ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

聞き取り調査

2016-11-29 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと ・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州部だ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(47)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

(48)(A)女性 (B)4歳 (C)ブレスト州ドロギチン地区、ボブルイスク(D)なし (E)なし (F)事故当時30歳だった母は同じ地区にに住み続けていた。2年前58歳にガンで亡くなった。事故前この地区でガンでなくなる人はほとんどいなかった。母がなくなった同じ年、1年間で、母の同級生4人がガンでなくなった。

ミンスクにある長崎の鐘について(8)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 この画像は長崎の鐘の鐘楼の足元の部分です。
 この黒い石版を動かすと、下に土を入れたカプセルが納められるようになっているはずです。
(実際に持ち上げて見たわけではないですが。)(^^;) 
 
 2016年10月29日現在、長崎の鐘はこのような状態です。
 分かりづらいですが、そばに赤いものが散らばっています。
 これは慰霊のためのろうそくを入れる特別な容器があり、ベラルーシではよくお墓の前に置いてあります。教会内で購入することができます。赤いガラス製のろうそく入れが長崎の鐘に捧げられていたのに、ペンキ塗りの業者が落として割ってしない、しかもそのまま放置している状態です。

 このガラスの破片が鐘に続く階段にも散らばっていて、しかも私が画像を撮影しているときちょうど小学生の校外学習の団体がやってきました。案内役の先生と思われる女性も
「みなさん、これが長崎の鐘です。あれ? 今工事中のようですね。えーと福島で事故があったのはみなさん知っていますね? ・・・。」
と話していました。
 
 子どもが通るのにガラスの破片が散らばっていてとても危険なのですが、幸いその小学生たちがガラスを踏んづけることはありませんでした。
 しかし団体さんがいなくなってから、あまりにもひどい光景(カトリックの教会の敷地内の光景ですよ、これが。)なので、階段のところのガラスの破片は私がゴミ箱に捨てました。

 まあ、日の丸と星条旗が並んでいる光景を小学生たちに見られるよりはましかもしれませんが、慰霊のための鐘の足元がこんな状態。
 赤い教会側は何とも思わないのでしょうか?
 普通片付けようとすると思うのですが・・・
 ミンスクの工事の業者のほうもモラルが低いですね。
 骨壷が入っているわけじゃないですが、墓石の上で同じことをしているようなものですよ。
 
 早く教会の人が気づいてほしい。と言うより、さっさとペンキ塗りを終わらしてほしいです。


 
 


ミンスクにある長崎の鐘について(7)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 日の丸と星条旗が掲げられていた柱、金属プレートがあったところもご覧の通りです。
 取り外されて、しかも柱の表面が削られています。
 つまりペンキの塗り直しを始めたということですね。
 ということは国旗が全部なくなってるのは、赤い教会が政治色を払拭するためではなく、単にペンキを塗り直すため・・・
 
 なーんだ、すごいオチ。・・・とみなさん思ってはいけません。
 問題なのはペンキを塗り直した後です。
 長崎の鐘はどのような姿になるのでしょうか?

 再び日の丸と星条旗が並んで掲げられるようになるかもしれません。

 長崎の鐘のその後については後ほどこのブログでご報告します。

 ついでなので、もう1枚画像を公開します。
 ミンスクにある長崎の鐘について(8)をご覧ください。



ミンスクにある長崎の鐘について(6)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 もしかして私が長崎大司教区にメールを送り、その後長崎大司教区からミンスクの赤い教会に問い合わせが来て、慌てて星条旗を取り外した??? とも考えましたが真相は分かりません。

 長崎大司教区からは私に返事をしておりませんし、私には長崎とミンスクの両者の間にやりとりがあったのかどうかも分からないのです。

 しかしアメリカの国旗が外されて少し安堵しました。しかしニューメキシコの土と金属プレートはそのままです。
 こういったものは外すのが大変なので、とりあえずすぐに外せる旗だけ外したのだろうと、考えました。

 その後、10月17日にことです。赤い教会の近くに用事があったので、長崎の鐘を見に行くと、あれれ? 全ての国旗が取り外されていました。ロシアの国旗もベラルーシの国旗も日の丸もです・・・
 さらには旗の根元にある旗を固定する金具も全て取り外されていました。

 このほうが政治色を払拭していいと赤い教会が判断したのかもしれない・・・などと考えていました。
 長崎の鐘も鐘楼らしい姿になったと喜んでいたのです。
 
 ところが今日、10月29日、私は長崎の鐘を見る機会があったのですが、とんでもないことになっていました。

 添付画像をご覧ください。長崎の鐘が剥げている?

(続きは「ミンスクにある長崎の鐘について(7)」をご覧ください。)

ミンスクにある長崎の鐘について(5)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 一方で、そもそも長崎の鐘は長崎大司教区の方々が献金し合って集めたお金があったからこそ、ベラルーシに建立できたものです。
 同じカトリック信者同士が連携し合って、原爆や原発の被害者のを思ったその思いが形となったものです。
 そうでなければどうしてわざわざベラルーシのミンスクに建立する話になったのか分かりません。

 しかしここへ二国以外の国の土も入れるようになったから、話がおかしくなり、それていったのではないかといった指摘を日本人の方からいただきました。

 例えば、カザフスタンのセミパラチンスクでは被爆の被害が公式に認められています。
 しかしロシアのノヴァヤゼムリャはもともと人口が少ない地域で、しかも民族的にはロシア人が住んでいなかった(今も少ない)地域でソ連とロシアが核実験を行ってきた(今も行われている)場所です。
 もちろん人的な被害、つまり被爆は公式には認められていません。
 現地の住民も声を上げられないでいるような状態なのでしょう。

 トリニティ実験場でも被爆したと何十年も経過してから訴えている団体がいるそうですが、根拠はないとしてアメリカ政府は認めていません。
 広島や長崎、チェルノブイリなどと違って公式には被爆が認められていない地域の土も埋められているのです。
 被害が認められていなくても、核実験をした歴史的な場所なら、どこのものでもミンスクにある長崎の金の下に埋めてよい、ということであれば、北朝鮮からも土を持ってこないといけませんね。

 このようにロシアのノヴァヤゼムリャの土を埋めたあたりから、長崎の鐘の本来の意義が歪められていったのではないか、とも考えられます。

 公式には被害が認められていないロシアの核実験場の土を入れていいなら、同じく被害が公式に認められていないが、核実験場だった(しかも人類初の!)アメリカの土も入れていいだろう・・・とアメリカ側が言い出したのか、ベラルーシ側(赤い教会)が賛同したのか、はっきりした経緯は分かりませんが、推測はできます。

 しかしこのような長崎の鐘の変貌について、長崎側は承知しているのかどうか気になった私は、長崎大司教区のサイトからメールアドレスを見つけ、メールを送りました。これが10月4日のことです。

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 題名: ミンスクの教会にある長崎の鐘について現状をご存知ですか

メッセージ本文:
 私はベラルーシ共和国ミンスク市に住んでいる日本人です。2000年に長崎大司教区が贈った献金を元にミンスク市中心部にある聖エレナと聖シモンのカトリック教会(通称赤い教会)に浦上天主堂の鐘のコピーである長崎の鐘が設置されたことはご存知と思います。そこに長崎、広島そしてチェルノブイリから運ばれてきた土が埋められています。しかし最近同じ場所にアメリカのニューメキシコ州の土が埋められたことをご存知ですか? これはアメリカが初めての核実験を行った場所で、これが成功したことから広島と長崎への原爆投下へつながったものです。鐘には日本国旗が掲げられていますが、そのすぐ横にアメリカの星条旗も並んで掲げられています。
 地元のベラルーシ人に「日本に原爆を投下したのはアメリカなのに、原爆の慰霊のためのモニュメントにアメリカの核実験成功の地から運んできた土をいっしょに埋めることについて、日本人であるあなたはどう思うのか?」と質問され、何も答えことができず、とにかく事実確認のため写真撮影をしに行きました。(このメールフォームに画像を添付できないのが残念です。)
 その後現地の日本大使館にこのような事実があることを大使館は把握しているのかどうかだけでも教えてほしいと、他の在日本人が質問したのですが、全く返答はありません。
 さらにこの赤い教会の神父にも質問しましたが、よく知らないけどこれはアメリカと日本の和平交渉の結果なのではないのかと逆に質問されたそうです。
 私は広島や長崎の出身ではなく、身内に被爆者がいるわけではありませんが、日本人として今の長崎の鐘の姿には違和感を感じます。
 長崎の方はどのように思われるのでしょうか? 今日もこの教会には地元の信者や観光客が訪れて、日の丸と星条旗が並んでいるのを見ています。この鐘の建立のために尽力された長崎大司教区が、このような現実をご存知なのかどうかお伺いしたく、このメールを差し上げることにいたしました。私は長崎の鐘建立の意義がいつの間にか変質したように感じますが、長崎大司教区がこの件について把握しており、またこの現状をお認めになるでしたら、どのようなお考えでお認めになっているか教えてください。
 私はカトリック教徒ではありませんが、ミンスクに永住予定の日本人で、しかも勤務しているのが日本文化情報センターというところなので、今後もこの長崎の鐘についてベラルーシ人から質問を受ける可能性があります。そのときにどのように答えたらいいのか、分かりません。長崎のカトリック教会のお考えをどうかお教えください。何卒宜しくお願い申し上げます。
 
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 ちなみに今日は10月29日ですが今のところ長崎大司教区から何の返事もありません。

 ところが、このメールを送ってから2日後の10月6日のことです。

 ベラルーシ人の知人が夕方長崎の鐘のそばを通ったら、星条旗だけ取り外されているのを発見。
 証拠写真を撮って、私に送ってくれました。
 それがこの記事の添付画像です。

(続きは「ミンスクにある長崎の鐘について(6)」をご覧ください。) 

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 11月3日の追記です。長崎の鐘の一件について日本大使館が対応してくれていたことが分かりました。

 まずベラルーシ在留日本人の方がベラルーシにある日本大使館に長崎の鐘に取り付けた星条旗について質問したのは、8月下旬のことです。

 私が長崎大司教区に上記の問い合わせメールを送ったのは10月4日のことです。
 その後10月の中旬、日本大使館側が赤い教会側と面会して、長崎の鐘に取り付けられた星条旗について申し入れを口頭でおこなったそうです。
 赤い教会側の見解は二ューメキシコでの核実験が長崎と関わっていたという事実を知らなかった・・・そうです。
 
 こんな大事な歴史的事実をよく知らないまま、長崎の鐘に星条旗を掲げていたということですね。
 あきれますね。考えがなさすぎます。
 あるいはこのような発言は適当に言ったもので、実際にはアメリカ側から圧力や多額の献金などをもらったので、断れずニューメキシコの土入れたのではないか、という見方をつい私はしてしまいます。

 ともかく日本大使館側の申し入れの後、赤い教会側は星条旗もプレートも撤去すると約束したそうです。
 ただ、星条旗は10月6日には撤去されていたことが分かっていますし、プレートもペンキ塗りのために10月29日には外されていることを私が確認しています。

 日本大使館が申し入れをしたものの、口頭のみというレベル(公式な書面で申し入れや質問状をだしたのではない。)ですので、赤い教会側も口約束のレベルです。ペンキ塗りが終わった後、赤い教会側がどうするのかが問題です。

 すばらしい日本大使館。(最初に在留日本人から質問されてから、ここまでくるのにだいぶ時間がかかっていますが。)やはり、大使館はその国における日本の顔なんですから、発言すべきところは発言していただきたいですね。今回それをしてくれたので、ほっとしましたよ。

 ペンキ塗りの後も元通り星条旗、プレート、土の三点が戻ってくるかもしれません。
 しかしそのときには明らかに赤い教会が約束破ったということになり、日本側から批判を受けても仕方がないですね。
 ともかく大使館からの質問に、自分たちが土を入れたけど詳しいことをよく知らなかったなどと、ぬけぬけと答えるカトリック教会側の担当者(えらい人)が非常に情けない・・・というのが私の感想です。

  


ミンスクにある長崎の鐘について(4)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 この画像は私が9月初めに撮影した長崎の鐘です。
 このように金属板プレートが鐘楼の右側の柱に取り付けられたその上のほうに、日本とアメリカの国旗が掲げられています。
 画像の左のほうに見えるのは、鐘楼全体で言うと中央部情報にあるベラルーシ国旗です。

 日本人として私は違和感を覚えるのですが、広島、長崎の方はどのように感じられますか?

 長崎の鐘を見た他の日本人の意見ですが、同じように違和感を感じる方もいれば、憤慨される方、また
核兵器の歴史という括りで見れば、おかしくない。公式には認められていないがニューメキシコの核実験のせいで被爆したアメリカ人もいるのだから、と言う方もいました。
 さらに反核、反原水爆という趣旨であれば同じ場所に土が埋められていてもかまわないが、アメリカの国旗を掲げるのは話が変わってくる。アメリカは核保有国の一つであり、たとえば広島の平和公園にロシアやアメリカの国旗が掲げられるなど被爆者にとって現状では考えられないことだから・・・というご意見もお聞きしました。

 長崎の鐘は慰霊のためのもの、つまり第一に魂のためのものであると私は思います。そこに国家のシンボルである国旗がたくさんつけられているのを見ると、宗教的な場所が政治的な場所に変貌しているように感じます。

 ちなみにベラルーシにある日本大使館に公式な質問状ではありませんが、この長崎の鐘の現状を日本大使館は把握しているのかどうか尋ねた人がいましたが、二ヶ月経った今でも全く返事はありません。

 日本大使館が「これはどういうことですか?」と赤い教会側に質問してくれたらよかったのですが、そういうことは政治が絡んでいるからか、もしかすると外務省からの指令待ちなのか、日本大使館から抗議文や質問状が出されてことはないようです。

 仕方がないので、今度は直接赤い教会に日本人が質問したのですが、もちろん正式な質問状を出せる立場の人ではないので、とりあえず教会に行って、そこにいた神父に口頭で尋ねたにすぎません。
 それによると・・・
 「赤い教会の中にいた神父さんの一人に、長崎の鐘の横の旗について聞いてみました。結論から言えば、その方は、星条旗が掲揚された経緯を知らないと言い、ただ最近現れたことだけは承知しているとのことでした。
そして『何か日本とアメリカの和平交渉の結果なんじゃないか』という ことをボソボソ言ったりしました。さらに、経緯を知りたければ、もっと上の人(おそらくこの教会の一番偉い人のことだと思いますが)に聞いてみるように言われ、ただその人はいつもいるわけではないので見つけるのは大変だと言いました。
誠意があれば、その上の人に会わせてくれるか、その人がいる日を教えてくれてもいいのにと思いましたが、何となく空々しい対応でした。これ以上は赤い教会に聞いても無駄のようです。」
 ・・・ということでした。

 つまり現地の日本大使館は動こうとしない、長崎の鐘を同じカトリック信者から贈られたミンスクのカトリックの神父もその教会でお勤めしているのに、ちゃんと説明してくれない(あるいは分かっていないか、分かっていても分かっていないふりをしている)ということです。

 このような状況にこうなったら、ベラルーシのマスコミに話してみようか、などと私は考えていました。
 私のような外国人が質問しても無駄でしょうが、ジャーナリストがその教会の上の人に取材すれば、もう少し内容のある返事がもらえるかもしれない、と思ったからです。
 これが10月初めのことです。

(続きは「ミンスクにある長崎の鐘について」(5)をご覧ください。)




ミンスクにある長崎の鐘について(3)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 こうしてこのような姿になった長崎の鐘を私は2015年夏にも見たのですが、特におかしいと思うようなことはありませんでした。

 ところが、今年、2016年8月末、ベラルーシ人の知人が、最近長崎の鐘を見たけれど、おかしなことになっている、知っていますか?と撮影した画像を見せてくれました。

 それは、長崎の鐘に新しく、アメリカの土が埋められ、しかもそのことを示す金属板が、日本のプレートの隣に取り付けられ、しかも日の丸と星条旗が並んでかかげられているということでした。

 しかもアメリカの土と言うのは人類史上初めて原爆の実験が行われ、そして成功したニューメキシコ、アラモゴードの近くの土、という説明が金属プレートにベラルーシ語と英語で刻まれています。

 これはトリニティ実験の土ということですね。詳細はこちらをお読みください。
 ここにも以下のような記述があります。

 トリニティ実験は爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、同型の爆弾『ファットマン』が、後に日本の長崎県長崎市に投下された。

 つまり核実験の歴史としては輝かしいスタートである実験です。

 その実験場の土を、核の犠牲者の慰霊のために建立された鐘の足元にいっしょに埋めるというのはどういうことなのでしょうか?

 長崎や広島で被爆された方々がこれを見たらどう感じるのでしょうか?

 ベラルーシ人の知人からは
「日本に原爆を投下したのはアメリカでしょう? その二つの国の国旗が並んでいるのを見て、日本人のあなたはどう思うのか?」
ときかれました。

 これが例えば同じアメリカの土でもスリーマイル島原子力発電所事故で、放射能が漏れ出た被害のあった地域の土なら、理解できます。

 しかし原核被害者の慰霊のための鐘の下に核実験の成功地の土をいっしょに埋めるのは、私はおかしいと思います。
 そしてベラルーシを訪れる日本人がこれを見たら、どう思うだろうと考えると恥ずかしくなりました。

 画像はプレートの部分を撮影したものです。
 2013年に12月に土を埋めたとありますが、おかしいです。
 ネットで検索しても2013年に長崎の鐘にアメリカの土を追加したので記念式典を開催したといったニュース記事はヒットしません。

 ちなみに2016年4月26日はチェルノブイリ原爆事故が起きてちょうど30年。そのころ日本から視察団やマスコミが大勢来ていましたが、8月末に私が4月にミンスクを訪れていた日本人に尋ねると
「長崎の鐘なら見ましたよ。確かに星条旗がついていた。」
という証言を得られました。

 つまりチェルノブイリ30年という、国内外から注目が集まる時期には、すでに星条旗が掲げられ、土も埋められていた、ということです。

 (続きは「ミンスクにある長崎の鐘について(4)」をご覧ください。)

ミンスクにある長崎の鐘について(2)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 長崎の鐘が核の犠牲者の慰霊のために建立された、という趣旨もあり、その後この鐘楼の土台部分に現在のカザフスタンのセミパラチンスク核実験場の土や、ロシアのノヴァヤゼムリャの土も収められるようになりました。
 どこから運ばれた土が収められているのかは、金属板プレートにベラルーシ語とその国の言葉で文章が刻まれ、プレートは鐘楼の柱の部分に取り付けられています。

 この画像は私が撮影したものです。分かりづらいですが、ベラルーシ語と日本語で「ここに広島、長崎、福島の土を入れたカプセルが埋められている」と刻まれています。
 
 赤い教会を背にして長崎の鐘を見ると右側の柱部分に取り付けられています。

 そしてチェルノブイリの被害が大きかったのがベラルーシとウクライナだったことから、鐘楼の中心部の一番高いところにベラルーシの国旗が、裏側にウクライナの国旗が、左側の柱にロシアとカザフスタンの国旗が掲げられるようになりました。
 さらには金属プレートの情報に日の丸も掲げられました。

 国旗を慰霊碑の柱にあちこち取り付ける、というアイデアは誰が考えたのかは分かりませんが、何となく、犠牲者を悼む、という雰囲気よりは世界平和を感じさせる姿になったように感じられます。
(画像を見たい方はこちらのサイトをどうぞ。)
 
 どちらがいいのか? については人それぞれの意見があると思います。
 
 (続きは「ミンスクにある長崎の鐘(3)」をご覧ください。)

ミンスクにある長崎の鐘について(1)

2016-10-29 | 放射能関連情報
 ベラルーシでは数少ない日本ゆかりの場所。
 そんな中で、ミンスクを訪れた日本人がよく訪れる「長崎の鐘」について、みなさん、ご存知ですか?
 全く知らないという人もいれば、「ミンスクへ行ったときに見た。」という方もいるでしょう。

 長崎の鐘はミンスク市中心部にある独立広場に面したカトリックの教会、聖シモン・聖エレーナ教会の敷地内にあります。
 この教会は赤レンガで造られていますので、別名赤い教会と呼ばれています。

 2000年にのことになりますが、長崎大司教区が集めた献金が赤い教会に納められ、それを元に長崎にある浦上天主堂(原爆のため破壊されたが、再建された)にある鐘の複製が造られました。
 
 これがミンスクで長崎の鐘と呼ばれているものです。
 その鐘を吊るす鐘楼も赤い教会の敷地内に建立され、2000年9月には除幕式が行われました。
 それに合わせて、長崎の原爆写真展もこの教会の中で開かれ、さらに長崎から運んできたという被爆マリアの像も公開されました。私は鐘の除幕式には招待されていなかったので、見たのは写真展と被爆マリア像だけですが、式には長崎から浦上天主堂の司祭が出席し、こちらの新聞にその言葉として長崎の鐘が「ベラルーシとの連帯、並びに経済的・文化的だけでなく精神的結びつきの象徴となるように。」希望すると述べています。

 さらに鐘楼の下の土台部分には、広島、長崎、チェルノブイリから運ばれた土がカプセルに入れられた状態で埋められています。
 ロシア語版のウイキペディアですが、こちらに画像もあるので、ご覧ください。
 
 つまり核の犠牲者になった人々の慰霊のために、この鐘が日本とベラルーシのカトリック信者の協力の下建立された、ということです。

 2011年以降にはここに福島の土も埋められました。

 そのようなわけで、ベラルーシを訪れる日本人がよく立ち寄る場所であり、またベラルーシの子どもたちなども校外学習の一つとして、よく団体で訪れ、平和教育を受けている場所です。

 ・・・とこのようなわけで、ミンスクに住んでいる日本人からすると、長崎の鐘は日本とベラルーシの友好の記念碑であり、改めて原爆や放射能被爆について考え、過去の犠牲者の魂を悼む場である、という位置づけです。

 ところが、最近この長崎の鐘がおかしなことになってきました。

 (続きは「ミンスクにある長崎の鐘(2)」をご覧ください。)


 
 

 
 

給食のタケノコご飯から基準超のセシウム

2016-05-11 | 放射能関連情報
5月11日付のニュースです。

給食のタケノコご飯から基準超のセシウム
 宇都宮市は11日、市内の小学校で10日に提供した学校給食のタケノコご飯のタケノコから、基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたと発表した。

 市によると、10日の給食で同校児童531人が食べたタケノコごはんを簡易検査したところ、基準を超える放射性セシウムが疑われたため、栃木県林業センターで精密測定。その結果、最高で234ベクレルを検出した。

 県環境森林部がタケノコの出荷者に事情を聴いたところ、出荷制限がかかっていない宇都宮市産に、出荷制限区域のタケノコが交じっていた可能性があるという。

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 食べてしまった後で気がついたんですね・・・
 給食に出す前に気づいてほしかったです。


 

全住民にヨウ素剤=原発事故に備え―ベルギー

2016-04-29 | 放射能関連情報
 ベルギーからのニュースです。
 原発事故だけに備えるのではなく、テロ攻撃も心配しているのでしょうね。

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全住民にヨウ素剤=原発事故に備え―ベルギー

時事通信 4月29日(金)6時10分配信
【ブリュッセル時事】ベルギーのデブロック保健相は28日までに議会に対し、原発事故時に備え国内の全住民にヨウ素剤を配布する計画を明らかにした。

 同国の原発は老朽化が進みトラブルが相次いでおり、住民の不安に対応する必要があると判断した。同国メディアが報じた。

 ヨウ素剤には内部被ばくを低減させる効果があり、日本の一部地方自治体も原発周辺の住民に事前配布しているが、政府が全住民を対象に配るのは珍しい。

 従来は原発から20キロ圏内の住民に配布していたが、保健相は公共放送RTBFに対し、「従来の措置を100キロ圏内でも講じる必要がある」と強調、ベルギー全土を対象にする方針を示した。

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 日本でも同じようにしたらいいとは思いませんが、せめて自由に薬局で買えるようにならないものかと思います。
 ベラルーシでは処方箋なし、年齢制限なしで自由にヨウ素剤を買えます。

 「こんなもの飲んだって効かない。」という人は買わなければいいだけの話。
 「私の家は原発から21キロ離れたところにある。だから買っておく。」という人は自主的に買えばいいでしょう。」

 自由な選択ができるようになってほしいです。

 意外と日本は自由がない国なんですね。

 さて、チェルノブイリ原発事故が起きたとき、その放射能はヨーロッパ中に拡散しました。
 正直言って、ベルギーの原発が事故を起こしたら、ベルギーに住んでいなくても、ヨーロッパ中の人が被爆対策をしなくてはいけません。
 もちろんベルギー以外のヨーロッパの国でも原発保有国はあります。
 なので、我が家ではヨウ素剤を常備しています。

 「ヨウ素剤購入にどうして自腹を切らないといけないのか? 国が建てた原発なんだから国が負担して国民全員にに配布するのが当然。」
という人もいるかもしれませんね。

 でもそんなこと言っているうちに時間がどんどん経つので、早めに対策しておくほうがいいです。
 日本人の場合、地震や水害などに備えて、非常袋を用意しているでしょう? それと同じです。

ミンスク市立第5児童図書館所蔵のチェルノブイリ関連書籍

2016-04-26 | 放射能関連情報
 以前、ベラルーシでは子供向けの放射能教育はどうしているんですか? と日本人から質問を受けましたが、ごく一般的な市立の児童図書館でも、これだけ放射能関連の書籍を所蔵しています。
 10歳から14歳までを一応対象にした開架式の貸し出しコーナーに置いてあります。
 一応というのは、別に14歳を過ぎていても大人でも児童図書館で本を借りることができるからです。

 20年以上前の話ですが「ベラルーシで『原発は危険だ』などという本を読んでいることがばれたら、逮捕されてシベリア送りになるんでしょ? こういう本は地下出版なんでしょ?」
と日本人に言われたことがありますが、大きな偏見です!

 この画像のようにごく普通の児童図書館で開架状態で貸し出しコーナーにあり、自由にベラルーシ人児童、ベラルーシ市民が借りて読んでいます。
  


ベラルーシの保養所の数

2015-10-17 | 放射能関連情報
 今放射能関連のテーマについて原稿執筆中なのです。
 ベラルーシでの取り組みについて書いてくださいと頼まれたのですが、その中で保養について取り上げようと思いました。
 ベラルーシ人はよく保養施設に長期滞在するなど書いていたのですが、
「そういや、ベラルーシに保養施設っていくつぐらいあるんだろう・・・?」
とふと思いました。
 調べてみると、分かっただけで約700施設あることが分かりましたが、これでも完全に網羅した数ではないです。
 でもとりあえず700施設ちょうどあるとして計算したら、およそベラルーシの国民1万3000人に1施設あることになります。

 でも保養施設って言っても大小さまざまあるわけだし、収容人数ってどうなっているんだろう? とまた次の疑問がわき、調べることにしました。
 (ベラルーシってこういう数字データを一般人、つまり専門外の人に公開していないことが多いので、調べるの大変。)

 その結果、収容人数を公開している26保養施設を何とか発見。あくまでその平均ですが、1施設につき約280人の収容人数を誇ることが分かりました。
 国民46人につき1ベッドあるという状態です。保養期間を平均1回14日間とすると1年間に1つのベッドを26人がローテーションで使えます。
 ということは、ベラルーシ国民全員が1年に1回は無理としても、2年に1回は14日間の保養の機会に恵まれるという計算になります。

 あくまで単純計算ですがベラルーシ、すごい。保養大国ですよ。
 日本でも内部被爆に対応したプログラムを用意した保養プロジェクトを増やしてほしいです・・・
 でも日本人は仕事が忙しすぎて、場所より時間の確保のほうに問題があるかもしれませんね。
 

チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険

2015-10-12 | 放射能関連情報
 2015年10月12日の日本語ニュースです。

チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険 森林火災で大気中に拡散し…

 あくまで私の意見なのですが・・・
 森林火災が広がり、本当にチェルノブイリ原発に燃え移ると、再び放射性物質が空気中に拡散して、大変危険。
 人の手入れがされていないので、枯れ葉などが大量に積もって燃えやすいから危険というのは理解できる。
 しかし放射性物質は事故から29年経過し、地中に浸透しているためそれが火災によって空中に拡散される可能性はとても低い。
 記事の中にあるようにモニタリングが安全な数値を示しているのは納得できる。

 7月にWBC検査を受けましたが、家族全員ゼロベクレルでした。(^^)
 もちろん自分が被爆してないから、空中への拡散がないとか言い切れるわけではありません。
 
 このニュースで扱っていることも気になりますが、いたずらに危機感を煽られたらいけないなあと思います。

 それより私が気になっているのは、セシウム137の半減期のことです。
 私は計算が苦手なのですが、数えてみたところ1986年4月26日にセシウムが放出されたとして、その半減期は2016年6月上旬に来るという答えになったのです。

 しかし私は専門家でもないうえ、数が苦手で、しかも計算にうるう年のことを考えに入れていません。
 はっきり分かりませんが、来年にはセシウム137の半減期が来るのは間違いないので、その後ベラルーシ人の内部被爆はどのように変化するのか非常に興味があります。

 楽観的かもしれませんがその後に森林火災が発生してセシウム137が空中に拡散されても、数としては怖がる必要は減ると思います。

 もっとも含まれるセシウム137の数は減っても、汚染された食品をじゃんじゃん食べたりしたら、内部被爆は減らないと思います。
 またセシウム137以外にも放射性核種は多く存在するので、セシウム137だけが減ったとしても安心できないと思います。


 


 
 

チェルノブイリ付近の森林火災

2015-05-03 | 放射能関連情報
 4月28日に発生したチェルノブイリ原発付記で起きた森林火災ですが、5月2日に鎮火しました。

 立ち入り禁止地区内で起きた火災、つまり放射能汚染が高い地域なので、火災が起きると放射能が舞い上がるのではないかと危惧されていたのですが、空間線量は通常の範囲内と発表されました。

 これを嘘の発表で、真実を隠していると思う人もいるでしょうが、私は正しい発表だと思います。
 事故から29年が経ち、森の上に降り注いだ放射能も雨水に溶けてどんどん地下へと浸透していっています。
 現在放射能は地表から約30センチの深さの部分にもぐっていっており、森が燃えてもそれが上空に舞い上がることはありません。

 もっとも森の地表部分の落ち葉が堆積しているところには、放射能がまだ残っていますが、全体からすると少量で、それが煙にのって舞い上がっても、遠く離れたキエフなど人口が多い地域の空間線量が大幅に上がることはないでしょう。

 それより問題なのは、これから地下水の汚染や、それにともない水源地や木の根が深く伸びる果樹などの汚染が今後進んでいくだろうと予想されることです。
 一方、来年の今頃はセシウムに関して言えば、セシウム137の半減期が来ますから、自然界で拡散したセシウム137の量は半分に減ります。
 ただし、生体濃縮は変わらず続きますから、ベラルーシ人のセシウム被爆量が突然半分になるとはいきません。現実は単純計算どおりにいかないです・・・。

 日本の場合、まだ放射能が地表や地表近くに残っていますので、汚染地域で森林火災が起きると上空に舞い上がる可能性が高いです。
 もっともあくまで私の予想ですが、ベラルーシよりも日本のほうが降水量が多いので、すでの多くの放射能が地面にしみこんでいると思います。
 つまりチェルノブイリの場合、1年に1センチのスピードで地下にしみこんでいっていることになりますが、日本の場合それを上回るスピードで地面にしみこんでいるいくと思います。

 またこちらは冬が長くその間土壌も凍結するので、放射能が地下水とともに移動することがないのですが、日本は冬が短いので、どんどん地下水といっしょに移動していくと思われます。

 また日本の場合森林火災の煙で放射能が舞い上がるという以前に台風がどんどんやってくる気候なのですから、そのことも考えないといけません。

 さらに日本は周囲を海に囲まれています。
 このようにチェルノブイリのケースと日本のケースは条件が異なるので、その点を考慮しないといけません。

 線量計をお持ちの方は台風や森林火災が起きた後、変化が起きないか前後で測定してみてください。