ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ロシア語翻訳プロジェクト「この星が絵でうめつくされたら」

2016-12-06 | 日本文化情報センター
 日本文化情報センターは絵本「この星が絵でうめつくされたら」稲吉紘実著(フレーベル館)をロシア語に翻訳するプロジェクトに協力することになりました。

 日本文化情報センターの日本語教室(日本語文化愛好家クラブ)のメンバー24名と私が手分けして翻訳、校正を行う予定です。 そのほうが早くできるだろう、という予想と、そして1人でも多くの生徒に翻訳の練習をしてもらいたかったため、このような共同作業の形で進めることにしました。

 この24名は日本語を勉強し始めて、2年から4年という生徒です。
 現在99%が完成しました。今週中に関せ下翻訳を出版社に送付します。
 来年夏までをめどにロシア語版が出版される予定だそうです。

 また後日詳細をこのブログ上でご報告しますね。


 

ノーベル賞作家アレクシエービッチが来日公演

2016-12-05 | ベラルーシ文化
 ベラルーシのノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチが来日しました。
 そのときの記念講演やインタビューについて調べましたので、ここでご紹介いたします。

「原発事故は新しい形の戦争だ」 ノーベル賞作家 アレクシエービッチさん 東大で講演

 「国は人命に全責任を負うことはしない」 アレクシエービッチさん、福島で思う

「チェルノブイリと同じ」=福島の印象、ノーベル賞作家語る-東京外大

ノーベル賞作家“被災”語り継ぐ大切さ訴え


日本語能力試験受験者への交通費支援活動

2016-12-04 | チロ基金
 毎年7月と12月の第1日曜日に国際交流基金主催の日本語能力試験が世界各地で一斉に実施されます。
 しかしベラルーシでは日本語学習者数そのものが少なく、試験会場になったことはありません。
 したがって越境して受験しなくてはいけませんが、試験会場となる都市までの交通費がベラルーシ人受験者の大きな負担となっています。

 チロ基金は1998年から日本語能力試験受験希望者で、日本文化情報センター所有の日本の絵本を日本語からロシア語あるいはベラルーシ語に翻訳してくれたベラルーシ人の日本語学習者に、受験地までの交通費を支給する活動を行っています。

 試験会場に指定されており、べラルーシから近くてベラルーシ人がビザなしで入国できる国はロシアとウクライナです。
 そこでミンスク・モスクワ間(1998年以降現在まで。)、あるいはミンスク・キエフ間(2011年から2013年まで。2014年以降は中止。)の列車往復代を支援しています。

 2016年はのべ6名のベラルーシ人が絵本の翻訳作業をし、このうち3名が7月に、さらに2名が12月に受験しました。

 2016年度の翻訳絵本の画像はこちらの日本文化情報センターのサイトでご紹介しています。

 絵本を寄贈してくださった日本人の方々に厚くお礼申し上げます。
 上記のサイトはロシア語ですが、画像で翻訳された絵本の表紙を見ることができます。

 日本文化情報センターとしては、翻訳された絵本の数が増えて大変助かっています。すでに約100冊の日本の絵本がベラルーシの子ども達に読まれています。

 現在までの交通費支援者数はこのとおりです。 

1998年度 4名
1999年度 7名
2000年度 8名
2003年度 1名
2004年度 1名
2007年度 4名
2008年度 6名
2010年度 1名
2011年度 2名
2012年度 3名
2013年度 4名
2014年度 3名
2015年度 4名
2016年度 5名

 今までで合計53名(のべ人数)の受験者に交通費を支給しました。

 最後になりましたが、今年モスクワで受験した5名のための往復列車代をチロ基金を通じ支援して下さった日本人の協力者様、本当にありがとうございました。

 日本語能力試験を受験した人たちが、学んだ日本語を生かして、将来日本とベラルーシを結ぶような仕事をしてくれたら・・・といつも願っています。


(絵本の翻訳活動についてはHP「ベラルーシの部屋」内のこちらのページをご覧ください。ただし、内容は98年度のものだけです。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no1/no1.html


(過去の日本語能力試験受験者への交通費支援活動についてはHP「ベラルーシの部屋」内のこちらのページをご覧ください。ただし、内容は2003年、2004年のものだけです。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/japanese.html


(日本語能力試験についてはこちらの公式サイトをご覧ください。)

http://www.jlpt.jp/


プルジャヌィ児童図書館で「ごんぎつね」が紹介されました

2016-12-02 |  新美南吉
 先日新美南吉ロシア語童話集「ごんぎつね」を寄贈したプルジャヌィ児童図書館から、地元の子どもたちに南吉童話について紹介してほしいと依頼されました。
 正直言って寄贈するまで「プルジャンヌィってどこにあるの? ルジャンヌィなら知っているんだけど。」という低レベルの知識だった私ですが、電車を乗り継ぎ行ってきました。

 プルジャンヌィはブレスト州にあり、意外と歴史のある町でした。1487年には街として機能しており、16世紀にはイタリアの王族の血を引き、ポーランド国王と結婚したボナ・スフォルツァの統治下にありました。
 その娘アンナはポーランド・リトアニア共和国の女王になりますが、プルジャヌィの町の紋章として、母方の実家であるスホルツァ家の紋章に少し手を加えたものを与えました。
 要するに今はベラルーシにある町、プルジャヌィですが、中世にはイタリア貴族の流れを汲む紋章をもらっていたということです。

 これがその紋章なのですが、最初見たとき「どうしてこういうデザインなの?」と思う紋章ナンバーワンです。(私の中で。)
 イタリア王族、そしてポーランド・リトアニア共和国の女王ゆかりの紋章なので、蛇の頭の上に王冠が載ってるのは理解できるのですが、この飲み込まれている人は・・・「赤ちゃん」だそうです。

 難しすぎる、スフォルツァ家の人々・・・。
 
 気になったのでごんぎつねそっちのけで、今調べたのですが、もともとこの蛇の紋章はイタリアのヴィスコンティ家の紋章に使われており、親戚の関係であるスフォルツァ家も少々デザインを変えて使うようになりました。
(日本でも分家が本家の家紋の陰紋を使うことがあったのと同じような感覚ですね。)

 このヴィスコンティ家の紋章に描かれているのは大蛇あるいは竜だそうですが、は、昔ヴィスコンティ家の人が竜に襲われそうになっている子供を助けたという話に由来しているという説があるそうです。
 やっぱり子どもなんですね。そして助かっていたんだ。よかった。

 もう一つの説は、また飲み込まれているのは子どもではなく回教徒であるサセラン人で、竜はヴィスコンティ家の祖先の化身であるとする言い伝えもあるそうです。
 先祖が異教徒を食べちゃっている図、ですね・・・。
 
 さらにはこの大蛇は旧約聖書に出てくるレヴィアタンと同じ、という説もあります。
 (私の頭の中ではレヴィアタンは、水木しげる先生が描いていたワニみたいな妖怪・・・。)

 話をごんぎつねに戻します。
 プルジャヌィには3つの図書館があり、そのうちの児童図書館の司書さんの依頼により、3年生と6年生の40人ほどの小学生に新美南吉の紹介、「ごんぎつね」のロシア語訳の朗読、それからきつねの折り紙を作りました。
 その前には館長さん自ら日本についての説明をしてくれました。
 よく分かったのはベラルーシ人の子どもはみんな日本のアニメが好きだということ、でも地震や津波は怖いと思っていることでした。

 すでに本を寄贈していたので、「ごんぎつね」を読んでいた人もいましたが、今回初めて朗読を聞く子どもが多く、兵十が火縄銃を出したあたりから、みんなすっかり静まり返ってしまっていました。
 多くの子どもが「ごんが死んじゃってかわいそう。」と話していましたが、担任の先生は、この話が日本の小学校4年生の国語の教科書に載っているという話を聞いて、
「10歳の子どもにこの話の内容は難しすぎる。」
と言っていました。
 言い換えれば、日本の小学生4年生のレベルは高い、と褒めています。

 ごんが死んでしまってしょんぼり、でしたが、折り紙できつねを作ったら、みんなにこにこしていました。
 3年生は早めに帰ったのですが、6年生の女の子たちにきつねの折り紙に名前を日本語で書いてあげたら、大喜びで日本語を勉強して日本に行きたい!と大騒ぎでした。

 会場にはちゃんと南吉さんの写真も飾られていました。
 日本の方が作ってくれた立体折り紙のふくろう、ロシア語で書かれた日本を紹介する雑誌などもこの図書館に寄贈しました。折り紙のふくろうを作ってくださった方に感謝しております。またベラルーシの図書館に羽ばたいていきました。
 
 今回の朗読会ですがプルジャヌィの皆さんに喜んでもらえてたようでよかったです。
 南吉さんの生家の生業である下駄や畳(と言っても本物ではなく、ランチョンマット)も見せながら説明しましたが、下駄イコール木の靴、と思ったらしく、みんなびっくりしていました。叩いて硬さをチェックする人もいました。

 司書さんたちと話し合って、プルジャヌィ周辺の図書館にも「ごんぎつね」を寄贈することになりました。
 
 意外と大都市より、地方都市のほうがベラルーシ人は外国文化に対して心を開いている場合が多いですよ。

 この図書館で「ごんぎつね」を初め、他の南吉童話にも地元の子どもたちが触れてほしい、いや、そうなるだろうと思いました。
  

ビテプスク市立第9番図書館で新美南吉の童話が紹介されました

2016-11-30 |  新美南吉
 新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」を寄贈したビテプスク市立第9番図書館で11月25日、新美南吉童話が紹介されました。
 こちらがその図書館のHPです。ぜひご覧ください。
 記事はロシア語ですが画像が見られます。

 私は出席しておらず、図書館司書さんたちと学校の先生が中心になって企画したそうです。
 「でんでんむしのかなしみ」「あめ玉」「ごんぎつね」が朗読され、子どもたちが「二ひきのかえる」の劇を披露しました。かえるのお面が楽しいですね。
 さらに手袋の形をした紙にそれぞれ感想を書いたそうです。

 この記事を書いた司書さんは
「新美南吉の作品は一見すると、短いお話のように思えるが、読んでみると奥が深いことが分かる哲学的な文章。」
と感想を述べています。
 さらにロシア語訳の最後のほうに新美南吉が1942年7月10日書いた日記からの抜粋をロシア語に訳して掲載したのですが、それを司書さんはそのまま引用していました。

 抜粋というのはここの部分です。
「よのつねの喜びかなしみのかなたに、ひとしれぬ美しいもののあるを知っているかなしみ。そのかなしみを生涯うたいつづけた。」

 この本を翻訳作業中、作品だけではなく、南吉童話そのものの特徴を簡潔に表現したものはないかと探していました。
 結局ご本人の言葉を日記から見つけてロシア語に訳した(ちなみにこれを翻訳したのは私です。)のですが、それが司書さんの心に響いたようでうれしいです。

 ベラルーシに少しずつ南吉童話の世界が広がっていくようで、本当によかったです。
 子どもたちも楽しいひと時を図書館で過ごせたのでは、と思っています。

新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」寄贈先一覧(中間報告 ベラルーシ国内)

2016-11-30 |  新美南吉
 現在新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」をベラルーシ国内、そして旧ソ連各地の図書館や学校に寄贈しています。
 最終報告は来年になり、現時点では中間報告になりますが、ベラルーシ国内での寄贈先をご報告します。

<ミンスク>
日本文化情報センター
ミンスク市立児童図書館全館。(18箇所)
ベラルーシ国立図書館
ベラルーシ国立学術技術図書館
ミンスク市立第190番学校
ミンスク市立第134番学校
ミンスク市立第19番ギムナジア

<バラノビッチ>
バラノビッチ市立の全ての図書館

<べリョーザ>
べリョーザ市立第3番学校

<ボロブリャヌィ>
SOS子ども村母子ソーシャルセンター図書貸し出しコーナー

<ブレスト州>
プルジャヌィ児童図書館
ルジャヌィ児童図書館

<ビテプスク>
ビテプスク市立外国文学図書館
ビテプスク市立中央図書館
ビテプスク市立図書館 全8館
ビテプスク市立児童図書館 全6館

<グロドノ>
グロドノ市立中央児童図書館
グロドノ市立図書館 全7館

<グロドノ州>
マリ村立小学校
オストロベツ市立第1番ギムナジア

<カリンコビッチ>
カリンコビッチ市立第3番学校

<モロジェチノ>
モロジェチノ市立中央図書館
モロジェチノ市立図書館 全2館
モロジェチノ市立図書館「ベラソーク」
モロジェチノ市療養所学校

<モロジェチノ地区>
チスチ村立図書館
ラドシコビチ村立図書館

<オルシャ>
オルシャ市立中央図書館

<オシミャヌィ>
オシミャヌィ市立児童図書館
オシミャヌィ市立図書館 全2館

<オシミャヌィ地区>
パリャヌィ村立伝統文化部図書室
(このほかこの地区内の図書館15館)

<ポーロツク>
ポーロツク市立第3図書館

<スベトロゴルスク>
スベトロゴルスク市立中央児童図書館
スベトロゴルスク市立児童図書館(全2館)
スベトロゴルスク市立中央図書館

<スルーツク>
スルーツク市立児童図書館

<ストルブツィ>
ストルブツィ市立児童図書館


 近日中に旧ソ連の寄贈先図書館を追加して発表します。

ベラルーシ大学女性評議会主催の国際文化フェスティバルに参加しました (5)

2016-11-29 | 日本文化情報センター
 インド代表の方です。インド大使館が連れてきていただけあって、民族舞踊のレベルがものすごく高い。
 (この人の出番の後に「あんたは日本の踊りを踊れ、日本人なんだから踊れるだろう。」と言われたら、泣いてしまう。)

 全てがとにかく美しかったです、インド。
 こうして国のイメージをよくしていくわけですね。
 
 日本文化情報センターは日本外務省から言われて、ベラルーシに開設したセンターではないのですが、もうちょっと何かできないものかと考えてしまいました。
 そういう視点からすると、このフェスティバルに出席して、いろいろ勉強になってよかったです。

 ベラルーシ大学に留学している日本人留学生もがんばってほしい、と思ったのですが(中国人留学生なんて、アイドルグループ結成できるんじゃないかと思うぐらい大勢が参加。)実際問題としてどうかなあとも思います。

 私もウラジオストックの大学に留学していたときにやっぱり、こういう留学生が自分の国の文化を他の国の人たちに紹介する、というイベントがあったのですが、日本人は消極的なんですよね。
 中には「自分はロシア語を勉強するためにロシアに来たんだ。留学生活の時間は限られている! 日本文化の紹介のためにここに来たんじゃない!」と主張し、こういうイベントに絶対不参加の人もいました。

 留学する前に斡旋業者のほうから、「留学中、日本文化を紹介するイベントに呼ばれるでしょうから、何か適当に用意しておいてください。」と言われていたら、まだ準備のしようもあるんですがね。
 確かに急に「何かやれ、日本のことだったら何でもいい。日本人だからできて当たり前だろう。」とロシア(あるいはベラルーシの)大学から言われると、たいていの日本人留学生は、戸惑ってしまいます。

 何か和風のお稽古事ができる人だったらいいんですが、それでも例えば三味線弾けます、という人でも、ロシア語の留学先に三味線を持って行くかどうかとなるとまた別問題です。

 日本人はシャイな人も多いし、準備もできていないことを急にやれと言われると、逃げてしまうんでしょうね。
 その結果、消極的に見られがちです。

 ・・・というようなことをいろんな国の参加者の皆さんの芸達者な様子を拝見しながら、考えていましたが、ふと本当は日本の教育が悪いのではないか? と思うようになりました。

 日本人の子どものお稽古事もピアノやサッカーなど洋風なものが多くて、和風なものは少ないと思います。
 もちろん義務教育の授業で、民族舞踊や民族楽器などを徹底して教えるという科目はないです。

 グローバル化とか、言われていて小学校で英語教育に力を入れようなどと言う教育方針が最近目立ちますが、言葉だけじゃダメで、外国へ留学したときにこういうインターナショナルなイベントにさっと参加して、日本文化のよいところを披露できることも、必須なのではないかと、今日思いました。

 もっと日本人らしい日本人という人材のほうがグローバル社会で活躍できるように思います。
 そうなるには、日本の伝統を子どものうちから義務教育で教えておくのが一番よい方法です。

 ・・・というような私の意見を日本文科省が聞いてくれるとも思わないのですが(ま、自分のブログに書いとこ。)

 そういう考えなので、我が家では子どもにベラルーシの民族楽器を習わせております。(そういう課外授業がある学校を選んで、わざと入学させた。)
 それからお稽古事でベラルーシ民族舞踊も習わせております。
 よく考えたら、うちの子、ベラルーシ人じゃないんですが(^^;)ベラルーシ生まれのベラルーシ育ちなんで・・・。
 今本人に尋ねたら「私はベラルーシ人じゃない。」という答えが返ってきました。
 「半分ウクライナ人で半分日本人。」と、もしきかれたらそう答えておるそうな。
 「でもあなた、ウクライナ語できないし・・・」と私が小さい声で言うと「だから何?」と言われてしまった。

 とにかく何かかくし芸ができる人のほうが、グローバル社会で活躍できますよ。(^^;) 

  
 
 
 



 

 

 



 

ベラルーシ大学女性評議会主催の国際文化フェスティバルに参加しました (4)

2016-11-29 | 日本文化情報センター
 光が足りず、いい写真になりませんでしたが、カザフスタン大使館の出席者です。
 個人的にはカザフスタンの民族衣装がエレガントで素敵だなあと思いました。
 ちょっとしたパーティーにも着ていけますね。
(さすがにベラルーシの民族衣装を着て、パーティーとか結婚式とか出ると浮きそうです。もっとも新郎新婦、出席者全員ベラルーシの民族衣装着用するという、完全ベラルーシ風披露宴、というものもたまにあります。)

ベラルーシ大学女性評議会主催の国際文化フェスティバルに参加しました (3)

2016-11-29 | 日本文化情報センター
 こちらはウクライナ代表の方。ウクライナ語の歌を歌ってくれました。
 こういう姿を見ていると、そして先ほどのベラルーシの民族衣装を見た後だと、同じスラブ民族といっても、ずいぶんちがうなあ、と思わざるをえません。
 (つまり民族ごとにそれぞれ特徴があるということ。)

ベラルーシ大学女性評議会主催の国際文化フェスティバルに参加しました (2)

2016-11-29 | 日本文化情報センター
 せっかくなので、画像を投稿します。
 こちらはベラルーシ大学文学部の学生の有志のみなさんによるベラルーシ民謡サークル。

ベラルーシ大学女性評議会主催の国際文化フェスティバルに参加しました (1)

2016-11-29 | 日本文化情報センター
 2016年11月29日ベラルーシ大学で開催された国際文化フェスティバルに日本文化情報センター代表として参加しました。
 
 予定では16カ国が参加するとのことでしたが、チェコとアゼルバイジャンは不参加でした。
 国の選び方ですが、ベラルーシ大学にその国からの留学生がいるかどうかという点で決めたようです。もちろん主催国のベラルーシも参加しています。
 日本からもベラルーシ大学に留学している人がいますから、日本も参加国の一つに選ばれたのですが、他の国からの参加者は、大使館員やベラルーシ大学で主に外国語を教えている先生が出席していました。
 でも日本大使館からは出席者はいませんでした。代わりに私が呼ばれたみたいな形になりました。
 そして他の国からは留学生たちが、歌ったり、民族舞踊を踊ったり、民族楽器を弾いたり、とその国らしいものを披露。
 しかし日本人留学生は1人もいませんでしたし、出演もしませんでした。
 前もって分かっていたら、私が何かしていたかもしれないのですが(うーん、でも歌もうまくないし、和楽器が弾けるわけでもないしなあ。)結局、各国が用意していた展示コーナーを準備するだけに終わってしまいました。
 (この画像の後ろに写っているのが、「日本」の展示コーナーです。)
 
 ベラルーシ大学女性評議会からは「必ず着物を着て来てください。」と言われていたので、それはちゃんとしましたが、会場が劇場ではなく大学だから、まともな楽屋(着替える場所)もないだろうなあーと予測し、家で着物を着たのです。
 そして今ベラルーシはすでに雪の季節。アスファルトの上に雪や泥がいっぱいなので、洗える着物にしなくちゃ・・・ということで浴衣にしました。(冬なのに。) もっといい着物のほうがよかったですね。(インドの方と張り合えない。)(^^;)

 やっぱりベラルーシの冬に着物・・・は大変です。浴衣にブーツそしてコートを着て初めて地下鉄に乗りましたよ。(笑)

 このフェスティバルですが、今回初めてでまた来年するみたいです。
 来年はもうちょっと日本から積極的に参加したほうがいいだろうなあ、と思いました。
  

聞き取り調査

2016-11-29 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと ・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

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(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州部だ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(47)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

(48)(A)女性 (B)4歳 (C)ブレスト州ドロギチン地区、ボブルイスク(D)なし (E)なし (F)事故当時30歳だった母は同じ地区にに住み続けていた。2年前58歳にガンで亡くなった。事故前この地区でガンでなくなる人はほとんどいなかった。母がなくなった同じ年、1年間で、母の同級生4人がガンでなくなった。

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第202回」

2016-11-28 |  ビタペクト配布活動
11月28日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第202目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。
 今回はビタペクト3を8個、そして「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを1部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2479個、セルロースの合計は82個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2151部となりました。
 今回で通算218回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2479人の子どもにビタペクトを、約73人の子どもにセルロースを、2151家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a


 今回は2家族がボブルイスク市(チェルノブイリ原発から約200キロ)SOS子ども村に保養滞在していました。それぞれの家族にお話を伺いました。

(家族A)

 お母さんが3人の実子と姪を引率していました。この家族には2個のビタペクト3を渡しました。
 それぞれの内部被爆の測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト3を1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時4歳)10ベクレル
長女(12歳) 21ベクレル ○
次女 (8歳) 19ベクレル
三女 (6歳) 22ベクレル ○
姪 (11歳)  3ベクレル

 姪はオルシャ(チェルノブイリ原発から約350キロ)在住です。

 お母さんに子どもたちの健康状態についてお話を伺いました。
 長女は花粉症で、三女は食物アレルギーだそうです。アレルゲンになる食べ物の種類が多すぎて、食事が大変だそうです。
 姪は11歳ですが体重が67キロで肥満。甲状腺にも異常があり、それで体重増加しているらしく、投薬治療を受けています。


(家族B)

 お母さんが9人の子どもと1人の孫を引率していました。この家族には6個のビタペクト3を渡しました。
 この家族は2011年1月、2015年5月にも保養滞在したことがあります。
 そのときの様子はこちらをご覧ください。

チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第113回」(家族B)

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第178回」(家族B)

 2011年、2015年と今回の測定結果はこのとおりです。○印の子どもにビタペクトを1個ずつ渡しました。

母親(事故発生時16歳)0ベクレル → 14ベクレル →  11ベクレル
男子(16歳) 0ベクレル → 41ベクレル ○ → 25ベクレル ○
男子(16歳)36ベクレル ○ → 12ベクレル → 19ベクレル
女子(13歳)30ベクレル ○ → 14ベクレル → 13ベクレル
男子(13歳)35ベクレル ○ → 22ベクレル ○ → 23ベクレル ○
女子(11歳)25ベクレル ○ → 44ベクレル ○ → 11ベクレル
男子(10歳) 0ベクレル → 25ベクレル ○ → 22ベクレル ○
男子 (9歳) 0ベクレル → 25ベクレル ○ → 16ベクレル
男子 (8歳) 0ベクレル → 21ベクレル ○ → 24ベクレル ○
女子 (6歳)(今回初測定)36ベクレル ○ → 28ベクレル ○
孫  (4歳)(今回初測定)31ベクレル ○

 この家族には11人子どもがいるのですが、そのうち9人をお母さんが連れてきていました。
 16歳の男の子2人と13歳の男の子と女の子は双子です。
 
 子どもたちの健康状態についてお母さんからお話をうかがいました。
 10歳の男の子は障害者認定を受けています。これは以前聞いていたのですが、最近家族全員甲状腺の検査を受けたら、次々と異常が見つかったそうです。
 13歳の女の子は甲状腺に腺腫ができており、経過観察しているとすぐに2倍の大きさになったそうです。今は直径が1センチほど。
 11歳の女の子は甲状腺に小さいのう胞が複数できており、9歳の男の子も甲状腺に小さいのう胞ができているそうです。
 お母さん自身も甲状腺に直径1.5センチの腺腫が2つできており、10歳の男の子は甲状腺が年齢とともに成長しないといけないのに、大きさが変わらないため、母子そろって甲状腺の投薬治療を受けています。

 さらに検査を受けて、のう胞などの大きさをチェックし、特に腺腫の大きさが大きくなっていくようだったら、モギリョフにある専門病院に行き、さらに腺腫の大きさが直径3センチ以上になったら、手術で除去すると医者に言われているそうです。

 1年前にはこんな異常が見つかっていなかったのが、急にこんなことになって、お母さんはショックを受けていました。


 画像は記念撮影したようすです。ただ家族Bの孫はホームシックになったので、保養を切り上げて親元に帰ったそうです。

 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、シャープペンシル、お母さんには小物入れをプレゼントしました。

 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙やなど子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。


バザー参加のお知らせ 「冬のユーラシアバザール」

2016-11-12 | チロ基金
 日本ユーラシア協会大阪府連が恒例のバザールを開催します。
 このバザールにはヨーロッパ輸入雑貨店「Vesna!」が参加し、民芸品などベラルーシ製品を中心とした雑貨を販売します。売上金は全額チロ基金の活動資金に還元されますので、ご興味のある方、お気軽にお越しください。

『2016年 冬のユーラシアバザール』(日本ユーラシア協会大阪府連主催)
日時:12月8日(木)~11日(日)     
    午前10時から午後7時まで。
    最終日の11日は午後4時までですのでご注意ください。  
       
会場:日本ユーラシア協会大阪府連内 ユーラシア文化センター
    大阪市中央区谷町7丁目3番4
    新谷町第3ビル3階313号室

    地下鉄谷町線「谷町6丁目駅」下車。
    4番出口を上がり南(右方向)へ徒歩5分西側(右側)
    電話:06-6763-0877

 日本ユーラシア協会大阪府連のサイトはこちらです。
 詳細はこのサイト内の「ロシア物産とバザール」のコンテンツをご覧下さい。
 またこのサイトで会場の周辺地図を見ることができます。
 
 今までにこのバザールに参加して得た売上金は、ベラルーシの子どもたち(チェルノブイリ被災児、障害児、孤児、貧困家庭の子弟など)の支援、またベラルーシにおける日本文化の紹介、交流活動・・・などに使われました。
(詳細はこのブログのほか、HP「ベラルーシの部屋」内「チロ基金の活動報告」もご覧ください。)

 特にCD「月と日」についてはその1枚の売上金が1個のペクチンサプリ、ビタペクト3の購入につながり、チェルノブイリ原発事故の被災地の子どもに配られます。ビタペクト3を飲むと体内にたまった放射能物質が排出される効果があります。

 2002年から行っているチロ基金の「ビタペクト配布活動」について詳しくはHP「ベラルーシの部屋」内「チロ基金の活動報告」そして こちらです。(HP「ベラルーシの部屋」内)もご覧ください。

 チロ基金はすでに100回以上に渡り、2000個以上のビタペクトをベラルーシに住むチェルノブイリの子どもたちに配り続けています。
 この活動の趣旨にご賛同してくださる皆様、ご協力をお願いいたします。

(ベラルーシ語に翻訳された日本の歌CD「月と日」について詳しくはこちらです。自分で言うのも何ですが、おもしろいので聞いてみてください!)

 CD「月と日」公式サイトの英語バージョンはこちらです。

 ヨーロッパ輸入雑貨店「Vesna!」のサイトはこちらです。

 ベラルーシ音楽CDについての紹介はこちら。「みつばちマーサのベラルーシ音楽ブログ 」

 夏のバザーから引き続き、新美南吉ロシア語訳童話集「ごんぎつね」も販売します。
 数に限りがありますので、ご希望の方はこの機会にぜひどうぞ。

 みなさまのご協力をお願いいたします。
 
(一部の方より、お問い合わせがあるのですが、当バザールでは「ビタペクト」やそのほかのサプリメントは取り扱っておりません。またヨーロッパ輸入雑貨店「Vesna!」でも取り扱っておりません。)

 また会場では、もちろんベラルーシの民芸品だけではなく、ロシアや東欧の商品も扱っています。詳しくは日本ユーラシア協会大阪府連のサイトをじっくりとご覧ください。

ロシア・東欧文化の好きな方、ぜひ足を運んでください。これでユーラシア各国を旅した気分になれますね。(^^)
 

チロ基金の活動「ビタペクト&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第201回」

2016-11-04 |  ビタペクト配布活動
 11月4日にビタペクト3と「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第201目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。
 今回はビタペクト3を5個、そして「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーを2部渡しました。
 これで今までに配布したビタペクト2、ビタペクトT、ビタペクト3の合計は2471個、セルロースの合計は82個、「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは2150部となりました。
 今回で通算217回目の配布となりました。
 延べ人数ですが、2471人の子どもにビタペクトを、約73人の子どもにセルロースを、2150家族に「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(ビタペクト3についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/922c333857741c5448f66d4fe00b25e1


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html



(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/bb1fb7afb4cac464789e2684181e7d42


(WBCによる測定、ビタペクトを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%89%E6%94%BE%E5%B0%84%E8%83%BD%E5%AE%89%E5%85%A8%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80


 チロ基金は以前ビタペクトに代わり、ペクチン入りセルロースを配ったことがあります。セルロースについてはこちらです。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a


 今回は2家族がSOS子ども村に保養滞在していました。それぞれの家族にお話を伺いました。

(家族A)

 ミンスク州の南にあるスタールイエ・ダローギ(チェルノブイリ原発から約220キロ)から来た家族。
 この家族には3個のビタペクトTを渡しました。この家族は家庭タイプ孤児院で、お母さんが1人の息子と10人の里子を引率していました。この家族は2011年にも保養滞在したことがあります。
 前回の保養の様子はこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第117回」(家族A)

 前回と今回のそれぞれの体内放射能値はこのとおりです。今回初測定の子どもは今回の結果だけ公開しています。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。
 
母親(事故発生時26歳)12ベクレル → 11ベクレル
息子(14歳) 24ベクレル ○ → 14ベクレル
男子(16歳) 15ベクレル 
女子(14歳) 17ベクレル 
男子(13歳) 23ベクレル ○ → 20ベクレル ○
女子(13歳) 20ベクレル ○ → 18ベクレル
女子(11歳) 21ベクレル ○
女子 (9歳) 19ベクレル 
女子 (9歳) 15ベクレル
女子 (7歳)  6ベクレル 
女子 (6歳) 23ベクレル ○

 13歳の男の子と女の子は双子です。
 子どもたちの健康状態について聞き取り調査をしました。
 16歳の男の子は十二指腸憩室炎をおこしたことがありますが、現在は治っているそうです。
 13歳の男の子はアデノイド肥大で、手術で切除しました。その後11歳の女の子もアデノイドの手術を受けましたが、1年後もとの大きさに肥大したので、今度はイタリアで野保養滞在中に再手術を受けたそうです。
 さらに6歳の女の子ももうすぐアデノイドの手術を受けるということでした。
 
 子どもたちは6歳の女の子以外、全員毎年夏休みの間、3ヶ月イタリアやアイルランドで保養滞在しているそうですが、滞在中内部被爆の測定などは受けていないそうです。

 お母さん自身は関節痛がひどく、体のあちこちが痛いそうです。


(家族B)

 ミンスク州クループキ地区にあるキエベツ村(っチェルノブイリ原発から約125キロ)から来た家族。お母さんが4人の里子を引率していました。この家族には2個のビタペクト3を渡しました。

 それぞれの体内放射能値はこのとおりです。○印の子どもにビタペクト3を渡しました。
 
母親(事故発生時8歳)6ベクレル 
娘  (9歳) 14ベクレル  
男子(15歳) 21ベクレル ○ 
女子(12歳)  5ベクレル 
男子 (9歳) 21ベクレル ○ 

 お母さんの娘は代謝障害とお母さんが話していましたが、非常に太っているということでした。この一家の母方の家系はみんな太っていて、やせたくてもやせられない、とお母さんは話していました。お母さん自身もやせたいと話していて、糖尿病患者だそうです。
 9歳の男の子は吃音で、治療を受けていますがなかなか治らないそうです。
 
 病気も持った里子を育てるのは大変な「仕事」だと思いました。子どもたちの中には大事に育てられていても、肉親に会いたがる子もいるそうで、そのような話をお母さんたちから聞いても私などは何と答えたらいいのかも分かりませんでした。
  画像は記念撮影したようすですが、別のイベントへの参加のためで写っていない子どもたちもいます。

 今回も子どもたちに折り紙、折り鶴、折り鶴の作り方(千羽鶴プロジェクト)、日本語で子どもの名前を書いた絵葉書、お母さんには着物で作った巾着袋をプレゼントしました。

 千羽鶴プロジェクトの折鶴の作り方の紙がついになくなりました。つまっり1000人の子どもたちに配り終えたということです。
 思えばチロ基金創立15年記念に始まったこのプロジェクトですが、4年半ほどで1000枚配り終えたということになります。来年はチロ基金創立20年に当たります。このプロジェクトを続けるかどうか今から検討したいと考えています。、

 最後になりましたが、ビタペクト3の購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や絵葉書、巾着袋など子どもたちへのプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に深くお礼申し上げます。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。