http://noexit.jp/tn/doc/kuoria8.html
現象報告のパラドックス
●なぜ、脳はクオリアを語ることができるのか
たとえば、物理主義の科学者たちの主張どおり、随伴現象説を採用し、『クオリアと物質の間には、なんの物理的な関係もない』という仮定をしてみる。
クオリア
そうすると、クオリアは、脳という機械の動きに、何の関わりも持たない、ということになるのだから、クオリアがあろうと、なかろうと、脳の動きには、何の変化も起きない、ということになる。
したがって、たとえば、仮に、『クオリア』という存在が、ある日、突然、この世から消え去ったとしても、脳は、外面的には何一つ変わることなく、正常に機能しつづけ、今までどおりの日常生活を送ることができるだろう。
ちょっと、こんな思考実験を考えてみよう。
テーブルの上に、2つの脳がある。
脳Aは、クオリアが発生する「普通の脳」であり、
脳Bは、クオリアが発生しない「哲学的ゾンビの脳」だとする。
もし、ここで、この2つの脳の原子・分子の状態がまったく同じ状態であると仮定して、何らかの刺激(甘いとか、痛いとかの神経への信号)を与えたとしよう。
その結果、前提どおり、
脳Aは、その刺激に相当する甘いとか痛いとかの クオリアが発生し、
脳Bには、なんのクオリアも発生しない、
という違いが起きるわけだが、脳の反応としては、脳Aも脳Bもまったく同じ反応を返すはずである。
だって、脳Aも、脳Bも、クオリアが発生するしない、という違いはあっても、原子・分子の位置などの「物理的な状態(初期条件)」はまったく同じという前提なのだから、そこに同じ刺激(入力)が与えられれば、物理学の法則にしたがって、機械的に動いて、まったく同じ反応(出力)をするはずである。
クオリア
つまり、
「クオリアがあろうとなかろうと、脳の動きに違いがでない」
のだから、当然、
「クオリアは、脳の動きになんの関係もしていない」
という結論になる。
結局のところ、随伴現象説を採用し、物理主義に徹して、クオリアなる非物質的なものが、物理的な作用(オカルト的な第5の力)を起こすなんてありえない、と信じて、この思考実験を進めるならば、
「クオリアは、脳(物質)になんの影響も与えていません」
という結論にならざるを得ない。
実際、物理主義の科学者たちは、僕たちが日常で行っている「あのりんご赤いね」とか「電車の音がうるさいね」という会話や判断は、物理学の世界で記述された脳という物質の動きだけで、完全に説明できると考え、そこに「クオリア」とか「霊体」とか「魂」とかそういう非物質的なものを持ち込む必要性は一切ない、と考えている。
しかしである。
「脳とクオリアの関係」が、こういった「クオリアがあってもなくても、脳の動作に何の違いも起きない」「クオリアは、脳の動きに一切関わりがない」というものであるならば、そもそも、脳は、「クオリアという存在に気づいて、その存在を語ることはありえなかった」ということにならないだろうか?
「クオリア」という存在が、脳という機械に何の物理的変化も及ぼさないならば、脳は、「クオリアという概念」をどこから仕入れたのだろうか?
「自分は今、クオリアを感じています」という脳の言葉は、どこからやってきたのだろうか?
このように、「クオリアが、物質世界に何の影響力も持たない」のであれば、「じゃあ、なぜ、脳は、クオリアを知っていて、それを語れるの?」という疑問は、
「現象報告のパラドックス」
と呼ばれる。
もちろん、クオリアを持たないであろう人工知能やロボットが、学習していった結果、「今、私は、赤いものをみています。赤いということを感じています」と、自分の認識について話すということはありえるだろうし、多くの人工知能論者たちは、雑多な情報を統合的に処理するのに便利だという理由で、人工知能が、自分の認識の状態を把握するような「私(自己監視プログラム)」を学習の過程で獲得する可能性があるだろうと考えている。
実際のところ、「脳はどうしてクオリアを語れるの?」という現象報告のパラドックの問題について、
プログラムという絶対的な法則にしたがって動くだけの機械的な人工知能が、「私は赤を見ています」と言ったり、主観的体験を話しはじめたりする可能性は十分にあるのだから、
単純に、
「脳だって、人工知能の例と同じような理由で、『私』という主観的な自己監視機能を手に入れて、内面の体験を語るようになっただけでしょ」
と片付けてしまう人たちも多い。
いやいや、実際には、そう簡単な問題ではないのだ!
だって、だってさ!
実際にクオリアを持たない存在が、はたして、以下のようなことを本当に語れるだろうか?
「赤い色をみたときにさ、この独特の『赤』って鮮やかな質感が、主観的なイシキの中に、ぶわぁ~って、浮かび上がるよね。この独特の質感をクオリアっていうらしいんだけどさ、……うーん、このクオリアって、言葉でうまく伝えられないな。ようするに、これ(●)のことでさ、この独特のこれ(●)がクオリアなんだけど、う~ん、僕の言っていること伝わっているかなぁ?でも、わかるでしょ?」
そもそも、
「私は、赤を見ています」のような、「脳内の認識の状態を語ること」と、「言葉じゃ説明できないけど、私は、クオリアという独特の感覚を見ています」のような、
「これ(●)を語ること」の間には、一億光年以上の違いがある。
もし随伴現象説が完全に正しいのであれば、これらの「赤というクオリアを感じています」的な発言は、まさに、自分のイシキに映っている鮮やかな「赤色」とは、まったく無関係に生じたということになる。
もちろん、脳という物理的な機械が、上記のような言葉を話すように、たまたま、偶然に、組み上げられ、そのように話した、という可能性は完全否定できないが、でも、それにしたって、クオリアと物理的な関連が一切ない脳が、
「たまたま、現にイシキの上に起きている、このクオリアの不思議さを語れるように発達した」
という偶然はとても考えにくいし、ありえないことのように思える。
また、もし、偶然、脳がそのように発達したと仮定しても、もはや、その場合には、脳が語る「クオリア」という言葉は、現実の「クオリア」を指し示した言葉にはなっておらず、まったく無意味な記号の言葉になってしまう。
(だって、その場合の「ク・オ・リ・ア」という発話は、現実の「クオリア」とまったく無関係に発生した音声ということになるのだから)
結局のところ、「クオリア」が、脳細胞に何も影響を与えない存在であるのならば、脳細胞が「クオリア」を知ることなどありえないわけで、脳は、クオリアが発生していることに気づくことすらできなかったはずだ。それなのに、現に、脳は、クオリアの不思議について語り、クオリアについて議論しているのだ。
これは大きな矛盾である。
だったら、まだ、
「脳は、クオリアという存在、概念を明らかに知っています!」「どういう仕組みかはわからないが、脳は、どこからか、クオリアの情報を仕入れています!」
と考える方が、自然で妥当なことのように思える。
でも、でも!
もし本当に、「脳がクオリアを知っている」としたら、それは、脳が、クオリア(もしくは、それをみている主観的なイシキ)から、何らかのフィードバックをうけて、脳内に物理的な変化が起きた、ということになってしまう!
少なくとも、そんな物理現象は、既存の物理学では定義されていないものだし、物理学において、物質の状態が変わるのは、「4つの力」のどれかでしかありえない。
だから、もし、クオリア(もしくは、それをみている主観的なイシキ)がフィードバックして、脳に情報を残した(つまり、クオリアが、脳の原子・分子に物理的な作用をした)ということを認めるとしたら、
それは、まさに、
「クオリア、イシキという現代物理学で定義されていない非物質的な何かによる物理的作用」が存在すること、すわなち、「オカルト的な第5の力」が存在することを暗に認めるということになってしまい、一般的常識的な物理主義に反することになってしまうのだ!
クオリア
もちろん、常識的な科学者であれば、そんな非科学的でオカルト的な物理作用は、できるだけ、受け入れない方向で物事を考えていきたい。そこで、随伴現象説がでてきたわけだ。
だが、この「現象報告のパラドックス」という問題のおかげで、「クオリアは、脳(物質)と物理的な関係は何もありません」という仮説にも、あまり妥当性が見出せなくなってしまい、
「クオリアは、物質に作用するような存在じゃないんだから、物理学は、クオリアという非物質的な存在なんかと、関わりを持たなくたっていいんだよ(^△^)」
と楽観的に考えて、クオリアに絶縁状を叩きつけていた物理主義の科学者たちに、大きな衝撃を与えた。
それにしても、脳内に「クオリアを知る」という物理的変化を引き起こしたものは、いったい、どんな物理作用だというのだろうか?
物理学は、本当に、オカルト的な「第5の力」を新しく定義しないといけないのだろうか?それともどこかに、見落とし、抜け道があるのだろうか?
はたして、ワレワレが、クオリアを『理解』できる日は、本当に来るのだろうか……?
現象報告のパラドックス
●なぜ、脳はクオリアを語ることができるのか
たとえば、物理主義の科学者たちの主張どおり、随伴現象説を採用し、『クオリアと物質の間には、なんの物理的な関係もない』という仮定をしてみる。
クオリア
そうすると、クオリアは、脳という機械の動きに、何の関わりも持たない、ということになるのだから、クオリアがあろうと、なかろうと、脳の動きには、何の変化も起きない、ということになる。
したがって、たとえば、仮に、『クオリア』という存在が、ある日、突然、この世から消え去ったとしても、脳は、外面的には何一つ変わることなく、正常に機能しつづけ、今までどおりの日常生活を送ることができるだろう。
ちょっと、こんな思考実験を考えてみよう。
テーブルの上に、2つの脳がある。
脳Aは、クオリアが発生する「普通の脳」であり、
脳Bは、クオリアが発生しない「哲学的ゾンビの脳」だとする。
もし、ここで、この2つの脳の原子・分子の状態がまったく同じ状態であると仮定して、何らかの刺激(甘いとか、痛いとかの神経への信号)を与えたとしよう。
その結果、前提どおり、
脳Aは、その刺激に相当する甘いとか痛いとかの クオリアが発生し、
脳Bには、なんのクオリアも発生しない、
という違いが起きるわけだが、脳の反応としては、脳Aも脳Bもまったく同じ反応を返すはずである。
だって、脳Aも、脳Bも、クオリアが発生するしない、という違いはあっても、原子・分子の位置などの「物理的な状態(初期条件)」はまったく同じという前提なのだから、そこに同じ刺激(入力)が与えられれば、物理学の法則にしたがって、機械的に動いて、まったく同じ反応(出力)をするはずである。
クオリア
つまり、
「クオリアがあろうとなかろうと、脳の動きに違いがでない」
のだから、当然、
「クオリアは、脳の動きになんの関係もしていない」
という結論になる。
結局のところ、随伴現象説を採用し、物理主義に徹して、クオリアなる非物質的なものが、物理的な作用(オカルト的な第5の力)を起こすなんてありえない、と信じて、この思考実験を進めるならば、
「クオリアは、脳(物質)になんの影響も与えていません」
という結論にならざるを得ない。
実際、物理主義の科学者たちは、僕たちが日常で行っている「あのりんご赤いね」とか「電車の音がうるさいね」という会話や判断は、物理学の世界で記述された脳という物質の動きだけで、完全に説明できると考え、そこに「クオリア」とか「霊体」とか「魂」とかそういう非物質的なものを持ち込む必要性は一切ない、と考えている。
しかしである。
「脳とクオリアの関係」が、こういった「クオリアがあってもなくても、脳の動作に何の違いも起きない」「クオリアは、脳の動きに一切関わりがない」というものであるならば、そもそも、脳は、「クオリアという存在に気づいて、その存在を語ることはありえなかった」ということにならないだろうか?
「クオリア」という存在が、脳という機械に何の物理的変化も及ぼさないならば、脳は、「クオリアという概念」をどこから仕入れたのだろうか?
「自分は今、クオリアを感じています」という脳の言葉は、どこからやってきたのだろうか?
このように、「クオリアが、物質世界に何の影響力も持たない」のであれば、「じゃあ、なぜ、脳は、クオリアを知っていて、それを語れるの?」という疑問は、
「現象報告のパラドックス」
と呼ばれる。
もちろん、クオリアを持たないであろう人工知能やロボットが、学習していった結果、「今、私は、赤いものをみています。赤いということを感じています」と、自分の認識について話すということはありえるだろうし、多くの人工知能論者たちは、雑多な情報を統合的に処理するのに便利だという理由で、人工知能が、自分の認識の状態を把握するような「私(自己監視プログラム)」を学習の過程で獲得する可能性があるだろうと考えている。
実際のところ、「脳はどうしてクオリアを語れるの?」という現象報告のパラドックの問題について、
プログラムという絶対的な法則にしたがって動くだけの機械的な人工知能が、「私は赤を見ています」と言ったり、主観的体験を話しはじめたりする可能性は十分にあるのだから、
単純に、
「脳だって、人工知能の例と同じような理由で、『私』という主観的な自己監視機能を手に入れて、内面の体験を語るようになっただけでしょ」
と片付けてしまう人たちも多い。
いやいや、実際には、そう簡単な問題ではないのだ!
だって、だってさ!
実際にクオリアを持たない存在が、はたして、以下のようなことを本当に語れるだろうか?
「赤い色をみたときにさ、この独特の『赤』って鮮やかな質感が、主観的なイシキの中に、ぶわぁ~って、浮かび上がるよね。この独特の質感をクオリアっていうらしいんだけどさ、……うーん、このクオリアって、言葉でうまく伝えられないな。ようするに、これ(●)のことでさ、この独特のこれ(●)がクオリアなんだけど、う~ん、僕の言っていること伝わっているかなぁ?でも、わかるでしょ?」
そもそも、
「私は、赤を見ています」のような、「脳内の認識の状態を語ること」と、「言葉じゃ説明できないけど、私は、クオリアという独特の感覚を見ています」のような、
「これ(●)を語ること」の間には、一億光年以上の違いがある。
もし随伴現象説が完全に正しいのであれば、これらの「赤というクオリアを感じています」的な発言は、まさに、自分のイシキに映っている鮮やかな「赤色」とは、まったく無関係に生じたということになる。
もちろん、脳という物理的な機械が、上記のような言葉を話すように、たまたま、偶然に、組み上げられ、そのように話した、という可能性は完全否定できないが、でも、それにしたって、クオリアと物理的な関連が一切ない脳が、
「たまたま、現にイシキの上に起きている、このクオリアの不思議さを語れるように発達した」
という偶然はとても考えにくいし、ありえないことのように思える。
また、もし、偶然、脳がそのように発達したと仮定しても、もはや、その場合には、脳が語る「クオリア」という言葉は、現実の「クオリア」を指し示した言葉にはなっておらず、まったく無意味な記号の言葉になってしまう。
(だって、その場合の「ク・オ・リ・ア」という発話は、現実の「クオリア」とまったく無関係に発生した音声ということになるのだから)
結局のところ、「クオリア」が、脳細胞に何も影響を与えない存在であるのならば、脳細胞が「クオリア」を知ることなどありえないわけで、脳は、クオリアが発生していることに気づくことすらできなかったはずだ。それなのに、現に、脳は、クオリアの不思議について語り、クオリアについて議論しているのだ。
これは大きな矛盾である。
だったら、まだ、
「脳は、クオリアという存在、概念を明らかに知っています!」「どういう仕組みかはわからないが、脳は、どこからか、クオリアの情報を仕入れています!」
と考える方が、自然で妥当なことのように思える。
でも、でも!
もし本当に、「脳がクオリアを知っている」としたら、それは、脳が、クオリア(もしくは、それをみている主観的なイシキ)から、何らかのフィードバックをうけて、脳内に物理的な変化が起きた、ということになってしまう!
少なくとも、そんな物理現象は、既存の物理学では定義されていないものだし、物理学において、物質の状態が変わるのは、「4つの力」のどれかでしかありえない。
だから、もし、クオリア(もしくは、それをみている主観的なイシキ)がフィードバックして、脳に情報を残した(つまり、クオリアが、脳の原子・分子に物理的な作用をした)ということを認めるとしたら、
それは、まさに、
「クオリア、イシキという現代物理学で定義されていない非物質的な何かによる物理的作用」が存在すること、すわなち、「オカルト的な第5の力」が存在することを暗に認めるということになってしまい、一般的常識的な物理主義に反することになってしまうのだ!
クオリア
もちろん、常識的な科学者であれば、そんな非科学的でオカルト的な物理作用は、できるだけ、受け入れない方向で物事を考えていきたい。そこで、随伴現象説がでてきたわけだ。
だが、この「現象報告のパラドックス」という問題のおかげで、「クオリアは、脳(物質)と物理的な関係は何もありません」という仮説にも、あまり妥当性が見出せなくなってしまい、
「クオリアは、物質に作用するような存在じゃないんだから、物理学は、クオリアという非物質的な存在なんかと、関わりを持たなくたっていいんだよ(^△^)」
と楽観的に考えて、クオリアに絶縁状を叩きつけていた物理主義の科学者たちに、大きな衝撃を与えた。
それにしても、脳内に「クオリアを知る」という物理的変化を引き起こしたものは、いったい、どんな物理作用だというのだろうか?
物理学は、本当に、オカルト的な「第5の力」を新しく定義しないといけないのだろうか?それともどこかに、見落とし、抜け道があるのだろうか?
はたして、ワレワレが、クオリアを『理解』できる日は、本当に来るのだろうか……?