふたりはとてもさびしかったのです。
「かわいい ちいさい ねこ」がほしいというおばあさん。
そこで、おじいさんは、ねこを探しにでかけますが、たどりついたのは、どこも ここも、ねこでいっぱいになっている丘。
いちばんきれいなねこをえらんでかえればいいんだと思ったおじいさん。ところが次々にかわいいねこが目について、あれもこれもひろいはじめます。
その数、ひゃっぴき、せんびき、ひゃくまんびき、一おく、一ちょうひき。
途中、池の水を飲み干し、野原じゅうの草は一本もなくなります。
びっくりしたのはおばあさん。ご飯はやれないと、誰が、いちばんきれいなねこか、ねこたちにきめさせようとしますが、どのねこも自分が一番きれいだとおもっていましたから、喧嘩がはじまります。
おじいさんおばあさんが家に逃げ込み、すこしたつと、外の騒ぎが聞こえなくなります。
窓からのぞいてみると、ねこは一匹もいなくなっていました。
ところがよくみると、草の間に骨と皮ばかりのやせこけたねこをみつけます。
「わたしはただのみっともないねこでございます。だから誰が一番きれいかきかれたとき、わたしは何もいいませんでした。だから、だれもわたしには かまいませんでした」。
おじいさんおばあさんは、このねこをかうことになりますが・・・・。
題名に100まんびきとありますが、じつはもっと数がおおくて一ちょう。それが一匹を残してみんないなくなるのは共食いで、じつは恐ろしい話。
この数にびっくりするのは、大人だけでしょう。保育園、幼稚園の子どもにとって数の概念はここまでいかないはず。大人の感覚で接すると、とんでもない錯覚におちいりそうです。
本文の絵はモノクロで、カラーは表紙のみ。出版年の関係だけではなさそうです。
・紙芝居 ひゃくまんびきのねこ/脚色・高橋五山 画・川本哲夫/出版社:童心社/2000年
絵本は1961年、紙芝居は2000年の発行です。
紙芝居は、カラーで絵本よりはみやすいかもしれません。
猫の数はやや抑えめで百万匹。
猫は、喧嘩をしますが、一匹を残して、竜巻にまかれて舞い上がっていきます。このほうが個人的には納得です。