<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

成就仏身

2015年07月18日 20時29分46秒 | Weblog

毎自作是念(まいじさぜねん) 以何令衆生(いがりょうしゅじょう) 得入無上道(とくにゅうむじょうどう) 速成就仏身(そくじょうじゅぶっしん)       妙法蓮華経「如来寿量品第十六」最終章、結びの言葉 

わたし(釈迦牟尼仏)はいつもこのように念じています。どうしたら衆生(この世に生きているすべてのいのち)が無上道(仏道)を歩くようになり、皆すみやかに仏の境地に到達することができるだろうか、とこのように。

「どうか安心してください、わたしのこの念は成就をしています」

この句がこのあとに隠されています。さぶろうはそう思います。そこでこの句を加えて解釈を試みました。仏陀の念は念だけで終わるようなものではありません。仏陀の念はかならず成就しています。

衆生は無上道の第一歩を歩き出しており、ここで同時に速成就仏身を身に受けています。如来寿量品で説かれたように、わたしたちはいつも仏陀とともにいるのです。仏陀とともに永遠のいのちを生きているのです。

「わたしは仏陀である」という仏陀の悟りでは、分け隔てというものがありません。すなわち、「あなたも仏陀です」というところまで波及しています。仏陀だけが悟りを独占することがありません。悟りの功徳も独占することはありません。仏陀としての待遇を受けるのは仏陀だけではなく、すべての衆生もこれを受けています。成就仏身をしています。仏陀を仰ぎ見ることができるようになっています。仏陀が仏陀になったと同時にわれわれも即ち成就仏身になっています。分け隔てがないからです。

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川土手の鬼百合の群落

2015年07月18日 20時16分46秒 | Weblog

夕方からサイクリングに行って来ました。颯爽と風を切って。いつものように城原川の川土手の道を鉄道線路まで南下しました。鬼百合の群落が、菅生橋、八子橋、川寄橋の間の東の岸に幾つもありました。いまが真っ盛りのようでした。葦が茂っているところは確認ができませんでした。数年前からしたら、減少傾向にあるようでした。

修理したばかりの自転車の後輪がギイコンキイコン音を立てます。しばらくすると止みますが、また始まります。タイヤを擦るような音です。立ち止まって原因追及をするのですがわかりません。自転車屋の主人が、タイヤもチューブも摩耗しているから新しいのを付け替えた方がいいですよというものだから、5200円もかかって取り替えたにもかかわらずです。

汗をびっしょりかいて帰宅しました。すぐに冷水シャワーを浴びました。快適になりました。

 

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天晴れあっぱれ

2015年07月18日 17時42分30秒 | Weblog

名古屋場所は今日七日目。古参大関豪栄道が新大関照富士を破って土俵中央でひっくり返し、尻餅をつかせた。両者、引きもせず透かしもしない堂々の力勝負だった。小が大を負かすのが相撲道の醍醐味。見応えがあった。天晴れあっぱれ。

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濃淡

2015年07月18日 15時32分03秒 | Weblog

味の濃いのがお好きな方がいる。薄いのが好きだという人もいる。口にする料理だけではない。人生の幸福という料理もやはり濃淡があって、それぞれ塩をきかせたもの、砂糖甘くしたもの、ぴりぴりする辛口のもの、脂のきいたもの、酸っぱいもの、調理料なしのものなど、好みの舌に合わせて味わっているようだ。これでなければ人生を生きたことにはならぬなどという絶対尺度がない。それだけ自由だということかもしれない。

 

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四角豆が育った

2015年07月18日 15時18分14秒 | Weblog

めずらしい四角豆が育ったので、収獲して、炒めものの料理に加えて貰った。薄緑色。15cmほどの長さ。四角というよりは星形の手裏剣を思わせる。さぶろうは初めて見た。収獲したのはたったの2個だった。薄く切ってあれこれの野菜に雑ぜてあったので、箸で探すようにして、口に入れた。これが意外と柔らかで、淡泊で、おいしかった。勇気を出して作ってみるものである。

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水たまりのアメンボウ

2015年07月18日 09時24分34秒 | Weblog

百年色っぽいことがないと、人はいい加減飽きが来てこの世が疎ましくなって、土を這い出て来て、とうとう干からびたミミズになってしまう。夏場、からんからんに乾いて糸のように細くなったミミズが道に転がって死んでいる。

色事がなくったって、そりゃ、死ぬべきものは死ぬんだけれど、あれば死ぬまでの人生の湿度が適度に保たれる。

おとこはおんなの白い肌にさわりたがる。おんなはおとこにさわられたがる。性欲が濃いのや薄いの、とてつもなく淡泊なのや、いちじるしく欲深なのもいるから、百人百様。

さわりたくもない、見たくもないという高潔の士もいるし、さわられたくもない、想像するだけでも身の毛がよだつという淑女もいて、十把一絡げの公式にはあてはまらないのだが。

ロマンスはあったほうがいい。これがないとおとこはおとこでいられないし、おんなもおんなではいられない。

おとことおんなとふたりいてロマンスがめばえるが、もちろんめばえないこともある。その場合は、おとこはそのおんなにとってはおとこと映ってはいないのである。おとことしてそこに存在している意味はないのである。

仄かでいい。色濃くなくていい。化粧の匂いを楽しみだけでもいい。寄り添わなくともいい。触れ合わなくてもいい。無言であってもいい。異性の存在を確かめているだけでもいい。そういうカップルもいるのかもしれない。

おとこ無用、おんな無用であれば、この世の人はすべからく無性であってもいいことになる。性器も持たないですむ。

なりなりてなりたらぬものと、なりなりてなりあまるものとが一つになるとそこでやっとプラマイナスがゼロになる。互いに互を得て両性にアドレナリンが放出される。

他者を得てそこではじめて完結するように仕組まれているのであれば、他者の存在は大きな存在になる。貴重な存在感を持つようになる。一人の不完全が癒やされる。

今日はこんなことを考えた。テレビドラマも映画もおとことおんなで成り立っているのが不思議に思えたからだ。

 

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ドラマ好きなおんなのための

2015年07月18日 09時06分28秒 | Weblog

ドラマ好きのおんなのためのおとこらは水たまり場のアメンボウのよう    薬王華蔵

おんなというのはドラマが大好きで手に入れたドラマをネタに井戸端会議をしている。ドラマに欠かせないのはおとこという生き物である。よんべは抱かせてあげたのよ、髪の毛から足先まで、そりゃあんた、単純なおとこはそれでよろこんで、撫でるわ嘗めるわ擽るわ。朝になったら、ほら、そこの水たまりにアメンボウのように遊んでいるのよ。

世の中におとこがいなかったら、おんなは人生のドラマがつくれない。おとこだってそうかもしれないが、世の中を楽しむ術に長けているのは、そりゃ、やっぱりおんなだろう。お喋りがお喋りを呼んで来て毎日毎日ドラマの楽しみがとぎれない。

 

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青々とした夏空が広がる

2015年07月18日 08時41分46秒 | Weblog

東から昇る日の光さん、あなたのお陰でこんなに明るい清々しい朝が来ています。どちらさまもおはようさんです。

今朝は微風だにありません。胡瓜の黄色い花が朝日を浴びておだやかそのものです。気温も下がってひんやりしています。

空は夏空。青々と澄み渡っています。空の一丁目辺りには綿のような雲がひとひらふんわり浮いています。

空の奥処の宮殿では神様方がことのほか平和に暮らしておられるさまが偲ばれて、なんだか嬉しい気持ちを誘われます。

近くの椎の木の林ではみんみん蝉がせわしく鳴いています。

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