比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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南信州を行く④・・・これが伊那の谷だ・・・で旅は終わる

2010-08-30 | 信濃の国は 伊那・諏訪
南信州プチドライブ・・・と思ったら・・・たいへんですね。絶壁とダムサイトとブラインドカーブ、道は狭い・・・行き交う車もないから湖に落ちたら誰も拾ってくれません。好奇心の塊ですから、このまま県境を越えて佐久間ダムまで、あるいは遠山郷へと思いましたが時間がないのでユーターンです。

県道1号線ダムサイトの道を阿南町御供へ(今朝来た分岐点)、阿南高校、阿南病院があります。県道1号線は南宮大橋を渡って泰阜村(やすおか)温田(ぬくだ)、ここから道は坂を登って山道に入ります。

泰阜村大畑から天竜川を挟んで阿南村北条方面を見ています。写真がハッキリしませんが南宮大橋、阿南病院が見えます。手前は急峻な傾斜地を切り開いた棚田です。

右に振ると対岸は阿南町神子谷(みこのや)? 天竜川は棚田に隠れて見えません。

さらに右に振ると、対岸は阿南町川田。天竜川の峡谷です。左岸にJR飯田線田本駅があり、阿南町に渡る人道橋(吊橋?)が見えます。泰阜村の集落のあるところまでには急傾斜の山道を比高差150m、約40分ほど登らねばならないようです。

泰阜村・・・年に3回ばかり顔を会わせる村出身の友だちがいます。でも彼の村に来るのははじめてです(悪口は書けませんね)。山を超え谷を渡り対向車が来たら擦れ違えない道を進みます。ちなみにこの村には信号機が1基もないそうです。

明治の初めに17ヶ村が2区になり1875年泰阜村に。東京の山手線の中ぐらいの面積に人口1900人。JRの駅が5つ。村名の由来は・・・泰山丘阜という漢詩から・・・泰(水路を自力で切り拓く)、阜(豊かで盛んな様)という意味をとって、「村人自らの手で豊かな栄える村を作ろう」と。いいです。好きです。

日本の農村の原点のような風景・・・これが伊那の谷です。
南信州の旅・・・終わりは・・・泰阜村の道を北に、飯田市で旧友に会い馬鹿話をして、ふたたび上田に。長野県は広い。

南宮大橋、温田駅あたりの地図→こちらクリック

蛇足》泰阜村のここがイイトコロ。
老人医療費・・・長野県内118位・・・在宅福祉の徹底だそうです。
学校美術館・・・1930年代(昭和初期)・・・学校教職員の給料の一部で教育振興をという提案があり、長い年月をかけ徐々に美術品の蒐集などが行われていきます。本村出身の倉沢量生、菱田春草の親戚の菱田きくの、菱田武夫ほか、340点の収蔵の美術館になりました。村人の教育に対する気風から生まれた美術館です。
2003年当時の長野県知事田中康夫が泰阜村に住民登録をして話題になりました。よほど気に入ったんでしょうね。

最後に1つ。
泰阜村役場近く、神社の一隅にある632名の名前が刻まれた「満蒙開拓団慰霊碑」。
第八次大八浪泰阜村開拓団、1937年第一次先遣隊から1945年までに219戸、1100人、当時の村の1/3にあたるといわれ文字どおり分村だったようです。
全国の満蒙開拓団270000人、うち長野県から送出33700人(13%)、突出しています。泰阜村1100人はその中のトップ、近郷の村も同じような数字ですが。
「なぜ、どうして、何はあったのか」という話しは・・・わたしは知らなさすぎます。
泰阜村分村記念誌編集委員による「満州泰阜分村ー後世に伝う血涙の記録」(1979年刊527p、絶版)と、さらに「満州泰阜分村?70年の歴史と記憶」(不二出版2007年刊1044p、8000円)が語り継ぐ資料を残してくれています。

道に迷ってこの慰霊碑にお参りすることができませんでした。写真はブログ「福祉のあした」から無断拝借しました。


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