比企の丘

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6月12日・・・72年前の沖縄日米地上戦・・・鉄血勤皇隊員だった大田昌秀さんが亡くなられました

2017-06-25 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
今から72年前、太平洋戦争の終盤、沖縄本島では4月1日の米軍上陸進攻にはじまり壮烈な地上戦が繰り広げられ6月22日沖縄軍最高司令官牛島満陸軍中将が自決し翌23日日本軍の組織的な沖縄戦は終ったといわれています。
この戦争に日本軍は兵力不足を補うため防衛召集規則により地元の非戦闘員25000人を防衛隊・義勇軍として動員しました。それでも足りずに17歳以上という召集対象を14歳以上に引き下げ師範学校、旧制中学、実業校の12校から1400人、師範学校女子部、旧制高女、実業校の10校から500人を動員しました。男子は鉄血勤皇隊。女子はそれぞれ名前が違い、沖縄師範女子部、第一高女の「ひめゆり部隊」が有名です。数字的なことは正確に把握できないようですが動員された1900人のうち1000人が戦死したと数えられています。

元沖縄県知事太田昌秀さんが6月12日に亡くなられました。
いまから72年前の日本とアメリカとの戦い(太平洋戦争)で日本で唯一の地上戦の行われた沖縄戦鉄血勤皇隊員として生死を潜り抜けてきた人です。足に重傷を負い摩文仁の丘の洞窟の中を6月23日以降も彷徨ったといいます。同期125人のうち生存者は37人だったそうです。

大田昌秀(1925年~2017年6月12日)・・・沖縄県久米島に生れる。社会学者、琉球大学教授、沖縄県知事、参議院議員、沖縄国際平和研究所理事長。著書は80冊余。

           
久米島生まれ・・・久米島というと久米島紬、久米島泡盛しか浮かびません。沖縄本島から西に100㎞、人口10000人。母子家庭で育ち小学校卒業後、用務員として働き、ある人の紹介で東京の工学院進学をめざし上京の途中、那覇で師範学校進学を奨める人がいて進路変更。曲り道をしたため師範学校生徒として鉄血勤皇隊に入隊したときの年齢は20歳。九死に一生を得て、6月23日を迎え、米軍捕虜に、米軍施設で下働きをしながら勉強を続け日本とアメリカの留学生試験に合格、早稲田大学、米国シラキュース大学で学び琉球大学で研究、指導にあたる。1990年沖縄県知事(2期)、2001年参議院議員(1期)。
※有名な白旗の少女」の写真は大田昌秀が調査研究中に発見「写真記録 これが沖縄戦だ」(琉球新報社 1977年)に掲載されたもの。
※大田昌秀の生れた島・・・久米島・・・1945年6月から8月の間に住民22名{27名という説も)を日本軍守備隊がスパイとして処刑する事件が起きています。


大田昌秀さんの本を読んでいます。
大田昌秀の説く 沖縄戦の深層 住民はいかにして戦争に巻き込まれたか」(高文研 2014年刊 227頁)

非武の島・非戦の島沖縄、薩摩藩の琉球侵攻、明治の琉球処分、皇民化教育、沖縄戦の経過、戦時下の住民のこと、軍と住民の関係(壕の占有、スパイ視、自決示唆)など、主観を交えずに日米の記録・資料、軍人・住民の証言などを中心に客観的に具体的に書いています。
頁数も少なく小中高生でも理解できるようにわかりやすく書かれています。機会があったら読んでみてください。


本書の中の写真です。1945年3月29日、慶良間島で。沖縄本島上陸作戦前です。
少女を抱く米兵・・・何を思っているのでしょうか。


作家山崎豊子は小説「運命の人」の終章で・・・主人公にこういわせています。
「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないが・・・」

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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
平和! (こきおばさん)
2017-06-26 06:13:24
2日続けてツイートさせていただきました。
戦争体験者として生涯平和を訴えられた太田氏は、今の日本の状態をさぞ憂いての旅立ちだったことと思います。

昨日、孫崎享氏の講演をお聞きしました。
軍事力で安全は達成できないし、軍事力で平和は守れない!と強く言われたことが印象的でした。
Unknown (Unknown)
2017-06-26 09:47:11
お邪魔します。私は沖縄の苦難に満ちた歴史について全く知らないままに北海道の端っこで成長し、1972年に沖縄返還が話題になって初めて沖縄のことを考え始めて一冊の本を読みました。(こんなにも沖縄の方がたは全身全霊をかけてずっと本土の人間たちに訴えていたんだ。そのことにどうして気づかなかったのか)と、申し訳なさで胸が苦しくなる沖縄との出会いでした。そこには「読んだ時だけ、後は忘れる」という事を許さない事実が書かれてありました。今駐在している中国にも、その阿波根昌鴻さんの岩波新書「命こそ宝」を友として携えてきています。大田昌秀さんの膨大な著作活動にも全くついていけていませんが、一冊、また一冊と、遠い道のりを追って行こうと思います。
「大田昌秀の説く 沖縄戦の深層 住民はいかにして戦争に巻き込まれたか」ご紹介ありがとうございました。必ず読みます。
名乗らずにすみませんでした (ブルーはーと)
2017-06-26 09:50:07
2017-06-26 09:47:11のコメントは私「ブルーはーと」です。(まず本文を書いてから名前を…)と思っていたのに、そのまま送ってしまい失礼しました。(;^_^A
コメントありがとうございます。 (ブルーはーとさんへ・・・ヒキノ)
2017-06-26 19:06:24
いつも拝読しています。

トラックバック大歓迎です。
そこから他の読者にひろがっていくと思ます。

コメント修正をしようと思いましたが、URLが消えてしまい他の読者が訪問できませんのでそのままにしました。
ツイートありがとうございます。 (こきおばさんへ・・・)
2017-06-26 19:20:36
大勢の人が閲覧してくれるとイイですね。

大田昌秀・・・死を覚悟して学徒兵に、足を負傷して摩文仁の丘を彷徨い、女子学徒兵仁「死んではダメ」といわれたそうです。代理署名を拒んだ人。
21世紀への遺言として大田先生の本を読みました。

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