そんなときどうする?/セシル・ジョスリン・文 モーリス・センダック・絵 こみや ゆう・訳/岩波の子どもの本/2013年
意外性に富んだ設定で「そんなときどうする?」とたずね、次のページには答?が続きます。
マナーは厄介ですが、これならすんなりとはいっていけそうです。
図書館で本を読んでいると強面のとんがりビルがつれだそうとしたら?
雨の日、お姫さまから「お城が雨でしずんでしまいそう」とSOSのでんわがかかってきたら?
北極の氷の家で食事中に大きなホッキョクグマが入ってきたら?
こみあったゾウのバスにおじょうさんがどうしてものせてくれといったら?
ともだちの誕生パーテイに、はらぺこりゅうがおしかけてきたら?
どうする?と聞かれ、「そうくるか」と妙に納得してしまうものばかり。
「わかき しんしの ための れいぎさほうのほん」なのですが、「図書館では静かに歩きましょう」「ごはんのまえには手を洗いましょう」「せきをするときは 手で くちをおおいましょう」には驚きませんが、思わずユニークな対処もあります。
そんなときなんていう?/セシル・ジョスリン・文 モーリス・センダック・絵 たにかわ しゅんたろう・訳/岩波こどもの本/2016年
原著は1958年。白黒、青だけのシンプルな絵です。
どうする?とおなじように、いろいろな問いかけがあって、答えが出てきます。
答えはシンプルですが、場面の設定が楽しいのは、「どうする?」とおなじです。
牧場を見回っていると、とつぜん とんがりビルが 背中から拳銃を突きつけ「どたまに かざあなあけてやろうか?」と すごまれたら?
ときどき そうしたくなるので うしろむきに あるいていると わにに ぶつかる そんなとき なんていう?
自家用機で 空を飛んでいると、侯爵夫人が、「そのうち ぜひ おちゃでも」といっていたのを思い出して、そうすることにしたが、困ったことに屋根に大きめの穴をあけてしまったら?
ゾウ、竜、騎士、カウボーイ、看護婦、ワニ、お姫さま、海賊がでてきて、それだけでも楽しい絵本です。
ぼうしをかぶったオニの子/川崎 洋・作 飯野 和好・絵/あかね書房/2008年
絵本は2008年に出版されていますが、1979年におなじあかね書房から出版された童話集「ぼうしをかぶったオニの子」(あかね創作どうわ6)におさめられています。
小学3年の国語教科書にものっていますから、教材研究や指導案もあって参考になります。
物語の舞台は、夕焼けがきれいな秋から初冬の時期。ただ節分の時期なので語ってみてもよさそうです。
帽子をかぶったオニの子が、死んでいると思ったワニに、ホオノキのおおきなはっぱを何時間もかけて、かけてやると、ワニがめをさまします。
ころして、宝物をとろうとするやつから長い長い旅をしてすっかりつかれたワニが眠っていたのでした。
ワニのおじいさんは、宝物をしらないオニの子に、宝の隠し場所の地図をおしえ、宝物ってどういうものか、自分の目でたしかめるようにいいます。
あたたかい葉っぱのふとんをつくってくれたオニの子に対する感謝の気持ちと「たからもの」をしらないという稀有な存在に驚いたにちがいありません。
オニの子は苦労して地図のバツ印のある場所にたどりつき、きりたつようながけの岩場から、美しい夕焼けを見て・・・・。
オニの子が宝物をしらない理由や地図のありかが、なんともうまくできています。
綺麗な夕焼けを「たからもの」と思ったオニの子。もしかすると世代間の価値観の違いも示しているのかもしれません。そして、物質的なものに執着して大事なものを見失っていることへの警告かも。
年長者を敬う礼儀正しく優しい素敵なオニの子です。オニの子は、夕焼けを見たとき、思わず帽子をとりますが、本当の自分にかえった瞬間だったかもしれません。帽子をかぶっているうちは仮の姿です。
そのごのワニについては、なにもふれられていませんが「わしのたからものをあげよう。これでわしもこころおきなくあの世にいける。」というセリフが暗示しているようです。
くじらがクジラになったわけ/テッド・ヒューズ・作 河野一郎・訳/岩波少年文庫/2001年
表題作のほか、フクロウ、キツネ、北極クマ、ハイエナ、カメ、ミツバチ、ネコ、ロバ、ウサギ、ゾウと、それぞれがなったわけの話です。
昔話にはサルの尻が赤いわけなど、由来話も多いのですが、現代作家らしく料理の仕方は大分ちがっています。
クジラは昔、神さまの野菜畑にいたクジラ草!という意表をつく出だしです。
クジラ草は、はじめは小さなものでしたが、毎日倍々ゲームでふえていき、神さまの家の台所の壁まで押し倒す始末。困った神さまは、動物たちをみんなあつめ、海の中へ放り込みます。
小さくなったらかえってきていいよというのですが、クジラはちいさくなる方法がわかりません。
神さまは、クジラのあたまに穴をあけ、水をあなから吹き出すように言います。
たしかに、からだはぐっと小さくなりますが、昼寝をすると、また大きくなってしまいます。
息をふいてちぢんだとたん、又眠り込んでふくらむます。その結果、陸に戻ることはなかかできなかったクジラ草は、他の動物からただクジラとよばれているという。
したたかなのはフクロウ。森の小鳥たちに、昼を夜だと思い込ませ、次々に食べてしまいます。
カメは、はじめからカメではなくオーバとよばれていて、すばらしく早く走ることができ、動物たちのかけっこ大会では、いつも優勝していました。それが一番のろくなったわけは?
ロバはそのころのことばで「ひとつだけやっていられない」という意味。
きまった動物になるのが嫌で、いろいろな動物になる練習をしていました。
まずライオンに、それからワシに、次にはウシにオウムといったぐあい・・。
ウサギがウサギらしくなったのは、他の動物から、「お月さまがきみと結婚しがっている」のをきいたから。
どこまでおいかけても月にはあえなかったのです。
テッド・ヒューズ (1930年-1998年)は、イギリスの詩人、児童文学者。調べてみると複雑な人生をおくっています。
山いっぱいのきんか/文・君島 久子 え:太田 大八/童話館出版/2005年
月夜の晩に山へ草刈に出かけたランフー。ふいに足もとがぴかりとひかります。よくみれば、なんと金貨が道いっぱいに、ずうっとならべてありました
だれがとおもっていると、金貨の間から、銀色の髪のふしぎなおばあさんがすうっとあらわれます。
おばあさんは、ランフーに「今夜は、八月の十五夜さまで、山の神が、月の光に金貨をさらす日じゃ。運良くそれに出会ったから、これをあげよう。」と、金貨を三つあげます。
ランフーはほくほく顔でとっととっとかえりかけて、ふとふりかえりました。
金貨は光の帯のようにきらきらかがやいています。もうちょと、もらってもとおもいつくと、すぐにひきかえし、おばあさんに、もうちょっとくだされというと、おばあさんはもう三枚の金貨をくれます。
おばあさんの姿がどこにもみえなくなると、もう一度考えなおしたランフーは、背負い籠の草をすてて、金貨を籠につめこみます。
家に帰る途中、石橋の上で一休み。何しろいくらでも金貨がありますから、大きなかつぎ籠があればもっと金貨を手に入れられると・・・。
どんどんエスカレートして、じいさま、ばあさま、むすこにむすめ、ぶた、いぬ、ひよこにまで、大かご、小かご、ふくろに、ざるまでもって・・・。
ところが月が見えなくなると・・・。
結局、家族の信頼をうしない、いぬ、ぶた、こやぎ、ひよこにまで、しょいかごをすてなきゃよかったのにねと言われる始末。
欲張りすぎるのも考えものですが、やっぱり人間の心理をうまくついた話です。
何も夜に草刈にいかなくてもと突っ込みたくなりますが、金貨は満月にしかあらわれんませんから、やっぱり夜です。
太田大八さんの絵も、ぎらぎらしたものがなく、この話にピッタリです。
語ってみても楽しそうです。
岩波の子どもの本 金のニワトリ/文・エレーン・ポガニー え・ウイリー・ポガニー やく・光吉夏弥/岩波書店/1954年
プーシキンの代表的な物語詩といいますが昔話風です。初版が1954年と70年以上も前ですが、古さは感じません。
夫妻で作られた絵本で、カラーとモノクロの絵が交互にでてきます。文章が大分長く、筋も複雑で理解するのに手がかかりそうです。
宣伝文句風にいうと、美食家のダドーン王と”くらやみ山”にすむ、悪い魔法使いの攻防やいかにということでしょうか。
魔法使いは、王さまがのんきに、ゆかいにくらしているのがしゃくで、手下をダド-ン王の国せめこませ、ダドーン王も兵隊をさしむけますが、王さまの兵隊が北に行くと魔法使いの軍隊は南から、東をふせごうとすると敵が西からやってきて、両者がめぐりあうことはありませんでした。
王さまは、国中のかしこい学者をあつめ、どうしたら敵がやってくる方向がわかるか会議をひらきますが、妙案はでません。
そこにひとりの年とった男が、なにやらつつみをかかえてあらわれます。そしてつつもからとりだしたのは金のニワトリでした。
男が言うことには、なにもかわったことがないと、このトリもしずかに、おとなしくしているが、敵が攻めてくる気配があると、敵がくるとなきだすというのです。
疑心暗鬼の王さまでしたが、とにかくなんでもやってみようとトリを塔のてっぺんにとまらせます。
じつは、この男は魔法使いでした。
ところが魔法使いの持ってきた金のニワトリが、王さまの救い主になるのが後半にあります。
あるひ、金のニワトリがけたたましくなきだします。
コケコッコー!目をさませ!
となりのてきが、せめてくる!
さあ、さあ、やりをとれ、刀とれ!
みんなで、国をまもりなさい!
コケコッコー! コケコッコー!
王さまは、年とっていて、自分の代わりに、ひとりむすこのイゴール王子をさしむけます。
イゴール王子はタチアナ姫を、お妃にむえることになっていましたが、タチアナ姫をのこし、出発します。
それから、一年たっても王子からはなんのたよりもありません。
王さまが羽の布団のベッドにねているとき、また金のニワトリが、てきがせめてくると大きな声でなき出します。
こんどは王さまがでかけることになりますが、太りすぎで鎧をきるのも十人がかり。王さまは若いころはいくさじょうずであばれまわっていたのですが。
王さまの軍隊が山の中の深いまっくらな谷でみつけたのは、石にかえられたイゴール王子と兵士たち。 王さまがなみだをながしていると、美しいテントが、ぽっかりわいてでてきます。そのなかには、とてもうつくしい月の娘シャマカ姫がおおぜいのおつきのものたちと一緒でした。
王さまはたちまち、シャマカ姫のとりこになり、妃になってくれるよう申し込みます。(前の妃はなくなっていたのかどうかはさだかでありません)
そのまま姫と王子をつれて都に帰った王さまの前にあらわれたのは、魔法使いでした。
王さまは、金のニワトリをもってきた男に、なんでものぞみのものをやると約束していました。
魔法使いは、月の娘をいただきたいといいだしますが・・・。
王さまと魔法使いの軍隊の攻防があると思うと、一度も戦火を交えることなく物語はすすんでいきます。
金のニワトリの正体は、シャマカ姫がすきだった王子で、魔法使いがニワトリにかえたものでした。
魔法使いがニワトリにひたいをコツン!と、ひとつきされ、ころりと死んでしまうのは、あっけない最後です。
リュックのピクニック/いちかわ なつこ:作・絵/ポプラ社/2003年
パン屋さんお休みの日、ジーナと犬のリュックが向った先はお店です。
サンドイッチ用のハムを買って、チェダーチーズ、レタス、キュウリ、トマトを買って。
そうです。お弁当を作ってピクニックです。
坂道をえっちらおっちらのぼって。
あらら、お弁当がはいっているバッグが籠から落ちて、きがつかずにのぼって、いざお弁当をたべようとすると。
石畳の街並み、街角に立ち飲みのコーヒーショップ、自転車でとおりすぎるのはブドウ畑とどこか外国を思わせます。、
ほのぼのとした絵本です。
ほしのむすめたち/マーガレット・ベミスター・再話 羽根節子:訳・絵/福音館書店/2000年こどものとも発行
カナダ・インディアンの昔話です。
ウォーピーがけものを追って森のはずれまでくると、目の前の野原の上に、輪のようなあとがついています。
ウオービーが、かくれてみていると、12人のむすめたちが小枝で編んだ籠にのっていて、むすめたちは地面につくと輪にそって踊り始めます。
ウオービーは、一番年下のしろいむすめがきにいり、つかまえようと飛び出しますが、むすめたちはあっという間に、空の上にあがってみえなくなります。
次に、ウオービーはふくろねずみに姿をかえますが、むすめたちはやっぱり空へのぼっていきます。
今度はねずみの家族が住む切り株に、ねずみのすがたにかえて、かくれ、こんどはむすめをだきかかえます。
羽衣伝説では、羽衣をかくしますが、この話では、むすめがねずみに姿をかえたウオービーを踏みつけようとしたとき、ウオービーが人間の姿にもどります。
やがてウオービーとむすめに、男の子がうまれ、散歩の途中、野原の輪をみつけ、それまで忘れていたほしのくにのことを思い出し、ゆらゆらと空にのぼります。
ウオービーはなげきますが、何年かたって、ほしのくににのぼった息子が、父親にあいたいといいだします。
ほしのおじいさんは、息子に生まれ故郷をみせてやるように、父親をつれてかえるようむすめにいいます。
その時、森にすむすべてのとりとけものの からだのいちぶを もってくるようにいいます。
ほしのくにでは、地上からのおくりもので、けものやとりのからだのいちぶをえらぶと、選んだ動物の姿にかわります。
ウオービーとむすめ、こどもが選んだのは、白いタカの羽でした。
地上からの贈り物で、ほしのくに動物がうまれたとあるのは、星座につけられた名前をあらわしているのでしょうか。
国によって羽衣伝説にもいろいろあるというのが実感です。
紙芝居 ふくはうち おにもうち/作・絵:藤田 勝治/童心社/1984年
この時期のおはなし会用に、ひさしぶりに紙芝居を借りてきました。
節分の日、”おにはそと”ですが、昔話には”おにもうち”というのがあって、とても憎めない鬼がでてきます。
佐渡の昔話がベースになっているようですが、”ふくはうち おにもうち”と豆まきする由来です。
ここにでてくる鬼たちは、人がみえないところで田植えをし、秋になると稲穂を実らせてくれます。
ごうじょっぱりのばあさまに、姿をみられた鬼は、それから米づくりを手伝ってくれないようになりますが、村の人たちは汗水たらしては働きますから、それからもええ米ができたようですよ。
もっぱら人手で米作りをした昔の大変さもつたわってきます。
いや、米作りには、いまでも昔と違った大変さがあります。
火の雨 氷の雨/かやのしげる・文 いしくらきんじ・絵/小峰書店/2000年
「シマフクロウとサケ」とおなじように神の方からアイヌに注文をつける形でかたられる神謡です。
父神、母神から、気がみじかいおまえがなにをしでかすかわからない。ぜったい行ってはいけませんといわれた竜の神カンナカムイが、神ののりものシンタ(カンナカムイは、子どもで帆掛け船で先には竜の頭)にのって、これまで見たことがないアイヌモシリにむかいます。
神を敬う村があれば、ないがしろにする村も。
カンナカムイは神をないがしろにする村に氷の雨、氷の雪崩をおこし、石の滝、大岩なだれをひきおこし、広い村はうずまって、煙につつまれてしまいます。
神をうやまう村人は、神がとおりすぎるまで手を休め、女は針仕事、編み物、織物すべてやめ、まるで一つの村が沼そこへもぐったようにしずかになります。
神を敬わない村は、なにをうるさい、こちゃこちゃいうな はたらくなというなと、きたないとぎ水をカンナカムイにばしゃりとかけ、ひえつく音をひびかせ、大掃除のほこりがまいあがり、目も開けられないし、息もつけません。
火の雨、氷の雨をふらせたのは、こうしたわけがありました。
サケが川にあふれ、鹿の群れが走り、ウバユリをほる女たちの歌など、アイヌの暮らしがいきいきと描かれています。
絵も独特で神話の世界を垣間見せてくれます。
文章のリズムからいうと、やはり歌で聞く方がよさそうです。現地までいかないと聞けないのでしょうか。
幽霊の恩返し/中国ふしぎ話6/画・史俊 文・朱慶坪 訳・趙非/舵社/1995年
一人の漁師が、川で水死した酒好きの人をしのんで、いつも酒を川に注いでいました。
他の漁師があまり魚がとれないのに、彼はいつも魚がとれます。
ある日、一人の男がちかづいてきて、よもやま話がはずみます。ところがいつもと違って、網には魚がはいりません。
がっかりしている漁師に、男は川下から魚をおいあげてきましょうといいます。
男が帰ってくると、網には、いつもよりたくさんの魚がはいっています。
それから半年がたち、いつものとおり酒を飲みに来た男ですが、今日でお別れしなければなりませんといいだします。
実は、この男幽霊で、漁師が酒をのませてくれるので、お礼に魚がとれるようにしてきたが、生まれ変わるので、それができなくなるというのです。
男の生まれ変わりの身代わりにやってきたのは、赤ちゃんを抱いた女の人。ところが赤ちゃんは草むらに落ち大声で泣きますが無事、女の人も川の水のなかで浮いたり沈んだりしているうちに自力で岸辺にはいあがります。
例の男がやってきて、赤ちゃんと女の人の二人を、自分のために死なせたくないとまた幽霊に。
善行のせいでしょうか、天帝から”土地の神”になった男は、漁師のところへやってきて・・・・。
酒ずきは、酒好きの気持ちがよくわかるのでしょう。
このあたりを理解するのは、子どもには無理です。
幽霊は怖い存在ですが、どうも昔話では礼儀正しく、幸せをもたらしてくれます。
絵も古代中国絵巻物のようで、不思議な世界へいざなってくれます。
シンドバッドの冒険/ルドミラ・ゼーマン:文・絵 脇 明子・訳/岩波書店/2002年
子どもに語るアラビアンナイト/西尾哲夫・訳 茨木啓子・再話/こぐま社/2011年では、船乗りシンドバードの冒険が「クジラの島」、「ダイヤモンドの谷」と独立していますが、この絵本は、二つがつづいていきます。
「子どもに語る」ほうは、語る場合の長さが、絵本も読む場合の長さが考慮されているようです。
普段聞きなれている昔話より、ワクワクドキドキ感がするアラビアンナイト。
絵本には舞台となる地図が乗せられていて、クジラの島はインド洋の下、クジラの島はさらにその南。
はじまりはバグダートですから、シンドバードの航海の壮大さが伝わってきます。
千夜一夜の導入部には欠かせないにシェラザードにふれ、さらにシンドバードが、同じ名前の荷かつぎのシンドバードに、自分の冒険をきかせるという形式です。
絵本では、クジラの島からダイヤモンドの谷に流れ着いていきます。
島だと思ったのがクジラで、巨大な鳥ロック鳥がでてきて、ダイヤモンドの谷には、大蛇がでてきたりと、次にはどうなるのだろうと、惹き込まれます。
作者は、挿絵、描き文字、レイアウト、飾り文字、縁取りの模様などにペルシャじゅうたんのデザインや手触りを思い出させようとさまざまな工夫をされています。
絵本の大蛇はさほど大きくえがかれていないのですが、「子どもに語る」のほうでは、ゾウを丸呑みできそうな大きさとあります。
「子どもに語る」で覚えてみたいと思ったのですが、絵本の表現をみてみると、さっぱりしすぎているようでした。
ついでに面白い数字について
3桁の数字。もういちど続けます。例えば456を456456とします。この数字を1001でわると456になります。任意の数字でも結果は同じです。千夜一夜にからめて、1001をシェラザード数とよぶというのですが・・・。
この数字のことも絵本で知りました。6桁の数字を7、11、13でわっていくとやはり結果は同じです。
ちなみに7*11*13=1001です。
世界の民話館1 こびとの本/ルース・マニング=サンダーズ/西本鶏介/TBSブリタニカ/1980年
昔話では、妻を亡くし再婚するする場合、余計なことにふれることはなく、すぐに再婚しますが、再話らしく、再婚するにあたって、長くつに水を入れてこぼれなかったら、もういちど結婚しようとするところからはじまります。
昔話のパターンで、再婚した相手には娘が一人。まま子の娘がいると、まま子はいじめられ役。
母親は、冬に「いちご」をもってくるように、まま子にいいつけます。
なんと紙の服を着て、森の中にでかけた娘。
ここであったのが12月の精ならぬ三人のこびと。
こびとから、パンを分けてくれるように頼まれると、娘はたった一つのパンを四つにわけて、こころよく、あげます。
すると、こびとたちは、いちごだけでなく、娘が何かを話そうと、口をひらくと口から金貨が落ちるようにし、毎日かわいらしくなっていくようにしてあげます。
母親の本当の娘も毛皮のコートを着て、パンとバター、肉、ぶどう酒をもって森に出かけますが・・・。
すぐに展開が予想できるのが昔話です。娘は「食べ物をわけてくれないか」というこびとに、一人でもたりないというのにと、断ると・・・。
この話は、まだ続きます。
氷がはった川で、一年と同じ魚をつってくるようにとでかけた娘が、金の馬車にのった王さまに見初められ、めでたくお妃になるハーピーエンドです。
ドイツの再話ですが、グリムに同じ話があってもよさそうです。
ビルマのむかしばなし/中村祐子他訳/新読書社/1999年
シャンソーが手に入れたのは、猿に変わる水と、飲むともとの姿に戻る水。
この二つの水で、王女が猿に変わり、猿から王女を人間の姿にもどしたシャンソーが王女と結婚し、王位後継者になるという話。ここまでは昔話の定番でしょうか。
ところがシャンソーは思いがけない幸運をあてにした男で家でぶらぶら。一方ブゾニューは働き者で、たくさんの家畜を持ち、大金持ちというので、悩ましくなります。
幸運をあてにした男は幸せになりますが、働き者の船は台風に吹き飛ばされ、お金は泥棒に盗まれ、家畜は死んでしまう災難が次々とおこります。
この話を聞いた人はどんな思いだったでしょうか。働き者が報われないというのも昔話でしょうか。
「三年寝太郎」のように、3年間眠りつづけても、村を旱魃から救うという最後だと、救いがありますが、どうもすっきりしないおわりかたです。
ただ、二種類の水をどう活用するかは、考え方でかわってきますから、幸運もつかみ取らなければ、ただの水でしょうか。
やさかの昔話/吉津の穴地蔵/芦田行雄・文 辰巳雅章・絵/あまのはしだて出版/1990年
本を一冊もつくったことのないという著者が、昔話を聞いて、おおぜいの協力者とともに作ったという思いのこもった絵本です。
やさか弁でかかれているのですが、切り絵とあわせて昔話はやっぱりこうしたリズムでないと味がでないとおもわされました。
としよりが「とっしょり」
動かないが「動かんだけな」
舟が動かないが「舟がうごかんだけな」
ちがいないが「ちぎゃあ にゃあ」
などなど。
凪の日で、漁に出ても舟が動かなくなっって何もとらんで戻る日がつづいていた漁師。
何日もつづくので、村中の漁師が総出で海に行ってみると金剛童子(山の名前)のあたりに光るものが。
山へ出かけ、みんなで地べたを どづいとったら、目のくらむほど光ったもんが すうっときえて、お地蔵さんがたっとんなるだげな。
お地蔵さんには悪いけど、このままだと漁がでけんようになると、お地蔵さんを土の中へ。、
あくる日からは、大漁がつづき、どの漁師も分限者になっただてえなあ。
それから何年もたって、お地蔵さんを土にうめたことなどひとりも知っとるものがおらんようになった、ある年、吉津に悪い病がはやり、どの家にも あした死ぬかわからんような病人があるだけ。
「拝み屋」に頼んでおがんでもらおうと、拝み屋のところに行くと、穴のなかにお地蔵さんが埋まっていて、早あこと、外にでてやあ でてやあ いうとんなる というので、みんなで地蔵さんを掘り出そうとでかけていきます。
お地蔵さんを土に埋めるとき、村人は、じばん、手ぬぐい、半天を着せてあげて、「こりゃあとくれ」と丁寧におがみます。
拝み屋というのもはじめてであう表現です。
人、海、山の風景、舟、家 どれも印象深いのですが、裏表紙にある喜怒哀楽の表情をしたお地蔵さんも楽しい切り絵です。ところどころに影絵のような人物がでてくるのも効果的です。
昔話に学ぶ「生きる知恵」➂馬鹿の鏡/藤田浩子:編著 小林恭子・絵/一声社/2006年
「親父を焼く」とあるとびっくりしますが、笑い話です。
父親から「父親は用足しにいっておりやす。なんぞごようがありましたら また出直してください」というようにいわれた馬鹿息子が、たったその一言二言がおぼえらません。
父親は「用足しにいっておりやす。なんぞごようがありましたら また出直してください」と紙に書いてでかけていきます。
紙を見せるだけならまちがいないだろうとでかけた父親でしたが、紙をうけとった息子は、紙をおとっつまだと思って大事にして、どこにおいておこうかと散々なやみます。
ところがお客がやってきて、いざ紙をみせようとすると、どこにも見あたりません。
息子が「おとっつま なくなった」というと、お客はおとっつまが亡くなったと勘違いし、おかみさんに、なにか葬式の手伝いがあるかもしれないと、何か聞いてこい、とせかします。
息子が紙を探し出して、いつでもだせるように手に持ったのはいいのですが、火鉢にあたってうつらうつらしているうち、ぽろっと紙を落としてしまって、焼けてしまいます。
そこに、おかみさんがやってくると、馬鹿息子がいうには「おとっつま はあ 焼いてしまった」。
昔話に馬鹿息子の話がありますが、おはなし会ではほとんど聞く機会がありません。なんともとぼけていて笑えるのですが、”馬鹿”というのがひっかかるのかもしれません。
大抵は自分自身で考えないのが共通していて、反面教師としてもよさそうですが、それにしても何かひっかかります。