比企の丘

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渡良瀬遊水地・・野焼き(終章)・・谷中湖

2008-03-20 | 道祖神・石仏・石神
渡良瀬遊水地にそった道と堤防の間に「旧谷中村合同慰霊碑」があります。

慰霊碑」・・・ご先祖様の墳墓の地を追われ恨みをのんで死んでいった旧谷中村の霊を慰める碑。ここは古河鉱業足尾銅山から流れ出た鉱毒の最終集積地となった渡良瀬遊水地。そしてその中心部の村が・・・谷中なのです。

コンクリートの重い枠のようなオブジェに圧迫されてるような慰霊碑。塀の周りに墓石と石仏が並んでいます。谷中村が谷中湖に沈む行くとき先祖代々の墓、お骨を集めてここに収めたのでしょうか。ここは1971年(昭和46年)建設省が旧谷中村の子孫の要望で建立したもののようです。


谷中湖450ha(第1調整池・渡良瀬貯水池)の180度パノラマです。白く見えるのは1月~4月有害プランクトンを死滅させるため水を干し上げているからです。湖底はコンクリート敷き。まだ銅成分が沈殿しています。


慰霊碑の周りに安置された石仏。不動尊でしょうか一面六臂、足下に三猿のほか観音像など、正徳、享保の元号が見られます。1700年初頭です。深い信仰と心の豊かさが窺えます。江戸時代ここは肥沃の地だったようです。


慰霊碑の石塀の外ですが敷地の中で見た碑。意味するものはわかりませんが、呻き、叫び、執念のようなものを感じ取れます。


足尾銅山と渡良瀬遊水地、そして「田中正造」の年譜を追ってみました。
1602年 足尾で銅の採掘開始。
1877年 元小野組古河市兵衛が経営を引き継ぐ。
1885年 鉱毒被害が新聞報道。
1897年 田中正造、国会で鉱毒の害を質問演説。
1900年 田中正造、演説「亡国に至るを知るらざれば、これすなわち亡国の儀につき」
1901年 国会議員を辞す。天皇に直訴を計画するも阻止され狂人として扱われる。
1902年 渡良瀬川の流域に鉱毒沈殿、遊水地計画が。谷中村が候補地に。
1904年 田中正造が谷中村に移住。
     栃木県が堤防工事名目で堤防破壊。谷中村買収開始。地価は1/5。
     免租により選挙権(公民権)を失効。つまり村長もいなくなるわけです。
1906年 強制廃村。
1907年 土地収用法、強制執行、居住を続ければ犯罪者扱い。
1911年 北海道佐呂間町栃木地籍に移住(16戸137人)。
1912年 土地買収額を5割増しに判決。地価1/5の5割り増し?
     遊水地の工事始まる
1913年 田中正造死去。
1973年 足尾銅山閉山。
1976年 谷中湖着工、1989年完成。
1998年 渡良瀬遊水地がほぼ現在の姿に。

わが国の四大公害の原点です。今も流域に基準以下であっても銅、カドミューム、砒素は眠ってます。この遊水地によってある程度は下流への影響は抑えられたのでしょうか。この川は利根川に流れ込み江戸川、中川にもつながってるのです。
国策として国家権力による近代工業化の推進と人間の命の元である水と土の汚染、結果としては鉱山の閉山で幕を閉じました。谷中村の歴史は何を教えてくれたのでしょうか。その後も神岡水俣、新潟、四日市と公害問題は続きます。
いま中国の農薬問題が問題になってますが、自国の公害、薬害、農薬による環境汚染のことはどうなんでしょうか。

Wikipedia「谷中村」「田中正造」を参考にしました。
書籍は多数ありますが有名なものに荒畑寒村著「谷中村滅亡史」1907年刊がいまも岩波文庫で売られていますし、ほとんどの図書館にあるようです。最近の本では立松和平著「毒 風聞ー田中正造」(東京書籍1997年刊)があります。

またの機会に訪れよう。谷中村の共同墓地も訪れてみたい。葦原に飛ぶ猛禽類も見たい。一文無しで死んで六つの墓に分骨された田中正造の墓も訪れてみたい。


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