比企の丘

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天草の旅・・・・・富岡城址・・・神様になった代官

2007-12-23 | 古城・城址・陣屋・館跡
天草の旅です。富岡城跡にやってきました。
地図を開いてみてください。難攻不落の城であることがよくわかります。
富岡城址周辺の地図
この城は狭い砂洲で繋がれた陸繋島。富岡湾と島の間には砂嘴が伸びていて巴湾、
さらに海面よりやや高い位置に袋池。2重の濠の役割りです。城の位置は海抜60m。回りは崖です。典型的な山城です。写真は巴湾の方角から袋池、そして山の上に見えるのが吉岡城です。

駐車場から歩いて二の丸の広場のほうに登って行きます。それだけでもヘトヘトになる急坂です。一揆軍はこの坂を「サンチャーゴ」というわけのわからない雄叫びを上げて突っ込んでいったらしいです。

二の丸の広場。お城も石垣も植栽もなにもかも新しい。

ムッムッムッ~・・・ここは富岡城ではない 
富岡城は1670年「廃城」(戸田の破城)になっているのです。

大きな銅像が2基。一つはこの天草で神様になった天領代官鈴木重成とその兄の鈴木正三、もう一つは頼山陽、勝海舟の像です。




島原・天草の乱。富岡城、そして鈴木重成。

1600年領主小西行長が関ヶ原で負け領地没収になり天草諸島は唐津藩(寺沢広高)の飛び地領になります。これが悲劇の始まりです。寺沢広高はなぜかあらためて検地を行い42000石と定めます(実高は半分といわれます)。壮大なハコモノ、城を築造(1605年)、城代を置きます。難攻不落の城は32年後に起こる一揆を想定していたのでしょうか。
表高と実高が合わないのはよくあることですがほかに生産のないこの島はたちまち財政破綻。百姓から搾り取るだけ搾ろうとしてもなにもないのです。切支丹禁教(1614年)。幕府からの行政指導により厳しい切支丹狩りが始まります。税金の取立てと切支丹狩り。ちょうど同じころ松倉勝家の島原藩もが同じような苛斂誅求を行っています。島原・天草の乱はまったく違う地域で同時発生で自然発生的に起こります。天草四郎、若干16歳、(たぶん)なにも判断力のない大矢野島の帰農武士のオボッチャンが小西の残党に担がれてカリスマのようになります。彼の史実を伝えるものはほとんどないようですが天草四郎記念館なんていうものがあります。話がそれました。
1637年一揆勢は城代三宅藤兵衛を本渡で討ち死させ富岡城に襲い掛かります。このとき城を守る原田伊予という知恵モノが城の麓の砂洲の民家、二の丸を焼いてガードを固めて本丸に貝のように閉じこもってしまいます。専守防衛です。
難攻不落の城攻めを諦めた一揆勢は海を渡り島原に。原城に閉じこもった38000人が1人を残して虐殺されるのは1638年のことです。島原・天草の乱

数年後、幕府直轄領になり代官鈴木重成が1641年赴任。荒れ果てた島の再建に取り掛かりますが42000石がネック。12年後の1653年鈴木重成は石高半減の具申書を提出して江戸屋敷で割腹。体制内の内部上訴です。重成の悲願が政治決着を見るのは6年後です。
たった12年間の統治、原城攻略にも係わった鈴木重成は島民に鈴木神社に祀り上げられ神様になりました。

1670年再び大名領になって戸田家が赴任してきますが戸田氏は本丸、二の丸を破城(無駄ガネの廃止)、この地は永久に天領であるべきことを具申します(地方自治体ではやってけないのです)。1671年再び天領となり麓に代官所が移り、1865年本渡に代官所が移ります。

この城が語るべき歴史はいっぱいあるのです。石垣一つ残らない島原の原城城址と比べたときどちらが歴史を語っているのでしょうか。
黙して語らない城の風格。どこにいったのでしょうか(わたし的な解釈ですが)。


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