12月7日、今日は何の日・・・いまから66年前の12月7日名古屋地方で大地震が起きました。
そのことを知ったのは吉村昭著「零式戦闘機」(新潮社1968年刊)の終章からです。
「1944年12月7日午後、突然不気味な地鳴りが名古屋市の空気を振るわせ、それが急激にたかまる同時に、大地が波濤のように隆起した。・・・大地震が発生したのだ」
・・・以下は略してその地震について記します。
午後1時36分・・・名古屋市三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場に大地震が襲いかかります。激震で建物が倒壊、地面に亀裂が走り液状化現象で砂と水が吹き上がります。道徳工場の死者は丸子農商、飯田中学、熱田中学、名古屋高女(すべて旧制)など学徒勤労動員を含めて59名、重傷72名。大江町の三菱重工業本工場、瑞穂工場、針崎工場、桑名工場でも被害が出ていますが、道徳工場が最も多かったようです。原因の一つに日清紡の工場を改造して利用した組立工場のレンガ積みの壁が崩壊したことがあげられます。レンガ積み(組積造工法)の耐震については後述。
ただちに軍事上の機密として敵国に情報が漏れないように報道管制がされました(世界中に張り巡らされた地震計でそんな報道管制は無駄だったのですが)。もちろん軍需工場がこのような大惨事にあったことなど国民に知らしむなかれです。
のちに昭和東南海大地震といわれるその規模はマグニチュード7.9、震度5(ちなみに関東大震災はM7.9、阪神淡路大地震はM7.3)。この大地震のこと、資料がありません。何しろ66年まえのことです。図書館をネット検索して見つけたのがこの本です。
中日新聞社会部編
東南海、三河大地震の真相「恐怖のM8」(中日新聞本社 1983年刊)
戦後37年たった1982年春、偶然、名古屋市内の古書店で発見された2冊のガリ版刷りの小冊子、東南海、三河地震の被害状況、復旧状況をまとめた愛知県の公文書でした。これを中日新聞社が検証、聞き取りを重ね、ようやくこの大地震の真相が世に公開されました。
学徒動員の4つの学校、この中にわたしの郷里の長野県の旧制飯田学校が入っていたことが気になり調べて見ました。
本書の「8、動員学徒の歌」で動員学徒のことが記されています。飯田中学の動員学徒124名にうち5名がレンガの下敷きになります。12月24日母校において校葬が営まれました。
弔辞に・・・
「蓋し日々ハンマーを握り、やすりを取って戦い続けた己が戦場,生産の第一線に惜しくも倒れた君らこそ、その責任感とその壮烈さにおいて、まさに第一線の兵に勝るとも劣ることはありません・・・」
純粋で健気な少年たち・・・天災というより・・・人災・・・戦争にために捲き込まれた犠牲者ともいえます。。
この戦争はなんだったのだろうか。
《追記》
※学徒勤労総動員・・・国家総動員法に基づきそのご閣議で決定された制度。高等小学校、中等学校以上20歳まで、軍需工場の武器生産、農村の食料生産のために学業中途で配置された。まだ14~15歳の判断力もつかないいたいけな少年少女が工場で銃剣や弾丸を磨いていました。
※東南海大地震では半田市の中島飛行機半田工場(東洋紡レンガ積み工場)も大きな被害を受けています。半田高女(29名)、京都府立三中(13名)、豊橋高女(23名)、福井商業(7名)、犠牲者は三菱道徳工場をはるかに上回る153名。
このことは今年8月14日放送のTBS[報道特集 軍が隠した巨大地震]で詳しく報道されている。
※組積造工法・・・西洋に見られるレンガ、石などを積み上げていく壁式建築工法。柱がありません。日本の明治、大正期の工場に多く見られますが、関東大震災ではほとんどのレンガ造りの建物が倒壊したようです。鉄筋コンクリート、鉄骨などで補強されるようになったのは後のことのようです。ちなみに日本の在来工法は木造軸組工法、柱、梁で支える構造。基本的には壁がありません。
※三河大地震・・・12月7日の東南海大地震についで1945年1月13日午前3時38分M7.1という大地震が三河地方に襲いかかります。
※2つの地震の被害・・・死者3500人、負傷者6800人、建物倒壊半倒壊148000(「恐怖のM8」からの数字)。
そのことを知ったのは吉村昭著「零式戦闘機」(新潮社1968年刊)の終章からです。
「1944年12月7日午後、突然不気味な地鳴りが名古屋市の空気を振るわせ、それが急激にたかまる同時に、大地が波濤のように隆起した。・・・大地震が発生したのだ」
・・・以下は略してその地震について記します。
午後1時36分・・・名古屋市三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場に大地震が襲いかかります。激震で建物が倒壊、地面に亀裂が走り液状化現象で砂と水が吹き上がります。道徳工場の死者は丸子農商、飯田中学、熱田中学、名古屋高女(すべて旧制)など学徒勤労動員を含めて59名、重傷72名。大江町の三菱重工業本工場、瑞穂工場、針崎工場、桑名工場でも被害が出ていますが、道徳工場が最も多かったようです。原因の一つに日清紡の工場を改造して利用した組立工場のレンガ積みの壁が崩壊したことがあげられます。レンガ積み(組積造工法)の耐震については後述。
ただちに軍事上の機密として敵国に情報が漏れないように報道管制がされました(世界中に張り巡らされた地震計でそんな報道管制は無駄だったのですが)。もちろん軍需工場がこのような大惨事にあったことなど国民に知らしむなかれです。
のちに昭和東南海大地震といわれるその規模はマグニチュード7.9、震度5(ちなみに関東大震災はM7.9、阪神淡路大地震はM7.3)。この大地震のこと、資料がありません。何しろ66年まえのことです。図書館をネット検索して見つけたのがこの本です。
中日新聞社会部編
東南海、三河大地震の真相「恐怖のM8」(中日新聞本社 1983年刊)
戦後37年たった1982年春、偶然、名古屋市内の古書店で発見された2冊のガリ版刷りの小冊子、東南海、三河地震の被害状況、復旧状況をまとめた愛知県の公文書でした。これを中日新聞社が検証、聞き取りを重ね、ようやくこの大地震の真相が世に公開されました。
学徒動員の4つの学校、この中にわたしの郷里の長野県の旧制飯田学校が入っていたことが気になり調べて見ました。
本書の「8、動員学徒の歌」で動員学徒のことが記されています。飯田中学の動員学徒124名にうち5名がレンガの下敷きになります。12月24日母校において校葬が営まれました。
弔辞に・・・
「蓋し日々ハンマーを握り、やすりを取って戦い続けた己が戦場,生産の第一線に惜しくも倒れた君らこそ、その責任感とその壮烈さにおいて、まさに第一線の兵に勝るとも劣ることはありません・・・」
純粋で健気な少年たち・・・天災というより・・・人災・・・戦争にために捲き込まれた犠牲者ともいえます。。
この戦争はなんだったのだろうか。
「希望の塔」です。
1957年飯田中学60周年を記念して、名古屋で亡くなった5名と伊那飛行場建設現場で亡くなった1名、計6名の霊を慰めるために、同窓生の提案で飯田高校の正門脇に建てられました。「希望」という文字が悲しく・・・くやしい・・・
《追記》
※学徒勤労総動員・・・国家総動員法に基づきそのご閣議で決定された制度。高等小学校、中等学校以上20歳まで、軍需工場の武器生産、農村の食料生産のために学業中途で配置された。まだ14~15歳の判断力もつかないいたいけな少年少女が工場で銃剣や弾丸を磨いていました。
※東南海大地震では半田市の中島飛行機半田工場(東洋紡レンガ積み工場)も大きな被害を受けています。半田高女(29名)、京都府立三中(13名)、豊橋高女(23名)、福井商業(7名)、犠牲者は三菱道徳工場をはるかに上回る153名。
このことは今年8月14日放送のTBS[報道特集 軍が隠した巨大地震]で詳しく報道されている。
※組積造工法・・・西洋に見られるレンガ、石などを積み上げていく壁式建築工法。柱がありません。日本の明治、大正期の工場に多く見られますが、関東大震災ではほとんどのレンガ造りの建物が倒壊したようです。鉄筋コンクリート、鉄骨などで補強されるようになったのは後のことのようです。ちなみに日本の在来工法は木造軸組工法、柱、梁で支える構造。基本的には壁がありません。
※三河大地震・・・12月7日の東南海大地震についで1945年1月13日午前3時38分M7.1という大地震が三河地方に襲いかかります。
※2つの地震の被害・・・死者3500人、負傷者6800人、建物倒壊半倒壊148000(「恐怖のM8」からの数字)。
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