比企の丘

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百姓の持ちたる火縄銃を見た

2010-05-29 | 骨董・民具・ヴィンテージ
信州塩田平の知人宅で見せてもらった・・・火縄銃・・・普通の農家の土蔵から出てきたもの。
鉄砲そのものは農家の農具(鳥獣撃退用)として広く使われていたようですが、徳川五代将軍綱吉の1575年、「諸国鉄砲改め」で徴発されたはず。お目こぼしかな・・・イイかげんですね。それから時が流れて徳川末期になるとかなり流通していたといいますから、何を撃っていたんでしょうね。

さてこの鉄砲がどのような経緯でこの農家にあるのか・・・本物か明治以降に作られたものか・・・わかりません


信州上田藩、仙石家に代わって松平家が1706年入封したころ並河源兵衛なる鉄砲鍛冶が鷹匠町(現中央1丁目)に屋敷を構えていたといいます。今も上田駅お城口パレオビルの裏から10数mの段丘を上る坂を源兵衛坂といいます。この並河鍛冶が作った有名な左火口火縄銃、短銃が上田市立博物館にあります。
蛇足
1543年鹿児島県種子島にポルトガル人の商人が漂着して鉄砲なるものを披露します。台風による漂着といいますがウサン臭いですね。一儲け企んだのかな?同時期に倭寇が東南アジア方面から鉄砲の情報・技術を持ってきたという説もあるようです。模倣、改良の上手い日本人ですからたちまちのうちに日本人による生産が始まります。近江国友鍛冶、日野鍛冶、泉州堺鍛冶の匠の集団です。
30年後の奥三河の長篠城の戦いでは織田信長軍は3000丁の鉄砲で無敵といわれた甲州武田騎馬団をいとも簡単に殲滅したといいます。戦争は精神力とか愛国心とかではなく火力、兵力、経済力の勝るほうが勝つのですね。恐ろしいです。


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