仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

愚かな母よ

2012年04月15日 | 日記
仙台のホテルロビーに『合同歌集東日本大震災の歌』(宮城県歌人協会出版)という分厚い本が置かれていました。

宮城県歌人協会(徳山高明会長)が昨年夏、震災を題材にした歌の募集を県内の会員歌人や短歌愛好者に呼び掛け、寄せられた作品集で、1人7首を募集し、県内全域(一部県外)の377人から約2630首が集まったとあります。時間のないままに50項くらいまで目を通しました。

悲しみの中にある光景が、さまざまの言葉で表現されていました。

波に消えし子の名 呼ばれてハイと言う胸に遺影の入学式の母
揚妻和子(仙台市泉区)

死別の体験を経て、おそらくひと月後の入学式、母親にとって子の名は、子の全存在の表現にほかなりません。

第「九十二番」安置所に並べられゐる骸のひとつ
渥美桂子(石巻市)

死別の悲しみの中で、人の感情は擦り切れ、悲しみの感情さえ喪失するということがあります。骸を物を指摘する言葉である九十二番で表現しているところに、悲しみの深さがあります。

次の句は、帰り際に書き留めたので、名前まで書留めることができませんでした。

「友子ちゃん起きて」と柩の中の娘の動くを待ちいる愚かな母よ

わが子に対面する母の姿は、他人には愚かに見えるほど愚直に見えることがあります。母ゆゑに、わが身のことより、わが子への思いに身を挺する。“愚かな母よ”の言葉に涙が誘われます。

思えば、わが弥陀も、真如の覚りの姿をすてて、愚直なる声の仏となって、私の上に至り届いています。親の愚かさは慈愛の深さでもあります。
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