ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

給食のタケノコご飯から基準超のセシウム

2016-05-11 | 放射能関連情報
5月11日付のニュースです。

給食のタケノコご飯から基準超のセシウム
 宇都宮市は11日、市内の小学校で10日に提供した学校給食のタケノコご飯のタケノコから、基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超える放射性セシウムが検出されたと発表した。

 市によると、10日の給食で同校児童531人が食べたタケノコごはんを簡易検査したところ、基準を超える放射性セシウムが疑われたため、栃木県林業センターで精密測定。その結果、最高で234ベクレルを検出した。

 県環境森林部がタケノコの出荷者に事情を聴いたところ、出荷制限がかかっていない宇都宮市産に、出荷制限区域のタケノコが交じっていた可能性があるという。

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 食べてしまった後で気がついたんですね・・・
 給食に出す前に気づいてほしかったです。


 

全住民にヨウ素剤=原発事故に備え―ベルギー

2016-04-29 | 放射能関連情報
 ベルギーからのニュースです。
 原発事故だけに備えるのではなく、テロ攻撃も心配しているのでしょうね。

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全住民にヨウ素剤=原発事故に備え―ベルギー

時事通信 4月29日(金)6時10分配信
【ブリュッセル時事】ベルギーのデブロック保健相は28日までに議会に対し、原発事故時に備え国内の全住民にヨウ素剤を配布する計画を明らかにした。

 同国の原発は老朽化が進みトラブルが相次いでおり、住民の不安に対応する必要があると判断した。同国メディアが報じた。

 ヨウ素剤には内部被ばくを低減させる効果があり、日本の一部地方自治体も原発周辺の住民に事前配布しているが、政府が全住民を対象に配るのは珍しい。

 従来は原発から20キロ圏内の住民に配布していたが、保健相は公共放送RTBFに対し、「従来の措置を100キロ圏内でも講じる必要がある」と強調、ベルギー全土を対象にする方針を示した。

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 日本でも同じようにしたらいいとは思いませんが、せめて自由に薬局で買えるようにならないものかと思います。
 ベラルーシでは処方箋なし、年齢制限なしで自由にヨウ素剤を買えます。

 「こんなもの飲んだって効かない。」という人は買わなければいいだけの話。
 「私の家は原発から21キロ離れたところにある。だから買っておく。」という人は自主的に買えばいいでしょう。」

 自由な選択ができるようになってほしいです。

 意外と日本は自由がない国なんですね。

 さて、チェルノブイリ原発事故が起きたとき、その放射能はヨーロッパ中に拡散しました。
 正直言って、ベルギーの原発が事故を起こしたら、ベルギーに住んでいなくても、ヨーロッパ中の人が被爆対策をしなくてはいけません。
 もちろんベルギー以外のヨーロッパの国でも原発保有国はあります。
 なので、我が家ではヨウ素剤を常備しています。

 「ヨウ素剤購入にどうして自腹を切らないといけないのか? 国が建てた原発なんだから国が負担して国民全員にに配布するのが当然。」
という人もいるかもしれませんね。

 でもそんなこと言っているうちに時間がどんどん経つので、早めに対策しておくほうがいいです。
 日本人の場合、地震や水害などに備えて、非常袋を用意しているでしょう? それと同じです。

ミンスク市立第5児童図書館所蔵のチェルノブイリ関連書籍

2016-04-26 | 放射能関連情報
 以前、ベラルーシでは子供向けの放射能教育はどうしているんですか? と日本人から質問を受けましたが、ごく一般的な市立の児童図書館でも、これだけ放射能関連の書籍を所蔵しています。
 10歳から14歳までを一応対象にした開架式の貸し出しコーナーに置いてあります。
 一応というのは、別に14歳を過ぎていても大人でも児童図書館で本を借りることができるからです。

 20年以上前の話ですが「ベラルーシで『原発は危険だ』などという本を読んでいることがばれたら、逮捕されてシベリア送りになるんでしょ? こういう本は地下出版なんでしょ?」
と日本人に言われたことがありますが、大きな偏見です!

 この画像のようにごく普通の児童図書館で開架状態で貸し出しコーナーにあり、自由にベラルーシ人児童、ベラルーシ市民が借りて読んでいます。
  


聞き取り調査

2016-04-13 | 放射能関連情報
 1986年のチェルノブイリ原発事故が起きたとき、ベラルーシの人たちはどうしていたのか、その後の健康状態はどうなのか・・・
 あくまで私の身近にいる人、偶然出会った人ですが質問してみました。
 内容は簡単ですし、対象となった人たちは医学の専門家でもありませんが、このブログでご紹介しようと思っています。

 質問事項ですが、(A)性別 (B)事故当時の年齢 (C)事故当時住んでいた場所、現在住んでいる場所 (D)事故当時起きた症状 (E)現在の症状 (F)そのほか気がついたこと ・・・となっています。

 この記事は回答が増えるたびに更新します。
 日本人の皆様に役立つ情報があれば、と思っています。

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(1)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。(D)なし (E)甲状腺肥大、高血圧、1年中止まらない咳 (F)高血圧と咳は遺伝によるものかもしれない。

(2)(A)女性 (B)20代 (C)ミンスク (D)なし (E)慢性的な頭痛。顔色がいつも悪い (F)子どもが2人いるが、甲状腺肥大で2人とも投薬治療中。

(3)(A)女性 (B)20代 (C)ナロブリャ。(チェルノブイリ原発から約60キロ)1992年にミンスクへ移住命令が出た。(D)頭痛。口だけではなく喉がとても乾いている感覚があった (E)免疫力の低下 (F)もっと早く移住したかった

(4)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故が起こった日、日光浴をした (D)なし (E)数年後から肺炎を繰り返すようになり、入退院を繰り返す。今は肺炎はおさまった。顔に血管がいつも浮き出て見えている 

(5)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし (F)妹は現在甲状腺肥大で投薬治療中。

(6)(5)の息子さん。(A)男性 (B)1歳 (C)ミンスク。事故当日、散歩をしていた。
 (D)首のリンパ腺が腫れた。暗赤色の斑点が全身にできた。医者は皮膚病と考え「何なのか分からない。」と言っていたが、後で内出血であることが分かった。その後症状はおさまる。18歳のとき兵役義務で軍隊に入ったが、その頃から体が弱くなったと感じるようになった。入隊していた軍事施設の周囲に住む住民にがん患者が多い、という話がある。今でも南風が吹くと、体調が悪くなる。

(7)(A)男性 (B)4歳 (C)ミンスク。事故のことは知らなかったが、偶然事故直後モスクワの親戚のところへ行っていた。 (D)なし (E)なし (F)ゴメリ州の食品は買わないようにしている。ベリー類は測定している。

(8)(A)女性 (B)20歳 (C) ミンスク (D)事故当日頭痛。子どもの寝つきが悪かった。(E) 子どもの免疫力低下。疲れやすい。

(9)(A)女性 (B)28歳 (C)ミンスク。事故当時実家のあるカリンコビッチ(チェルノブイリ原発から約100キロ)へ家族全員で帰っていた。実家の畑でじゃがいもを植えて、はだしで土の上を歩いていた。5月9日ミンスクへ帰宅した。
 (D)なし (E)自分は特にないが、当時6歳だった娘は甲状腺機能に異常が出ている。今1歳の孫は健康。夫は5年前脳卒中で倒れ、現在リハビリ中。 (F)実家のある村は移住の対象にはなっていない、しかし人口が減り、特に若い人が減った。村の周りの森は測定されたが、場所によって線量にばらつきがあった。この森でとれたキノコを瓶詰めにして、ポーランドへ輸出しているのを見た。

(10)(A)女性 (B)38歳 (C)ミンスク。5月1日のメーデーの行進に参加した。風がきつかった記憶がある (D)なし (E)なし 
 (F)物理学研究所で働いていたので、5月中ごろ測定してもらった。事故当時来ていた服を着てくるよう言われたので、そうしたら、測定後に「その服は汚染されているのですぐ捨てなさい。」と言われ、全部捨てた。 

(11)(A)女性 (B)30代 (C)ミンスク。事故当日一日中外出していた (D)なし (E)事故から8年後甲状腺の摘出手術を受けた

(12)(A)女性 (B)14歳 (C)ペトリコフ(チェルノブイリ原発から約130キロ) 事故当日おばあちゃんの家の畑ではだしになって草刈りをしていた。 (D)耐え切れないほどの眠気におそわれた (E)なし 
 (F)事故後、登校したら校内の菜園の手入れをするよう言われ、クラス全員で草むしりなどをした。後になって地域の測定が行われたが、地域内で一番線量が高かった場所が、その学校の菜園だったことが分かった。

(13)(A)女性 (B)20歳 (C)ミンスク (D)事故当日から数日間体がぐったりし、疲労感を感じた (E)甲状腺切除の手術を受けた。今は2児の母になっているが、健康。

(14)(A)女性 (B)8歳 (C)アゼルバイジャン。2年後ベラルーシへ引っ越した (D)なし (E)なし (F)29歳だった父はチェルノブイリの事故処理作業員として呼び出しを受け、4号炉で作業をした。防護服は支給されていた。作業中は父は何も感じなかったが、いっしょに働いている人で気分の悪さを訴えている人もいた。父は今55歳だが、3回の脳卒中に倒れ、リハビリ中。障害者認定を受けている。

(15)(A)女性 (B)28歳 (C)ゴメリ。事故当日竜巻のような強風が吹いた (D)なし (E)なし (F)息子は1986年1月生まれ。ずっと体が弱く、今でもよく病気になる。甲状腺機能にも問題がある。

(16)(A)女性 (B)14歳 (C)ゴメリ。事故当日は家族そろって公園で一日中遊んでいた (D)その日の晩から胃が痛くなり、断続的な吐き気を感じた。夜中から吐き始め、朝まで眠れなかった。 (E)なし

(17)(A)女性 (B)13歳 (C)カリンコビッチ (D)なし (E)関節痛
 (F)事故から1ヵ月後、学校の生徒全員が教師引率でエストニアに保養に行った。エストニアの保養所に夏休みの3ヶ月いて、9月からカリンコビッチに戻った。保養滞在中、エストニアの人から「チェルノブイリから来た子どもたち。放射能がうつる。」と差別された。しかし子どもたちは放射能のことがよく分からず、差別発言の意味も分かっていなかった。

(18)(A)女性 (B)13歳 (C)モズィリ (D)なし (E)疲労感、倦怠感
 (F)自分の周囲で30代前半でガンを発症する人が増えており、不安

  
(19)(A)女性 (B)20代前半 (C)ミンスク (D)なし (E)胃潰瘍 
 (F)事故当日、1歳だった息子をベビーカーに乗せて外出していた。息子は一日中機嫌が悪く、むずかっていた。
 一ヵ月後、夫とその妹の夫は汚染地域へ送られた。避難した後の無人になった住宅に盗みが入らないように、見張る役だった。当時いっしょにこの監視に携わっていた人(全員若い男性)のほとんどは、現在死亡している。夫は今でも健康だが、汚染地域に行ってから急に老けてしまい、今でも実年齢より年上に見られる。
 夫は汚染地域での任務が終わった後、ロシアのレニングラード(現在のサンクト・ぺテルブルグ)にいる親戚の家へ行った。その親戚は物理学者だったが、家のドアを開けてくれず、近くのホテルに泊まるように言った。夫はそのとき初めて放射能が危険なものなのだと理解し、その後着ていた服は全て処分した。息子は現在健康。

(20)(A)女性 (B)14歳 (C)モロジェチノ (D)生まれて初めての頭痛を起こした (E)なし

(21)(A)女性 (B)12歳 (C)ブレスト (D)なし (E)なし 
 (F)私の家族は他の家族より、被爆に神経質だったので、外出は禁じられた。事故のことをマスコミが詳しいニュースにする前に学校や町で、放射能が飛んできたらしいとうわさになり、あちこちでその話を話していたが、具体的な被爆対策についての情報はなかった。

(22)(A)男性 (B)8歳 (C)ミンスク。家の前の公園で毎日遊んでいた。(D)なし (E)12歳のとき難病にかかって、1年間入院生活を送った。退院したときに身体障害者認定を受け、現在に至る。

(23)(A)男性 (B)0歳 (C)ロシア (D)なし (E)なし
 (F)チェルノブイリ原発事故が起こる3ヶ月前にベラルーシで生まれた。父がロシア人で母がベラルーシ人。両親はロシアで出会って結婚し、ロシアで暮らしていたが、母がベラルーシの実家へ里帰り出産のため戻っていた。
 自分が生まれて二ヶ月のとき、父が子どもをつれて早くロシアの家へ帰ってくるようにしきりに訴えるという夢を母が見て、胸騒ぎを感じ、予定を早めてベラルーシの実家からロシアの父の元へ帰った。直後にチェルノブイリで事故が起きたので、自分は被爆しないですんだ。
 現在自分はベラルーシで暮らしているが、WBCの結果もごくわずかな被爆にとどまっている。母の決断に感謝している。


(24)(A)女性 (B)4歳 (C)コルマ (D)なし (E)なし 
(F)コルマから7キロ離れたところにきれいな森があり、その中に小さい村があったが、事故後高い汚染が認められ、若い世代は移住していった。しかし村を離れたくないという住民は残っていたので除染をすることになり、父がその除染作業に関わった。他の人たちといっしょに森を除染したり、人工の池を掘ったりしたが、被爆しているリスクがあるから、と「手当」と称するお金を給料に上乗せされた形でもらっていた。
その結果立ち入り禁止地区だった森は現在は入ってもよくなり、この村も消えることはなかった。しかし父は現在すでに亡くなっている。被爆との関係は分からない。
コルマは移住先に選ばれ多くの人が移住してきた。コルマのもともとの住民が移住者を差別するようなことは一切なく、みんな同情していた。
子どものとき、移住者の中に女性で髪の毛が一本も生えていない人がやってきたのを見たときは驚いた。現在もこの女の人は健在でコルマに住んでおり、今ではちゃんと髪の毛が普通に生えている。


(25)(A)女性 (B)30歳 (C)スラブゴロド。事故のことは何も知らずに1歳の娘と散歩していた。
 (D)自分自身は何もなかった。夏になってから子どもを連れて、グルジアに保養に行くよう勧められ、二ヶ月滞在した後、スラブゴロドに戻った。その後、娘が急性白血病になった。
 (E)自分は良性の甲状腺種ができている。娘はモギリョフやミンスクの専門病院に入院し、現在は病弱ながらも健在。事故当時3歳だった息子は事故から7年後の10歳になった頃、乾癬を発症。今年31歳になるが完治していない。乾癬は治療方法もまだきちんと確立されていない。
 スラブゴロドの周囲にある14の村が、汚染度が高いことが分かり、家屋全部が地中に埋められた。夫はその作業に従事した。そのため5年早く55歳で年金生活に入り年金をもらっている。しかし現在はしょっちゅう体のあちこちが痛くなり、1日の終わりはぐったりしてよく横になるようになった。
 (F)事故が起きたとき、偶然近所に線量計を持っている人がいた。事故のうわさが流れてきたので、その人は自宅周辺を計測し、近所がほとんど汚染されていることを公式発表より早く教えてくれた。
 夏になってから旧ソ連の各地へ保養に行った人がたくさんいた。現在50代、60代の人で足の痛みを訴える人が自分の周りには多くいる。原因は分からない。
 「埋葬」された村に残ったりんごの木から採れた実を測定したら、ほとんど汚染されておらず、食べてよいということだったが、現在も野生の鹿やいのししの肉は汚染度が高く検査の結果、食べられないと言われることがほとんど。自分自身は子どもに牛乳をあげることをいっさいやめた。周辺の村では1986年は農作物を作ることが一切禁止された。それでもいちごを作っていた人が、検査してみると汚染されていることが分かり、泣く泣く全て廃棄処分したそうだ。
 「埋葬」された村の住民にはミンスクなど移住先が提供されたが、村ごとの移住ではなく、バラバラになってしまい、村民のコミュニティが失われてしまった。移住先の家を売ってさらにどこかへ引越しする人も多くおり、消息が分からなくなっている場合も多い。
 娘が白血病になって、ミンスクの病院に入院しているとき、医者から自主的にどこかへ移住したほうがいいと言われたが、住むところを自分で探さないといけなかったうえ、夫が反対したので移住はしなかった。現在非汚染地域であっても病気になる人は増えてきているので、どこに住んでいようが関係ないという考えを持っている。今は無理して移住しなくてよかったと思っている。
 以前すぐ近所の一戸建てに娘の同級生の一家が暮らしていた。その子は10年ぐらいその家に住んでいたと思う。その後高校を卒業し、別の町にある大学へ進学した。その頃その子の両親は自宅を売りに出すことにした。買い手候補が下見にやってきたが、その人たちは線量計を持ってきていた。そして家の周囲や中をくまなく測定したところ、非常に高い線量だったので、その人たちは家屋を除染し、家の周りの土を全部はがして、新しい土を入れた上でその家を購入し、今も住んでいる。娘の同級生は大学生になってからがんになっていることが分かり、19歳で亡くなった。生きていたら娘と同じ29歳だったはず。住んでいた家が原因で被爆しがんになったと近所の人たちは話しているが、その子の弟は今も元気に暮らしているから、結局のところ発病の原因は分からないと言わざるをえない。


(26)(A)女性 (B)15歳 (C)事故当時住んでいた場所はスルーツク、現在住んでいる場所はミンスク (D)事故のことは何も知らず日光浴をしていた。少し気分が悪かったが、熱中症かもしれない。(E)健康に問題はない。
(F)当時母が10番目の子どもを妊娠していた。事故が起きたとき、母は気分が悪いと訴えていた。子どもは生まれたが、全ての内臓の大きさが通常の2倍の大きさで、生まれて10日目に亡くなった。母にとってこれが最後の子どもだったが。上の子ども9人にはこのような異常はなく、健康に育った。


(27)(A)女性 (B)14歳 (C)ブレスト州ピンスク地区にある村 (D)なし (E)甲状腺に多数のしこりができている 
(F)事故当時、事故のことは何も知らなかった。その頃雨が降り、水溜りに黄色い膜のようなものが張っていた。さらに泡もたくさん浮いていた。花粉が大量に浮かんでいるのだろうと思ったが、不自然な感じがした。
 自分たちが住んでいた地域は比較的安全とされていた地域で、地元の牛乳がいつも店で売られていたのに、事故後ゴメリ州やモギリョフ州など汚染地域の牛乳が並ぶようになった。比較的安全と言われていた地元の牛乳はロシアへの輸出用に回されていた。
 地元のコルホーズで飼われていた牛が次々と白血病になった。病気になった牛は処分されたが、その肉は加工工場で加工されて、市場に出回った。


(28)(A)女性 (B)22歳(C)ボブルイスク (D)全身に湿疹のようなものができ、かゆくてたまらなかった。 (E)健康 (F)事故当時、妊娠初期だったので非常に心配していた。夏の間原発から離れた場所で保養するよう勧められ、サナトリウムで暮らした。生まれた子どもは健康。
 事故があった日、両親は郊外で畑仕事をしていた。頭上を変な雨雲が通過するのを見た。後から放射能雲だと分かったが、事故のことは長く知らされなかった。


(29)(A)男性 (B)13歳 (C)ミンスク (D)めまい (E)なし 
(F)事故が起きた日は同級生の誕生日で友人5人と集まってお祝いをしていた。みんなで外に出るとしばらくして小雨が降った。その後友人全員がめまいや気分の悪さを訴え、家に帰った。
 当時70代だった祖父もその日、生まれて初めてめまいを起こして自分自身驚いていた。


(30)(A)女性 (B)31歳 (C)トレスコフシナ村 (D)頭痛 (E)慢性的なせき。25年ぐらい続いていて、原因も分からず治らない。
(F)事故が起きた日は暑い日だった。日差しが尋常ではないほどまぶしかったように感じた。ちょうどその日は夫の誕生日で家に親戚が集まっていた。暑くて仕方ないので、誰も外に出たがらず、一日家にいた。親戚の多くが頭痛を訴えていた。夫は50歳代で死去。


(31)(A)女性 (B)29歳 (C)マチュリシチ (D)発熱 (E)両足の関節、骨盤部分の痛み。心臓の弁がちゃんと閉まらない病気。 
(F)事故後すぐ熱が出て、慢性的に微熱に悩まされるようになった。平熱が37度という状態が続き、病院へ行っても原因が分からない。1990年に夫の転勤に伴い、カムチャッカへ引っ越した。そのとたん熱が下がって健康になった。3年後、故郷に戻ってくるとまた熱が出て何年もたってからようやく平熱が36度台になった。

(32)(A)女性 (B)8歳 (C)ミンスク (D)なし (E)なし 
(F)事故が起きた日、ミンスクに放射能を含む雨が降った。その後できた水溜りを見ると、緑色をした泡が大量に表面に浮かんでいた。気持ち悪い色で今だに忘れられない。当時は放射能と言う言葉を知っている人も少なかった。何年か経ってから近所に汚染地域から移住してきた人が引っ越してきた。その人たちに、放射能ってどんなもの? ときいてみたが、ちゃんと答えられた人はいなかった。当時は多くの人が無知だった。


(33)(A)女性 (B)13歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)高血圧、心臓病、胃炎。ダイエットをしたら、改善した。 (F)事故当時はニュースにもならず、雨が降る中多くの人が外出していた。しばらくして学校へ行ったら、担任の先生が「原発で事故があり、放射能が出てしまった。」と話して初めて事故のことを知った。
 親戚が10人ほど「仕事のため」と説明してチェルノブイリ方面へ行ってしまった。約1年後全員ががんになり、時期の差はあったものの全員亡くなった。

(34)(A)女性 (B)9歳 (C)ボブルイスク (D)なし (E)胃潰瘍 (F)事故が起きて1ヶ月ほどして、多くの若い兵士がトラックに乗せられて、チェルノブイリへ事故処理のため移動していくのを見た。長い車列だったので、何台ぐらいになるのだろうと道端で数えていた。あまりにもトラックの数が多く、途切れないので疲れて台数を数えるのをやめた。
 しばらくして町中の店から牛乳がなくなり、売られなくなった。説明や理由はなかった。
 またしばらくして、牛乳を積み込んだ特別なトラックがやってきて、広場で量り売りを始めた。町の人たちは久しぶりに牛乳が飲めるので、喜んで容器を持って買いに行った。長蛇の列だったので、おつかいに買いに行かされた。
 弟が2人いるが、1人は事故当時生後5ヶ月で、もう1人も1年後に生まれた。妊娠中で乳児もいた母には被爆に関する情報などは何も知らされなかった。


(35)(A)女性 (B)11歳 (C)ビテプスク州ドクシツィ近くの村。ミンスク (D)なし (E)なし(F)学校では被災者のために寄付を集めることになり、おこづかいを持って行った。村から男性が事故処理作業のためチェルノブイリへ出かけていった。学校で放射能の話を先生がしていたが、ヨウ素剤を飲むような指示はいっさいなかった。ただ、天気の悪いときは外へ出ないように言われた。しばらくして汚染地域から3家族が村へ移住してきた。差別のようなことはなく、新しい住民として普通に接していた。

(36)(A)女性 (B)7歳 (C)ウクライナ北部、ゴメリ (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき、ウクライナにある祖母の家に行っていた。事故のことは何も知らずに森の中で遊んでいたら、突然強風が吹き、雨が降り出すかと思っていたが、降らなかった。しばらくして事故のことを知らされ、両親は心配してビタミン剤を買ってきて飲ませてくれた。毎年夏になると、姉妹そろって黒海沿岸地方やコーカサス地方にあるサナトリウムへ行った。

(37)(A)女性 (B)16歳 (C)ゴメリ。事故のことは何も知らず、メーデーのパレードに参加していた。とても日焼けをした。 (D)なし 
(E)事故が起きてからだいぶ時間が経ってから、事故のことを知った。母は慌ててヨウ素剤を買ってきて、飲ませてくれた。31歳のときに甲状腺の切除手術を受けた。それからホルモン剤を飲み続けている。心臓病も抱えている。
(F)事故から3年後の19歳のとき結婚し、長女が生まれた。生まれつき心臓に欠陥があり、その後卵巣にのう胞が見つかった。手術を何回か受けた。次女と三女にも持病があり、病名はばらばら。成人した長女は結婚し子どもも生まれたが、孫は健康。しかし将来病気になるのではないかと不安な気持ちは残っている。
 
(38)(A)女性 (B)10歳 (C)ピンスク。ゴメリ郊外 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき4歳だった弟は病弱。ピンスク出身の女性と結婚し、今はモスクワ郊外に住んでいるがその一人娘はアレルギー体質。弟一家は3人とも体が弱く、よく病気になっている。


(39)(A)女性 (B)7才(C)ビテプスク (D)なし (E)なし (F)事故当時妹が生後4ヶ月だった。生まれたときは健康だったが、1歳になる前、肝臓が病気になっていることが分かり、入院した。治療を受けて退院したが、今でも食事制限がある毎日を送っている。

(40)(A)男性 (B)9才 (C)ソリゴルスク、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故当時正式な発表がされる前、「原発で事故があったらしい。」という噂が流れ、母から外出しないように言われて、できる限り自宅にいるようにした。友達が遊びに誘っても断った。しばらく牛乳を飲まないようにしていた。これは数年前の話だが、伯父がミンスクから10キロ離れた森の中できのこを拾い集めた。安全な地域だったが、念のため親戚に測定をしてもらうと、針が振り切れるほどの高汚染だったので、廃棄処分した。

(41)(A)女性 (B)9才 (C)ブレスト (D)なし (E) 背中と足の慢性的な痛み 
(F)当時36歳だった父はトラック運転手として事故処理作業員となり、複数回事故現場で働いた。最後にチェルノブイリ原発へ要ったのは50才のとき。2年前63歳で腸のガンのため亡くなった。
 事故が起きてしばらくしてから汚染地域の住民がブレストに移住してきた。同じクラスの同級生だった女の子は脱毛が進み、中学3年生のときにはかつらをかぶって登校していた。移住者の子どもたちは他にも症状があったかもしれないが、心が痛む話題だったので学校内でそのことについて話すことはなかった。


(42)(A)女性 (B)15歳 (C)プレシチェ二ツィ (D)なし (E)なし 
(F)村に7家族が汚染地域から移住してきた。村民は同情しており、差別はなかった。当時35歳だった父は事故後1か月してチェルノブイリへ行った。事故処理作業員を現場から宿舎へ車両で送迎する仕事をするよう国からの命令だった。被爆を防ぐために服をこまめに交換し洗濯をするように言われていたが、それ以外の対策方法は特になかった。父はその後も病気知らずで元気だったが、56歳になってから突然腎臓病と肝臓病を同時に患い、現在に至るまで8年間闘病生活を送っている。


(43)(A)女性 (B)21歳 (C)ミンスク、プホビチ地区 (D)なし (E)なし (F)事故が起きたとき長男を妊娠中で、非常に心配した。12月に長男は生まれたが、生まれつき心臓に雑音があり、幼少期はそれが消えることはなかった。その後雑音は消えて現在は健康に暮らしている。

(44)(A)女性 (B)15歳 (C)ウクライナのイワン・フランコフ、ミンスク (D)なし (E)なし (F)事故後2年目にミンスクへ移転。16歳の長男は腎臓肥大。三男はアデノイド。四男は遠視。職業は小児科医。実感として、チェルノブイリ原発事故後、子どものガン、アレルギーが増えた。特に大人には見られるけれど子どもにはなかった病気(初潮も始まっていないような年齢の女子の子宮がん、中学生男子が心臓発作、心筋梗塞を起こすなど)が起こるようになり、中高年男性の突然死も増えた。

(45)(A)女性 (B)0歳 (C)グロドノ (D)なし (E)頻脈 
(F)事故が起きたとき母は私を妊娠中だった。兄は3歳だった。母の実家はゴメリ州部だ・コシェリョフで、祖母が1人で暮らしていた。母は祖母が48歳のときに生まれた子で、事故が起きたときは祖母は70代の高齢だった。事故が起きたと分かったのは3日後。父は事故処理作業員として呼び出された。母は祖母を心配してグロドノに引き取ることにして父が運転する車で迎えに行った。放射能に関する知識もなかったので、3歳の兄も連れて行った。
 祖母をグロドノへ避難させた後、父は事故処理作業のためチェルノブイリへ向かったが、その後書類手続きの不備で事故処理作業員であると言う証明がもらえなかったので、補償も受けられなかった。父は現在63歳で高血圧で悩んでいる。
 避難した祖母はその後胃がんになりおよそ1年後グロドノで亡くなった。
 3歳だった兄は5年後、病気になった。今年33歳になるが、心臓病、高血圧、不整脈といった病気を抱えている。免疫力が低くよく風邪を引いている。私自身は頻脈。3人の子どものうち1人は生まれつき心臓の壁に穴が二つ開いており頻脈。


(46)(A)女性 (B)8歳 (C)バラノビッチ (D)なし (E)特になし 
(F)事故当時は報道もなくしばらく普通に暮らしていたが事故のことが明るみに出て数日学校が休校になった。父は事故処理作業員として原発へ向かった。9年後17歳で結婚・妊娠した。検査をしたら胎児に脊髄がないこと、脳に腫瘍があると認められ死産になるからと中絶した。4年後妊娠し、元気な子どもが生まれた。さらに3年後再び妊娠。そのときも第1子同様、胎児に脊髄の一部がなく脳腫瘍があると言われて中絶。1年後4回目の妊娠。このときは健康な子どもが生まれた。2人の胎児に異常が出た原因は分からない。自分自身気になり遺伝子の検査を受けたことがあるが異常は見つからなかった。
 今年65歳になる父は10年前に喉に腫瘍ができたが良性で現在も健康。


(47)(A)女性 (B)21歳 (C)ブレス都市近郊の村。(D)なし (E)甲状腺がん (F)第1子を妊娠中事故が起きた。5ヵ月後出産。娘は健康でその子どもも健康。
 ブレストはポーランド国境に近い町で、さまざまな物資がブレストの駅を通る。チェルノブイリで事故が起きる前その駅の引込み線で高い線量の放射能が外国人によって偶然検出されたが、公式な原因の発表はなかった。地元住民は「ソ連からポーランド(あるいはその先にある国)にウラン鉱石が運ばれたからだ。」とうわさしたが真偽のほどは分からない。その後その引込み線は廃止され、現在は別の場所に引込み線が作られている。知らなかっただけで原発事故が起きるずっと前からいろんな場所が放射能汚染されていたのではないか。


(47)(A)女性 (B)4歳 (C)ボリシエ・ビコロビチ村(ウクライナ国境近く。チェルノブイリ原発から約220キロ) ブレスト (D)なし (E)頭痛 
(F)事故が起きてから3年後小学校に入学した。外国の支援で給食にたくさんのバナナやオレンジが出て、毎日たくさん食べていた。学校内で何回かWBCの測定を受けたことがある。ドイツやオランダ、ロシアなどに保養に子どもは集団で毎年行っている。村には80人ぐらい子どもが住んでいるが、健康な子供はほとんどいない。
 事故後40代50代の女性のガンが増えた。母も子宮がんになり手術を受けた。細胞検査の結果は「未知の種類のがん細胞。」
 父は4人の兄弟姉妹がいるが、全員ガンになった。みんな同じ村に住んでいる。
 35歳になる姉は慢性頭痛。いとこは甲状腺肥大。中年のがん、糖尿病、甲状腺の病気がとても多い。
 村でとれた牛乳は放射能の検査を受けている。基準値以下だと販売に回される。基準値以上だと正規の販売ルートでは売れないので、村のご近所さんに安く売っておりみんな基準値以上だと理解した上でそれを飲んでいる。

ベラルーシの保養所の数

2015-10-17 | 放射能関連情報
 今放射能関連のテーマについて原稿執筆中なのです。
 ベラルーシでの取り組みについて書いてくださいと頼まれたのですが、その中で保養について取り上げようと思いました。
 ベラルーシ人はよく保養施設に長期滞在するなど書いていたのですが、
「そういや、ベラルーシに保養施設っていくつぐらいあるんだろう・・・?」
とふと思いました。
 調べてみると、分かっただけで約700施設あることが分かりましたが、これでも完全に網羅した数ではないです。
 でもとりあえず700施設ちょうどあるとして計算したら、およそベラルーシの国民1万3000人に1施設あることになります。

 でも保養施設って言っても大小さまざまあるわけだし、収容人数ってどうなっているんだろう? とまた次の疑問がわき、調べることにしました。
 (ベラルーシってこういう数字データを一般人、つまり専門外の人に公開していないことが多いので、調べるの大変。)

 その結果、収容人数を公開している26保養施設を何とか発見。あくまでその平均ですが、1施設につき約280人の収容人数を誇ることが分かりました。
 国民46人につき1ベッドあるという状態です。保養期間を平均1回14日間とすると1年間に1つのベッドを26人がローテーションで使えます。
 ということは、ベラルーシ国民全員が1年に1回は無理としても、2年に1回は14日間の保養の機会に恵まれるという計算になります。

 あくまで単純計算ですがベラルーシ、すごい。保養大国ですよ。
 日本でも内部被爆に対応したプログラムを用意した保養プロジェクトを増やしてほしいです・・・
 でも日本人は仕事が忙しすぎて、場所より時間の確保のほうに問題があるかもしれませんね。
 

チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険

2015-10-12 | 放射能関連情報
 2015年10月12日の日本語ニュースです。

チェルノブイリで第2の放射能汚染の危険 森林火災で大気中に拡散し…

 あくまで私の意見なのですが・・・
 森林火災が広がり、本当にチェルノブイリ原発に燃え移ると、再び放射性物質が空気中に拡散して、大変危険。
 人の手入れがされていないので、枯れ葉などが大量に積もって燃えやすいから危険というのは理解できる。
 しかし放射性物質は事故から29年経過し、地中に浸透しているためそれが火災によって空中に拡散される可能性はとても低い。
 記事の中にあるようにモニタリングが安全な数値を示しているのは納得できる。

 7月にWBC検査を受けましたが、家族全員ゼロベクレルでした。(^^)
 もちろん自分が被爆してないから、空中への拡散がないとか言い切れるわけではありません。
 
 このニュースで扱っていることも気になりますが、いたずらに危機感を煽られたらいけないなあと思います。

 それより私が気になっているのは、セシウム137の半減期のことです。
 私は計算が苦手なのですが、数えてみたところ1986年4月26日にセシウムが放出されたとして、その半減期は2016年6月上旬に来るという答えになったのです。

 しかし私は専門家でもないうえ、数が苦手で、しかも計算にうるう年のことを考えに入れていません。
 はっきり分かりませんが、来年にはセシウム137の半減期が来るのは間違いないので、その後ベラルーシ人の内部被爆はどのように変化するのか非常に興味があります。

 楽観的かもしれませんがその後に森林火災が発生してセシウム137が空中に拡散されても、数としては怖がる必要は減ると思います。

 もっとも含まれるセシウム137の数は減っても、汚染された食品をじゃんじゃん食べたりしたら、内部被爆は減らないと思います。
 またセシウム137以外にも放射性核種は多く存在するので、セシウム137だけが減ったとしても安心できないと思います。


 


 
 

チェルノブイリ付近の森林火災

2015-05-03 | 放射能関連情報
 4月28日に発生したチェルノブイリ原発付記で起きた森林火災ですが、5月2日に鎮火しました。

 立ち入り禁止地区内で起きた火災、つまり放射能汚染が高い地域なので、火災が起きると放射能が舞い上がるのではないかと危惧されていたのですが、空間線量は通常の範囲内と発表されました。

 これを嘘の発表で、真実を隠していると思う人もいるでしょうが、私は正しい発表だと思います。
 事故から29年が経ち、森の上に降り注いだ放射能も雨水に溶けてどんどん地下へと浸透していっています。
 現在放射能は地表から約30センチの深さの部分にもぐっていっており、森が燃えてもそれが上空に舞い上がることはありません。

 もっとも森の地表部分の落ち葉が堆積しているところには、放射能がまだ残っていますが、全体からすると少量で、それが煙にのって舞い上がっても、遠く離れたキエフなど人口が多い地域の空間線量が大幅に上がることはないでしょう。

 それより問題なのは、これから地下水の汚染や、それにともない水源地や木の根が深く伸びる果樹などの汚染が今後進んでいくだろうと予想されることです。
 一方、来年の今頃はセシウムに関して言えば、セシウム137の半減期が来ますから、自然界で拡散したセシウム137の量は半分に減ります。
 ただし、生体濃縮は変わらず続きますから、ベラルーシ人のセシウム被爆量が突然半分になるとはいきません。現実は単純計算どおりにいかないです・・・。

 日本の場合、まだ放射能が地表や地表近くに残っていますので、汚染地域で森林火災が起きると上空に舞い上がる可能性が高いです。
 もっともあくまで私の予想ですが、ベラルーシよりも日本のほうが降水量が多いので、すでの多くの放射能が地面にしみこんでいると思います。
 つまりチェルノブイリの場合、1年に1センチのスピードで地下にしみこんでいっていることになりますが、日本の場合それを上回るスピードで地面にしみこんでいるいくと思います。

 またこちらは冬が長くその間土壌も凍結するので、放射能が地下水とともに移動することがないのですが、日本は冬が短いので、どんどん地下水といっしょに移動していくと思われます。

 また日本の場合森林火災の煙で放射能が舞い上がるという以前に台風がどんどんやってくる気候なのですから、そのことも考えないといけません。

 さらに日本は周囲を海に囲まれています。
 このようにチェルノブイリのケースと日本のケースは条件が異なるので、その点を考慮しないといけません。

 線量計をお持ちの方は台風や森林火災が起きた後、変化が起きないか前後で測定してみてください。
 

チェルノブイリから29年 1986年の写真報道 4

2015-04-26 | 放射能関連情報
 4ページ目です。この特集記事の最後のページです。
 コウノトリのような原発事故とは無関係な感じの写真も採用されていますが。
 左下の作業員?(医師?)はぐったりしています。
 右下の作業員も今どうしているのでしょうか。

 撮影した1人、イーゴリ・コスチンは事故当時50歳で、今もキエフでご存命です。
 事故だけではなく、その後の事故の影響についても撮影を続け、その写真の数は5000枚を越えました。
 しかし何度も4号炉に入って撮影をしたため、150レントゲンの被爆をしてしまい、事故が起きてから7ヵ月後には最初の入院をし、その後も入退院と手術を繰り返しています。

 当時のことを振り返り、事故発生から25年目の2011年にインタビューを受けています。
「事故が起きたことはすぐにはほとんど報道されなかった。しかし4月29日には現地入りして避難する人たちを撮影していた。」
「キエフに放射能の雨が降ったのは5月2日だったと後から知った。その日の夕方、息子を連れて演劇を見に行った。帰り道暖かい雨が降り濡れてしまった。息子に対し今でも自分のことが許せない。」
「本当はすぐに息子を疎開させたかった。しかし列車の切符は売り切れて買うことができなかった。5月中旬になってやっと席を予約して、息子をオデッサの友人宅に疎開させた。」
「誰かがこれを撮影しなくてはならないのだ、という気持ちで撮り続けた。」
「事故処理作業員の中でも特に兵士を誇りに思う。彼らは『生きているロボット』として投入されていた。任務を断ることは彼らはできなかった。」

 (上記のリンク先ですが、障害児の画像なども公開されているので、希望されない方はリンク先を開かないでください。)

 やはり現場を見た人たちの証言は写真も言葉も生々しいですね。
 日本でも2011年の福島第1原発事故以降、チェルノブイリ原発を撮影したカメラマンたちの言葉に同感できる人が増えたのではないでしょうか。 
 


 

 

チェルノブイリから29年 1986年の写真報道 3

2015-04-26 | 放射能関連情報
 3人のカメラマンのうち、ワレリー・ズファロフは、1993年に52歳で亡くなっています。
 死因は白血病で、チェルノブイリ事故直後現地で撮影をしていたから、ということになっています。
 計算すると1941年ごろの生まれで、事故が起きたとき45歳、その7年後に亡くなっていることになります。

 この写真に写っている人たち、ヘリコプターの操縦士や医者、除染作業をした人たちですが、今はどうしているのでしょうか。

 撮影者の1人のビタリー・アニコフは現在ウラジオストックで現役カメラマンとして活躍しています。
 ソ連軍の写真記録係としてのカメラマンだったそうで、事故が起きたときも軍の指令で事故のようすを記録するために派遣されたそうです。
 2013年4月26日付ロシアのニュースサイトでインタビュー記事が掲載されていますが、それを読むとこのように語っています。
「若い人が現場へ行ったら被爆して危険なので、すでに子どもが2人いた自分は指令が来たときに不安も会ったが行くと答えた。」
「事故発生後6日目に原発から12キロの地点に入り、撮影をした。」
「地元住民にも会ったが、どうして避難しないといけないのか分からず戸惑っているおばあさんがいた。」
「現地での出来事はよく覚えている。映画の中の世界のようだった。」
「列車で帰宅したが、自分の服から放射能のちりが他の乗客に移るのではないかと思い、座席には座らず、通路にずっと立っていた。」
「帰宅後、着ていた服は自分で切断し捨てた。」
「妻は自分がどこへ行ったのか知らずにいて、とても心配していた。」
「自分が撮影した写真はセンセーションを巻き起こしたと言われているが、自分としては任務を遂行しただけ。」
「自分が撮影した写真は私にとって貴重なものばかり。例えばこの事故処理作業に関わった若い女性たち。カメラに向かって微笑んでいるけれど、その後どうなったのか見るたびに気になる。」


チェルノブイリから29年 1986年の写真報道 2

2015-04-26 | 放射能関連情報
 2ページ目です。
 写真はビタリー・アニコフ、ワレリー・ズファロフ、イーゴリ・コスチンの3人が撮影しています。
 この特集の記事を書いた人はM.ユルコというこの雑誌の編集部で働いていたライターです。

 記事を読みましたが、「ああ、ソ連時代の報道記事だなあ。」という文章で、事故が発生し、消防士などが勇敢にも犠牲となって、国民の健康被害を減らすために必死の消火作業や除染作業をした・・・と英雄的行為を賞賛しています。

 さらには自らの被爆を省みず、報道のために現地へ向かったカメラマンたちのことも褒めています。

 まあ、読んでもおもしろくない内容です。ただ、後半にライターがカメラマンの1人コスチンにキエフへ電話してインタビューをしています。
 それによると、コスチンは現場上空へヘリコプターに載り3回も飛行したこと、飛行するたびに距離を縮めていったこと、放射能のせいでフィルムが感光してしまうため、撮影は大急ぎで行われたことなどを語っています。

 さらにコスチンはこのように話しています。
「完璧に平常心を保っていたと言えばうそになる。撮影出発前、敷居を跨ぐ前に立ち止まってしまった。怖かった。しかし職業上の条件反射が起こった。撮影しなくては! いざ撮影が始まると何もかも忘れたかのようになった。とにかく写真の中心に対象物を捉えるようにした。最後の撮影のときは原子炉のぎりぎり近くまで飛んで、5回旋回しただけだったが、使える写真は撮れたと確信した。撮影したものは報道部に渡してある。明日はまたチェルノブイリへ行って撮影を続ける。」

  

 

チェルノブイリから29年 1986年の写真報道 1

2015-04-26 | 放射能関連情報
 2015年4月26日、チェルノブイリ原発事故発生から29年を迎えます。
 
 今私の手元に雑誌「ソビエツコエ・フォト」1986年8月号があるのですが、チェルノブイリ原発事故の特集ページがあります。
 この雑誌は1997年に廃刊となりました。(1992年には雑誌名が「フォトグラフィヤ」に変更されています。)
 編集者は「ソ連ジャーナリスト連盟」で、1926年発刊。
 写真の雑誌なのですが、報道写真の掲載に力を置いていて、起きた直後は秘密にされていたチェルノブイリ原発事故でしたが、同じ年の8月号では「チェルノブイリ特集」が組まれています。

 4月下旬に事故が起きて、7月に雑誌の特集に選ばれたというのは、早いのか遅いのか分かりませんが、この雑誌は当時写真を多用した報道雑誌としてはソ連で一番権威のあった雑誌なので、それに採用が選ばれた写真というのは、何かの意味があってこそだと感じます。

 この雑誌をネット上で見ることはできないのかあれこれ試してみたのですが、古い雑誌でけっこう難しいのとチェルノブイリに関係のある写真だけ拾えればいいので、ピックアップしたものをこのブログ上でご紹介します。
(あ、でも著作権の問題とか出てくるのかな? 出版社はすでに存在しないのですが。)
 もし公開に問題が出てくれば、すぐに公開を中止するつもりで公開します。

 まず1ページ目。「犠牲についてのレポルタージュ」という記事のタイトルです。
 複数の写真が掲載されていますが、撮影したのは3名で誰がどの写真を撮ったのか具体的な記述はありません。また各写真についての詳しい説明もありません。
 これらの写真は3人連名で「チェルノブイリの熱い日々」というタイトルがつけられています。
 
 説明がないので、はっきりしない写真もありますが、上の写真はチェルノブイリ原発の消火作業しているヘリコプターです。
 左下の写真はよく分かりません。似たような画像がないか検索してみたのですが、見つかりませんでした。

 右下の写真は建物の測定をしているところですね。

東京・豊島区の公園で高い放射線量

2015-04-24 | 放射能関連情報
 4月23日の日本発のニュースですが・・・


池袋の公園地中から“円盤” 放射線原因か

日本テレビ系(NNN) 4月24日(金)18時4分配信
 東京・池袋の公園で非常に高い放射線量が測定された問題で、24日午後、土の中から円盤状の塊が見つかった。この塊が、高い放射線の原因だとみられている。

 この問題は、豊島区池袋本町にある公園のすべり台の下から1時間あたり480マイクロシーベルトという非常に高い放射線量が検出されたもの。24日、区が現場の土を掘ったところ、深さ10センチほどの場所から、土にまみれた円盤のような塊が見つかり、これを取り除いたところ、線量が下がったという。

 区では、この塊が高い放射線の原因だった可能性もあるとみて専門機関で詳しく調べると共に、25日以降、周りの土を取り除くなどして、通常通り遊べる環境に戻す方針。


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 現在多くの日本人が線量計を持っているようになりました。
 「福島イコール危険。それ以外の地域イコール安全」という固定観念は捨てて、自宅の周辺や子どもが遊ぶ場所など、線量計を持っている方はぜひ測定してみてください。

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 4月29日の追記です。
 ラジウム226が原因だったそうです。
 続報はこちら


池袋、公園の土から3ミリ金属容器にラジウム

産経新聞 4月29日(水)7時55分配信


 東京都豊島区立「池袋本町電車の見える公園」で高い放射線量が測定された問題で、豊島区は28日、公園から採取した土壌から、放射性物質ラジウム226が入った金属製のカプセルが発見されたと発表した。

 区によると、カプセルは密閉されており、大きさは直径3ミリ、高さ3ミリ。カプセルから放出されていたガンマ線を測定した結果、ラジウム226と特定した。

 高い放射線量は公園内の滑り台などが付いた複合遊具付近の地表の一部から検出された。区が23日に測定したところ、国の除染の基準値(毎時0・23マイクロシーベルト)を大きく上回る同480マイクロシーベルトの放射線量を検出。土の一部を掘り出したところ、放射線量が急激に下がったため、専門機関で原因を調べていた。

 区によると、公園は平成25年3月に開園し、以前は都の清掃車の車庫だったという。

震災から4年

2015-03-11 | 放射能関連情報
 東日本大震災が発生して4年となりました。
 日本から離れたところに住んでいても、あの震災のことを思い出します。
 そして福島第1原発事故が起きてから4年目にもなります。
 チェルノブイリ原発事故の際には事故が起きて4年後から子どもの甲状腺がんの数が急増したことで知られています。
 日本で同じことにならないよう祈るばかりです。

 しかし私の考えですが、このような急増は日本では起こらないのではないかと思っています。
 それは検査の方法や機械や技術が1990年のソ連と2015年の日本では差があるからです。

 以前日本人の医師と話をしたときに
「日本では子どもの甲状腺がんが起こる確率は100万人に1人なんですよね。それが原発事故後、増えたらやはり放射能が原因と言えるのではないですか?」
と私が質問すると、お医者さんは「そうと言い切れない。」と答えました。
 それは事故の前は、子どもに対して事故の後の現在のように詳細な検査をしていなかったからです。検査の条件がちがうので、単純比較できないのです。

 事故前に日本中の子どもの甲状腺を詳しく調べて、「発症率は100万人に1人」と結論づけていたのではないのです。
 仮に現在検査をして「100万人に10人」の割合で甲状腺がんの子どもが見つかったとします。
 これだけ見て、「発症率が10倍になった! 放射能のせいだ!」とは言えないということになります。
 もしかすると、事故前も詳しい検査をしていたら「100万人に10人」の割合だったかもしれないのです。

 チェルノブイリ関連の放射能被爆に関するボランティアをしていると、よく日本人から「データがほしい。」「数字を示してほしい。」と言われます。
 それで数字を出しても「ソ連は秘密主義の国だから、やっぱり信じない。」「ベラルーシは医療レベルが低いからやっぱり信じない。」と言われることもあります。
 「明確なことは分からない。」と言うと「科学的データがないから、チェルノブイリの事例は役に立たない。」とか言われることもあります。

 でもはっきり言って、前述の医師の話を聞くと日本も同じで、はっきりした数字なんてどこにもないし、事故前と事故後と比較することもできないのではないかと思えてきます。
 もう時間は戻りませんから、事故前のデータというのは集められないからです。

 放射能被爆に関しては、現時点では確実な数字というのはないと思っておいたほうがいいのかもしれません。
 まだまだ人類がよく分かっていない、公式も作れない、体験もない、というものを相手にしているのだと思ったほうがいいのかもしれません。

 とにかく、日本で病気になる人が増えないことを祈ります。

 私はベラルーシで、日本人の科学者からすると役に立たない数字かもしれませんが、それでも子どもたちの被爆量を聞き取って、必要な子どもにビタペクトを渡す活動をできる限り続けていこうと思っています。
 
 

漫画「美味しんぼ」をめぐって論争が起こっていますが

2014-05-22 | 放射能関連情報
 先日発表された漫画「美味しんぼ 第604話 福島の真実編」で、登場人物が福島第一原発に取材に行った後、疲労感をおぼえたり鼻血を出したりするなど、体調の異変を訴え、実在の前福島県双葉町長が「福島では同じ症状の人が大勢いますよ。」と言う場面が描かれました。

 これに対して「風評被害を助長する内容」との批判されたり、作者が「私は自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない」と語ったり、双葉町が出版社に抗議したり、福島県のサイトにも抗議文が公開されたり、環境大臣も記者会見で鼻血と原発事故の因果関係を否定したりしました。

 漫画なんだから、作者には表現の自由がある、という考えや、いやこの漫画は人気のある作品なんだから影響力を考えるべきだった、という意見もあります。(人気のない漫画だったら、責任とか考えず、何描いてもいいのかね・・・?)
 漫画でもやりすぎだとか、いやよくぞ言ってくれた、という意見。
 因果関係をはっきりさせてほしい、という意見・・・などなどが噴出しました。

 私はここで、この意見のほうが正しい、とか鼻血が出るのは被曝のせいですよ! と断定したりするつもりはさらさらありません。
 ちょっと違うことを思い出したのです。

 今から20年近く前のことです。つまりチェルノブイリ原発事故から10年も経ってないような時期でした。当然のことながら福島第一原発事故が日本で起きる前のことです。
 日本にロシアの児童文学を研究しているグループがありまして、1年に1回会報誌というか、研究発表のための雑誌を発行しています。
 そのグループから次号にベラルーシの児童文学について寄稿してほしいと頼まれました。
 それはいいのですが、グループのメンバーの1人(その人は現在すでにこのグループを脱退しています。)がこう言い出したのです。
「ベラルーシにはチェルノブイリ原発事故をテーマにした児童文学があるでしょう? それについて紹介する原稿を書いて下さい。」
 私がそのような作品はないと答えると、その人は「ええ?」という怪訝そうな顔をしました。
「チェルノブイリの事故のせいで白血病になって死んだ子どもの話や、ふるさとの村が汚染地域になって移住しながらも、新しい地でけなげに生きる家族の物語とか、そういうのないの?」
ときかれたのですが、児童文学(つまりフィクション、創作)ではそのような作品はベラルーシにはありません、と答えました。

 その人は、理解できない! という反応で、
「どうしてそういう子ども向けの文学作品をベラルーシ人はつくらないのか?」
と言い出し、さらには「日本なんか、外国で起きた事故なのにチェルノブイリをテーマにした漫画だってあるのよ。それに引き換えベラルーシ人は何もしないのね。自分の国で起きたことなのに。」
と批判し、
「ベラルーシ人はダメ民族。」
という結論を下しました。 

 このダメ民族ってつまり何? と言われれば
「自国の問題を子どもに分かりやすく語って聞かせようとしない。自国の問題に向き合おうとしないふまじめな態度。怠け者であり、頭脳も使わない。つまり優秀ではない民族。(それに引き換え日本人は優秀。)」
 ということです。(あくまでこの人の個人的な意見です。)


 この人に対して私はこのような提案をしました。
「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」という本があります。これはチェルノブイリで被災した子ども達の作文集です。子ども達の体験したことが子どもの手によって書かれています。この本について原稿を書くのがいいと思いますが・・・

 しかし、「私たちのグループは児童文学をテーマにしているので、原稿で取り上げるのもプロの作家による文学作品でないとだめだから。」という理由で却下されました。

 結局チェルノブイリとは全然関係のない、ベラルーシ児童文学作品について原稿を書いてこの件は終わりました。

 ここで、どうしてベラルーシにはチェルノブイリをテーマにした児童文学作品がないのか、説明します。
 チェルノブイリをテーマにした創作で、大人向けの作品はあります。しかしベラルーシでは基本的に児童文学と言うのは対象年齢が14歳までとなっており、したがって子ども向けではないと表現やシーンが描写されるのは、教育上よくない、とされています。
 主に飲酒や喫煙シーンや性的な描写、残酷なストーリーなどです。
 このような描写があると児童文学のジャンルから外されます。
 チェルノブイリについては小さい子どもに語って聞かせるには、かわいそうすぎる、不安感を扇動する、五感では分からない放射能の説明を子どもにも分かるように説明するのは難しい、よく分からないまま「危険だ」「恐ろしい」と吹き込むのは、子どもにとってストレスになる・・・といった理由で「話すのはやめておいたほうがいい。」というテーマに分類されるのです。

 「チェルノブイリ」というより「放射能被曝と健康」というくくりで子どもに教えるのは中学生以降です。
 それもフィクションである文学作品として、要するに作り話で「マーシャは10歳で白血病で死にました。」といったお話を子どもに話すのは、意味がないし、建設的でもないというのがベラルーシ人の考えです。

 それより中学生ぐらいになってから、歴史の授業で「1986年に原発事故がおきました。」と教え、理科の授業で「放射能とはこういうものです。」と科学的に説明し、保健体育の授業で「被曝を防ぐにはどのような食生活を送れば言いのか。」を教えるほうが、実際的であるということです。
 もちろん消火作業に従事して急死してしまった消防士の話や、たくさんの子どもが甲状腺がんになった、と言う話も教育現場でしますが、これは日本で言うと道徳の授業の範囲内で、つまり、気の毒な子どもには同情し、遺族を思いやりましょう、勇敢な消防士さんたちに感謝しましょう、という心の教育です。

 ベラルーシ人に前述の日本人の意見を話すと
「そんなお涙ちょうだいの創作を小さい子どもに読ませてどうするの? そんな作品子どもは読みたがらないし、親も読ませたくないよ。だから文学者も作らないんですよ。」
と言われました。
 私も同感です。

 ベラルーシの児童文学でチェルノブイリをテーマにした作品がない理由がお分かりいただけでしょうか。

 チェルノブイリをテーマにした漫画はベラルーシ以外の国で作られています。一番多いのが日本です。
 それは日本が漫画大国だから。ベラルーシには日本人が想像するプロの漫画家は(私が知るかぎり今のところ)いません。
 ベラルーシにはチェルノブイリをテーマにした漫画を書く人がいないのです。

 それに対し、日本はよその国のことですが、漫画でチェルノブイリのことを表現してくれます。
 やはり20年ぐらい前にそういう日本人が描いたチェルノブイリの漫画を読んだことがありますが、ベラルーシに住んでいる者からすると描写にリアリティーがない(ああ、外国人の抱いているベラルーシのイメージってこんな感じかな・・・と思いました。)さらに白血病にかかった女の子が、死の直前まで家族と会話していて、その会話の途中にガッと血を吐いて、一瞬で絶命・・・とか、実際に起こった事故をテーマにしているのに、やはりリアリティーがない・・・と思いました。

 死の直前の白血病患者さんは意識も混濁して、こんなにぺらぺら話なんかできないし、それこそ白血病患者は必ず口から血しぶきをあげてから死ぬ、といったイメージを読者に植え付けませんかね? 
 「美味しんぼ」で主人公が鼻血を出すシーンを描いたら、「福島の住民みんなが鼻血だしてるわけじゃないのに!」と批判するけど、誤った描写や不自然な描写なんて、漫画(創作)の世界ではいっぱいありますよ。
 でも「美味しんぼ」は人気漫画だから「影響を考えろ。」と言われるんですね。
 無名漫画だったら、おかしな描写をしても影響力が小さいから、そんなに批判しなくてもいい、という考えでしょうか。
 でも、こういう考えは変だと私は思います。

 こういう考えが当たり前になると、有名な作品では超リアルに、間違ったことは描かないように注意しないといけない。(表現という観点からすると、作品の世界が縮こまって、芸術としてはおもしろくない方向に進みそうだ。)
 無名の作品なら、事実と異なる表現もOK。(芸術としてはおもしろい方向に進みそうだけど、「それはいくらなんでもないでしょ。」「傷つく人がいるよ!」という批判はしなくてもいいし、批判も受け付けなくていい、という考えになります。)

 一方で前述の日本人の意見を思い返すと、福島第一原発事故が起きてから、3年ほどなのに漫画の世界で早速取り上げられるなんて、さすが日本人ですよ。ベラルーシより優秀な民族なのですから、当然とこの人は今思っているでしょうね。

 しかも「美味しんぼ」については論争まで巻き起こり、政治家まで発言するんですから、ベラルーシではありえない状況です。

 すばらしい。日本人の皆さんは表現の自由があること、表現の場があること、美しくても醜くても論争を戦わせることができる環境の中にいるのですよ。
 今後も大いにあらゆる表現媒体を駆使して、福島第一原発事故をテーマに取り上げ、どんどん表現してください。
 そしてどんどん議論してください。議論して意見を言い合うのは大事なことだと思います。


 さて、ついでながら、前述の作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」についてです。
 この本について原稿を書くほうが、チェルノブイリの被災者の生の声を紹介できるのになあ、と思っていた私は提案を却下されて、少々がっかりしていました。

 それから数年後・・・チェルノブイリの子ども達を支援している日本の方からこんな話を聞きました。
 あの作文集はコンクールをして作品を募集し、審査員が目を通して優秀な作品をまとめて印刷されました。翻訳して日本で販売して売上金の一部はチェルノブイリ被災児救援活動の資金にしようという考えも出て、実際そうなりました。
 さらに作文が載った子どものうち3人を選んで日本へ保養に招待することになりました。
 選んだのはベラルーシ側で、私にこの話をしたのは受け入れた日本側の団体のメンバーです。

 やがて保養滞在のためにベラルーシの子ども3人が来日しました。そのうちの1人、オーリャさんは自分が書いた作文の中で
「私は白血病になってしまった。入院している。」
といったことを書いた子どもだったのです。
 作文の中では明らかに重症患者になっている様子を書いていましたが、日本に来た彼女はピンピンしています。
 日本人ボランティアが、本人に尋ねると
「私は白血病にはかかっていない。健康です。でもあるとき病院に行ったら、私と同じ名前でオーリャという白血病の女の子と知り合ったの。あの作文はコンクールのことを聞いて、その女の子の気持ちになって書いてみたの。」
と答えたそうです。

 チェルノブイリ被災児の作文集、と聞くと、当然自分の実体験のことを綴っているだろう、と思いますが、実際は創作の作品も混ざっていたのです。
 オーリャさんを保養に選んだベラルーシ側にその後、問いただしたところ
「彼女の作品は文学的です。作文として優秀です。だから選びました。」
という回答だったそうです。
 日本側としては賞金代わりの旅行目的でベラルーシの子どもを日本に呼んだのではなく、保養目的だったんですけどね。

 その後私はこの本をあまり読まなくなりました。もしかしたら他にも、自分の体験談ではなく、架空の話を書いた子どもの作文が載っているかもしれないからです。

 つまり「これはノンフィクションの作文集で、子ども達の体験に基づいた実話ですよ。」と宣伝している本の中にも創作やフィクションが混ざっているんです。

 (今から考えると、依頼された原稿のテーマにこの本のことが採用されなくて、かえってよかったです。)

 「美味しんぼ」は漫画であって、創作の世界です。主役の山岡さんなども実在しないのです。実在しない人が漫画の中でいくら鼻血を出しても、これは被爆が原因です、という証明にはなりません。
 ところがこの作品には実在の人物も登場して、「証言」をしています。これで「鼻血の人が増えています」の根拠にしないと、「いいかげんなことを想像で描いている。」と批判されるからでしょう。

 いくら実在の人物であっても、漫画の中の発言だからこれは証拠にはならない、という考えの人もいるだろうし、逆に漫画の中でも実名を出しているんだから証拠になる、という考えの人もいるでしょう。
 このあたりが論争になってしまう理由なのかな、と思っています。

 漫画は漫画、創作の世界であって、リアルの世界ではない! とぶちっと区分けできるものでもないですよね。
 漫画でも映画でも、創作と現実の境界線の上にあるような作品が多いし、そういう作品のほうがおもしろかったりします。
 
 映画の「タイタニック」でも実際に起こった事故を扱っていますが、実在しない登場人物がいたり、実際はなかった出来事があたかもあったかのように映し出されています。
 実際に会ったことだけを忠実になぞるべき!と言う人もいるでしょうが、それだと、あの映画はあれほどヒットしたでしょうか。

 つまり創作部分とリアリティーのさじ加減をどうするか、というのが、作品によってそれぞれで、微妙で、そこが作品の醍醐味だったりします。

 子どものときは魔法使いが魔法をじゃんじゃん使う話を読んでも、すんなり感情移入できますが、大人になると「これは創作の世界だし、現実にはありえないよねー。」と思いながら、読んでしまいません?

 作者のほうのさじ加減もあるし、読者の側の受け止め方も人さまざまだと思います。

 結局何が言いたいかと言うと、前述の作文集の場合は「これは実話ですよ。」という前提で、(しかも子どもの本名や顔写真も載っています。)作られた本なので、そこへ創作の作文は混ぜないでほしい、ということです。

 しかし漫画のような創作ですよ、という作品の場合、100%真実を語っているとは思わないほうがいいということです。

 でも真実が0%というわけでもないのですから、この作品をきっかけに、取り上げられているテーマについて考えてみたり、議論しあうきっかけになればいいのでは、と思います。日本人はダメ民族ではないのですから。(^^;) 


・・・・・・・

 追記

 チロ基金が行っている聞き取り調査の結果を公表していますが、これだけ見るとチェルノブイリ原発事故後、鼻血に悩まされた人はいませんね。
 もっとも対象者の数が少ないので、これだけでは被爆と鼻血は関係ない、という証拠にはなりませんが、ご参考までに。
 

チェルノブイリ原発事故から28年

2014-04-26 | 放射能関連情報
今年でチェルノブイリ原発事故が発生してから28年となりました。
 ベラルーシ人の間では、若い世代も増えてきて、事故のことを覚えているはずの年代の人も記憶があいまいになってきています。

そして今日を境に、ということではないのですが、28年の節目を前にベラルーシ国内の汚染地域は全て指定から解除されました。つまり元汚染地域はあちこちにあるのですが、現在汚染地域という場所で、人が住み続けていたような場所は全て、公式には汚染地域ではなくなり、引っ越してきてもいいし、住居を建設してもよい、ということになったのです。
 かつてそこに住んでいた人の中には、戻ってこようとしている人もいます。もちろん強制的に帰還命令が出ているわけではないので、自分の意思で戻らないと決めている人もいます。

 そこで農作物を作るのもOKです。
 本当にこれでいいのか、という気持ちがあります。そう思いながら暮らし続けている人もたくさんいるでしょう。
 ちなみに同じ原発事故で指定された汚染地域でも、国境を越えてウクライナ国内にある場合は、指定解除されていません。あくまでベラルーシ国内だけでの決定なのです。

 日本の28年後はどうなっているでしょうか。ベラルーシのように汚染地域がすっかりなくなっているでしょうか。人々は自分が住んでいた地域に戻ってきて、健康に暮らし続けることができているでしょうか。そうなっていてほしいと望みます。