思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

voice-of-brothers-482

2019-01-29 12:35:34 | 思想、哲学、宇宙論

https://ascension21.com/voice-of-brothers-482/


一瞬一瞬、現れ来ては過ぎ去りゆくかに感じられる今その瞬間こそ、

現在・過去・未来のすべてが詰まっていて、それを活かすのも殺すのも、

その人自身の今の意識の用い方次第なんだよ。

それなのに、あたら好機を逃しつづけて、過去にしがみつき、今を呪い、

未来を憂いてる人のなんと多いことか……。

きみたちが今だと思ってる『現在』は、

正確にいえば現在じゃあなく『過去』の結実・結晶そのもので、

今想い、語り、行ってることが、そのまんま未来の運命になって現れて来るんだよ。

なぜなら運命はいつでも今その瞬間に変え得るからだよ。

自分を犯してきたものは、ほかならない自身そのもので、

誰かや環境のせいで不遇をかこったり、病や不運となって現れていたわけなどではなく、

自分がみずからをそのように仕向けて来ただけだったんだってね。

「自己」に孤独はありえません

2019-01-27 15:34:13 | 思想、哲学、宇宙論


http://intoself.jugem.jp/?eid=181

それはたった一つであると同時にあらゆる多様性そのものでもあります

他の存在はその可能性すらありません

完全に一つでありながら同時に全てなのです



共有や共感は「自己」の起こす表現の一つなのです

実際にはあらゆる存在は最も深いところで繋がりあい共有され共感しているのです



私たちは自分を個人だと思い込んだときに孤独になったのです

その思い込みが明け渡されれば、初めから孤独は存在しないことが露わになります



「自己」にとって不安や心配はそもそも存在しません

本当に完全な存在は何かを獲たり失ったりすることができません



「自己」は愛と慈悲そのものであり

いつも私たちを支え守り導き癒しているのです



自我にとって孤独は一人で背負いきれる荷物ではありません

「自己」がその重荷を自我ごと軽々と持ち上げ、まるで何事もなかったかのように静寂へと帰すのです



探求者にはその重荷を自ら明け渡すだけの覚悟と信頼が求められるのです



そしてその信頼を促し育てるのも「自己」以外にはありません

本当に「自己」が全てなのです













voice-of-brothers-475

2019-01-25 14:19:34 | 思想、哲学、宇宙論
https://ascension21.com/voice-of-brothers-475/


地球界における意識進化のパイオニアにして、

神性復活のメッカたる日本国に住む霊的大和民族よ。

あなた方の崇高な姿は世の光なり。

あなた方を通して地球の夜は明け、

黎明の刻を迎えるに至ったのである。

その功績ゆえに与えられる無限の栄光を受け取られよ。


あなた方にはそれを受け取る資格がある。

そしてその光をまた地球の人々に還元されたし。


さればまた、その光はあなた方に還元され、

無限なる徳の循環からなる永遠の幸福を得るに至るのである。







悟りとは

2019-01-24 15:19:01 | 思想、哲学、宇宙論
http://intoself.jugem.jp/?page=7&cid=16

悟りとは

自分というものが観念的な架空上のもの

だいう真理が露わになることです



自分として考えて信じていた一切が

残すところなく幻想であり悉く誤っていたことが明らかになり



それまで自分を「知っている」と当然のように考えていたのに

それはただ思い浮かべ信じていたに過ぎなかったと知るのです





それは自我にとっては受け入れがたい事実であり

なんとしてでも阻止したいと思います





自分を残したままで悟りたいという願望は

その最たるものであり決して実現しません





それは夏の暑い日に

海に入って泳ぎたいが

面倒だから濡れたくはないというような

初めから両立不可能な願望です





そして水滴のような自我は

意識という海に入れば溶けて消えてしまうことを

恐れて何とか逃れようとします





個人性の消滅は自我の崩壊に過ぎず

「私」は片時も変わらずに在り続けることを知っていれば

恐怖心は和らげられます



一般的に

自我の崩壊は精神的な狂気を意味していますが

それは崩壊ではなくただの変質に過ぎません



本当に自我の崩壊が起これば

余計なものが取り除かれ

無限の平和と愛が輝くだけです




消えてしまうようなものは

初めから頼りはなりません



何の観念も必要とせず

永遠に「私」は「私」として在るのです



恐れる必要は何もありません





それでも恐怖心から踏み出せない人のために

頼るべき神や仏が描写されたのです





それらは無限の力と慈悲で必ず救う存在であり

初めから「私」と分離しておらず常にどこにでも在るために

それが可能なのです





見たことのない神は信用できない

自分で思考し到達した答えこそ価値がある

というのが近現代的な価値観ですが

探求者はさらに一歩踏み込んで

自分とその思考の源へと向かわねばなりません



そこには結局見えない渦や基盤のようなエネルギーがあるのです



境界線のない無限のエネルギーを自らの内で発見したとき

見えることも聞こえることも考えることも信じることも

そのエネルギーが起こす一つの現象でしかないことを知ります



それは神といった抽象的な言葉でしか表現できないものです

言葉はもはやそれほど重要ではなく

五感はその時々に起こるある種の楽しみに過ぎません





何もかもを明け渡せば

自分も神も悟りも自我もただの言葉と概念であり

真理はただ輝き続ける無限性そのものだと知るのです















欠乏感を埋めようとさ迷い歩いて

2019-01-19 11:56:01 | 思想、哲学、宇宙論
http://intoself.jugem.jp/?cid=7

探求者は本質的な欠乏感に正面から向き合う人々です

欠乏感は外的な何かで決して埋まることはありません

それゆえ自らの内面で答えを求めなければなりません





神も阿弥陀仏もどこか遠くの場所にいるのではありません

それはいつでもどこにでも在り続け

誰にとっても「私」として最も身近で慣れ親しんだものとして在るのです



面白いことに

神や信仰の意味を崩壊させるのは科学ではなく

「自己」として顕現する神自身によってなされます



神という意味も自分という意味も

さらには意味や価値という観念そのものを崩壊させ

初めから常に完全で自由であったことを露わにするのです





不足や欠乏、また束縛感や孤独感は

個人という狭く限られた視点から見られたときにだけ現われ

本来の意識そのものとして眺めれた時にはどこを探しても見つかりません





まるで金を求めてさ迷い歩く冒険家の足元には

黄金の大地が広がっているようです



彼はただ金がどんなものかを知らないために

それが金だとは気づかないだけなのです




昨日の要点

2019-01-19 11:41:28 | 思想、哲学、宇宙論
悟りとは本来の「私」を悟ることです

その本来の「私」は超越性、普遍性、無限性、潜在性そして存在そのものです



それはただ「神」と表現するほかありません



そして神には一切の分離と境界線が存在しないために

内面に目を向ければ「私」として認識されるのです

神と悟りのどちらを求めればいいのですか?

2019-01-18 14:45:55 | 思想、哲学、宇宙論
http://intoself.jugem.jp/?month=201709






神と悟りのどちらを求めればいいのですか?
2017.09.28 Thursday
10:53
.




※ご質問はご本人の了承を得て掲載しています






Q.

神と悟りの関係について質問させてください。

本当に私は基本的なことから何もわからないのですが

神と悟りの関係とはどのようなものなのでしょうか?



私がわかることは、私の探求の出発点は

「この苦しみから逃れたい、楽になりたい、しあわせになりたい」

というものだったということだけです。

その後で神や悟りといった概念に出会ったのだと思います。



そしてそれを知り、実現することが、自分が求めている

「苦しみからの解放」なのではないかと考えるようになったのだと思います。

ある人は神に明け渡し、神の愛を知ることがなければ、悟りになど何の意味もないと言います。



またある人は、神でさえ悟りの障害、罠になる、蜜を求める蜂にとどまってはならず、

蜜そのものにならなくてはいけないと言います。



私としてはどちらの立場の人も、十分私の当初の願いである「苦しみからの解放」

は実現しているようにも思うのですが、

結局私はどちらの言い分?に従って生きればいいのだろう?という迷いがあります。



一方にただひたすら神を求めるキリスト教の修道士やラーマクリシュナのような人がいます。

もう一方にラマナ系の非二元の教えを説く人や、

神という言葉を否定したりまったく使わない唐代の禅師のような人がいます。



どちらかの言い分にしか説得力や魅力を感じないのであれば話は早かったのですが、

私の場合、どちらの言い分も非常にもっともらしく、また大変魅力的にも聞こえてしまいます。



そのせいでかえって混乱してしまい、これという一つの道をまっすぐに往くことができずにいます。

よく言われるように、どっちであろうと至ってみれば同じことなのでしょうか?

それともどちらかはまだ不十分だったり未徹底、というような優劣はあるのでしょうか?






A.

「悟り」の最初の一歩から始まり

あらゆる段階そして最後の一歩まで全ては神によって踏まれるのです



悟りとは本来の「私」を悟ることです

その本来の「私」は超越性、普遍性、無限性、潜在性そして存在そのものです



それはただ「神」と表現するほかありません



そして神には一切の分離と境界線が存在しないために

内面に目を向ければ「私」として認識されるのです





悟りと神という言葉が相いれないものとして感じられるのは

悟りが仏教の言葉であり仏教では神という言葉をあまり使わないからです



釈尊は様々な誤解を生まないために神について教えなかったといわれます





私たちは神を人格化してしまいます

人格化された神は捧げものがないと怒って災害を起こしたり

善人と悪人を区別して褒美や罰を与える存在として恐れられます



こういった誤解はあらゆる時代のあらゆる場所で見受けられます



またどこか遠い場所から見守り続ける存在であるという誤解もあります



世俗的なことと神聖なこととを独断的に分離し区別するために

さまざまな悲劇が起こされました





また

「私」と表現すればそれが個人の自分のことだという誤解が生まれ

「神」と表現すれば自分とは関係のないものだと誤解が生まれます



こうして言葉はどれほど気を付けても誤解を生むのです



それはある意味では必然的な副産物と言えます



完全な沈黙ですら受け取る人によっては誤解するのです





私たちは誤解に注意しながら進まなければなりませんが

誤解から完全に逃れることはできません



観方を変えれば誤解が生まれたとこ自体が

問題点を浮き彫りにし、やがて誤解が解かれることを暗示しているのです





「神」も「私」も言葉であり一つの概念です

悟りはそれらの概念を超えたところで起こります



それゆえ最後には明け渡されるものです

神そのものが悟りの障害になることはありえません

神の恩寵が悟りをもたらすのです





障害になるのは神についての概念であり思い込みと誤解です

捨てなければならないのは神への幻想です



そしてそれは悟りについての概念や思い込みも同様です

それらは放棄されなければなりません





聖者たちは文化的宗教的にさまざまな背景をもっています

彼らの教えは表面上は異なりますが指し示す方向は同じです



彼らは神と「自己」に分離がないことに気づいていました



それでも自然と湧き起こる感謝の念と喜びを表現するのに

神という表現が使われることはとても自然なことです



彼らは求める人々に方向を指し示すために

ある人は神への感謝をそのまま表現し

ある人は内面に向かいなさいと一貫して教えたのです





多くの情報をすぐさま手にすることのできる現代の探求者は

それらの情報を統合し最も合理的な道を進むことを望みます



実際には、様々な手法の良いところ取りをしようとするよりも

最も信頼できる一つのことへ集中する方が優れています





一つの修練が起こり続ける限りは熱意とともにそれを実践し

やがて熱意が保てなくなったときには必要とされる何かがまた与えられます





神を信頼すること、またこの瞬間に起こることを信頼するのは同じことです

多くの教えと手法で混乱するならば

最も惹かれる一つのことへと集中してください





私は学び始めておそらく初めに実践していたのは念仏です

やがて関心が真我探求へと移り

最後に明け渡しの教えを全面的に信頼しました



それらの変遷があっても念仏や真我探求に対する信頼は揺るぎませんでした

それらなしではどこにもたどり着けなかったでしょう





どのような道を進むのかは人によって異なります

他の人の進み方は参考にはなっても完全に真似ることはできません



ですから今のおおきな流れ、そしてその瞬間に起こることを信頼してください

焦点を遠い未来や過ぎた過去にあわせるのではなく、この瞬間へと向けてください

それがすでに明け渡しの実践でもあるのです















voice-of-brothers-465

2019-01-13 15:58:08 | 思想、哲学、宇宙論
https://ascension21.com/voice-of-brothers-465/



いのちを輝かせた生き方というのは、神性に基づいた明るく清らかで

前向きな想いを元にした言動行為のことをいうんだよ。

角度を変えていえば、それは愛そのもの、光そのもの、

真理そのものの生き方だといえるね。 人間のいのちの中には、

そうした神仏と寸分たりとも違わない資質が隠れているんだよ。

そういう資質を自分の奥から掘り出した人のことを、

アセンションした人というんだ。 言ってみればアセンションというのは、

生命の本質を磨き出した状態のことをいうのね。

それはけっして、外的条件の変化を言うわけじゃないから、

そこんとこは勘違いしないでね。 空を見上げれば太陽が煌めいているように、

きみたちの心の雲を浄め切れば、いのちの太陽が発光して、

表面意識と肉体を照らし出すんだよ。そのいのちの太陽を浴びている内に、

精神細胞と肉体細胞のすべてが光に還元して、

光体の自分、本体の自分を肉体心身に顕すことができるようになるんだ。

そのためにはいつもの呼吸を深くすることだよ。

そして、光明の想いを意識的に発しつづけるんだ。

それを同時にやるのがいいんだよ。

そうすれば、必ずきみの神性は輝いて、その輝きはやがてホンモノになるからね。

アイヌ政策の拡大に関する反対署名のお願い。

2019-01-13 13:08:49 | 思想、哲学、宇宙論
http://koushinminzoku.blog117.fc2.com/



アイヌ政策の拡大に関する反対署名のお願い。

国を二分化し差別の再生産政策、アイヌ政策が文化保護名目で来年1月にさらなる拡大がされようとしています。
ここでも、取り上げてまいりましたがアイヌ利権は紛れもない数字として存在し、未だにその構図が横行しているどころか
アイヌ協会阿部一司のように、大学にも通わず修学資金を一族で受け続け私服を肥やしているような人物が国のアイヌ政策室に入り込み、日本の北海道史を差別に塗り替えようとしており、私達の郷土、北海道の歴史を歪め日本に大きな負の歴史を刻み世界に流布しています。アイヌ研究に関わる研究者達もこうした構図を職業的保身や思想的主張のために表裏一体となっています。

こうした捏造アイヌ史に少しでも歯止めをかけ、アイヌ政策の精査と中止、そして先住民決議の再検討を日本国民の意見とし
国政に届けたいと思います。良識ある日本国民の皆様のご理解ご協力を少しでも多くいただけますよう強くお願い申し上げます。

SNSでの拡散、ブログなどのリンク、勉強会講演会での署名活動、どんな小さな形でもかまいませんので
これ以上、捏造された歴史と、その背景にある税金詐取の構図に歯止めを掛け私達の郷土と祖国の歴史を守るためにご協力ください。

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