新美南吉と私、と言ってもご本人と会ったことがあるわけではないのですが、今年生誕100年を記念して、南吉作品のロシア語・ベラルーシ語翻訳に関わったというご縁と、先日読売新聞から取材de質問を受けては返しているうちに、こんなタイトルの記事を書きたくなりました。
ベラルーシで南吉童話を翻訳して広めています、などと言うと、元から新美南吉の大ファンだった日本人なのだろうと、思われがちですが・・・すみません。日本に住んでいた間の20年余り、新美南吉の作品は「ごんぎつね」と「手袋を買いに」しか読んだことがありません・・・。
今ごろになって「どうしてたったの2作品しか読んでないのだろう。」とか「感性豊かな子ども時代に南吉童話をもっと読んでおけばよかった。」とか考えてしまいました。
実は私は子どものころから現在に至るまで、宮沢賢治の大ファンなのです。
小学6年生のとき、学校図書館に宮沢賢治全集が入るやいなや、全巻読破しました。家にも宮沢賢治の本があったし、「銀河鉄道の夜」がアニメ化されると、映画館まで見に行きました。大人になった今でも何回も読み返しています。宮沢賢治の本はベラルーシにも持って行きましたよ。
しかし、新美南吉は・・・確か小学校低学年のころ、おそらくそのとき購読していた子ども向け雑誌のお話のページに「手袋を買いに」が載っていたのを読んだのが人生初めてで、その後4年生の教科書で「ごんぎつね」を読んで・・・ちょうどそのころ学校の体育館で「ごんぎつね」のアニメが上映されたので、それを見て主題歌のサビのところだけが記憶に残っている・・・という有様です。
宮沢賢治には熱中していたのに、同じように図書館にあったはずの新美南吉はどうして読んだことがないのでしょう・・・。
我ながら不思議に思い理由を考えてみました。
それで分かったのは、「賢治にはうっとりできるけど、南吉にはできないから」ということに気がつきました。つまり
「ああ、私も銀河鉄道に乗って宇宙を旅したい・・・。」
とうっとりできるけれど
「ああ、私も栗をこっそり誰かにあげたい・・・。」「一人ぼっちで夜遅く手袋を買いに行きたい・・・。」
とは思わないし、うっとりできないのです。
そして賢治の作品に出てくる登場人物の名前・・・「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ゴーシュ」「オッペル」「グスコーブトリ」「クラムボン」(←これって登場人物だっけ?)(^^;)
でもって舞台はイーハトーブ!
カタカナが多くて外国みたい! 夢の世界そのもので、うっとりしてしまう。
しかし南吉作品の登場人物で、カタカナの名前の人っていたっけ??? 兵十に加助に弥助、吉べえさん・・・ 舞台はどこか日本の田舎の村・・・
だめだ・・・。うっとりできない・・・。
というわけで、私は新美南吉の本を進んで手に取ることはなかったのです。
これは別に「うっとりできる宮沢賢治作品がすばらしくて、うっとりできない新美南吉作品はだめ。」と言いたいわけではありません。
単に子どものときの私は、うっとりできる夢の世界が書いてある童話が好きだった、というそれだけのことなのです。
大人になった今は新美南吉の「久助君もの」をとても興味深く読んでいるのですが、もし子どもの時にたまたま「久助君」に出会っていたとしても、今の私のようにおもしろいとは感じなかったでしょう。
このように「ごんぎつね」も「手袋を買いに」は好きな話だったけれど、他の作品を探して読むことはないまま小学校を卒業しました。
当然子どものころは作者の名前が新美南吉である、というのは教科書で習って知っているけれど、その人がどんな顔しているのか、どんな人生を送った人なのか、全く興味もなく知らないままでした。
宮沢賢治の顔はちゃんと知っているのに、新美南吉の顔も知らないままだったのです。
やがて中学に入学した春。
国語の教科書の副教材として「国語資料総覧」という資料集が学校で配られました。
この資料集が優れもので、教科書よりずっとおもしろいので、ベラルーシにも持って行き、現在に至るまで仕事の役に立っているほど愛用しています。
そして、その資料集に
「ま、日本人なら常識としてこれぐらいの文学者の名前と代表作ぐらいは覚えておきなさいよ。」
という感じで、夏目漱石やら森鴎外やら文学者の紹介がずらっと並んでいるページがあるのです。
その中に、新美南吉がおりました。そのとき私は人生で初めて、新美南吉の顔というものを見たのです。
資料集のそのページをスキャンしたので、見てください。
最初の感想は
「若いなあ。」そして「こんな写真じゃあんまり顔が分からん。集合写真を切り取って無理やり載せた写真だな。もっとましな写真を撮る機会もなかった人なのか。」
・・・というものでした。
そのとき初めて、30歳ぐらいで若死にした人なんだと知り、「だから年取ったときの写真なんてないんだな。」と思いました。
この資料集に載っている他の文学者の中で新美南吉より若く死んだのは、樋口一葉だけ。
童話作家で載っているのは、南吉さんと宮沢賢治ぐらいです。
しかし、「有名な作品だから読みましょう」と言う感じで紹介されているのが「おじいさんのランプ」でこのイラストですよ。
同じ資料集でも宮沢賢治のほうは「銀河鉄道の夜」なので、だめだ、やっぱり「おじいさんのランプではうっとりできない」私は、中学生になっても全く新美南吉を読むことはありませんでした。
それにこの資料集の作者紹介の文章中に「ユーモアの漂う独自の世界を展開した。」とか書いてあるけど、私が読んだことのある「ごんぎつね」と「手袋を買いに」にユーモア漂う世界は感じなかったので、この文章を書いた人に対して違和感を感じました。紹介されている「おじいさんのランプ」にもタイトルからして、このイラストからしてユーモアが漂っている感じがさっぱりしなかったのです。
こうして新美南吉作品に触れることなく大人になってしまいました。
ベラルーシで南吉童話を翻訳して広めています、などと言うと、元から新美南吉の大ファンだった日本人なのだろうと、思われがちですが・・・すみません。日本に住んでいた間の20年余り、新美南吉の作品は「ごんぎつね」と「手袋を買いに」しか読んだことがありません・・・。
今ごろになって「どうしてたったの2作品しか読んでないのだろう。」とか「感性豊かな子ども時代に南吉童話をもっと読んでおけばよかった。」とか考えてしまいました。
実は私は子どものころから現在に至るまで、宮沢賢治の大ファンなのです。
小学6年生のとき、学校図書館に宮沢賢治全集が入るやいなや、全巻読破しました。家にも宮沢賢治の本があったし、「銀河鉄道の夜」がアニメ化されると、映画館まで見に行きました。大人になった今でも何回も読み返しています。宮沢賢治の本はベラルーシにも持って行きましたよ。
しかし、新美南吉は・・・確か小学校低学年のころ、おそらくそのとき購読していた子ども向け雑誌のお話のページに「手袋を買いに」が載っていたのを読んだのが人生初めてで、その後4年生の教科書で「ごんぎつね」を読んで・・・ちょうどそのころ学校の体育館で「ごんぎつね」のアニメが上映されたので、それを見て主題歌のサビのところだけが記憶に残っている・・・という有様です。
宮沢賢治には熱中していたのに、同じように図書館にあったはずの新美南吉はどうして読んだことがないのでしょう・・・。
我ながら不思議に思い理由を考えてみました。
それで分かったのは、「賢治にはうっとりできるけど、南吉にはできないから」ということに気がつきました。つまり
「ああ、私も銀河鉄道に乗って宇宙を旅したい・・・。」
とうっとりできるけれど
「ああ、私も栗をこっそり誰かにあげたい・・・。」「一人ぼっちで夜遅く手袋を買いに行きたい・・・。」
とは思わないし、うっとりできないのです。
そして賢治の作品に出てくる登場人物の名前・・・「ジョバンニ」「カムパネルラ」「ゴーシュ」「オッペル」「グスコーブトリ」「クラムボン」(←これって登場人物だっけ?)(^^;)
でもって舞台はイーハトーブ!
カタカナが多くて外国みたい! 夢の世界そのもので、うっとりしてしまう。
しかし南吉作品の登場人物で、カタカナの名前の人っていたっけ??? 兵十に加助に弥助、吉べえさん・・・ 舞台はどこか日本の田舎の村・・・
だめだ・・・。うっとりできない・・・。
というわけで、私は新美南吉の本を進んで手に取ることはなかったのです。
これは別に「うっとりできる宮沢賢治作品がすばらしくて、うっとりできない新美南吉作品はだめ。」と言いたいわけではありません。
単に子どものときの私は、うっとりできる夢の世界が書いてある童話が好きだった、というそれだけのことなのです。
大人になった今は新美南吉の「久助君もの」をとても興味深く読んでいるのですが、もし子どもの時にたまたま「久助君」に出会っていたとしても、今の私のようにおもしろいとは感じなかったでしょう。
このように「ごんぎつね」も「手袋を買いに」は好きな話だったけれど、他の作品を探して読むことはないまま小学校を卒業しました。
当然子どものころは作者の名前が新美南吉である、というのは教科書で習って知っているけれど、その人がどんな顔しているのか、どんな人生を送った人なのか、全く興味もなく知らないままでした。
宮沢賢治の顔はちゃんと知っているのに、新美南吉の顔も知らないままだったのです。
やがて中学に入学した春。
国語の教科書の副教材として「国語資料総覧」という資料集が学校で配られました。
この資料集が優れもので、教科書よりずっとおもしろいので、ベラルーシにも持って行き、現在に至るまで仕事の役に立っているほど愛用しています。
そして、その資料集に
「ま、日本人なら常識としてこれぐらいの文学者の名前と代表作ぐらいは覚えておきなさいよ。」
という感じで、夏目漱石やら森鴎外やら文学者の紹介がずらっと並んでいるページがあるのです。
その中に、新美南吉がおりました。そのとき私は人生で初めて、新美南吉の顔というものを見たのです。
資料集のそのページをスキャンしたので、見てください。
最初の感想は
「若いなあ。」そして「こんな写真じゃあんまり顔が分からん。集合写真を切り取って無理やり載せた写真だな。もっとましな写真を撮る機会もなかった人なのか。」
・・・というものでした。
そのとき初めて、30歳ぐらいで若死にした人なんだと知り、「だから年取ったときの写真なんてないんだな。」と思いました。
この資料集に載っている他の文学者の中で新美南吉より若く死んだのは、樋口一葉だけ。
童話作家で載っているのは、南吉さんと宮沢賢治ぐらいです。
しかし、「有名な作品だから読みましょう」と言う感じで紹介されているのが「おじいさんのランプ」でこのイラストですよ。
同じ資料集でも宮沢賢治のほうは「銀河鉄道の夜」なので、だめだ、やっぱり「おじいさんのランプではうっとりできない」私は、中学生になっても全く新美南吉を読むことはありませんでした。
それにこの資料集の作者紹介の文章中に「ユーモアの漂う独自の世界を展開した。」とか書いてあるけど、私が読んだことのある「ごんぎつね」と「手袋を買いに」にユーモア漂う世界は感じなかったので、この文章を書いた人に対して違和感を感じました。紹介されている「おじいさんのランプ」にもタイトルからして、このイラストからしてユーモアが漂っている感じがさっぱりしなかったのです。
こうして新美南吉作品に触れることなく大人になってしまいました。