猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日

『あんじゃあない』って、心配ない、大丈夫っていう群馬の言葉、いい歳こいたキキとおヒゲのどうってことない前橋の暮らしです

8月5日は前橋空襲の日です。前橋のまちは破壊と殺戮を出発点として出来上がっているんです

2017-08-05 05:58:29 | あんじゃあない毎日

広瀬川の比刀根橋の袂にある前橋空襲戦没者慰霊碑です。今日の午前9時からここで前橋空襲で犠牲になった皆さんの慰霊祭が開かれます。
そうなんです、1945年8月5日の夜の、このまちは米軍の大規模な空襲に見舞われたんです。72年前のことなんです。
この慰霊碑のある場所には、地域住民が共同で使う大規模な防空壕がつくられていました。そして、空襲時にそこに逃げ込んだほとんどの住民が死んでしまったのです。

Dscf1749 前橋が米軍のB29型爆撃機を主体とする爆撃により破壊されたのは、1945年8月5日の夜10時からでした。左の地図の赤く塗られた所が空襲を受けた地域です。

今日明らかになっている前橋空襲の記録です。
襲撃した米軍の爆撃機 B29 92機
投下した爆弾 723.8トン(少尉爆弾691.0トン 破裂爆弾17.6トン 通常爆弾15.2トン)
焼失面積 当時の市街地の80%
焼け落ちた家 11,518戸
死者 535名
負傷者 600名以上(きちんとした記録はありません)

 住吉町2丁目の皆さんの主催で開かれる慰霊祭に毎年参加させていただいてきました。でも、今年は参加できません。
城東町4丁目の納涼祭と重なってしまって、その準備作業をしなくてはなりません。申し訳ないことですが、お許しいただくことにしました。

 

 比刀根橋の舗道の縁石には、今も空襲の傷が遺されています。
当時を知る人の話では、米軍の爆撃部隊は前橋上空に到達すると、円を描くように編隊飛行をし、照明弾を投下したそうです。前橋のまちは、真昼間のような明るさになったと言われています。

  それから、焼夷弾の投下がはじまったそうです。
空襲のときにはまだ渋川のまちで暮らしていた青井食堂のおかみさんの話では、「八幡山の上から見てたんよ、前橋の空が真っ赤になって、燃え上がっているのを…」、渋川からも見えたんですね。
比刀根橋に近い愛宕神社の境内には、比刀根橋の回収の時に取り除かれた縁石の一部が保存されています。空襲の傷跡が残っているんです。
このお社の西隣に『柳座』という劇場があったんです。ここで直派若柳流美登利会は始まりました。伯母さんの初舞台もこの劇場なんです。

愛宕神社の北西隣りに、あたご歴史資料館があります。住吉町2丁目の皆さんが開設した資料館です。
前橋空襲の記録や柳座に関する資料も収集されています。
その庭先には、戦争末期に当時の行政が住民を指導して作らせた家庭用の小型防空壕、そして空襲を受けたときの火消しのための防火用水と火消し棒が復元れています。
何の役にも立たなかった防空壕です。防火設備です。空しいことです。

 広瀬川の対岸にある熊野神社です。
コチラでは、氏子の皆さんによる『平和祈願祭』が毎年開かれています。昼近くに始まって、夜まで続きます。参道には行燈が点されます。こちらへはお参りできそうです。

 

 フヨウの花が咲きました。毎年、この日あたりで咲くんです。
太平洋戦争の末期、米軍は軍事施設や戦闘員でない一般市民の暮らす都市を空爆することにしました。東京大空襲はもとより、全国で200以上の都市が攻撃目標とされたのです。そして、少なくとも25万人以上の非戦闘員である一般市民が犠牲になったんです。前橋の535名もそのうちなんです。

 当時、アメリカで日本本土空襲計画を検討していたのは国家防衛調査委員会(NDRC)でした。NDRCで焼夷弾の研究開発を担当していた責任者は「軍需工場を爆撃する精密爆撃よりも焼夷弾による市街地絨毯爆撃をおこなうべきだ」と主張したと記録されています。
そして、「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこさせ、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」とする報告書が遺されているそうです。

 

この写真は、伯母さんの吉駒の手元に残されていたものです。前橋空襲から三か月後の11月に前橋公園の特設舞台で公演された『前橋市戦災復興慰問舞踊大会』の様子を伝えています。裃姿の後見役は先代の吉駒です。そして三番叟をつとめているのが師匠の吉佑です。

コチラは『釣女』、客演した歌舞伎俳優の松本幸四郎や阪東三津五郎の姿があります。
そうなんです。破壊と殺戮の三月後に、復興のためのイベントを開いていたんです。このまちの姿です。

 

  馬場川沿いの道を散歩してました。前に「坐るしかない橋」と名付けた橋に坐りこんでました。
「焼け野原に、燃え残った土蔵とさ、麻屋のビルだけがオッ立ってたのよね」、空襲を目の当たりにした女性の話です。みんな失ったんです。失ったのは人名や建物だけではないのです。一緒に歴史と文化も失ったんです。

 前橋のまちは、破壊と殺戮を出発点につくられたまちなんだと感じています。私は、『復興』という名の新しいこのまちの歴史の中で育ったんです。だから、8月5日は、私の原点なんだなって思うんです。

 このまちでは、今も区画整理事業がすすめられています。戦災復興からそれに続く市街地整備としての区画整理事業が、72年経った今も行われています。この馬場川沿いの細道も、川に架けられた木の橋や石造りの橋も姿を変えて行くと思います。二中地区区画整理事業というのがすすめられているんです。
風景が失われていくのを嘆いているのではありません。変わるしかない、変えるしかない選択をせざるを得なかったこのまちの歴史を振り返っているんです。どうして、そうなったのかと…

 川沿いの住宅も取り壊しを前に住む人が去っています。玄関に続く橋をノブドウが覆い隠そうとしています。ノブドウごと、橋も建物も間もなく姿を消すはずです。
前橋空襲の後につくられた風景が、50年ほどで幕を閉じるんです。変え続けることが使命と信じている皆さんが暮らしているんです。このまちには…

 

交水堰です。前橋空襲が始まる前に、前橋の製糸工場の大半は陸軍省に接収され軍需工場となりました。交水社もそうだったんです。女学校や女子師範学校の生徒が学徒動員され、パラシュートの縫製や、軍需用品の製作が行われていたんだそうです。
勢多農林の生徒は、「食糧増産の先兵」として、北海道の農場まで援農に駆り出されていたんです。

壊されたのはまちの風景だけでないのですよね。いろんなものが、若者の人生そのものが、まちの歴史や文化もいっしょくたに破壊されたんです。悲しいことです。悲しいけど、それがこのまちと私の出発点なんです。事実なのです。

 

 <これからおヒゲはさ、納涼祭の準備に行くのよね。昼休みがあるから、そん時に熊野さんの平和祈願祭へは顔出せそうだって…
ちなみにね、住吉町2丁目の皆さんは、納涼祭を6日にして、今日は追悼行事に専念するそうですよ>

 

 

 直派若柳流の若柳糸駒ことユキ子でございます。
師匠は祖母の初代若柳吉駒、今は伯母の二代目吉駒の下で修業しております。来春の美登利会は75回目の節目を迎えます。4月8日に開催いたしますので、引き続きよろしくお引き立ていただきますようお願い申し上げます。

今春の第74回美登利会の舞台の様子はコチラでご覧になれますす
お稽古場は前橋市城東町四丁目です。詳しくはコチラをご覧ください

 

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