どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

くすぐったがりやのキジー・・サモア

2019年09月30日 | 昔話(オセアニア)

          世界むかし話/太平洋諸島/光吉夏弥・訳/ほるぷ出版/1979年

 

 サモアは、南太平洋に位置し、ウポル島、サバイイ島および7つの小島からなる国家。

 太平洋諸島の昔話は、島の特徴をあらわし、ほかの国にはみられないものがあります。

 この話は、水をめぐる二つの島がでてきます。

 アポリマの島は、きれいな真水が出るのにマノノにはぜんぜんでませんでした。どちらの島も果物やヤシの実はふんだんにとれていましたが、マノノの人たちが、真水をてにいれるのは雨水をためておくか、真水のある島へ、カヌーで出かけて行って、大きな葉や貝殻にいれてもってかえるよりありませんでした。

 マノノの酋長の十一歳の息子、キジーは、アポリマにいって、真水をどうにかしてきますよと、カヌーにのって、ほら貝をもってでかけます。

 お父さんは、こっちの半分だけをもらって、あとは、のこしてくるようにいいました。

 アポリマの真ん中の丘には泉が。アポリマの真水は、その中腹から湧き出ていたのです。

 キジーはさっそく、ほら貝に水をすくいはじめます。このほら貝は魔法のほら貝で、泉の水も、泉から流れ出ている小川の水も飲みほしてしまいました。

 ところがアポリマの酋長の息子テリーが、泉の水も小川の水もなくなっていることにきづきます。泉には小さなほら貝のかけら。テリーは、キジーが、真水が手に入るなら、なんでもかんでもでもするといっていたのを思い出します。

 テリーはキジーのところへでかけ、「きみがとったんだろう?」と、問います。ばれたのかとキジーは魔法のほら貝をもって、一目散に にげだします。まもなくキジーにおいついたテリーは、ほら貝を取り戻そうとします。しかしキジーは、また逃げ出しますが、おいついたテリーがキジーのわき腹をくすぐりはじめます。くすがったりやのキジーは、からだをよじらせながら、またにげだし、おいついたテリが、また腹をくすぐります。三度目に、ほら貝をうばいとったテリが、島に引き上げ、ほら貝の水を泉に戻すと、たちまち泉は水でいっぱいになり、小川にも水が流れ出しました。

 一方、マノノの島でも不思議なことが、おこります。テリがくすぐったせいで、あちこち、ほら貝の水が、こぼれおちたところに、小さな泉ができて、真水がわきだしたのです。

 マノノの島で真水にこまらなくなったのは、くすぐったりやのキジーのおかげだと、島の人たちはいっています。

 いじめとか、死、殺し殺されたというのが一切出てこないので、安心?して楽しめる話でしょうか。

 生活するうえで水はなくてはならないもの。しかし世界には、アフリカを筆頭に、まだまだ水不足になやんでいるところも多い。世界をみても、約12億人が安全な水を飲むことができないというレポートもあります。


ばらいろのかさ

2019年09月28日 | 絵本(外国)

    ばらいろのかさ/アメリー・カロ・文 ジュヌヴィエーヴ・ゴブドー・絵 野坂悦子・訳/福音館書店/2019年

 

 アデルのカフェ「みずたまエプロン」は、風が吹きつける海辺の村の真ん中にあって、まわりには家が何軒かならんでいます。

 アデルのカフェは、このへんでただ一つの店。

 水曜日は、八百屋のリュカが、ちかくの人たちが買えるように果物や野菜をならべます。土曜日は、映画をみせる日、ほかの日も、面白い集まりがあります。

 リュカは水曜日と日曜日、カフェに花をとどけていました。店のテーブルには、いつも花束が。

 カフェは顔なじみのお客さんばかり。そしてこのへんにすんでいる人たちにとって、小さなあかりがいつもと灯っているのは、いってみれば、もう一つの家。アデルは店にやってくるお客さんのひとりひとりのことを、よく覚えていて、みんなに声をかけていました。

 みんなのくらしのなかで、アデルは太陽そのもの、きらきら輝いています。

 アデルがこまっていること、それは雨。なんにもやる気になれず、さむくて気持ちがしずみます。

 ある日、店をしめる時間に床掃除をしていると、アデルはコートかけの下に、ばらいろの長靴をみつけます。長靴の底には、太陽。

 一週間お客さんにきいても、だれのものかわかりません。

 次の水曜日、店を閉めるときに入り口のコートかけに バラ色のレインコートがかかっていました。

 次の水曜日、こんどは ばらいろのかさが。

 水曜日といえば、リュカがやってくる日。雨の日、ばらいろのかさ、レインコート、長靴でリュカをおいかけると・・・。

 アデルのカフェは、このへんでなくてはならないお店。若い二人のロマンスなのですが、こんなお店が過疎地にあったら、みんな元気になりそうですよ。


スムート

2019年09月27日 | 絵本(外国)

    スムート/文・ミシェル・クエヴァス 絵・シドニー・スミス 訳・いわじょう よしひと/BL出版/2018年

 

 絵本の着眼点もさまざま。影が、自由になれたら?

 スムートは、七歳半の男の子の影。歯をみがくのも、絵を描くのもいっしょ。
 男の子はあまり笑わないし、とんだりはねたり、いたずらもしない。だからスムートも笑ったり、色がいっぱいの楽しい夢もみることができません。

 ある日、スムートが、青い空のことを考えていると、あれっ? 男の子から はなれてしまった。

 チャンスだ! くらやみと、月明かりと、かえのパンツをもって、外にとびだした。

 スムートは、縄跳びしたり、木登りしたり、メリーゴーランドにのったり。

 楽しそうなスムートを見て、ほかの影たちは思った。
 「あのこに できるんなら」 「ひょっとして わたしたち・・・」
 いろんな影が自由にうごきはじめます。

 タンポポの影は空に、カエルの影は、マントをつけた王子さまに、トンボの影は、大きくておそろしいドラゴンに。石ころの夢は、おおきくなること。影は雲までとどくほどの立派なお城に。

 でも、スムートは心配です。もし、動物園の影たちが、町をパレードしたり、空を泳いだりしたら?

 つかまえようたってロープや網じゃ無理。するする逃げられてしまう。

 そこで、スムートは、石ころに小さなお城をつくってあげ、トンボは、お城をまもるドラゴンに・・・・。

 夢がかなった 影たちは、みんな元の場所に、かえっていきます。

 そしてスムートと男の子も・・・・。

 もし、夢や希望が、かなえられるとしたら 冒険したくなります。冒険する第一歩は、何がきっかけになるでしょうか。


忍者にんにく丸

2019年09月26日 | 絵本(日本)

野菜忍列伝其の一 忍者にんにく丸 

    忍者にんにく丸/川端 誠/BL出版/2005年

 

 川端さんの野菜忍列伝シリーズは「野菜忍列伝其の四」の「怪僧タマネギ坊」がはじめてでしたが、「忍者にんにく丸」は、シリーズの一冊めです。

 忍者にんにく丸にあたえられたミッションは、お殿様の青空晴高の娘、飛子姫を黒雲城から救出すること。

 飛子姫をかえしてほしければ国の半分をよこせといってきたのが闇雲蔵之輔。

 忍者にんにく丸は、ふくろうのホー助と黒雲城にのりこみ、姫を城の外につれだしますが、ミッションは簡単におわりません。

 敵の忍者強力麺蔵の「妖術さぬきしばり」にあって、うどんのようなものにからみとられてしまいます。

 それでもスパッ スパッと刀を振るうと、きりつければきりつけるほど、数が増えるばかり。絶体絶命に追い込まれた忍者にんにく丸でしたが、わが身をけずる必殺技「忍法おろし生にんにく」の、すさまじいにんにくのにおいで、麺は次々に気絶してしまいます。

 城でむかえたのは、師匠の冬之白斎、兄弟分のしょうが丸、そして殿さま。

 今回は何を作るか?

 みんなで焼きギョザを作るのですが、具材がやや乏しくて、思いつきませんでした。

 このシリーズ、最後にレシピがのっています。


木を植えた男

2019年09月25日 | 絵本(外国)

            木を植えた男/ジャン・ジオノ・原作 フレデリック・バック・絵 寺岡・訳/あすなろ書房/1989年

 1913年、一人の若者が、フランスプロバンス地方の山深い地域に足を踏み入れます。

 海抜1300mほどのそのあたりは、どこへいっても草木はまばら。生えるのはわずかに野生のラベンダーばかり。若者は一人の羊飼いの男にあいます。そこから一番近い村でも歩いて一日はかかります。男はきこりと炭焼きで暮らしていましたが、生活は楽ではなく、人々はいがみ合い、角をつきあわせて暮らし、彼らの願いは、ただ一つ、なんとかしてその地をぬけだすことでした。

 若者は、男はどんぐりを100粒えりわけ。そのどんぐりを、鉄棒を地面に突き立て、穴の中にどんぐりをひとつひとつ埋めていくのを見ます。

 若者が「あなたの土地ですか?」と聞くと、男は「いいや ちがう だれのものか知らないが、そんなことはどうでもいいさ」と答えます。昼の食事がおわると男は、またどんぐりをよりわけはじめます。

 男は3年前から、この荒れ地に木を植えつづけているといます。まず10万個の種を植え、そのうち芽を出したのは2万個。それでも、のこる1万本のカシワの木がねづくだろうとこたえます。

 男の名前はエルゼアール・ブフィエといい、かってはふもとに農場をもって家族と一緒に暮らしていましたが、とつぜん一人息子を失い、まもなく奥さんも失っていました。ブフィエ氏は孤独の世界にこもり、羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見出しました。でも、ただのんびりすごすより、なにかためになる仕事をしたい。木のない土地は、死んだも同然、せめて、よき伴侶をもたせなければと思い立ったのが、不毛の地に生命の種をうえつけることでした。

 第一次大戦がおわって、若者が、ブフィエ氏を再び訪れると、ブフィエは、牝羊4頭を残し、かわりに100箱のミツバチを飼っていました。羊は木の苗を食い荒らす危険があるので、飼うのをやめてしまっていました。

 1910年に植えたカシワの木は10年をこえていました。そして林は長さ11km、幅3mに及んでいました。村沿いにおりていくと、いつも干上がっていた土地には小川がながれていました

 ある年、ブフィエ氏は1万本ものカエデをうえますが、苗は全滅。一年たって、カエデはあきらめ、ふたたびブナの木をうえはじめます。

 1935年国はこの森を保護区に指定し、炭焼きのための伐採を禁止します。

 1939年、第二次世界大戦がはじまると、自動車が木炭ガスで走っていたので、森の木が切られようとしますが、そのあたりは自動車道から遠すぎて、採算があわないと森はのこります。

 はじめは荒涼とした風景のようすがつづきますが、後半では耕地や花、そして村が再興され笑いや陽気な声をあげるようすが描かれています。

 ただ一人、誰にも知られずに、黙々と木を植え続けたブフィエ氏でしたが、自分がしたことの結果を目にして1947年に生涯を閉じたことが、何よりのご褒美だったにちがいありません。

 どんなに困難なことでも辛抱強く努力を続ければ、いつか必ず成し遂げることができるという「愚公山を移す」の故事を思い出しました。

 そして宮沢賢治の「虔十公園林」も重なりました。


しあわせの石のスープ

2019年09月24日 | 絵本(外国)

しあわせの石のスープ

    しあわせの石のスープ/ジョン・J・ミュース:作・絵 三木卓・訳/フレーベル館/2005年初版

 

 石のスープといえば、マーシャ・ブラウンの「せかいいちおいしいスープ」(こみや ゆう・訳/岩波書店/2010年)を思い出します。

 「せかいいちおいしいスープ」では、三人の兵士がでてきますが、この絵本では、三人のお坊さんです。

 お坊さんたちが村の門に着くと、村人は家に隠れてしまい、でむかえてくれるひとはだれもいません。

 この村では洪水にあったり、戦争でひどい目にあったりして、よそからきたひとなんか信用できなくなっていました。畑仕事をする人、商人、学者、お医者、大工など、いろんな人がいたのですが、たがいに知らんぷりでした。

 お坊さんたちが、一軒一軒まわっても返事がありません。

 お坊さんたちは、石のスープをつくることを、おしえてやらなければと、木の枝をあつめ、火をおこし、小さな鍋をおきます。

 すると、勇気ある女の子がお坊さんに声をかけます。

 お坊さんから、まるいすべすべした石が三つ いるといわれ、女の子が石をもってくると、石は小さな お鍋に入れられます。

 それから大きなお鍋が用意され、煙があがると、あちこちの窓があき、石のスープが、どんなものかしりたくなって、村人がひとり、またひとりと外にでてきました。

 それからは、塩と胡椒、人参、たまねぎ、きのこ、うどん、さやえんどう、キャベツが、次々に鍋に入れられていきます。

 スープが出来上がると、ちょうちんのあかりのもとで、大きなテーブルを村人全員で囲みます。みんなで一緒にテーブルを囲んだのは、いったいいつのことっだか、だれもおもいだせませんでした。

 これまでたがいに交流がなかった村人たちですが、スープを協力してつくることで、これまでの垣根が取り払われました。わかちあうことが、心を豊かにすることだったのです。

 ちょっと、残念なのは、最初に「人を幸せにするものはなんでしょうか」と若いお坊さんが、一番賢いぼうさんに たずねるところがでてくること、そしてお坊さんがでてくるので、やや説教くさいところ。どううけとめるかは、読者に投げかけた方が余韻が残るのではないでしょうか。

 万里の長城が描かれていますが、作者はアメリカの方です。


かえるをのんだととさん、だんだんのみ、節分の話

2019年09月23日 | 昔話(日本)
かえるをのんだととさん  

      かえるをのんだととさん/作:日野 十成 絵:斉藤 隆夫/福音館書店/2008年

 節分の由来にかかる「かえるをのんだととさん」という話を、男の人の語りで聞いたことがありました。

 この絵本をもとにして話されていました。

 お腹が痛くなったととさんが、お寺の和尚さんに相談に行くと、「お腹に虫がいるせいだから、蛙をのむといい」と教えてくれます。蛙をのみこむと、お腹の痛いのはなおりますが、今度は、お腹の中で蛙が歩くので気持ちが悪くなり、また和尚さんに相談すると、「ヘビをのむといい」といわれます。

 ヘビの次は雉、というように前にのみこんだものを食べる動物を次々とのみこみます。その後は、雉を撃つ猟師をのみこみ、次に鬼をのみこみ、最後はお腹の中の鬼を退治するため和尚さんが「鬼はそとー」と、ととさんの口の中に豆を投げ込むと、お腹の鬼は「これは節分の豆だ。痛い痛い。たすけてくれえ」といって、尻の穴からとびだし逃げていくという落ちになっています。(絵本ナビの紹介より)。

 とくに、ととさんとかかさんのかけあいや和尚さんのとぼけた感じが面白かったことをおぼえています。
 この絵本は新潟県の昔話からとられたようでした。

 奇想天外な話なのですが、語りで聞くとすぐにひきこまれました。次から次へと飲み込むので、次は何がでてくるだろうと興味津々でした。



      だんだんのみ/長谷川摂子・文 福知伸夫・絵/岩波書店/2004年

 タイトルの”のみ”が実かとおもったら「かえるをのんだととさん」とおなじ内容でした。

 版画で描かれていますが、最後の豆はネズミが食べていました。

 「かえるをのんだととさん」の方が、知られているようですが、出版は「だんだんのみ」のほうが4年ほど前です。

 ととさの大きな口、たしかにいろいろなものを呑み込めそうです。

 

節分の由来(福岡)(日本の民話6/角川書店/1983年初版)

 絵本ほど知られてはいないと思いますが、昔話らしいお話です。

 城から城へと使いをしている状持が、化け物(鬼)に会って食われそうになりますが、この世の思い出にでっかいものに化けてみてくれと頼みます。鬼はでっかい山ほどに化けます。すると状持は、今度は小さいものに化けられるかと持ち掛けます。

 ここまでくるとおなじみのパターンです。

 豆粒くらいになった化け物を飲み込んでしまった状持でしたが、腹の中で鬼が暴れまわるので、苦しいやら痛いやら我慢できなくります。
 かねて顔見知りの和尚さんに相談すると、和尚さんは「鬼は外、鬼は外、福は内」といいながらいり豆をまきます。

 すると状持の尻がむずかゆくなり、屁が出たくてたまりません。和尚さんが遠慮なしに屁をこいてしまえというと、鬼は屁となって吹っ飛んだという結末。

 この話は、お寺の豆まきのはじまりの伝説とされていますが、まだまだ節分の話は多いのではないでしょうか。

 もっとタイトルが工夫されると、広く受け入れられるように思います。


たからげた

2019年09月22日 | 絵本(昔話・日本)

    たからげた/香山美子・文 長新太・絵/教育画劇/1998年

 

 年とったおかあと、息子が やまで たきぎをとってくらしていました。あるとき、おかあが急に弱って ねこんでしまいました。

 薬も食べ物も買うこともできない貧乏暮らしで、こまった息子は、金持ちのごんぞうおじに、すこし お金をかりようとおもいました。ところが、ごんぞうおじは、よくばりでけちんぼう。お金はかせないとけんもほろろ。

 帰り道、腰を下ろしてかんがえているうちに、いつか うとうととねむりこんでしまいます。

 するとしろい着物をきた、じいさまが めのまえにあらわれ、一本歯の下駄をだしました。

 これをはいて、ひょいところぶと、ころんだかずだけ小判がでてくるといいます。でも、ころんだかずだけ、背が すこしづつ ちぢんでしまう下駄でした。

 いそいで、いえにかえった息子が、おかあの まくらもとで、かけ声をかけて、すってん ころりんところぶと、下駄の歯から、ぴかっぴかの 一枚の小判が、とびだしてきます。

 この小判で、薬やお米、おいしい魚を、かってきて、おかあ はすっかりげんきになります。

 このあと、息子は、下駄にたよらず、せっせと働きました。

 うわさをきいた ごんぞうおじが、どたどたとやってきて、いちにちだけでいいから、かしてくれと下駄をかかえていってしまいました。

 ごんぞうおじは、庭にふろしきを しくと、すってん ころりんと ころんでみます。すると ちん ちゃりん と小判がでました。よろこんだごんぞうおじ、それから夢中で、すってん ころりん。

 なんども、ころぶうちに、小判が大判になりました。でも、それは、ころぶたんびに ごんぞうおじの背がちぢんで、小判がおおきくなっただけ。

 それでも、すってん ころりん ちん ちゃりん ところびつづけるごんぞうおじ。

 下駄をかしたむすこが、ごんぞうおじのところへきてみると・・・。

 孝行息子が下駄を使ったのは、一回きり。白い着物の じいさまの人を見る目は確かでした。

 さて、こんな下駄を手にいれた自分だったらどうか。2,3、回はつかうかな~。

 小判がびっくりするほどの山になっている場面は、人間のきりのない欲望を皮肉っているのでしょうか。

   たからげた/仲倉眉子・再話 梶山俊夫・絵/福音館書店/2000年こどもとも年少版

 

 教育画劇版より、ややシンプルになっています。

 梶山さんの絵が優しい感じです。

 この「たからげた」は岡山、福岡など西日本に広く分布しているといいます。


もちっこやいて

2019年09月21日 | 絵本(日本)

   もちっこやいて/わらべうたの「もちっこ」やいて」より/やぎゅうげんいちろう/福音官書店/2013年

 

 ばっちゃんとこでは、孫のももちゃんとゆずちゃんも一緒に、お餅を焼く準備。

 空をとんでやってきたのは、きたかぜのいちくん にーくん さぶえもん、あかおにくん。

 たぬきくんは、あんこを もってきました。

 「もちっこやいて とっくらきゃして やいて しょうゆを つけて たべたら うまかろー」

 みんな声をあわせ、てあそびしながら もちを やきます。

 しょうゆをつけるだけでなく、ピクルスのせて、チーズをのせて、あんこを のせて、やきのりまいて たべたら うまかろー
 
 いよいよ おもちが ぷっくり ふくらみ ええころかげんに やけると
 
 「あつ あつ あつ あふ あふ あふ あふあ あふあ あふあ うめー うめー うめえー うめえー」
 
 みんな 笑顔です。
 
 にぎやかに うたいながら やいて たべる お餅。おいしくないわけがありません。 

やまんばのにしき・・秋田

2019年09月21日 | 昔話(北海道・東北)

やまんばのにしき(日本の民話7/妖怪と人間/瀬川拓男・松谷みよ子・編/角川書店/1973年初版)

 この昔話のもとになったのは1958年の「秋田の民話」(瀬川拓男・松谷みよ子/未来社))。

 村人が月見をしていると、空がにわかに曇り、風が吹き雨が降り、雹までが音を立て降ってくると、「ちょうふくやまの山姥が子どもうんだで、餅ついてこう。ついてこねば、人馬ともに食い殺すどう。」と叫ぶ声。

 村じゅうは大騒ぎ。村中が米を出し合って餅をついたが、さて持っていく者がいない。白羽の矢がたったのが日頃力自慢の若者ふたり。なかなかうんといわなかったが、あかざばんばと呼ばれる婆さまが案内をかってでて、若者二人とあかざばんばが山に登ることに。

 ところが、若者ふたりは途中でこわくなって、餅をおいて逃げてしまい、残ったあかざばんばがひとりきり。ようやく山のてっぺんのこもの下がった小屋につくと・・・・。

 山姥がでてくると恐ろしいイメージがありますが、あかざばんばが21日間山姥の手伝いをすると、山姥は不思議な「にしき」をお礼にくれ、あかざばんばは無事に家に帰ります。

 村ではあかざばんばが死んだものと思って、お弔いをだしていたのですが・・・・。

 山姥からもらった「にしき」は、切っても切ってももとどおりになる「にしき」。

 村人みんなが風邪もひかず、楽に暮らしたという、ほっとする終わり方です。

 山姥は子どもを産んで、手助けがほしかったのでしょう。肝っ玉おっかさんのような山姥です。

 山姥の子どもは、熊をとってきたり、あかざばんばを背中にのせて、あっという間に村にとどけたりと、はじめはこわそうですが、おわりはとってもあたたかくなります。

 

 絵本が、松谷さんと長谷川さんの2冊ありました。        

      やまんばのにしき/作:松谷 みよ子 絵:瀬川 康男/ポプラ社/1967年

 

      てのひらのむかしばなし やまんばとがら/長谷川摂子・文/沼野正子・絵/岩波書店/2004年

 「やまんばとがら」とあったので、最初は気がつきませんでした。松谷さんの37年後に出版されています。

 がらというのはやまんばの子。生まれてすぐに四つか五つになるほどの大きさ。

 やまんばもがらもやさしく、ようやく、やまんばのところにやってきた あかざばんばに がらが、くまを かついできて、クマの肉のぞうにを はらいっぱい ごちそうします。

 あかざばんばは、七十過ぎとありますが、どうして、あかざばんばとよばれていたのか気になりました。

 再話でも作者によって、大分印象がちがいます。


女と男のちがいって?

2019年09月20日 | 絵本(外国)

    女と男のちがいって?/文・プランテルグループ 絵・ルシ・グティエレス 宇野和美・訳/あかね書房/2019年
 体のつくりはたしかにちがう。そして男は子どもを産めない。

 でも、それ以外は?

 えらい女もいれば、弱い男もいる。

 勇敢な女もいれば、おくびょうな男もいる。

 働いたりお金をかせいだりするのに、どちらがむいているということもない。

 男が、さしずするのにむいているわけではないし、女が、したがうようにうまれてきたわけでもない。

 ちがいは、男の子がえらい人になるよう育てられ、女の子は いいおくさんになるように育てられるから。

 いろいろでてきますが、ボーボワールの「女はつくられる」というのを思い出しました。

 表紙の男性はスカート、女はスーツ姿。そのほかユニークな絵もあります。

 40年前に出版されています。女性に関する変化は大きかったとはいえ、まだまだ社会的には男性優位ではないでしょうか。とりわけ日本では。

 「あしたのための本」と銘打ったスペインの絵本シリーズの1冊です。


だいじょうぶだよ、ゾウさん

2019年09月19日 | 絵本(外国)

            だいじょうぶだよ、ゾウさん/ローレンス・ブルギニヨン・作 ヴァレリー・ダール・絵 柳田邦男・訳/文溪堂/2005年

 

 おさないネズミと年老いたゾウが、大きな木の下で、なかよく暮らしていました。

  ゾウはおさないネズミをまもってあげました。山へ連れていったり、大きな湖にもつれていってあげました。

 長い人生でゾウには、いろんな人とのであいがありました。しかし、みんなとっくになくなって、とおいゾウの国に行ってしまったのです。

 いよいよ、こんどは自分のばんなのかなあ?

 ある日の夕方、水浴びからかえるとき、ゾウはいつもとちがう道にはいりました。

  「ゾウさんどこへいくの?」

 森のなか たくさんのゾウによって、ふかためられたふるい道をとおていくと、深い谷があって谷のむこうには、みわたすがぎりの森がへろがっていました。

 にいさんやねえさん、ともだちもいるという「ゾウの国」

 ところがゾウの国へいくつり橋がこわれていたのです。

 森の道をひきかえしたゾウとネズミは、まえとおなじように暮らします。

 季節がなんどもめぐり、ゾウはメガネをかけてもみえなくなり、ものごとをわすれ、せきがつづき、大好物のバナナも食べようとしなくなりました。

 ある日、ネズミはゾウの耳のそっとつたえます。

 ネズミは「ゾウの国」へいくつり橋を、ゾウにはだまって修理していたのです。

 ゾウは、こころをきめるとつり橋をわたりはじめます。

 はじめネズミは、ゾウがいなくなるのが受け入れられなかったのですが、死期が迫ったゾウのために自分ができることをし、ゾウの国へ送り出したのでした。

 生きている限り、さけられない別れをたんたんと描いています。

 最近姉がなくなったのですが、晩年はほとんど行き来がありませんでした。離れて暮らして状況がつかめず、突然の訃報にあたふたしました。

 ちゃんとつり橋をわたらせることができなかった悔いだけがのこりました。


とんでもない おいかけっこ

2019年09月18日 | 絵本(外国)

  とんでもない おいかけっこ/作・クレメント・ハード 訳・江國香織/BL出版/2006年

 

 80年近く前に発表されています。日本では戦時色一色のころです。

 紳士のつれたいぬと、ごふじんのつれたねこが、まちかどであって、
 「みゃあ」とねこがないて「うぉふ」といぬがほえて、「ぱちん」いぬがひきづなちぎり、「すわっ!」と、ねこは逃げだすと、とんでもない おいかけっこが、はじまります。

 はしごひっくりかえし、あいていたドアから家に入り、テーブルのスープをこぼし、食事中のテーブルを、めちゃくちゃにし、看護師さんがいすにつまずいてころび、ペンキ屋が足場からころげおち、パン屋のガラスをつき破って・・・。

 まだまだ、おいかけっこはつづくと思いきや、あっけなくおわり、飼い主のもとへもどります。

 赤、黄、青等の原色が効果的に使われています。

 たしかに、とんでもない出来事がつづくのですが、躍動的であるのはまちがいありません。


みんな みんな いただきます

2019年09月16日 | 絵本(外国)

    みんな みんな いただきます/パット・ジトロー・作  絵・ジル・マケルマリー・絵 アーサー・ビナード・訳/BL出版/2017年

 

 今日は感謝祭。たなから どんどんなべをだして まきを くべ オーブンをあつあつにして、料理をどんどんつくります。

 ねえさんは パンづくり。お父さんはターキー(七面鳥)を焼きます。じいちゃんはグランベリーをにて、おばあちゃんはパンプキンパイをつくります。おばさんがマッシュポテトを仕上げます。

 おじさんがリンゴジュースをもって、やってきました。

 お皿の下に敷く、ぼうしの飾りも作って、料理が全部出来上がると、みんな席について、手をつないで、お祈りです。

 「感謝します。一緒にいられることに、感謝します。家族でこの日を過ごせることに。」

 家族親戚みんなが協力して、一日がかりで、感謝祭の準備。

 感謝祭はアメリカでは11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜。

 現代の感謝祭では、宗教的な意味合いはかなり弱くなって、たくさんの親族や友人が集まる大規模な食事会で、大切な家族行事のひとつとなっているようです。

 いざ震災や台風がくると、なによりも、食べ物があり、家族がいることの大事さに気がつかされます。

 今、家族みんなで料理を囲む機会は、どれだけあるでしょうか。お盆や正月でも、みんな集まる機会も少なくなっているのでは、ないでしょうか。思わずそんなことを考えました。


きつねとかわうそ

2019年09月16日 | 絵本(昔話・日本)

           きつねとかわうそ/梶山俊夫:再話・画/福音館書店/2016年

 

 山のきつねと、かわにすむかわうそが、道でであって「ごっつおの よびあいを しねえか」となって、きつねは、かわうそいえで、やきざかなをいっぺ いっぺごちそうに。

 次の日、かわうそが、きつねのいえにいってみると、きつねは、てんじょうばっか むいて へんじもしねえし、ふりむきも しねえ。かわうそは、しかたなく うちへ かえったてや。

 次の日、きつねは、かわうそのうちで、いっぺ いっぺ ごちそうに。

 次の日、かわうそが、きつねの家に行くと、きつねは こんどは したばっか むいて へんじも ふりむきもしねえ。かわうそは、おこって、うちに、かえたってや。

 仏の顔も三度ならぬ二度。次に、かわうそは、きつねがやってくると、こんどはさかなをくわせず、川に氷がはったら、しょんべんで、あなをあけて、しっぽを つっこんでおけば ひきあげられないほど さかながとれると、はなしてやります。

 真に受けたきつねが、こおりに穴をあけ、しっぽをつっこんでいくと、川は しみしみ こおってくってや。さかなが いっぺ とれたかなと しっぽを ひきあげようとすると、なかなか、ひきあげられない。ははー、ひきあげられないほど さかなが かかったとと、ほくほくしたきつね。

 そこへ、こどもらがやってきたので、あわててにげようと、しっぽがひきあげても、こおりついていて、あげつことも、できん。

 りきんでりきんで、しっぽをひきあげると、しっぽは ねもとから ぷつんと、きれてしまった。

 昔話には、どうしても方言が欠かせません。共通語では、特有のリズムがでてこないのです。

 新潟の昔話がもとになっているようですが、岩手、青森にも同様の話があり、イソップのほか、外国にもにもみられるパターン。

 梶山さんのぴったりの絵と方言が楽しめます。