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今年6月、ある人からある本を紹介されました…児童書です。
重いテーマで、なかなか気持ちがまとめられず、ブログで紹介するのがいまになってしまいました。
沖縄の話です…歴史を遡ると長くなりますが、大和世(やまとゆ)の時代、太平洋戦争、日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦のあった島、そして27年間の米軍占領下(アメリカゆ)からの返還(変な言葉ですね)、そしていま大和ゆ、戦争に負けたころの沖縄と実質はどう変わっているのでしょうか。
昭和20年(1945年)4月…太平洋戦争末期、アメリカ軍は圧倒的な軍事力で沖縄本島に上陸します。
この物語は小学4年生の少年の目を通してみた沖縄戦、日本軍の壊滅と日本国で唯一地上戦に巻き込まれた沖縄の人たちの物語です。
嶋 津与志著「かんからさんしん物語」(理論社 1989年刊)
かんからさんしんとは大きな缶詰の空き缶で作った三線(三味線)のこと。大和グチ(日本の標準語)ではSANSENと発音しますがウチナワグチ(沖縄方言)では母音のE→I,O→Uと発音しますから「せ」が「し」になります。日本の地方言葉にもそういうようなことがいっぱいありますし、フランス人はHの発音ができませんから不思議なことじゃありません。
沖縄戦のころ筆者は熊本に疎開していていました。戦争が終わり生れた村に戻った時、村に設けられた戦災難民の収容所に何万もの避難民が収容されていて、彼らの子弟とともに戦後第1期の小学1年生に、収容所でも学校でも話題は戦争体験談。死線を超えて生き延びてきた彼らの話を聞くうちに、無残に倒れていった死者たちへの鎮魂の思い、無念の思いがこめられていることに気づきます。
やがて戦場にいなかった筆者は…「知らないからこそ知らなければならない」という思いに駆られるようになります。
この物語は筆者の体験談ではありません。幼いころ友だちや先輩から聞いた「戦ばなし」、虚実も定かではない、モデルも特定できない、記録とするには頼りない、それでも沖縄戦にこだわった村の物語を書きたい…筆者はあとがきでそう述べています。
物語の舞台は沖縄南部(島尻)、摩文仁岬と知念岬の間…玉城村(たまぐすくそん、現南城市)あたり。小学4年生の正吉、祖母と母、嘉手納の農林学校に行っているケン兄、満州で戦死した父の形見の三線を背負っての避難行、墓の中の生活(沖縄のお墓は漆喰で塗り固められた亀の甲のような型の人が何人も入れる大きなお墓も多い)、珊瑚礁の自然洞窟(ガマ)、日本兵との接触、玉砕、集団自決、戦世(いくさゆ)も終わり捕虜として収容、やがて村で母は豆腐屋を再開。避難行の途中、父の形見の三線は無残にも壊れてしまいました。
ある日、兄の学友が訪れ義勇兵として沖縄北部にいたケン兄の死を知らせます。学友は兄の名前の書いた布切れと石ころを渡します。
お母ァはボンヤリとした目つきで石ころをながめ…
「たったこれだけ…」
お母ァがナークニ節をうたっている。
玉黄金如くに 育てたる産シ子
誰が取て喰たが 悪魔、畜生
「ちくしょう、ちくしょう!この親不幸者ン…」あれからお母ァはマラリアで寝込んでしまった。
学友が訪れた日から7日目、マラリア熱が下がった母はケン兄の初七日と勝手に決めて石ころをもってお墓に向かいます。墓の前で正吉は6斤缶の空き缶を胴に、ベッドの足を削り棹に、落下傘の紐を弦にして作ったかんからさんしんを弾き、歌います。
嵐世になっても 忘るなよ互いに
またも巡り合う 命どぅ宝
洞窟壕の中でこの歌を教えてくれた洋子先生は摩文仁の司令部壕の中で自決したと聞きます。
歌っているうちに懐かしい顔がうぎつぎに浮かんできます。
玉城村(たまぐすくそん)…沖縄戦終焉の地…摩文仁から東、翡翠色の珊瑚礁のリーフ、神の宿る琉球神話の聖地久高島、玉城城址、天粒天次御嶽、玉泉洞…美しい村です。
この本を教えてくれたのはカナダ在住の「木霊の宿る町」というブログのオノマさんです→オノマさんの2012年6月19日のブログです。
戦争に負けたころの沖縄といまの沖縄…どう変わっているのでしょうか…何も変わっていない。
※カテゴリー「沖縄のこと」…クリックして読んでいただけたら…。
今年6月、ある人からある本を紹介されました…児童書です。
重いテーマで、なかなか気持ちがまとめられず、ブログで紹介するのがいまになってしまいました。
沖縄の話です…歴史を遡ると長くなりますが、大和世(やまとゆ)の時代、太平洋戦争、日本で唯一、住民を巻き込んだ地上戦のあった島、そして27年間の米軍占領下(アメリカゆ)からの返還(変な言葉ですね)、そしていま大和ゆ、戦争に負けたころの沖縄と実質はどう変わっているのでしょうか。
昭和20年(1945年)4月…太平洋戦争末期、アメリカ軍は圧倒的な軍事力で沖縄本島に上陸します。
この物語は小学4年生の少年の目を通してみた沖縄戦、日本軍の壊滅と日本国で唯一地上戦に巻き込まれた沖縄の人たちの物語です。
嶋 津与志著「かんからさんしん物語」(理論社 1989年刊)
かんからさんしんとは大きな缶詰の空き缶で作った三線(三味線)のこと。大和グチ(日本の標準語)ではSANSENと発音しますがウチナワグチ(沖縄方言)では母音のE→I,O→Uと発音しますから「せ」が「し」になります。日本の地方言葉にもそういうようなことがいっぱいありますし、フランス人はHの発音ができませんから不思議なことじゃありません。
沖縄戦のころ筆者は熊本に疎開していていました。戦争が終わり生れた村に戻った時、村に設けられた戦災難民の収容所に何万もの避難民が収容されていて、彼らの子弟とともに戦後第1期の小学1年生に、収容所でも学校でも話題は戦争体験談。死線を超えて生き延びてきた彼らの話を聞くうちに、無残に倒れていった死者たちへの鎮魂の思い、無念の思いがこめられていることに気づきます。
やがて戦場にいなかった筆者は…「知らないからこそ知らなければならない」という思いに駆られるようになります。
この物語は筆者の体験談ではありません。幼いころ友だちや先輩から聞いた「戦ばなし」、虚実も定かではない、モデルも特定できない、記録とするには頼りない、それでも沖縄戦にこだわった村の物語を書きたい…筆者はあとがきでそう述べています。
物語の舞台は沖縄南部(島尻)、摩文仁岬と知念岬の間…玉城村(たまぐすくそん、現南城市)あたり。小学4年生の正吉、祖母と母、嘉手納の農林学校に行っているケン兄、満州で戦死した父の形見の三線を背負っての避難行、墓の中の生活(沖縄のお墓は漆喰で塗り固められた亀の甲のような型の人が何人も入れる大きなお墓も多い)、珊瑚礁の自然洞窟(ガマ)、日本兵との接触、玉砕、集団自決、戦世(いくさゆ)も終わり捕虜として収容、やがて村で母は豆腐屋を再開。避難行の途中、父の形見の三線は無残にも壊れてしまいました。
ある日、兄の学友が訪れ義勇兵として沖縄北部にいたケン兄の死を知らせます。学友は兄の名前の書いた布切れと石ころを渡します。
お母ァはボンヤリとした目つきで石ころをながめ…
「たったこれだけ…」
お母ァがナークニ節をうたっている。
玉黄金如くに 育てたる産シ子
誰が取て喰たが 悪魔、畜生
「ちくしょう、ちくしょう!この親不幸者ン…」あれからお母ァはマラリアで寝込んでしまった。
学友が訪れた日から7日目、マラリア熱が下がった母はケン兄の初七日と勝手に決めて石ころをもってお墓に向かいます。墓の前で正吉は6斤缶の空き缶を胴に、ベッドの足を削り棹に、落下傘の紐を弦にして作ったかんからさんしんを弾き、歌います。
嵐世になっても 忘るなよ互いに
またも巡り合う 命どぅ宝
洞窟壕の中でこの歌を教えてくれた洋子先生は摩文仁の司令部壕の中で自決したと聞きます。
歌っているうちに懐かしい顔がうぎつぎに浮かんできます。
玉城村(たまぐすくそん)…沖縄戦終焉の地…摩文仁から東、翡翠色の珊瑚礁のリーフ、神の宿る琉球神話の聖地久高島、玉城城址、天粒天次御嶽、玉泉洞…美しい村です。
この本を教えてくれたのはカナダ在住の「木霊の宿る町」というブログのオノマさんです→オノマさんの2012年6月19日のブログです。
戦争に負けたころの沖縄といまの沖縄…どう変わっているのでしょうか…何も変わっていない。
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