思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

the PLANET from NEBULA

2019-11-30 16:54:10 | 思想、哲学、宇宙論


バシャール:立ち位置



2019-01-30 01:22:42
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



貴方がワクワクを追いかける時、ベストな場所とベストなタイミングでシンクロに遭遇することになります。貴方のワクワクは貴方の波動を調律して真っ直ぐ”ありのままの自分”になる道へと誘ってくれますから、貴方は何の苦労も感じずに目的地へ到着することができるのです。なぜかというと、ハイヤーマインドと一体化した貴方が宇宙の進化のエネルギーの流れに乗っかって(身を任せて)進んでいるからです。



でも、一度努力や鍛錬のエネルギーにフォーカスがシフトすると宇宙の流れを逆流することになります。つまり、たとえ周囲がどう感じていようとワクワクを追いかけている瞬間の貴方は”努力や鍛錬”を感じていません。むしろ恍惚感や一体感を感じて非常に心地よい気持ちを感じています。ですから、”捉える視点や立ち位置”によって一つのエネルギーが全く異なる体験を引きよ起こす事を意味しているのです。



貴方がどちら側の視点にあるかは、今の貴方がどう感じているかで簡単に判断する事ができます。ワクワクを感じて心地よいか、または努力に感じて面倒だと感じているか等です。





バシャール:五感センサー



2019-01-27 00:56:58
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



貴方の物質的身体は五感というセンサーをつけた”アンテナ”です。非物質界のエネルギーを五感という翻訳機で翻訳してから貴方の体験として取り込んでいます。しかし、物質界に住む私達が五感を使って翻訳できる範囲は非常に限られています。ある意味、100あるエネルギーの0.00000……1%のみを掴んでいるに過ぎません。



しかし、五感で翻訳できる範囲は常に拡張され広がりを持っている事を知ってください。それは貴方の意識が拡張する度に、波動が高くなる度に範囲も拡張されている事を意味しています。ですから、最近オーラが見えるようになる人も増えてきています。最近非物質界の存在と会話できるようなった人も沢山増えてきています。そして最近チャネリングで高次的存在と交流を持ち始めている人もいるのです。



貴方がもっと自由でワクワクしていた子供時代を思い出してください。そして貴方の五感以外のエネルギーがある事を真に認識できるようになると、貴方の五感センサーはもっと広範囲のエネルギーを拾えるようになります。そしていずれ貴方は、自分自身がチェネラーとなって答えを自分の中から導き出す事ができるようになるのです。




バシャール:繰り返すシフト



2019-01-24 02:15:42
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



貴方が体験したい地球は既に平行世界に存在している事を知ってください。貴方は一秒間に数十億というスピードで無数の平行世界を渡り歩いているのです。しかし、貴方の波動に存在しないエネルギー(世界)を体験する事はありませんから、貴方の波動とマッチする平行世界を移動し続けています。



毎瞬貴方は新しい自分になって新しい平行世界に来ています。しかし、1週間前と比べてたとしても全く変化が見られない日常を送っていると感じるのであれば、それは貴方が繰り返し同じリアリティを作り出しているからです。つまり、新しい自分にシフトしていても”今まで”の想いやお荷物をそのまま背負い込んで同じリアリティを”わざわざ”作り出している事にあります。



だからこそ毎日ちょっとづつでもワクワクを取り入れ、”今までと変わらないリアリティ”にメスを入れる必要があるのです。新しいワクワクで取り入れてそのエネルギーをしっかり掴めんでさえいけば、次のワクワクがやってくる事になります。そうやって確実に貴方はシフトを繰り返して望む地球へと向かっているのです。




バシャール:自分の捉え方



2019-01-23 00:52:40
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



自分の周りはロクでもない人ばかりが集まっていると言う人がいます。そして、自分はいつも嫌な体験をさせられていると訴えます。でも、もしも貴方が自分自身を”完全で100%だ”と真に思える事ができたら、貴方の周囲は貴方を唸らせる人間だけが引き寄せられてくる事になるのです。つまり、貴方自身を満足いく素晴らしい自分だと受け止める事で初めて、周囲もそのように変化してゆく事になります。



貴方自身が自分に満足できずに自分を”まとも”に捉えきれていない、そこに鍵があります。貴方が自分をロクでもない人だと捉えているから波動の法則でそういった感情を引き起こさせる人達が引き寄せられてくるのです。ですから自分自身をどう捉えてどう感じているのか、そこをまず洗ってみる必要があるかもしれません。



競争の激しい場に身を置くスター達は周囲を巻き込んでスターの座に駆け登ります。つまり、自分の可能性を認識して自分を真に受け止めているからこそ、周囲にもそういった人達が集まってくる事になります。ですから、貴方が最初に変わらなければ周囲が変わる事はありません。









「Mステスーパーライブ」に、BABYMETAL

2019-11-30 16:04:09 | 思想、哲学、宇宙論

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191129-00000154-natalien-musi

「Mステスーパーライブ」にEXILE、ヒゲダン、King Gnu、欅坂46、BABYMETALら49組


12月27日(金)12:00よりテレビ朝日系で放送される音楽特番「テレビ朝日開局60周年記念 ミュージックステーション ウルトラ SUPER LIVE 2019」の出演アーティスト第1弾が発表された。

ケン・ウィルバー珠玉の言葉

2019-11-30 14:24:38 | 思想、哲学、宇宙論
001 新たなゲーム
  今度はあなたは、自分が何であるかを思い出すゲームを始めようとしている。
002 面白いゲーム
  あなたの夢は、あなたがたった一人の神であることに退屈さを感じた時から始まった。
自分自身の驚くべき想像力の産物の中に迷い込み、全てを他者とするふりをする面白いゲームを始めたのはあなたであった。
003 存在することのシンプルな感覚
  自分自身の意識を深く覗き込み、ちっぽけな自我への囚(とら)われを解いて、始源の空(くう)に溶解させれば、「今」、「ここに」、「ただ」、「いる」思いに至る。
シンプル・フィーリング・オブ・ビーイング(存在することのシンプルな感覚)
004 跳躍のため
  跳躍のたびに死に、また新たな跳躍のために復活する。
傷つくことも、横道にそれることも有るが、正しい道に戻ってまたジャンプする。
005 進化システムのメンバー
  私たちは、単一の全てを内包する進化システムのメンバーである。
私たちは活動するスピリットであり、新しい真実の高みへと這ってでは無く、跳躍して進化する。
006 アポケー(判断停止)
  好き嫌いを言わない。
どちらかを選ばない。
全ての事象を否定しない。
あらゆる物の父であり、母であることを否定しない。
007 ハートが照らし出す
  輝く光は、自然よりも、身体よりも、心よりも、思考よりも深いハートから放たれて、全ての宇宙を照らし出す。
「神性」の本当の秘密――太陽も星も自然の全ての光は、まっすぐにあなたのハートから照らし出されている。
「プラトンの洞窟の影」から眼を反らし、まっすぐに眼も眩(くら)む光そのものに向いた時、あなたもこの光を見ることができる。
無量の光に満ちた慈悲の流れが、全ての顕現世界を支えている。

解説:プラトンの洞窟の影
そこには洞窟の中で入口に背を向けて、奥の壁を見たまま縛りつけられている囚人がいます。
そして背後には火が燃えていて、その光が彼らの後ろから照らしています。
洞窟の壁に見えるものは、人形遣いが運ぶ繰り人形の影にすぎないのですが、彼らはそれが真実で自分の世界であると思い込んでいます。
しかし、彼らが束縛から解かれて洞窟の外に出たならば、そこにあるものやそれを照らす太陽を知り、洞窟の中の世界が真実ではないことに気がつきます。
008 自分を知るものは神を知る
  無限の愛である光にひざまずいた時、光は微(かす)かにささやく。

あなたは今、自分自身にひざまづいています。
あなたは自分を思い出したでしょう。
自分を知るものは神を知るのです。
009 透明な光
  心が静止して感覚が世界につながった時、万物は透明な光を放ち始める。
その光は万物の真の姿である。
この慈悲に満ちた尽きることのない光の前では、全ての偶像は退く。
この光の正体は激しい愛であり、光も闇も、善も悪も、快楽も苦痛も、等しく優しくその胸に抱く。
010 神は見ているもの
  あなたは決して神を見ることは出来ない。
何故なら神は見ているものであって、時間や空間に拘束される有限な見られる対象ではないから。
「神」それ自身が探しているものであるのに、何故神を探そうとするのか?
011 意識の直接性
  私は、あらゆることを疑うことが出来る。
意識が向かう対象は、疑うことが出来る。
しかし、疑うことを成している私の意識だけは疑うことが出来ない。
全ての知ること、見ること、存在することの基盤がこの意識の存在である。
全ての現象を目撃しているものの存在は疑えない。
この今の意識の直接性、これこそが神である。
012 二元の対立間
  ハートに愛を?
魂に慈悲を?
何をすべきか?
どう愛すれば良い?

あなた方は、全く的を外している。
迷い、二元の対立間をフラフラし、終わりのない悪夢の中を彷徨(さまよ)っている。
ここにはリアリティは全く無い。

解説:二元論のナンセンス
宇宙の万物は重畳(ちょうじょう)された二極化の関係性において存在させられています。
物質とは、対比の関係性に対して名前を与えることで顕現化したものです。
013 夢遊病者
  原子と神は同じである。
あなたはまだ対立に囚(とら)われているのだろうか?
犠牲者と殺人者、善と悪、罪の有無、愛と憎悪、
我々は何という夢遊病者なのであろう。
二元論のナンセンスを受け入れなければ、世界をリアルに受け止められないのだろうか?
014 ワンテイスト
  そして「目撃者」は突然いなくなる。
「目撃者」は見られる対象すべての中に消える。
主体と客体はワンテイストの中に消えてしまう。
ワンテイスト―「非二元」は、内も外も持たない存在として現れる。
私は雲である。私は雨である。私は大地である。
私は囀(さえず)るこま鳥である。
ここに有るのは、常に現前するワンテイストの痛いほどの明瞭性である。

解説:ワンテイスト
ケン・ウィルバーは好んで「ワンテイスト」という表現を使います。
ワンテイストとは、ワンネスの味わい=至福のことです。
ケン・ウィルバーは、至福という言葉を使えば、その対極である悲しみを浮き上がらせてしまうので敢えて「ワンテイスト」という表現を使います。
015 目撃者
  あなたは、あなたの思考に気付いている。
だからあなたの正体は思考では無い。
あなたは、あなたの感情に気付いている。
だからあなたの正体は感情では無い。
あなたは、あなたが見ている対象に気付いている。
だからあなたの正体はその対象では無い。

あなたの中の「何か」がこれら全てに気付いている。
「何か」が意識を持っている。

全てを観ている「目撃者」。
あなたこそが、この「目撃者」ではないだろうか。
016 空(くう)
  それはどのようにすれば見つけることができるのか?
それは決して見つけることはできない。
何故なら、それは一度たりとも失われたことは無かったから。
この無形の「目撃者」――空(くう)はあなたから一度たりとも離れたことは無かった。
全コスモスで、それはたった一つ、不変なもの。
017 それが空(くう)
  れは対象を持たない「意識」、
主体として「見る」ことはできるが、対象として「見られる」ことのない純粋な「自己」、
無私の「目撃者」、
全ての宇宙を映し出す「鏡の心」、
全コスモスの透明性として輝く「空」(そら)、
あらゆる状態の「状態」、
あらゆる属性を超えた「属性」、
それが空(くう)
018 言葉を超えた空の世界
  畳み込まれていた全てが顕現する世界。
マクロもミクロも、絶対も相対も、一も多も、単一性も複数性も、善も悪も、
言葉を超えた空(くう)の世界――
全ての言葉は、反対の言葉があるから意味を持つのであり、空(くう)は反対を持たないから。
感じることはできる。が、しかし、知ることはできない。
非時間――時間を超えているために永遠であり、全ての時間の母である。
見よ、それは今、あなたよりもあなたの近くにある。
感じることができただろうか?
019 ハートに繋がれば
  ハートに繋(つな)がれば、あなたと私はひとつになり、世界は夢になっていく。
そこは神聖な場所なのだから、真面目さも重々しさも脱ぎ棄てて、軽快さとユーモアにご挨拶(あいさつ)を。
ここは物質としての原子が光になる世界。
020 無限の意識
  コスモスの中では「すべて」が起こり、暫(しばら)く留(とど)まって、やがて去っていく。
目撃者である空(くう)は「すべて」が生起するのをただ許し、見ているだけ。
全ての有限な対象から自分を切り離し、無限の意識として安らいでいる。
それが目撃者。
021 単なる客体
  私は自然の中の対象では無い。
身体の中の感覚では無い。
心の中の思考では無い。
何故なら、私はそれら全てを目撃することが出来るから。

目撃すれば、それは既に単なる客体、単なる感情、単なる思考。
対象に埋没すれば、窒息するような拘束。

目撃者は対象の苦しみ、拷問からは離れている。
全ての対象は、目撃者に来りては去るもの。
022 ワンネス
  肉体へのアイデンティティが消失し、あなたの意識はコスモス全体を抱擁する。
全ての客体と全ての主体が、ワンネスの偉大な抱擁の中で、官能的に結ばれる。
内側と外側はこうしてひとつに結ばれる。
023 ワンテイスト
  やがて「目撃者」それ自体が消えてしまう。
見ていた雲があなたになり、触れていた大地があなたになり、聞こえていた雷鳴があなたになる。
あなたとコスモスはひとつになる。
太平洋を一息で飲み込み、エヴェレストを手の上に載せ、超新星をハートで渦巻かせ、太陽系を頭にかぶる。
それがワンテイスト。
024 アートマン・プロジェクトの進化段階
  1.ウロボロス的段階
 ―物と自己との区別がつかない原初的な意識段階
2.(魔術的)テュポーン的段階
 ―物とシンボルとの区別がつかない原始人の意識段階
3.神話的段階
 ―論理的思考や内省が出来ない幼少期の意識段階
4.心理的自我の段階
 ―理性と内省を基調し、自我が確立された近現代人の意識段階
5.霊的段階
 ―直観と霊的啓示を伴い自我を超越したスピリチュアルな段階
6.微細(サトル)段階
 ―空(くう、アートマン)を直観する精妙な高次の意識段階
7.元因(コーザル)段階
 ―空(くう、アートマン)と自我が融合した全てが無分別になる意識段階
025 アートマン・プロジェクト
  人類の目標―つまり意識進化の最終目標―は、空(くう、アートマン、真我、ブラフマン)に到達することである。
すべての存在は、アートマン(ブラフマン)との合一を目指す。
026 人間の意識
  人間の意識は、「スペクトル」のような連続した階層的な帯域から成る。
027 あなたは誰ですか?という問いに答えるということ
  あなたは誰ですか?という問いに答えるということは、自己と非自己の間に境界線を引くことである。
あなたが引いた境界線の内側の事象(同一化している側)をもって、その回答に充てる。

私は人間である。椅子では無い。
私は会社員である。学生では無い。
私は男である。女では無い。
私は長身である。チビでは無い。
私は涙もろい。冷血漢では無い。
私は仏教徒である。クリスチャンでは無い。
私は福井県民である。青森県民では無い。

至高の自己を経験すれば、この境界線が引けなくなる。
個人のアイデンティティの境界は、全宇宙を包含するまでに広がるからである。
あるいは、境界線を全く失ってしまったと言っても良い。
何故なら、この時、個人は内側も外側も無い、ひとつの「調和した全体」であって、どこにも境界線を引けなくなるのだから。
028 個を超えた目撃者
  私たちは、あらゆる特定の心や感情、物理的な対象から、自己への同一性を削ぎ落とし、そうした対象を超越することによって、個を超えた目撃者を発見することが出来る。
029 エクササイズ:私の正体
  私には見る身体、感じる身体が有る。
疲れたり、興奮したり、病気になったり、元気になったり、重かったり、軽かったり、甘かったり、酸っぱかったり、痛かったり....
私には身体がある。私は身体を通して感覚する。
でも私は身体では無い。
私は身体を通して感覚するもの。

私には起こっては消えていく望みが有る。
でも私は望みでは無い。
私は起こっては消えていく望みを見つめるもの。

私には漂う感情が有る。
でも私は感情では無い。
私は漂う感情に気付くもの。

私には取り留めのない思考がある。
でも私は思考では無い。
私は取り留めのない思考を知るもの。

私は以上のどれでも無く、それらの全てが無くなっても残るもの。
私とは、意識の中心。意識の源泉。静かな明晰性。目撃する意識。
私とは、全ての感覚、望み、感情、思考を見守る不動の目撃者。

(このエクササイズは三回 繰り返してください。)
030 自我を溶解させる
  スピリットは、自我が自身のアイデンティティと見なしている物質から、自我を溶解させながら、身体、心、魂そしてスピリットへと進化、覚醒していく。(覚醒の旅)
自我が溶解されていくこの過程は、スピリット自身の自己発見、自己認識の過程でもある。
その道程には、恐怖と歓喜が伴う。
031 自然は知らない
  快楽も苦痛も自然の中には現れる。
しかしそれは心配や不安の種では無い。
未来の苦痛を恐れもしなければ、過去の苦痛について後悔もしない。
それはとてもシンプルで自然なことだから。
032 人間と自然
  大きな木は、小さな木に優越感は持たない。
小さな木は、大きな木に劣等感は持たない。

愚かな熊は不安神経症にはならない。

年老いた猫は、差し迫る死を迎えて、恐怖の発作に襲われはしない。
静かに森の中へ行き、木の下で丸くなって死ぬだけだ。

去る時を知るコマドリは、柳の枝に静かに止まり、夕日の光が見えなくなると眼を閉じて、大地へ落ちて最期を迎える。

人間は、自然とはいかに異なっていることか。
033 自然は弁解しない
  自然は対立を知らない。

本当のカエルも偽のカエルもいない。
道徳的な木も非道徳な木もいない。
正しい海も間違った海も無い。
倫理的な山も非倫理的な山も無い。
美しい生物も醜い生物もいない。
(いるとするなら、人間であるあなたが判断するだけのこと)

自然はあらゆるバリエーションを生み出すだけで満足している。

自然は弁解しない。

自然は正しい。
間違っているという対立を知らないから。
034 人間の対立の海
  人生には対立が付きまとう。
空間と時間の次元には必ず対立を伴う。
上/下、内/外、高/低、長/短、北/南、大/小、ここ/むこう、頂点/底辺、右/左。

私たちが真剣になり、重要だと考えるのは、対立の一方の極である。
善対悪、生対死、快楽対苦痛、神対悪魔、自由対拘束。

私たちは社会的・文化的・美的な価値も対立で捉える。
美対醜、成功対失敗、利益対損失、強い対弱い、利口対愚か。

最も抽象度の高い概念すらも対立の中に立つ。
真と偽、表象(みかけ)と実在(リアリティ)、存在と非存在。

私たちの世界は巨大な対立の集合である。
035 存在の偉大な連鎖または入れ子(ネスト)
  身体は物質を超越しながら包括している。

心は身体を超越しながら包括している。

魂は心を超越しながら包括している。

スピリットは魂を超越しながら包括している。

物質からスピリットへの包括の構造関係は全てホロン構成である。
036 存在の偉大な連鎖
  眠るとき意識は、粗大(グロス)な身体(覚醒状態)から微細(サトル)な心(夢の状態)を通り、元因(コーザル)的な空(夢の無い状態)へ進化する。

目覚めるとき意識は、元因(コーザル)から微細(サトル)へ、粗大(グロス)な領域へ下降(内化)する。
037 不生不滅(ふしょうふめつ)
  あなたの正体である空(くう)は、生まれたのではない。
ただ、在ったのだ。
生まれたのではないから死ぬことも無い。
それは、決して時間の中に入らない。
これを知るなら、サンサーラ(輪廻)と呼ばれる涙のヴェールから解放される。
038 通り過ぎていくもの
  空間、時間、対象、それらは全て通り過ぎていくもの。
留(とど)まるものでは無い。
これら通り過ぎていくものは、空(くう)であるあなたには、決して、触れることも、誘うことも、傷つけることも、慰(なぐさ)めることも出来ない。
039 主体やら客体やら
  私たちは、小さな主体やら客体やらに自己を同一化させてしまうことが有る。
これが拘束と不自由の始まりである。
小さな主体やら客体やらは、全て見ること、または見せることのできるものであり、それ故、苦しむものである。
しかし、実際は、全て私たちの正体では無いものである。
040 消える主観的な自己
  目撃者は、心と身体の、内にも外にも同一化していない。
自分の心も身体も客観的に眺めることが可能であることを知っているのならば、心も身体も真の主観的な自己では無いことを、ごく自然に認識する。
041 あなたの意識の不動の中心
  走っている間、「目撃者」にとどまれば、あなたは走っていない。
走っているのは地面である。
高速道路を運転している時、あなたは動いていない。
動いているのは風景である。

あなたの意識の不動の中心は、全ての存在と同じであり、その中心は偏在し、かつその周辺はどこにも無い。
それはあなたの魂の重心である。

この広大な空性に安らいでいれば、どんな軌跡も運動も、動揺も混乱も無い。
042 あなたの中に世界がある
  人は、人生に捕らえられている、世界に捕らえられている、と言うがそれは間違いである。
これはエゴとして収縮した把握である。
事実は、世界があなたの中に有るのである。

私の意識は私の身体にはいない。
私の身体は私の意識の中にいる。

私の意識はこの家にはいない。
この家は私の意識の中にいる。

私の意識はこの世界にはいない。
この世界は私の意識の中にいる。

私の意識はこの宇宙にはいない。
この宇宙は私の意識の中にいる。

それは、今、永遠の今、生起している真実なのだ。
043 永遠、無限
  目撃者である私は、時間の中を歩かない。
時間が私を通り過ぎてゆく。
私は、時間と空間と、その不満の声に左右されない。
「永遠」とは、時間の中で永久に生きることでは無く、時間の無い瞬間に生きること。
「無限」とは、やたらに広い空間のことでは無く、完全に空間の無いこと。
044 スピリットとの同一性
  スピリットと至高の同一性(アイデンティティ)を結ぶためには、この定常する意識の流れへ、自分を接続しなければならない。
覚めている時、夢を見ている時、夢を見ていない眠りの時、この三つの態様において。
045 私の中のスピリット
  私の中には、常に覚醒している意識がある。
覚めている時も、夢を見ている時も、夢を見ていない眠りの時も、それは意識している。
この常に現前する意識、恒常する意識、非二元の意識、見つめ続ける光、
これこそが、私の中のスピリット。
神へまっすぐに繋がるパイプライン。
046 山になりなさい
  もし、全宇宙と一緒になりたいのであれば、ケン、山を見てはいけない。
山になりなさい。
私の裸を感じなさい。
そして全世界も同じように感じなさい。
全て起こっているものと官能的に合一するの。
047 出発点としての苦しみ
  統一意識の外で生きるということは、不満、苦しみ、悲しみしか生まない、という気付きに導いてくれる苦しみ。
内と外という境界線を行ったり来たりする人生とは、絶え間ない戦いの人生、恐怖、不安、苦痛、死の人生であることを、我々は苦しみを出発点にして学んでいく。
048 人生の別の意味
  人によっては、意識を持って苦しみに直面せず、苦しみにしがみ付き、殉教者のように自分を縛りつける。
慈悲の始まりとしての苦しみは、人生に別の意味を見い出そうとする探求者にのみ現れる。
049 何か別の意味
  何か別の意味は、人生をより注意深く見ること、より深く感じること、回避してきた世界や避けてきた自分に、本当に接触することで与えられる。
050 人生の苦しみ
  人生に満足していないという意識、人生の苦しみに気が付き始めると、より深い真実のリアリティに気が付き始める。
何故なら、苦しみはリアリティに対する見せ掛けの作り事を壊し、何か別の意味を人生に強要してくるのだから。
苦しみとは、慈悲の始まりである。
051 アートマン・プロジェクト 2
  偉大な探究を終わらせよう。自我への収縮を解きほぐそう。
コスモス全体を、あなたという存在へ流入させるのだ。
この時、あなたは思い出す。
アートマン・プロジェクトなど起こったことは無かったのだ。
052 ゲーム
  記者「何故、一者である神は、肉体化して顕現するのですか?」

ケン「一人で食事をしても、つまらないからです。
永遠の栄光に包まれ、至福の中に浸っている無限である神は、自分で無いふりをするのが楽しいだろうと、思い付いたのです。
それで、世界を顕現させました。オセロゲームを始めたのです。」

記者「私も子供の頃、ひとりでオセロゲームをしたことがあります。」

ケン「うまく行きましたか?」

記者「ダメでした。相手の駒の動きが解ってしまうのですから。
相手の裏をかくことができませんよね。これではゲームになりません。」

ケン「そこがポイントです。つまり、あなたは自分では無い他者を必要とする。
あなたは、どちらか一方のプレーヤーであって、両方のプレーヤーであってはならない。
これがゲームというものです。」

記者「ゲームを楽しむためには、他者が実は自己であることを忘れなければならない。」

ケン「そうです。一者であるあなたは、他者つまり多者を作る。
次にあなたは、自分が多者であることを忘れてしまう。そうしないとゲームにならない。
顕現、肉体化とは、一者が多者になることです。そこで初めて遊ぶことが出来る。」

記者「でも、いつも楽しいとは限りませんが?」

ケン「そうでも有り、そうでも無い。顕現された世界とは、対立の世界です。
快楽も苦痛も有る。上昇もあれば苦痛も有る。善もあれば悪も有る。主体には客体があり、光には影がり、表には裏が有ります。
このコスモスのゲームでは、これらあらゆる「対立」が、あなたを動かすものとなります。」

記者「顕現のゲームは、対立つまり苦しみの世界なのですか?」

ケン「そう見えますね。でも、対立を超える道が有ります。」

記者「といいますと?」

ケン「スピリットは、あらゆる対立を平等に生み出すプレーヤーです。
スピリットは、対立しているものの良い方の側面ではありません。悪い方の側面でもありません。
スピリットは、対立しているものの基盤、グラウンドなのです。」

記者「えっ?」

ケン「私たちが苦しみから自由になる道は、二元論の良い方の半分に属することや見つけることでは有りません。悪い方の半分に顔をそむけることでは有りません。
自由になる道は、二元論の両方を含む源泉を見つけることにあります。
私たちは、人生のゲームの両端にいます。何故なら、あなたも私も、宇宙のゲームをするために対立する両方を作り出したからです。
非二元とは、「ふたつから離れている、対立から自由である」ということです。
非二元が解放であるのは、下降の無い上昇とか、外部の無い内部とか、悪の無い善とか、苦痛の無い快楽とかといった、在ることの不可能なことの追及を、遂にやめるからなのです。」

記者「ケン個人として、ワンテイストをどう考えますか?」

ケン「私がワンテイストを感じている時、ほんのかすかに「この素晴らしい広がりにひとり留(とど)まっていてはいけない。この体験を誰かと分かち合いたい。」という気持ちが付きまといます。
つまり、無限の一者と同じ様に、世界を顕現させたいと思うのです。
私がこの形の無い一者から出て来て、多者の世界を認識すれば、苦しみはまた始まります。何故なら、多者は互いに助け合うと同時に、傷付け合うからです。
それでも、私は、この一者の安らぎを捨てても構わないと思ったのです。たとえ、それが多者の苦しみを意味しても、です。
―――偉大な命題を確認しています。―――
あなたは、多者を自由自在に生み出す一者である。
それは苦しみと快楽を始め、多数の対立を生み出す。
あなたは無限の孤独に留(とど)まることをやめたのだから。
ひとりでは食事をしたく無いばかりに。」
053 意識的な神との合一
  分離した自己感覚を超越し、神的な中へ自己を解きほどく。
神性への合一は、意識の全面へと躍り出る。
自己の至高の同一性が、「スピリット」それ自体であることの認識。
それは、あまりにも当たり前、明々白々な事実であることの悟り。
054 意識的な地獄
  あなたは既に地獄にいる。輪廻に没入している。
顕現された世界に潜む狂気。
満たすことの出来ない渇き、満たされることのない欲望の自傷行為的な炎。

この地獄で人生の全てを費やす人がいる。
粗い気分を麻痺させ、絶望の鋭さを磨滅させるモルヒネを求める人生。
補償行為という麻痺的な満足感の中に折り畳まれる人生。
055 降下の旅、覚醒の旅
  人間はかつて、「無意識的」な天国、「無意識的」な神と合一していた。

いま、人間は、その「無意識的」な合一を喪失して、「意識的」な地獄へ至った。

しかし、やがて、今度は、「意識的」な天国、「意識的」な神と再度の合一を果たすのである。
056 人間存在の進化のスパイラル
  人間存在の進化のスパイラルは、終わりのない流れであり、源泉から大洋へと流れる無数の人々の偉大な大河である。
057 進化
  進化とは、物質から身体へ、そして心、魂、スピリットの自己認識に至る顕現の道である。
それは穏やかに、しかし容赦なく、私たちを、旅を始めた地点へと連れ戻す。
058 内と外という境界線
  何ものかを麻痺させる代償行為、注意の拡散、幻惑といったものを生み出し、そこに我々を留(とど)まらせ、ますます強固になって行く、内と外という境界線。
その存在自体を問うことを放棄させている境界線。
この境界線こそが、苦しみの車輪が止むことなく回り続けるそもそもの原因である。
059 知恵と慈悲の結合
  上昇と降下の道の統合とは、知恵と慈悲の結合である。
私たちが一者に抱く愛は、多者に対しても同じ様に差し延べられる。
何故なら、一者と多者は究極的に同じものであるから。
かくして、愛は知覚のあらゆる瞬間において、知恵と慈悲とを結び付ける。
060 慈悲
  慈悲は一者が多者であることを知る。
一者は、全てのそれぞれの存在に平等に現われていることを知る。
万物は、全くあるがままでスピリットの完全な顕現であり、一者とは多者に他ならない慈悲であることを知る。
慈悲は、ブラフマンは現象された世界であることを知る。
061 知恵
  知恵は多者を通して一者を知る。
変転する外見と移ろいゆく形態を通して、万物の基底(グラウンド)を見る。
影を通して、時間と形の無い光を見る。
知恵は、多者は一者であることを知る。
この世界は幻影であり、ブラフマンのみがリアルであることを知る。
062 知恵と慈悲
  一者へ帰還し、一者を抱擁するものは善である。
それは「知恵」と呼ばれる。

多者へ帰還し、多者を抱擁するものは善性である。
それは「慈悲」と呼ばれる。
063 空即是色
  一者から多者への降下の道。
慈悲の道。
一者、神、ワンネスが多者として顕現している善性、慈悲であることを見抜き、多者を抱擁する愛。
手を下へ差し延べる愛。
064 色即是空
  多者から一者への上昇、帰還の道。
知恵の道。
様々な形態や現象の背景に潜(ひそ)む一者、神、ワンネスを見抜く知恵。
手を上に延ばしていく愛。
065 オメガ・ポイント
  集団的な人間性がいずれ向って行く絶対のオメガ・ポイント(最終ゴール)は有るのだろうか?
私たちは究極の歴史の終わり、全てのオメガのオメガに向かっているのであろうか?
いったいそれは存在するのか?

確かにそれは存在する。
しかし私たちは、それに向かって行ってもいないし、離れて行ってもいないし、周りを回ってもいない。
それは、始めが有って終わりが有る時間の流れの中には入らない。
それは、全ての時間を支え、全ての場所を支えるものであり、いかなる部分性も持たない。

形ある世界においては、究極のオメガは常に彼方へとしりぞいて行く、決して到達することの出来ない地平線としてしか現れない。
進化は究極のオメガ・ポイントを求める。
そしてそれは決して見つけることは出来ない。
何故なら進化は、常に形あるものの世界で展開するからだ
066 スピリット 2
  「大地」も「宇宙」も「世界」も溶解させ、「スピリット」が「空」(くう)の中に輝いていることを見ようではないか。
スピリットは、時間のあるこの被造世界においては不生不滅であり、明滅したことすら無いのである。
067 スピリット
  スピリットは大地の内部にあって、それを超越しているということ、
大地に先行しながら、大地に対して他者では無いということ、
スピリットが全ての源泉であり、基礎であり、ゴールなのだと言うこと、
意識の進化においてスピリットは心霊段階で直観され、微細(サトル)段階で前面に出たこと、
完全に先行する段階を包括し、かつ完全にその上に輝いている
と宣言することは可能である。
068 自然
  私たちが自然と同一化し、そこに私たちの無常の嘆きを慰める地上中心的な大地宗教を見出すことは、もちろん自由である。
有限な、限界と寿命のある大地と自己を同一化することも、全く自由である。
ただ、自然は無限であり、限界が無く、不死であり、永遠である
と宣言することは出来ない。
069 未来の合一
  私たちは、まだ終わっていない進化の息子たちであり、娘たちである。
私たちは常に昨日の断片と、未来の合一の間にとらえられている。
その合一は、想像も出来ない様な地点にまで、私たちを運んでいくだろう。
そうした合一は、全ての誕生と同じ様に非常に苦痛に満ちたものであるが、同時に、耐えられないほどの歓喜に満ちたものでもあるだろう。
070 最終的な解放
  (非二元論的な)聖者が明かす秘密―最終的な解放が常に、既に達成されている。

解放の最後のステップとは、時間の円環(サイクル)から降りて、最初からそこに有った非時間を見つけ出すこと。
非時間は、そもそも最初から、全ての過程に現前していたのである。
071 未来
  いつもそうであるが、私たちは、私たちに「あたえられている未来」を、自分で創(つく)って行かなければならない。
遍満する世界霊の降臨を促進させるのか、後退させるのか、
私たちが自分の直覚をどう現実化させていくかに掛っている。
072 世界霊の降臨
  来るべき神。
全てに遍在する世界霊の降臨。
超人、大霊、超個の夜明け。
普遍人の到来。

まれな、個別の、分離した現象としてでは無く、
呪術、神話、心的な段階が、世界中で大規模な組織的な文化となって現れた様に、
「社会の組織力の重心」となって到来する。

全てを大霊の直覚で抱擁し、
全ての生けるもの、全ての魂のコミュニティと結びつき、
その貴重性を保護する構造の中に制度化される。
(現在の、法、教育、政府、コミュニティの中に、世界中心的な合理性が保護されている様に)
(かつての日本の神社システムの様に)

物質圏、生物圏、心圏が、個々すべての個人の中で複合され、統合される。
理論としてでは無く「意識の中心的なアイデンティティ」として。

個々すべてをその善性と栄光で触れていき、その光輝と祝福で洗礼していく。
瞬(まばた)きしただけで、私たち全てが変えられてしまう。

「大霊」、「世界霊」への直覚は、世界中の個人において、その強度、頻度を増している。
こうしたことは、確かに起こっている。
073 世界は為すべきことを為す
  世界は為すべきことを為す。
ちょうど、心的な段階へ集団的に移行するのに、
農業、次に工業を学習して物質的な段階を通過しなければならなったように、
情報、コンピュータ、テクノロジーなどを学習して心的な段階を通過し、
それを超越するスピリチュアルな段階に移行するだろう。
074 物理学
  物理学は、影の世界に映し出されたシンボルを扱う学問であることを、物理学者は認識するに至った。
新旧の物理学の間には大きな差異が有る。どちらも影を扱っている。
しかし古い物理学は影を扱っていることに、気付いていなかった。
洞窟の中に居て、そのことを知らなければ、誰もそこから脱出しようとは考えない。

新しい物理学者たちは、一丸となって洞窟を超えた光の世界を見ようとしている。
「物理学は影の世界を扱う。」を合言葉に。

 


the PLANET from NEBULA より

2019-11-29 13:11:05 | 思想、哲学、宇宙論


バシャール:覚醒の選択
https://ameblo.jp/viva-bashar/entry-12430973292.html


2019-01-06 03:38:02
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



このリアリティはプログラムの世界と言えます。つまり私達は”現実”と呼ばれる物質界の夢を見ています。でも今世で私達は、この”現実の夢”から目覚める選択をする時代に存在しています。もちろん、全ての人が目覚めを選択するわけではありません。全ての人が覚醒の道をワクワクするわけではないのです。つまり、私達それぞれには自由選択の権利が与えられていますから、目覚めを選択しない人もまた、重要な選択をしている事を意味しています。つまり、目覚めを選択しないからって、それが別に悪いわけではありません。



今世では”すべて”のスターシードが現在のリアリティに誕生していると言われています。何故かと言うと、地球規模のアセンションが関係している事にあります。つまりスターシードが率先して愛と光を齎し、周囲も一緒に持ち上げて覚醒を促す目的があるのです。しかし、スターシードの”すべて”が覚醒を選択するわけでもありません。覚醒を選択せずに眠ったままを選択するスターシードも本当に沢山存在しているのです。たとえば、詰め込めるだけ知識詰を詰め込んでも行動に移さず眠ったままを選択する、”ありのままの自分”に封をしたままでいる等です。




バシャール:2019年

https://ameblo.jp/viva-bashar/entry-12429838895.html

2019-01-01 03:06:45
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



全ての未来、全ての平行世界は”今ここ”に存在しています。が、貴方の未来は決定されていません。貴方が”今ここ”に存在している”未来”からどういった体験を実現させたいか、そこを軸に望む未来を選択しているのです。



今まで古い概念を長年生きてきた私たちは、自分の力で人生が構築できる事を知らずに生きています。つまり自分の可能性に目覚めず、無限に存在する可能性をスルーして”目を瞑ったまま”人生を歩んできた事を意味しています。貴方には自分の力で人生を選択して構築できる力があるのです。自分のなりたい自分が住む現実(平行世界)を選び、貴方がワクワクする人生を歩む事ができるのです。



自分が本当にやりたい事、心がワクワクする事をちょっとづつ増やしていくと、貴方が掴めるワクワクが沢山存在する平行世界へとシフトします。しかし、義務や責任でがんじがらめの貴方にとってワクワクを追いかける事がまるで”夢物語”のように感じているのであれば、感じている同じ現実をこれからも体験する事になります。



2019年の来年からは、今まで心の掃除をしてきた人には素晴らしい年になる可能性があります。一方、心のゴミが溜まったままの人は、そのゴミを”捨てざる負えない”状況を作り出す事になります。いずれにせよ、貴方が貴方らしく生き生きと生きる世界を選んでワクワクの人生を作り出してゆきましょう。





バシャール:やりきる事

https://ameblo.jp/viva-bashar/entry-12431212859.html

2019-01-07 03:38:07
テーマ:新しい地球のスターシード達へ



心と体のシンクロを”一心同体”と呼びますが、まさに貴方の心と行動がぴったりマッチした状態こそ大きな意味があります。心と行動が伴わないチグハグなさまは分離のエネルギーを生んでしまい、思わぬ現実を引き寄せます。宇宙は貴方の心の声を聞いています。宇宙は貴方の”本当の思い”のみを抜き取っています。そして心の声と行動が一緒になる事で、現実化に向けて一気に歯車が動き出す事になるのです。



疑念や恐れのエネルギーは折角物質化に向けて動き出した歯車の動きを小石で止めてしまうようなものなのです。そして一旦小石が詰まってしまうと、その小石にどんどん埃やゴミが積み重なるようになってしまうので、最終的には大掃除が必要になります。



一心同体の貴方は、100%のパワーで行動に移す事ができている状態です。その時の貴方は、たとえ結果的に望む結果が得られなかったとしてもたいした後悔が残る事はありません。なぜならば、今ここの貴方が持てる力、今ここの貴方が持つ可能性のすべてを行動に移しているわけですから、達成感も非常に大きななものになるからです。つまり、”やりきった感”を体験として得た貴方の人生は充実して豊かでポジティブな体験へと繋げてくれる事を約束してくれます。


第10章 新しい地  まとめ エックハルトトール

2019-11-27 12:54:54 | 思想、哲学、宇宙論
あなたの生命の短い歴史

世界が形として現れ、また形のないものへと戻っていく――拡大と収縮――という宇宙の二つの動きは、出て行くことと帰ってくること、と言ってもいい。
この二つの動きは、あなたの心臓の絶え間ない拡大と収縮の動きや吸って吐くという呼吸のように、宇宙全体のさまざまなところに反映されている。
眠りと目覚めというサイクルもそうだ。
毎晩、夢も見ない深い眠りに就くとき、あなたはそれと気づかずに形のないすべての生命の源へと戻っていき、朝になると生気を補充して再び現れる。

この出て行くことと帰ってくることという二つの動きは、個人の人生のサイクルにも反映されている。
言ってみればどこからともなくとつぜん「あなた」はこの世に現れる。
誕生のあとは拡大だ。
身体的な成長だけではなく知識も活動も所有物も経験も増大していく。
影響範囲も拡大し、人生はますます複雑になる。

これは主として外部的な目的を発見し追求する時期である。
ふつうはそれに伴ってエゴも成長する。
エゴの成長は何よりも先にあげたものごとへの自分の同一化であり、したがって形への同一化がますます明確になる。
この時期はまたエゴに外部的な目的――成長――を支配されがちだが、エゴは自然と違ってどこで拡大を止めるべきかを知らず、貪欲にもっと多くもっと多くと求め続ける。

やがて、さあうまくいった、自分はここに属していると思い出したころ、回帰の動きが始まる。
たぶん近しい人、あなたの世界の一部だった人々に死が訪れるだろう。
次にあなた自身の肉体も衰弱し、影響力の範囲も縮小する。
さらに多くではなくますます少なくなり、これに対してエゴは不安や鬱(うつ)で反応する。
あなたの世界は縮小し、自分はもう支配力を失ったと気づくかもしれない。

人生に働きかける代わりに、人生のほうがあなたに働きかけて、ゆっくりとあなたの世界を小さくしていく。
形に同一化していた意識は日没を、形の解体を経験する。
そしてある日、あなたも消えてなくなる。
あなたの安楽椅子はまだそこにあるが、あなたはもう座っていない。
空っぽな空間があるだけだ。
あなたは何年か前にそこから来た場所に戻ってしまう。

各人の――実際には各生命体の――生命(人生)は、一つの世界を表現している。
宇宙がそれ自身を経験する独特な方法だ。
あなたの形が解体するとき、世界が――無数の世界のうちの一つが――終わる。





目覚めと外への動き

外への動きとともに訪れる人生(生命)の自然な拡大は、これまではエゴに支配され、エゴの拡大に利用されてきた。
「ほら、僕はこんなことができるよ。きみにはできないだろう」というのは、幼い子どもが身体的な力や能力の成長を自覚したときのせりふだ。
これはエゴが外への動きと「きみよりもっと多く」という概念への同一化を通じて自己を確固たるものとし、他を矮小化することで自分を強化しようとする最初の試みの一つである。
もちろんこれはエゴの多くの誤解の始まりにすぎない。

だが気づきが高まり、エゴに人生(生命)を振り回されなくなれば、老齢や個人的な悲劇によって自分の世界が縮小したり崩壊したりしなくても、内なる目的に目覚めることができる。
地球に新しい意識が現れ始めているいま、揺り動かされなくても目覚める人たちが増えている。
その人たちは、まだ外向きの成長と拡大のサイクルにあるときでも、自分から目覚めのプロセスを迎え入れる。

成長と拡大のサイクルからエゴを追放すると、外への動き(思考や講演、活動、創造)を通じても、回帰の動き(静寂、在ること、形の解体)を通じるのと同じくらいに力強く、霊的(スピリチュアル)な次元がこの世界に開かれる。











脳は意識を生み出さない。
意識のほうが自らを表現するために、地上で最も複雑な形の物質である脳を創造したのだ。
あなたの脳が損なわれても、意識を失うわけではない。
意識がこの次元に入るために脳を使うことができなくなっただけだ。
そのために意識を失うことはない。
意識は本質的にあなただから。
あなたが失うことができるのは、あなたが所持しているものだけで、自分自身を失うことはあり得ない。




目覚めた行動とは、外部的な目的(何をするか)と内なる目的(目覚めて目覚めたままでいること)とが調和した行動である。
目覚めた行動を通じて、あなたは外へ向かう宇宙の目的とひとつになる。

あなたを通じて意識がこの世界に流れ込む。
あなたの思考に流れ込み、インスピレーションを与える。
あなたの行動に流れ込んで、行動を導き、力を付与する。



目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。
それぞれは意識の振動の周波数が異なる。
ごく単純なことからきわめて複雑なことまで、何かをするときにはつねに、三つのうちのどれかが発動しているかどうか敏感に察知しなくてはいけない。
よく観察すると、受け入れるのでも、楽しむのでも、情熱を燃やすのでもない行動は、自分自身か他人を苦しめているはずだ。





楽しむことを通じて、あなたは宇宙の創造力そのものとつながる。

人生の焦点を過去や未来ではなくて現在の瞬間に置くと、行動を楽しむ能力は――人生の質も――劇的に増大する。
楽しむことは、「大いなる存在(Being)」のダイナミックな一面である。
宇宙の創造力がそれ自身を意識したとき、それは喜びとして現れる。



目的のための手段として行動するのではなく、いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。
ほんとうは楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。
だから行動を楽しむというのは、実は生命感のダイナミックな側面を体験することだ。
だから何であれ楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる。



人生の主たる目的は意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。
「大いなる存在(Being)」の喜びは、意識的であることの喜びである。
目覚めた意識はエゴから自分を取り戻し、人生(生命)の主役になる。
そのときあなたは、それまで長いあいだしてきた行動に意識の力が加わって、いつのまにかもっと大きなものになっていくのを感じるだろう。
創造的な行動によって大勢の人々の人生(生命)を豊かにしている人たちの一部は、その行動によって何かを達成しようとか、何かになろうというのではなくそれがいちばん楽しいからやっている。
その人たちは音楽家、芸術家、作家、科学者、教師、建築家かもしれないし、新しい社会的構造やビジネス(啓(ひら)かれたビジネス)構造を生み出そうという人たちかもしれない。
またこの人たちの影響が及ぶ範囲はしばらくは狭いままかもしれないが、ふいに、あるいは徐々に力強い創造の波が流れ込んで、やがて当人たちの想像を超えて広がり、無数の人々と触れ合うだろう。
そのとき彼らの行動には楽しさの他に強さも加わり、それとともに常人では考えられない創造力が発揮される。



情熱を燃やすとは、自分がしていることに深い喜びを感じると同時に、目指す目標やビジョンの要素が加わることを意味する。
行動の喜びに目標が加わると、エネルギーの場というか振動数が変化する。
喜びにある種の構造的な緊張感とでもいうような何かが加わって、情熱になる。
情熱にかりたてられた創造的な活動のさなかには、何をしてもとてつもない緊張感とエネルギーが伴うだろう。
あなたは自分を標的に向かって飛ぶ矢のように感じ、その行程を楽しむ。


ストレスと違って情熱はエネルギーの振動数が高いので、宇宙の創造力と共鳴する。
情熱は創造的なエネルギーの波を呼び起こすから、あなたはただ「波に乗って」いけばいい。


同じ強さで反発する力を生み出してしまうエゴイスティックな欲望とは異なり、情熱には対立はない。
対決的ではないからだ。
情熱による活動には勝者も敗者もない。
基本的に排他的ではなく、他者をも包み込む。
人々を利用したり操作したりする必要がないのは、それ自身が創造力であり、二次的なエネルギー源から力を得る必要がないからだ。
エゴの欲望は、つねに何かをあるいは誰かから奪おうとするが、情熱は惜しみなく与える。
情熱が逆境や人々の非協力などの形をとる障害にぶつかっても、決して攻撃せずに迂回するか、相手を取り込んだり譲歩したりして対抗勢力を味方に、敵を友人に変えるだろう。
情熱とエゴは共存できない。
いっほうはもういっぽうの不在を意味する。
情熱は自分の行く先を知っているが、同時に現在の瞬間、生命の源、喜び、力と深く一体化している。
あなたは情熱を通じて宇宙の創造原理と完全に調和するが、その創造に自分を同一化することはない。




「私は新しい天と新しい地を見た」と、聖書の預言者は書いた。
新しい地の基礎は新しい天――目覚めた意識――である。
地――外部的な現実――は、意識の外部への投影にすぎない。

新しい天が生まれ、新しい地が実現するということは、私たちを解放してくれる未来の出来事ではない。
何ものも「将来」私たちを解放してはくれない。
なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。

そこに気づくこと、それが目覚めである。
未来の出来事としての目覚めなど、何の意味ももたない。
目覚めとは「いまに在る」状態に気づくことだからだ。
だから新しい地、目覚めた意識は、実現すべき未来の状態ではない。
新しい天と新しい地は、いまこの瞬間にあなたのなかに生じている。

上江洲先生光話後の質疑応答

2019-11-25 14:53:41 | 思想、哲学、宇宙論
https://ameblo.jp/arieru2012/entry-12263758679.html


上江洲先生光話後の質疑応答②




Q、あるセミナーで、過去のあなたを傷つけた感情を全部出して浄化する様に教えられた。溜まって来た感情が成長を妨げると言われたが、私は過去に振り回されなくても良いのでは?意識の高揚、波動を高めどんどん成長していけると思うが?






A.過去はね、どんなに私が悪いことをしても、どんなに失敗したってね。反省はできるけどね、引き戻すことは出来ない。

過去、未来は真理にあらず。我々は過去、未来に生きてるんではない。

過去、未来を思い悩むことなかれ、どんなに過去に最悪な生き方をしたにしても、何千人何万人を殺したにしてもね、今の今、この一瞬私が

我を明想するというのはね、神との合一。神との一体があるならば、全ての全てはこの方が言われる様にね、綺麗に全部清算されています。




実在とはね、今、生かされているこの一瞬、この瞬間が実在なの。過去未来を思い悩むことなかれ。

過去未来は過ぎ去った記憶。

未来は記憶の混じった希望。

だから、実在ではない。実在とは今私が神として、愛生きるこの瞬間が、実在なの。

実際にある時間。実際にあるもの。

1秒過ぎ去ればもう過去。記憶。私ならば、その先生には学びません。

質問したあなたに学びます。その先生に教えて下さい。




Q宝玉明想のやり方がわからないので教えて下さい。




A.宝玉明想って私が説いたのはね、瞑想に呼吸法だとか、もういろんな瞑想がありますよね、世界各国でね。

私が宝玉明想と名前をつけたのは、この宇宙全ては愛の法則によって生かされて創造されています。

愛とは完全意識と私は説いていますよね。一物だって、不完全意識のなかに創造されて生かされているものは一物もありません。

全ては完全意識という意識のなかに創造されて生かされています。

だから、本来は全ては完全。

ただ、自分が自分に迷って不完全を表現している人間もいる。

自分が自分を本当の自分を知りさえすればね、誰しもが70億の人間が完全なんです。

その完全意識を愛と言います。だから全ては愛としての完全意識のなかに創造され、生かされているゆえにね。


私は愛の法則のほうを捉えて。で、又、不死不滅、永遠の宝の玉と言うのは、愛ですよね。

宇宙真理、命ですよね。

それを付けて宝玉明想とつけました。




人体には7つのチャクラという表現はね、皆さんがこの現象世界で、あぁあそこにはパワースポットがある。

ここにパワースポットがある。というパワースポット。

それをチャクラと思えば良いです。

だから、自分の中にパワースポットを見出すことが出来ない人間が、外側何処を探しても、見つけだすことは出来ません。

自分さえも知らないんだから。本来は無限のパワースポット。

そこに人体には7つのチャクラという表現が置かれています。

で、キリスト教では7つの教会とか、虹の7色とか、7つの翼で、それはいろんな言い方、方法があります。

で、日本では七福神。で、7つのチャクラには

皆さんにも一人一人

学校の先生を演じている人間、又、病人を癒す医者を演じている人間、いろんな演じ方があるように、いろんな表現があるように、7つのチャクラにも、一つ一つ役割があります。

第1のクンダリーニというエネルギー、そこのチャクラが働きますとね、この役割は全、身体(からだ)を司るエネルギーの働きしますからね、これが動き、これが本当に愛という心に働きだした時は、もう食べずとも、寝なくても何週間何日も、もうぶっ通しで仕事したって、疲れるていうことがありません。

私生まれて皆さんの前に立ってるこの瞬間まで私の口から疲れたという言葉はまだ出したことありません。

疲れがありません。

私自らの病気でこの身体を病んだってことは生まれて一度もありません。皆さんのカルマを背負わない限りは。

今回の私の浄化をね完璧に見抜いたのはMさん。

でSさんって方ががねえ、もう、皆んなからのカルマを背負って吐き出す時に私が真っ黒い渦巻いて浄化して吐き出す姿を見てるんです。

「なんだこの真っ黒いのは?」っていう、それだけ私今生、今回の沖縄のセミナー背負いました。

MさんRさんSさんが真っ黒いのが渦巻いて私から吐き出されていく姿を見てます。

で、インドでもね、どこのチャクラに意識を集中して瞑想した方がいいって教えますよね。

私も、どこのチャクラに意識を向けて集中した方が、無限意識、普遍意識、宇宙意識に入りやすいかって、私も何十年探ってきました。




クンダリーニという第1のチャクラに何年も意識を集中しながら明想し、

そこ、体験終わって2に移し、3に移して、

で、私が見出したのは7、6番目のこの第3の目と言われたこの眉間なんですね、アジナの方。




で、そこに意識を集中した時に、私は無限意識、普遍意識、宇宙意識への入りやすいのを見出したんです。

何故眉間だろうってね、私がイエスキリストと会った時、

「あなた方は何処に集中してそこまで訓練してきたのか?」またクリアヨガの系統の方々に聞いた時もやっぱり私が見出したアジナだったんですね。

その、アジナというのは、じゃあ、その7つのうちのどういう役割背負っているかというと、




図面を描く設計室なんです。




設計室にね、皆さんが宝玉というのは、わかりやすく言えば愛の法則の玉ね。

皆さんただ座っていれば雑念に支配されて、明想には入れない、ただ座っていればどうしても睡魔に負けてしまう。




そこにしっかりと玉を描いてみるの、このアジナの設計室に。

玉を描けた時は、この玉は大きくてもいい、小さくてもいいのね。

描けたならば、白光輝いてるというイメージを持ってみる。




しかし皆さんが睡魔にも負けない、雑念にも妨げられなければ、あえてその玉描く必要ありません。

意識だけを集中しながらね、

我すでに愛なり、

我すでに命なり、

我すでに無限なりと

集中してください。

もし、睡魔に負けそうならば、宝玉、玉を描いて白光輝いてるというイメージを持ってみること。

あるいは我々は「オーム、オーム」と言うけれど、

本当は「アオーム」なんですね。



で、私は明想中にアオームと言う声が聞こえて、そのオームっていうのは何を意味してるんだろうって追求した時に宇宙、全ての全ての創造のエネルギーの振動、それは皆さん波動と言います。

その宇宙、創造、全ての創造のバイブレーション波動をオームというんですね。

でまたオームは皆さんの意識が無限に広がり、拡大していくエネルギー、振動、波動をオームと言います。

で、内側で集中しながら「オーム」でいってもいいです。




瞑想の瞑の字も知らないわたしが、ただ目を閉じて座った時に内側から「オーム」という声が聞こえますからね。

私は沖縄に生まれて育ちは南米のアマゾン、ジャングルなんですよ。

で、そこに、おうむがいっぱい飛んでますよねえ。

あの鳥のおうむが、友達がパチンコでそのおうむ射抜いて、死んでしまったの。

生かしてペットにするつもりだったんだけど、いいところにぶつかってしまって、その玉が、石が。

死んでしまって、私がそれ焼いて食べたんです。そのおうむを。南米の人間はね、どんなにお腹空いていても、おうむは絶対焼いて食べないの。

熱病持ってるって。恐れて。

ガラガラ蛇もね猛毒を持ってますからねぇ絶対食べないの。

熱病を持ってるおうむを焼いて食べたのは私が初めて。

ガラガラ蛇を焼いて食べたのも、私が初めて。

だからその時に明想中に座った時に「オーム」「オーム」って

あぁ、私はおうむを焼いて食べてしまったからねぇ、おうむのカルマ背負ってしまって、私の中でおうむが叫んでいると思ったんですよ。(笑い)

「オーム」「オーム」ってね。カルマを背負ったなぁ〜って思ったんです。

で、その波動が苦しめる波動でもないし、心地よかったもんですからね、私も真似て

「オーム」で4、5回、5、6回ぐらい覚えてるかなぁ…

直ぐ、宇宙意識の中に融合してしまっているんです。

ただ初めて、ただ一回の明想でね。

私は普遍意識、無限意識、宇宙意識の中に融合してます。

そこで、オームの波動には何故こんな力があるんだろうって私は追求した時にオームのエネルギー、振動、波動は宇宙全ての創造のバイブレーション。

皆さんの意識が無限に広がり拡大していくエネルギー、振動、波動。

オームと私は答えを得ました。




そこから宝玉明想、生まれました。

あの図面を描く設計室にその意識を集中させながらね、我すでにすでに命なんですよね。

肉体を見て我を錯覚してるんであってね。

本当、全ての存在の根源は命ですから。

「我すでに命なり」

「我すでに愛なり」

「我すでに無限なり」でオームの波動で無限に融合して下さい。

努力は必ず実りますからね。必ずそこに至って下さい。




Q 病気はなぜやって来るのですか?




A我々がこのように肉体衣装纏って生まれてくるときに、皆さんは運命と言うのを背負ってきます。

で運命と言うのは一人一人やっぱり生き方違いますからね、過去、幾転生で。

例えば100回この転生を体験した方、この100転生どう生きてきたかその身口意ですよね。

どう表現してきたかの、この1連の狂いのない、カルマと言うのは、皆さんよくカルマに苦しんでいる人間がいるんですね。

カルマはあたかも神の罰、仏の罰を与えられて苦しみもがいているいることがカルマってよく教えられて苦しんでいるんです。カルマを超えられないとかカルマを背負ってとかね。

私から言えばカルマはやり残した宿題、学習。カルマは一点の狂いのない計算。

100回転生した方々はね、100回と言う転生の中でどう生きていきたかっていうね、一点の狂いのないカルマの計算で運命というものを背負ってきます。

千回の体験したものは千回。

万回を体験をしたものは万回の。


同じ100回生まれて同じ身口意をね、正さずにして生きたにしてもね。

この者には経済的な面でね宿題を与えていれば、気づきやすいだろう。

この者は又、肉体が病んでね、なぜ私は病むんだろうって、




病気背負わされて健康だったらならば絶対追求もしなかったけど、なぜみんな健康に生きているのに私はこのように病気で病人に生まれているんだろう?




そこから追求してこの道が絶対な道だって実感していると言われましたよね。

そういうふうに、この人にはどの宿題を背負わせていればね?どう気づいて、どう完成に至ってくれるか、全部そのような計算から、病気背負わされるもの、夫婦の不調和で背負されるもの、経済の面で背負わされるもの、又いろんな方法でね。

その運命と言うものを背負っていきます。




いろんな教え方があり、教える方がいます。

「運命は変えられない」でまた「運命は変えられる」てそういうふうに、同じ運命を説いてもこの状態で教える方がいるんです。

「あなた方が背負っている運命はもう永遠に変わらない」とか、

「今生の人生絶対に変わらない」とかそう教える者もいれば

「運命はあなた方の生き方次第で変わりますよ」と教えるものもいる。

私はしかしそれを超えた状態で皆さんを教えます。

なぜならば運命全てを司っているのは、本質なんですね。

本質によって全ては創造され生かされている。

本質の下にわれわれは生きてるもんだから、人生が悪い、運命が悪い、何が悪いって泣き言を言っているです。

しかし皆さんが今生、本質に融合しさえすれば、本質に皆さんが一体となればね、皆さん支配者ですからね。

運命や人生に支配されるあなた方ではなく、運命や人生を支配するあなた方になれるんです。

だから私は「運命が変えられない、変えられる」どころか「運命の支配者となりなさい」て私は説いて教えています。

「運命の支配者」

だから病気も悩みも苦しみもただその皆さんをここに帰ってもらいたいための例えであってあるいは宿題であって、皆さんをどん底に陥れるための宿題ではありません。

皆さんを成長、輝きね。

ここに完成に導くための手段方法でしかないんです。

だから悪いものなんて1つもない。












大生命意識

2019-11-25 12:24:55 | 思想、哲学、宇宙論





一曲目が素晴らしいです。

大生命意識のなかで、宇宙の創造に主体的に参加する人類の姿を感じました。

大生命意識が人類を通して宇宙を進化させていくのです。

見ているうちに、個を越えて大いなるものの視点から見ている自分に気づきます。

これだけ多くのアーチストが、集団覚醒状態でパフォーマンスするのは圧巻ですね。

宇宙の創造力と一体になる喜びを感じテンションが非常に上がりました。

処理しきれないほどの大量の生命エネルギーが体内に流れ込んできます。





エックハルトトール ニューアースより



目覚めた行動を通じて、あなたは外へ向かう宇宙の目的とひとつになる。

あなたを通じて意識がこの世界に流れ込む。
あなたの思考に流れ込み、インスピレーションを与える。
あなたの行動に流れ込んで、行動を導き、力を付与する。

ほんとうは楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、
その生命感はあなたと一体なのだ。
楽しむことを通じて、あなたは宇宙の創造力そのものとつながる。
楽しむことは、「大いなる存在(Being)」のダイナミックな一面である。
宇宙の創造力がそれ自身を意識したとき、それは喜びとして現れる。


バシャール

貴方がワクワクを追いかける時、ベストな場所とベストなタイミングでシンクロに遭遇することになります。貴方のワクワクは貴方の波動を調律して真っ直ぐ”ありのままの自分”になる道へと誘ってくれますから、貴方は何の苦労も感じずに目的地へ到着することができるのです。なぜかというと、ハイヤーマインドと一体化した貴方が宇宙の進化のエネルギーの流れに乗っかって(身を任せて)進んでいるからです。



涙が出るような感動や感嘆は、感謝の気持ちの最大ボリュームです。愛と光のエネルギーに共鳴し、その共鳴が体の感覚を通して表現されているのです。

貴方の体はちょうど楽器や音叉のような感じです。心に深い感銘を受けて心が震えるような感覚が、体という楽器を通して表現されています。それはちょうど、ど真ん中に”カーン”と当たった時の”反応”と同じで、貴方の体全体が感動や感嘆”そのもの”のエネルギーになっている状態を意味しているのです。つまり、他の異なるエネルギーが全く存在していない、100%ピュアなエネルギーに”なっている”状態を意味しているのです。


第10章 新しい地

2019-11-23 17:00:43 | 思想、哲学、宇宙論
http://dongavatyo.web.fc2.com/020.htm

形ではないもの

宇宙飛行士は、宇宙が百五十億年前の巨大な爆発によって誕生し、それ以来拡大し続けていることを示す証拠を発見した。
宇宙は拡大するだけでなく複雑性を増し、さらに多様なものを生み出し続けている。
科学者のなかには、この一から多重・多様性への動きがいずれは逆転すると考えている人たちがいる。
そのとき宇宙は拡大をやめて再び縮小に転じ、ついには形のない、想像も及ばない無へと、そこから生まれてきた起源へと戻るだろう。
そして、誕生、拡大、収縮、死というサイクルが何度も何度も繰り返されるだろう。

それはいったい何のためか?
「どうして宇宙はわざわざ生まれ出たのか?」と問いかけた物理学者のスティーヴン・ホーキングは、同時に数学的モデルではこの答えは出せないだろうと気づいた。

しかし外側だけではなく内側に目を向けるとき、あなたは自分に内なる目的と外部的な日的とがあること、自分は大宇宙を反映する小宇宙なのだから、宇宙にもそれと不可分の内なる目的と外部的な目的があるだろうということに気づく。
宇宙の外部的な目的とは形を創造し、形の相互関係、相互作用を――舞台、夢、ドラマ、何と呼んでもいいが――経験することだ。

内なる目的とは、その形ではない本質に気づくことである。
そのとき外部的な目的と内なる目的の融和が起こる。
つまり、その本質――意識――を形の世界に導き入れ、それによって世界を変えようと思う。
この変容の究極の目的は人間の心の想像や理解をはるかに超えている。
しかしいまこの地球では、その変容が私たちに割り当てられた仕事なのだ。
それが外部的な目的と内なる目的との融和、世界と神の融和である。

宇宙の拡大と縮小が自分の人生にどんな関係があるのかを考える前に、心に留めておいていただきたいのだが、ここで宇宙について述べることを絶対的な真実と受け取ってはならない。
どんな概念も数式も、無限を説明することはできない。
どんな思考も、全体の広大さを把握することはできない。
現実とはひとつの全体だが、思考はそれを断片化する。
そこから、たとえば個別のものがあり出来事があるとか、これがあれの原因だという基本的な誤解が生じる。
すべての思考はある視点を意味し、すべての視点はその性格上へ限界を意味する。
つきつめれば、それは真実ではない、少なくとも絶対的な真実ではない。

全体だけが真実なのだが、その全体は語ることも考えることもできない。
思考の限界を超えたところから、したがって人間の心には理解できないところから見れば、すべてはいまこの瞬間に起こっている。

相対的な真実と絶対的な真実の例として、日の出と日没を考えてみよう。
朝に太陽が昇り、夕方に太陽が沈むというのは真実だが、それは相対的な真実でしかない。
絶対的な意味では間違っている。
地上あるいは地表に近い場所で観察する者の限られた視点では、太陽は昇ったり沈んだりする。
だが宇宙に出て眺めれば、太陽は昇りも沈みもせずに輝き続けているだろう。
しかしそのことがわかっても、それが絶対的な真実ではなく相対的な真実だと知ってもなお、私たちは日の出と言い、日没と言い、その美しきに感動し、描き、詩を書くことができる。

もう一つ、相対的な真実について考えてみようか。
宇宙が形となって誕生し、やがて形のないところへ戻っていくということ。
これは時間的に限られた視点を意味するが、あなたの生命(人生)とどう関わるだろうか。
もちろん、「私の生命(人生)」というのも思考によって生み出された限られた視点であり相対的な真実である。
つきつめれば「あなたの」生命(人生)などというものはない。
あなたと生命(人生)は別個のものではなくてひとつなのだから。


あなたの生命の短い歴史

世界が形として現れ、また形のないものへと戻っていく――拡大と収縮――という宇宙の二つの動きは、出て行くことと帰ってくること、と言ってもいい。
この二つの動きは、あなたの心臓の絶え間ない拡大と収縮の動きや吸って吐くという呼吸のように、宇宙全体のさまざまなところに反映されている。
眠りと目覚めというサイクルもそうだ。
毎晩、夢も見ない深い眠りに就くとき、あなたはそれと気づかずに形のないすべての生命の源へと戻っていき、朝になると生気を補充して再び現れる。

この出て行くことと帰ってくることという二つの動きは、個人の人生のサイクルにも反映されている。
言ってみればどこからともなくとつぜん「あなた」はこの世に現れる。
誕生のあとは拡大だ。
身体的な成長だけではなく知識も活動も所有物も経験も増大していく。
影響範囲も拡大し、人生はますます複雑になる。

これは主として外部的な目的を発見し追求する時期である。
ふつうはそれに伴ってエゴも成長する。
エゴの成長は何よりも先にあげたものごとへの自分の同一化であり、したがって形への同一化がますます明確になる。
この時期はまたエゴに外部的な目的――成長――を支配されがちだが、エゴは自然と違ってどこで拡大を止めるべきかを知らず、貪欲にもっと多くもっと多くと求め続ける。

やがて、さあうまくいった、自分はここに属していると思い出したころ、回帰の動きが始まる。
たぶん近しい人、あなたの世界の一部だった人々に死が訪れるだろう。
次にあなた自身の肉体も衰弱し、影響力の範囲も縮小する。
さらに多くではなくますます少なくなり、これに対してエゴは不安や鬱(うつ)で反応する。
あなたの世界は縮小し、自分はもう支配力を失ったと気づくかもしれない。

人生に働きかける代わりに、人生のほうがあなたに働きかけて、ゆっくりとあなたの世界を小さくしていく。
形に同一化していた意識は日没を、形の解体を経験する。
そしてある日、あなたも消えてなくなる。
あなたの安楽椅子はまだそこにあるが、あなたはもう座っていない。
空っぽな空間があるだけだ。
あなたは何年か前にそこから来た場所に戻ってしまう。

各人の――実際には各生命体の――生命(人生)は、一つの世界を表現している。
宇宙がそれ自身を経験する独特な方法だ。
あなたの形が解体するとき、世界が――無数の世界のうちの一つが――終わる。


目覚めと回帰の運動

個人の生命(人生)における回帰の動きが起こるときには、つまり老齢や病気、心身の障害・喪失、個人的な悲劇などを通じて形が弱まり解体するときには、スピリチュアルな目覚めの大きなチャンスが存在する。
意識が形との同一化を解消するチャンスだ。

現代文明にはスピリチュアルな真実はほとんどないので、これをチャンスと捉える人は多くない。
だから自分や近しい人にその時が訪れると、人は何かとんでもなく間違ったことが、起こってはならないことが起こったと考える。
私たちの文明は人間の置かれた条件に大変無知なのだが、スピリチュアルに無知であればあるほど苦しみは大きい。

とくに西欧世界の多くの人々にとって死はもう抽象概念でしかなく、人間の身体の解体が近づいたときに何が起こるのか、想像もできなくなっている。
老いさらばえた人の大半は養老院に閉じ込められる。
死体は(古い文明を伝えている場所ではすべての人に開放するのに)隠されて見えない。
故人の遺族は別として、死体を見ようという試みはなんと違法なのである。
葬儀社では遺体にメーキャップをほどこす。
見ることを許されるのは衛生無害に処理された死だけなのだ。

現代人にとって死は抽象概念でしかないから、ほとんどの人は自分を待っている形の解体に対してまったく準備ができていない。
死が近づいたときは衝撃を受け、理解できず、絶望し、恐怖におののく。
もはやすべてが意味をなさない。
人生の意味や目的はすべて、積み重ねること、成功すること、築くこと、守ること、楽しむことに関わっていたからだ。
どれも外的な動きであり、形への同一化、つまりエゴと関わっている。
ほとんどの人は、自分の生命(人生)と世界が壊れていくとき、どんな意味も見出せなくなる。

しかしそこには外的な動きよりももっと深い意味が潜んでいる可能性がある。
昔から個人の人生(生命)に霊的な次元が開かれるのは、まさに老いや喪失や個人的な悲劇を通してだった。
内なる目的が現れるのは、外的な目的が崩壊し、エゴの殻にひびが入り始めたときだけ、ということかもしれない。
そのような出来事は形の解体に向かう回帰が始まったことを意味している。

多くの古代文明にはこのプロセスに対する直感的な理解があり、だからこそ老人は尊重され、敬われていた。
老人は知恵の貯蔵庫で、それなしにはどんな文明も永らえることのできない深さの次元を体現していた。
現代文明は完全に外部的な目的と同一化していて、内なる霊的な次元に無知だから、「老い」という言葉は主に否定的な意味合いで使われる。
老いは役立たずと同義語で、私たちは老いという言葉をほとんどマイナスイメージとして受け取る。
この言葉を避けるために熟年だのシニアだのという言葉でごまかす。

カナダ先住民の共同体では、「お祖母さん」はとても威厳のある存在なのに、私たちの文明ではかわいいというのが「おばあちゃん」への最高の褒め言葉だ。
どうして老人は役立たずとみなされるのか――老齢になると重点が「行うこと」から「在ること」に移るが、私たちの文明は「行うこと」に埋没していて、「在ること」については何も知らないからである。

人によっては、一見早すぎる回帰の動き、つまり形の解体によって、外へ向かっての成長と拡大の動きが著しく阻害されることがある。
その阻害は一時的な場合もあれば、永久的なこともある。
私たちは幼い子どもを死に直面させるべきではないと思っているが、実際には病気や事故で片親や両親と死に別れる子どもがいるし、自分自身の死に直面することだってある。
また生命(人生)の自然な拡大を厳しく制約する障害をもって生まれる子どももいる。
あるいは比較的若いころに、人生(生命)を大きく制約されることもある。

「まだそんな時期ではない」のに外に向かっての動きが阻害されると、それが早いスピリチュアルな目覚めをもたらす機会になるかもしれない。
結局のところ、起こるべきでないのに起こることなどないのだ。
つまり偉大なる全体とその目的の一部でないことなど、いっさい起こらない。
だから外部的な目的の破壊や阻害は内なる目的の発見に、さらには内なる目的と調和したもっと深い外部的な目的の出現に結びつくことがある。
大きな苦しみを経験した子どもは、年齢よりもはるかに成熟した幼いおとなへと成長することが多い。

形のレベルでの喪失は本質のレベルでの獲得になる。
古代文明や伝説の「視力のない預言者」や「傷ついた癒し手」の場合には、形のレベルでの大きな喪失や障害がスピリット(塞)
への入り口になる。あらゆる形は不安定であることを直接的に体験すると、二度と形を過大評価しなくなり、むやみに形を追求したり形に執着して自分を忘れたりもしなくなる。

形の解体、なかでも老齢によって現れるチャンスは、現代文明ではようやく認められ始めたばかりだ。
残念ながら大多数の人々はそのチャンスを見損なっている。
エゴが外へ向かう拡大や成長の動きに自分を同一化したように、回帰の動きにも自分を同一化するからだ。
その結果エゴの殻がますます硬くなり、開放ではなく収縮が起こる。
小さくなったエゴは残る日々を愚痴や不満に明け暮れ、恐怖や怒り、自己憐憫(れんびん)、罪悪感、非難、その他のネガティブな精神、感情状態に陥るか、思い出に執着して過去のことばかり考えたり話したりする回避戦略をとる。

個人の人生(生命)で回帰の動きからエゴが離れると、老齢や近づく死は本来の姿を取り戻す。
スピリチュアルな領域への入り口になる。

私はこのプロセスを体現する老人たちと出会った。
彼らは輝いていた。
彼らの弱った身体は意識の光に透き通っていた。

新しい地では、老齢期は意識の花が開く時として、もっと高い価値を認められるだろう。
まだ人生(生命)の外的な環境に自分を見失っていた人たちにとっては、遅くなった回帰の時であり、内なる目的に目覚める時だ。
その他の多くの人たちには目覚めのプロセスの強化と完成を意味するだろう。


目覚めと外への動き

外への動きとともに訪れる人生(生命)の自然な拡大は、これまではエゴに支配され、エゴの拡大に利用されてきた。
「ほら、僕はこんなことができるよ。きみにはできないだろう」というのは、幼い子どもが身体的な力や能力の成長を自覚したときのせりふだ。
これはエゴが外への動きと「きみよりもっと多く」という概念への同一化を通じて自己を確固たるものとし、他を矮小化することで自分を強化しようとする最初の試みの一つである。
もちろんこれはエゴの多くの誤解の始まりにすぎない。

だが気づきが高まり、エゴに人生(生命)を振り回されなくなれば、老齢や個人的な悲劇によって自分の世界が縮小したり崩壊したりしなくても、内なる目的に目覚めることができる。
地球に新しい意識が現れ始めているいま、揺り動かされなくても目覚める人たちが増えている。
その人たちは、まだ外向きの成長と拡大のサイクルにあるときでも、自分から目覚めのプロセスを迎え入れる。

成長と拡大のサイクルからエゴを追放すると、外への動き(思考や講演、活動、創造)を通じても、回帰の動き(静寂、在ること、形の解体)を通じるのと同じくらいに力強く、霊的(スピリチュアル)な次元がこの世界に開かれる。
これまでは人間の知性(宇宙の知性のほんのかけら以上のものではないが)はエゴによって歪められ、誤用されてきた。
私はこれを「狂気の道具となった知性」と呼ぶ。

原子を分割するためには、大きな知性が必要だ。その知性を原子爆弾の製造と貯蔵に使うのは狂気で、どんなに譲歩しても極端に非知性的だと言わざるを得ない。
ただの愚かさは比較的無害だが、知的な愚かさはきわめて危険である。
この知的な愚かさの例は無数に見られるが、人間の種としての生存そのものを脅かしている。

エゴイスティックな機能不全に邪魔されなければ、私たちの知性は宇宙の知性の外向きの動きのサイクルと創造への衝動に充分に調和できる。
私たちは形の創造に意識的に参加するだろう。
創造しているのは私たちではない。
私たちを通じて宇宙の知性が創造する。
私たちは創造の対象に自分を同一化せず、行動に自分を見失うこともない。
創造という行為には高度な集中力が伴うがしかしそれは「大変な労働(ハード・ワーク)」ではなくストレスもないことを学ぶ。

ところで、ストレスと高度な集中とは違うことを理解しておかなくてはいけない。
苦闘やストレスは、障害にぶつかったときに否定的な反応が起こるのと同じで、エゴが戻ってきた証である。
エゴの欲求の陰にある力は、同じくらいの強度の反発力、言ってみれば「敵」を生み出す。
エゴが強いほど、自分たちはばらばらだという人々の意識も強くなる。

反発力を引き起こさない唯一の活動は、全体の善を目指す行動だ。
そのような行動は排他的ではなく、すべてを包み込む。
分割するのではなく、足し合わせる。
「私の」国のためではなくて人類全体のため、「私の」宗教のためではなくて人類の意識の喚起のため、「私の」種のためではなく生きとし生けるものすべてのための活動だ。

さらに私たちは、活動は必要だが、外的な現実を出現させるうえでは二次的な要素にすぎないことも学ぶ。
創造の第一義的な要素は意識なのだ。
どれほど活動的でも、どれほど努力しても、私たちの世界を創造するのは意識の状態であり、内なるレベルで変化がなければ、いくら行動しても何も変化は生まれない。
同じ世界の修正バージョンを、エゴの外的な反映である世界を何度でも再創造するだけに終わるだろう。


意識

意識はすでに目覚めている。
形に現れていない永遠の存在だ。
しかし宇宙は徐々にしか目覚めない。
意識そのものは時間を超えており、進化はしない。
生まれもしないし、死ぬこともない。
意識が事物の宇宙として現れると、時間が流れ出し、進化のプロセスが始まる。
人間の心ではこのプロセスの原因を充分に知ることはできないが、自分自身のなかにそれを垣間見て、自分のなかのプロセスの意識的な参加者になることはできる。

意識は知性であり、形の出現の奥にある組織化原則である。
意識は現れた形を通じてそれ自身を表すために、何百万年も形に向けて準備してきた。

形に現れない純粋な意識という領域は別の次元とみなすことができるが、しかし宇宙という形の次元と離れ離れではない。
形と形のないものは、互いにからみあっている。
形に現れていないものは気づきや内なる空間、「いまに在る」状態として、この次元に流れ込む。
どのようにしてか?
目覚めた、したがってその運命をまっとうする人間という形を通して、である。
この高い目的のために人間という形が創られ、さらにその土台として何百万という形が創られた。

意識は形として現れる次元へと転生する。
つまり形となる。
形となった意識は夢のような状態に入る。
知性は残っているが、意識はそれ自身に無意識になる。
形のなかにそれ自身を失い、形と自分を同一化する。
聖性の物質への下降と考えてもいい。
宇宙の進化のこの段階では、外へ向かう運動のすべてがこの夢のような状態で進行する。

目覚めの気配が訪れるのは個々の形が解体するとき、要するに死の瞬間だけだ。
そのあとは次の輪廻転生が起こり、次の形への同一化が生じ、集合的な夢の一部である個々の夢が再度始まる。

ライオンがシマウマの身体を引き裂くとき、シマウマの形に転生していた意識は壊される形から離れ、一瞬その本質である不死の意識に目覚めるが、たちまち眠りに陥って別の形に転生する。
ライオンが老いて狩りができなくなり、最後の息を引き取るとき、ここでも一瞬の目覚めがあり、再び形という夢が始まる。

私たちの地球では、人間のエゴは宇宙の夢の、意識の形への同一化の最終段階を表している。
これは意識の進化にとって必要な段階だ。

人間の脳は高度に差異化された形であり、この形を通して意識がこの世界の次元に入ってくる。
人間の脳には約一千億の神経細胞があると言われている。
これは大宇宙の脳と言うべき銀河系の星の数に等しい。

脳は意識を生み出さない。
意識のほうが自らを表現するために、地上で最も複雑な形の物質である脳を創造したのだ。
あなたの脳が損なわれても、意識を失うわけではない。
意識がこの次元に入るために脳を使うことができなくなっただけだ。
そのために意識を失うことはない。
意識は本質的にあなただから。
あなたが失うことができるのは、あなたが所持しているものだけで、自分自身を失うことはあり得ない。


目覚めた行動

地球上の意識の進化における次の段階、それが目覚めた行動だ。
私たちが現在の進化の段階の終わりに近づけば近づくほど、エゴの機能不全はひどくなる。

毛虫が蝶になる前に機能不全の状態に陥るのと同じだ。
新しい意識は、古いものが解体したところから生じる。

いままさに人類の意識の進化のなかで画期的な出来事が起こりつつあるが、その出来事は今夜のニュースとして報じられることはないだろう。
地上で(たぷんへ私たちの銀河の多くの場所やそれをはるかに超えたあちこちでも同時に)意識が形の夢から目覚めようとしている。
そこでは確かに解体する形もそうとうあるだろうが、すべての形(世界)が解体するわけではない。

いまや意識が自らを形のなかで失うことなしに形を創造することが可能になる。
意識は形を創造し体験しつつも、それ自身に対する気づきを失わない。
それでも形を創造して体験し続けるのはなぜか?
それが楽しいからだ。
どのようにして体験するのか。
目覚めた人間を通じて、目覚めた行動の意味を学んだ人間を通じて、である。

目覚めた行動とは、外部的な目的(何をするか)と内なる目的(目覚めて目覚めたままでいること)とが調和した行動である。
目覚めた行動を通じて、あなたは外へ向かう宇宙の目的とひとつになる。

あなたを通じて意識がこの世界に流れ込む。
あなたの思考に流れ込み、インスピレーションを与える。
あなたの行動に流れ込んで、行動を導き、力を付与する。

何をするかではなくどのようにするかで、あなたが運命をまっとうしているかどうかが決まる。
そしてどのようにするかを決めるのは、あなたの意識の状態だ。

行動の主な目的が行動そのものになるとき、と言うか行動に流れ込む意識そのものになるとき、優先順位が逆転する。
意識の流れが行動の質を決める。
言い換えようか。
どんな状況で何をするのであれ、最重要要素は意識の状態だ。
どんな状況で何をするのかは二次的な要素にすぎない。
「未来」の成功は行動が生じる意識によって左右されるし、その意識と不可分である。
行動が生じるもとはエゴの反応かもしれないし、目覚めた意識による研ぎ澄まされた観察と関心かもしれない。
真の成功と言える行動は条件づけられた無意識の思考であるエゴからではなく、研ぎ澄まされた観察と関心の場から生まれる。


目覚めた行動の三つのモード

あなたの行動には、つまりあなたを通じてこの世界に流れ込む意識のモードには三種類ある。
あなたが人生(生命)を宇宙の創造的な力と調和させる三つの方法である。
この三つのモードは、あなたの行動に流れ込んであなたの行動をこの世界に生じつつある目覚めた意識と結びつけるエネルギーの周波数を意味する。
この三つ以外のモードであれば、あなたの行動はエゴによる機能不全のそれになるだろう。
またこのモードは一日のなかでも変化するかもしれないが、人生のある段階ではどれか1つが支配的になるだろう。
状況によって適切なモードは異なる。

目覚めた行動の三つのモードとは、受け入れる、楽しむ、情熱を燃やす、の三種である。
それぞれは意識の振動の周波数が異なる。
ごく単純なことからきわめて複雑なことまで、何かをするときにはつねに、三つのうちのどれかが発動しているかどうか敏感に察知しなくてはいけない。
よく観察すると、受け入れるのでも、楽しむのでも、情熱を燃やすのでもない行動は、自分自身か他人を苦しめているはずだ。


受け入れる

楽しむことができなくても、少なくともしなければならないことだと受け入れることはできる。
受け入れるとは、たったいま、この状況のこの瞬間に自分がしなければならないことだからしよう、と思うことである。
いま起こっていることを心のなかで受け入れる重要性についてはすでに詳しくお話ししたが、しなければならないことを受け入れるのもその一つの側面だ。

たとえば深夜、見知らぬ場所で篠つく雨のなか、パンクしたタイヤを交換しなければならないとしたら、情熱を燃やすどころか楽しむことだってできないだろうが、受け入れることはできる。
受け入れれば、安らかな気持ちで行動できる。
その安らぎは微妙な振動のエネルギーとして、行動に流れ込む。
表面的には受け入れるのは受身に見えるが、実際にはこの世界にまったく新しい何かをもたらす積極的で創造的な状態だ。
その安らかさ、微妙な振動のエネルギーが意識であり、そのエネルギーをこの世界に流入させる方法の一つが抵抗せずに降参することだ。
これは受け入れることの一つの側面である。

行動を楽しむことも受け入れることもできないのなら、やめればいい。
そうでないと、自分がほんとうに責任を取れる唯一のこと(ほんとうに重要な唯一のことでもある)に責任を取れない。
その唯一のこととは、あなたの意識の状態だ。
自分の意識の状態に責任を取らないのは、人生(生命)に責任を取っていないということだ。


楽しむ

抵抗せず降伏すると安らぎが得られるが、行動を積極的に楽しむと安らぎは躍動する生命感に変わる。
楽しむというのは目覚めた行動の二つ目のあり方だ。
新しい地では、人々の行動を左右する動機として楽しみが欲望に取って代わるだろう。

欲望は自分たちがばらばらの断片であり、すべての創造のもとにある力と切り離されているというエゴの妄想から生じる。
楽しむことを通じて、あなたは宇宙の創造力そのものとつながる。

人生の焦点を過去や未来ではなくて現在の瞬間に置くと、行動を楽しむ能力は――人生の質も――劇的に増大する。
楽しむことは、「大いなる存在(Being)」のダイナミックな一面である。
宇宙の創造力がそれ自身を意識したとき、それは喜びとして現れる。

人生に何か「意義のあること」が起こらなければ、楽しめないわけではない。
楽しみのなかには、あなたが必要とする以上の意義がある。
「生きがいが見つかるのを待つ」症候群は、無意識状態に最もよく見られる妄想だ。
楽しく行動するために変化が起こるのを待っているときよりも、自分の行動をすでに楽しんでいるときのほうが、外部的なレベルでの拡大や前向きの変化は起こりやすい。

行動を楽しんでいいか、と自分の心に聞いたりしないこと。
そんなことをしても楽しんではいけない理由が山ほど見つかるだけだ。
「いまはいけない」と心は言うだろう。
「いまは忙しいんだよ。わからないのか?
そんな時間はないさ。明日なら楽しめるかもしれないが・・・・」。
しかし、いま楽しまなければ、楽しめる明日など決してやってきはしない。

「私はあれこれをするのを楽しむ」、というのは、実は間違いである。
これでは行動のなかに楽しみがあるようだが、そうではない。
楽しみは行動のなかにあるのではなく、あなたのなかの深い部分から行動へ、したがってこの世界に流れ込むものだ。
行動のなかに楽しみがあるという誤解はありふれているが、危険である。

この誤解から、楽しみは何かから、行動やものごとから奪い取るものだという考え方が生じる。
そうすると、世界が自分に楽しみや幸福をもってきてくれないかと期待することになる。
しかし、そんなことはあり得ない。
だから大勢の人がいつも欲求不満なのだ。
その人たちが必要だと思っているものを、世界は与えてくれはしない。

ではあなたの行動と行動を楽しむ状態とにはどんな関係があるのか?
目的のための手段として行動するのではなく、いまこの瞬間に全身全霊を込めて行動すれば、どんな行動でも楽しむことができる。
ほんとうは楽しいのは行動ではなく、そこに流れ込む深い躍動する生命感で、その生命感はあなたと一体なのだ。
だから行動を楽しむというのは、実は生命感のダイナミックな側面を体験することだ。
だから何であれ楽しんで行動すれば、すべての創造のもとにある力と結びつくことができる。

力強く創造的に拡大する人生を実現するスピリチュアルな実践方法がある。
毎日繰り返す日常活動のリストをつくってみよう。
そのなかにはつまらないもの、退屈なもの、平凡なもの、苛立(いらだ)たしいもの、ストレスの多いものも入れておく。
だが嫌でたまらないことは入れない。
嫌でたまらないことは、受け入れるかやめるかのどちらかしかない。
リストには通勤、食糧品の買い物、洗濯、その他退屈だったりストレスだったりする日常の仕事が含まれるだろう。

次にリストの行動をするとき、それを気づきの実践の道具にする。
することに全身全霊を注ぎ、行動の奥に自分のなかの躍動的な生命感を感じ取るのだ。
こうして一つ一つの行動に気づきつつやってみると、そういう状態ですることはストレスでも退屈でも苛立たしくもなく、それどころか楽しいことがわかるだろう。

もつと正確に言うなら、外形的な行動が楽しいのではなく、行動に流れ込む内なる意識の次元が楽しくなる。
行動のなかに「大いなる存在(Being)」の喜びが発見できる。
人生に生きがいがないとか、ストレスが多すぎる、退屈だと感じているなら、それはこの意識の次元を人生に持ち込んでいないからだ。
まだ自分の行動に意識的になることが主たる目的になっていないのである。

人生の主たる目的は意識の光をこの世界に持ち込むことだと気づいて、することなすことすべてを意識のための道具にする人が増えていけば、新しい地が生まれる。

「大いなる存在(Being)」の喜びは、意識的であることの喜びである。
目覚めた意識はエゴから自分を取り戻し、人生(生命)の主役になる。
そのときあなたは、それまで長いあいだしてきた行動に意識の力が加わって、いつのまにかもっと大きなものになっていくのを感じるだろう。

創造的な行動によって大勢の人々の人生(生命)を豊かにしている人たちの一部は、その行動によって何かを達成しようとか、何かになろうというのではなくそれがいちばん楽しいからやっている。
その人たちは音楽家、芸術家、作家、科学者、教師、建築家かもしれないし、新しい社会的構造やビジネス(啓(ひら)かれたビジネス)構造を生み出そうという人たちかもしれない。
またこの人たちの影響が及ぶ範囲はしばらくは狭いままかもしれないが、ふいに、あるいは徐々に力強い創造の波が流れ込んで、やがて当人たちの想像を超えて広がり、無数の人々と触れ合うだろう。
そのとき彼らの行動には楽しさの他に強さも加わり、それとともに常人では考えられない創造力が発揮される。

だが、その行動を頭に上らせてはいけない。頭にはエゴの残滓(ざんし)が隠れている。
あなたもまたふつうの人間の一人だ。
並外れているのは、あなたを通してこの世界に流れ込むもののほうだ。

その本質を、あなたはすべての生きとし生けるものと共有する。
十四世紀のペルシャの詩人でスーフィ教の賢者であるハフィズは、この真実をこんなふうに美しく言い表している。
「私はキリストの息が通るフルートの穴だ。さあ、この音楽を聞いておくれ」。


情熱を燃やすこと

目覚めという内なる目的に忠実な人たちが経験する創造力の現れがもう一つある。
そういう人はある日とつぜん、自分の外部的な目的を知る。
偉大などジョンや目標を発見し、それ以降はその目標を達成するために働く。
その目標やビジョンはふつう、彼らがそれまで小規模に行って楽しんでいたものとなんらかの形で関連している。
これが目覚めた行動の第三のモードである情熱だ。

情熱を燃やすとは、自分がしていることに深い喜びを感じると同時に、目指す目標やビジョンの要素が加わることを意味する。
行動の喜びに目標が加わると、エネルギーの場というか振動数が変化する。
喜びにある種の構造的な緊張感とでもいうような何かが加わって、情熱になる。
情熱にかりたてられた創造的な活動のさなかには、何をしてもとてつもない緊張感とエネルギーが伴うだろう。
あなたは自分を標的に向かって飛ぶ矢のように感じ、その行程を楽しむ。

傍観者にはストレスの重圧があるように見えるかもしれないが、情熱の緊張感はストレスとは関係ない。
自分がしていることはどうでもいいが、とにかく目標に到達したいというのであれば、ストレスかもしれない。
楽しみと構造的な緊張感のバランスが崩れて、後者が圧倒するからだ。
ふつうストレスは、エゴが戻ってきてあなたを宇宙の創造力から切り離してしまったサインだ。
そこには宇宙の創造力の代わりにエゴの力と緊張しかなくだから「がんばって」働かなければならない。
ストレスを感じながらの行動では、必ず質と効率が低下する。
それに、ストレスと不安や怒りなどのネガティブな感情には強い相関関係がある。
これは身体に有害で、ガンや心臓病などのいわゆる「変性疾患」の主たる原因として認識され始めている。

ストレスと違って情熱はエネルギーの振動数が高いので、宇宙の創造力と共鳴する。
だからラルフ・ウォルド・エマーソンは「情熱なしに偉業が成し遂げられたことはない」と言った。

情熱(enthusiasm)という言葉はギリシャ語のenとtheosから発しているが、theosとは神という意味で、派生語のenthousiazeinとは「神に憑(つ)かれた」という意味である。
情熱が燃えているときには、自分だけで行動しているのではないと感じる。
それどころか、自分だけでできることには何の意味もない。
情熱は創造的なエネルギーの波を呼び起こすから、あなたはただ「波に乗って」いけばいい。

情熱はあなたの行動にすぼらしい力を与える。
その力に触れたことのない人は「あなたの」成果を驚異と賛嘆の目で見るだろうし、その偉業とあなたを同一視するかもしれない。
しかしあなたは「私は、自分では何もできない」というイエスの言葉が真実であるということを知っている。

同じ強さで反発する力を生み出してしまうエゴイスティックな欲望とは異なり、情熱には対立はない。
対決的ではないからだ。
情熱による活動には勝者も敗者もない。
基本的に排他的ではなく、他者をも包み込む。
人々を利用したり操作したりする必要がないのは、それ自身が創造力であり、二次的なエネルギー源から力を得る必要がないからだ。
エゴの欲望は、つねに何かをあるいは誰かから奪おうとするが、情熱は惜しみなく与える。
情熱が逆境や人々の非協力などの形をとる障害にぶつかっても、決して攻撃せずに迂回するか、相手を取り込んだり譲歩したりして対抗勢力を味方に、敵を友人に変えるだろう。

情熱とエゴは共存できない。
いっほうはもういっぽうの不在を意味する。
情熱は自分の行く先を知っているが、同時に現在の瞬間、生命の源、喜び、力と深く一体化している。
情熱には何も欠けていないから、何も「欲しない」。

情熱は生命と一体であり、情熱に動かされる行動がどれほどダイナミックであっても、あなたは行動のなかで自分を失うことはない。
そして回転する輪の中心にはつねに静かでありながら非常に生き生きとした空間があり、活動の中心に平和な中核があって、それはすべての源であると同時に何ものにも影響されない。

あなたは情熱を通じて宇宙の創造原理と完全に調和するが、その創造に自分を同一化することはない。
つまりへそこにエゴはない。
何かとの同一化がなければ、苦しみの大きな原因の一つである執着もない。

創造的エネルギーの波が通りすぎ、構造的な緊張が再び低下しても、行動に感じる喜びは残っている。
誰も情熱的なままで一生を過ごすことはできない。
7つの波が通りすぎたあと、また新しい創造的エネルギーの波が訪れて情熱が甦(よみがえ)るかもしれないが。

形の解体に向かう回帰の動きが始まると、もう情熱はあなたの役には立たない。
情熱は生命(人生)の外に向かう動きのサイクルに属している。回帰の動きには――帰路の旅には――降伏を通じてのみ、自分を調和させることができる。

まとめればこういうことだ。
自分の行動を楽しみ、それが目指す目標やビジョンとうまく組み合わされば情熱が生まれる。
目標があっても、関心の焦点は現在この瞬間にしていることに置かなければいけない。
そうでないと宇宙的な目的と調和できなくなる。
ビジョンや目標が、たとえば映画スターになりたい、有名な作家になりたい、金持ちの事業家になりたいというような自分自身の誇大なイメージ、つまり密かなエゴの形にならないように気をつけなくてはならない。
さらに目標が海辺の豪邸や会社や一千万ドルの銀行預金などのあれやこれやを手に入れること、というのもよくない。
拡大された自己イメージやあれこれを手に入れた自分というイメージは、すべて静的な目標であって、あなたに力を与えることはない。

目標はダイナミックでなければならない。
活動を、それを通じて他の人々や全体と結びつく活動を、目標として目指さなくてはいけない。
自分は有名な俳優だ、作家だと考えるのではなくて、自分の作品を通じて無数の人々にインスピレーションを与え、人々の人生を豊かにする、と考えるべきなのだ。

自分の活動が自分自身だけでなく無数の他者の人生を豊かにし深めていることを感じよう。
自分は回路で、形として現れていないあらゆる生命の源から発するエネルギーが自分を通じて流れ、すべての人々のために役立つことを感じ取ろう。

そのためには、目標やビジョンが自分自身のなかで(心と感情のレベルで)、すでに現実になっている必要がある。
情熱とは心のなかの青写真を物理的な次元に移し替える力だ。
これこそが心の創造的な活用方法であり、だからこそそこでは欠落も欲望も関係ない。
あなたは自分に欠けていて欲するものを表現することはできない。
すでにもっているものを表現することができるだけだ。
刻苦勉励とストレスによって欲望を満足させられるかもしれないが、それは新しい地におけるあり方ではない。

心の創造的な活用方法と、どうすれば意識的に形を現すことができるかについて、次のイエスの言葉は大切なことを教えている。
「祈って求めるものは、何でもすでに受け取っていると信じなさい。そうすれば、その通りになる」。


新しい意識の担い手たち

形へと外に向かう動きは、すべての人に同じ強さで現れるわけではない。
築き、創造し、関与し、達成し、世界に強烈な影響を与えたいという激しい衝動を感じる人もいる。
その人たちが無意識なら、もちろんエゴが支配して、外に向かう動きのサイクルのエネルギーを利己的な目的のために使うだろう。

だが、この人たちが使える創造的なエネルギーの流れは大きく低下し、自分が欲するものを獲得するのに必要な「努力」が増大する。
逆に意識に目覚めていれば、外に向かう動きの強い人たちはきわめて創造的になる。

いっぽう、自然な拡大の軌跡をたどって成長したあとは、外から見れば目立たない、受身で比較的波乱のない人生を過ごす人もいる。

後者の人たちは本来内向きで、形へと外に向かう動きは最小限に留まる。
彼らは出かけていくよりも、帰っていくだろう。
世界に強く関わりたいとか、世界を動かしたいとは毛頭思っていない。
野心があるとしても、ふつうは自立して暮らせるだけの何かを見つけたいという程度だ。
この世界にうまくなじめないと感じる人たちもいる。
定期的な収入のある仕事に就くとか小さな事業を起こすことによって、自分に合ったささやかな場所を見つけ、比較的安楽な人生を送る人もいる。
スピリチュアルなコミュニティや僧院での暮らしにひかれる人もあるだろう。
世間からドロップアウトして、なじむことのできない社会の底辺で生きる人たちもいるはずだ。
この世界での暮らしがあまりに苦しくて、ドラッグに走る者もある。
最終的にはヒーラーやスピリチュアルな指導者、つまり「大いなる存在(Being)」を教える立場になる者もいる。

昔ならこういう人たちは瞑想家、黙想家などと呼ばれた。
現代文明にはこの人たちの場所がないように思われる。
だが新しい地が実現すれば、彼らも創造者、活動家、改革者と同じように重要な役割を担うだろう。
彼らの仕事はこの地球に新しい意識の周波数を根づかせる錨(いかり)となることだ。

そこで、この人たちを新しい意識の担い手と呼ぼうと思う。
彼らの使命は日々の暮らしを通じて、「ただ在ること」と他者との関わりを通じて、新しい意識を生み出すことだ。
この人たちはそのあり方を通じて、一見ささいなことに深い意味を付与する。
彼らが何をするにしても、その仕事はまさにいま、ここに在ることを通じて広い静寂をこの世界にもたらすことだ。
彼らの行動はどんなシンプルなものでも意識がこもっており、したがって質が高い。

彼らの目的はすべてのことを聖なるやり方で行うことだ。
個々の人間は人類の集団的意識と不可分だから、彼らが世界に与える影響は表面的に見えるよりもはるかに深い。


新しい地はユートピアではない

新しい地というのは、もう一つのユートピアにすぎないか?
そうではない。
あらゆるユートピアのビジョンには一つの共通点がある。
すべてがうまくいき、すべてが守られ、平和と調和が実現して、問題がすべて解決する未来が描かれていることだ。

ユートピアのビジョンはたくさんあった。
一部は失望に終わり、その他は大惨事につながった。
すべてのユートピアのビジョンの核心には、古い意識の構造的な機能不全が横たわっている。
救済を未来に求めているのだ。
未来はただあなたの心のなかの思考として存在するだけで、救済を未来に求めるなら、無意識のうちに自分の心に救済を求めることになる。
つまり形に、エゴの罠に落ちる。

「私は新しい天と新しい地を見た」と、聖書の預言者は書いた。
新しい地の基礎は新しい天――目覚めた意識――である。
地――外部的な現実――は、意識の外部への投影にすぎない。

新しい天が生まれ、新しい地が実現するということは、私たちを解放してくれる未来の出来事ではない。
何ものも「将来」私たちを解放してはくれない。
なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。

そこに気づくこと、それが目覚めである。
未来の出来事としての目覚めなど、何の意味ももたない。
目覚めとは「いまに在る」状態に気づくことだからだ。
だから新しい地、目覚めた意識は、実現すべき未来の状態ではない。
新しい天と新しい地は、いまこの瞬間にあなたのなかに生じている。
いまこの瞬間に生じていないなら、それは頭のなかの思考の一つにすぎず、したがって生まれ出ることもない。

イエスは弟子たちに何と言ったか?
「神の国はあなたがたのなかにある」。

イエスは山上の垂訓である預言をしたが、いまに至るまでその預言を理解した人はごく少ない。7
イエスはこう言った。
「柔和な者は幸いである。その人は地を受け継ぐから」。

いまの聖書では、「柔和な」とは慎ましいという意味だと解釈されている。
柔和な人、慎ましい人とは誰なのか、そして彼らが地を受け継ぐとはどういう意味か?

柔和な人とは、エゴのない人だ。
自分の本質が意識であることに気づき、その本質をすべての「他者」、生きとし生けるもののなかに認める人だ。
彼らは慎ましく大いなるものに身を委ね、それゆえに全体及びすべての源との一体感を覚えている。
彼らは自然を含め地上の生命のすべての側面を変えようとする目覚めた意識そのものだ。
地上の生命(人生)は、生命を認識し生命と相互作用する人間の意識と不可分だからである。
それが、柔和な者が地を受け継ぐということだ。
たったいま、地上に人類の新しい種が生まれようとしている。
あなたもその一人だ!




第1章 私たちはいますぐ進化しなければならない

2019-11-20 13:25:01 | 思想、哲学、宇宙論


花、開く

一億一千四百万年前のある朝、夜が明けてまもないころ、昇る朝日を受けて一輪の花がぽっかりと開く。
地球という星の最初の花だ。
すでに何百万年か前から地球には植物が茂っていたが、この最初の開花は植物という生命体の画期的な進化と変容を告げる出来事だった。
しかし最初の花はたぶん長くはもたず、その後も依然として開花はめったにない特殊な現象に留まっていたことだろう。
花々が広く咲き誇るための条件はまだ整ってはいなかったはずだから。

だがある日、植物の進化は決定的な閾値(いきち)に達し、地球のありとあらゆるところに――それを目撃して認識できる存在があったとすれば――色彩と香りが爆発的に広がり始める。

それからだいぶたって、私たちが花と呼ぶ香り高く繊細な存在は、他の種の意識の進化に欠かすことのできない役割を担いだす。
人類はますます花にひきつけられ、魅せられる。
人類の意識が進化するなかで、実用的な目的をもたない、つまり生存と結びつかないのに高く評価された最初の対象はきっと花だったに違いない。
花々は無数の芸術家、詩人、神秘主義者にインスピレーションを与えてきた。
イエスは、花について思え、そして花から生き方を学べ、と語った。
ブッダはあるとき、弟子たちを前に一本の花を掲げ、「黙して語らなかった」という。

しばらくして弟子たちの一人、摩訶迦葉(まかかしょう、マハーカッサパ)という僧が微笑んだ(拈華微笑、ねんげみしょう)。
摩訶迦葉だけがブッダの沈黙の教えの意味を理解したのだ。
言い伝えによれば、この微笑(悟り)はその後二十八代の師に伝えられ、やがて禅の始まりになった。

花に美を見出すことを通じて、人類はほんのつかの間であれ、自分の最も内なる存在の核心にある美や本質に目覚めるのではないか。

美というものの最初の認識は、人類の意識の進化にとって最も重要な出来事の一つだった。
その認識と本来的に結びついているのが喜びと愛という感情である。
それとははっきりと気づかないうちに、花々は私たちにとって、自らのなかの最も高貴で聖らかな、究極的には形になり得ないものを表現するものになった。
生まれ出るもとの植物よりももっとはかなくて美しく繊細な花々は別の領域から来たメッセンジャー、物理的な形の世界と形のない世界をつなぐ橋のようなものだ。
花々には人々を喜ばせる繊細な良い匂いがあるだけではなく、霊性の領域の香りをも運んでくる。
「悟り」という言葉をふつうに言われるよりも広い意味で使うなら、私たちは花々に植物の悟りを見ることができる。

どの領域のどんな生命体も――鉱物、植物、動物、あるいは人間も――「悟り」を体験すると言える。
だがそれは進化の延長ではないからこそ、きわめて稀な出来事だ。
発展のなかの断絶、まったく別のレベルの存在への飛躍、そして何より大事なことに物質性の減少を意味するのである。

あらゆる形のなかでも最も密な岩、それよりもさらに重くて固いものがあるだろうか?
しかしその岩のなかには、分子構造に変化が起こって、光を透過させる結晶と化すものがある。
また炭素のなかには想像を絶する熱と圧力を経てダイヤモンドになるものがあるし、その他の貴石と化す重い鉱物もある。

あらゆる生物のなかでも最も地に縛りつけられている爬虫類のほとんどは、何百万年も変わらず地を這い回っていた。
だがそのなかには羽や翼が生えて鳥になり、長いあいだ彼らをつなぎとめてきた重力に挑んで羽ばたいたものがあった。
彼らは這い回ったり歩き回ったりすることが巧みになったのではなく、這い回り歩き回ることを完全に超えた。

有史以前から花々や結晶、貴石それに小鳥は、人類の魂にとって特別の意味をもっていた。
もちろんいずれも、他のあらゆる生命体と同じくすべての源であるひとつの「生命」、ひとつの「意識」が一時的に形となって現れたものだ。
これらがなぜ特別の意味をもち、なぜ人類がこれほど魅了され共感を覚えるのか、それはその美という特質に帰することができるだろう。

人間がある程度「いまに在る」という本質的な生き方ができるようになり、外界への静かで鋭敏な意識が芽生えると、生命の聖なる本質、つまりすべての生物、あらゆる生命体に存在する意識あるいは魂を感じ取り、それが自分自身の本質でもあると気づいて愛するようになる。
だがそれまでは、たいていは外形的な姿ばかりを見て、内なる本質になかなか気づかない。
自分自身の本質がわからず、肉体的、心理的な形が自分であると信じ込む。

しかし先に述べた「いまに在る」生き方にろくに、あるいはまったく達していない者でも、花や結晶や貴石や小鳥に物理的な存在以上のものを感じ取って、それがひかれる理由だと自覚しないままに、同じ仲間だと親近感を覚えることがある。
これらは美しいがゆえにへ他の生命体ほどには内なる魂が形に曇らされていない。
ただ生まれ落ちたばかりの生命体――赤ちゃん、子犬、子猫、子羊など――はちょっと違う。
生まれたばかりの生き物は脆くて華奢(きゃしゃ)で、まだ物質性がさほど確立していない。
この世のものならぬ無垢(むく)で甘やかな美が輝き出ている。
だからどちらかというと鈍感な人でさえ、赤ん坊を見ればなんだか嬉しくなる。

そこで花や結晶や小鳥の名称を意識せずに虚心に見つめ、思いを寄せると、形のないものへの窓口が見えてくる。
ほんのわずかな隙間ながら、魂(スピリット)の領域に通じる内なる道が開けるのだ。
だからこの三つの「悟りに達した」生命体は、古代から人類の意識の進化のなかで非常に重要な役割を演じてきた。
たとえば、なぜ蓮華の玉が仏教の中心的象徴になったのか、なぜキリスト教では白い小鳩が聖霊を表すのか。
これらは人類に運命づけられた地球的意識のさらに奥深い変化への土台を準備してきたのである。
その変化こそ、いま私たちが目の当たりにしようとしているスピリチュアルな目覚めなのだ。


変化をもたらすためのツール

人類の意識の変容への準備、どれほど美しい花もこれに比べれば色あせてしまうほど根源的で奥深い内なる開花への準備は整っているのだろうか?
人間は、条件づけられた鈍くて重い心の構造から脱却して、いわば結晶や貴石のように、意識の光を透過させることができるのか?
物質主義と物質性の重力を拒否し、エゴを支え一人一人を個としての存在に閉じ込めておく形への同一化から抜け出して、飛び立つことができるのか?

このような変容は可能だ。
それが人類の偉大な智恵が教える中心的なメッセージである。
そのメッセージを伝えた人々は――プツダ、イエス、その他名前が知られていない人々も――すべてへ早い時代に開いた人類の花だ。
彼らは先駆者であり稀少で貴重な存在だった。

花々が広く咲き誇る時期はまだ来ていないし、彼らのメッセージの多くは誤解され、しばしば大きく歪められてきた。
そしてごく少数を除いて、人類の行動が変わらなかったことも確かである。

ではこれら初期の指導者たちの時代に比べて、いまのほうが人々の準備は整っているのだろうか?
どうすればそれがわかるのか?
この内的な変化をもたらす、あるいは加速することができるとしたら、何をすればいいのか?
古いエゴイスティックな意識の特徴はどんなことで、どんなしるしを見れば新たに芽生えようとする意識がわかるのか?

本書ではこうした核心的な問題を取り上げる。
だがもっと重要なのは、新しい意識から生まれた本書自体が、変化をもたらすためのツールだということだ。
ここに示される考え方や概念も重要だろうが、しかしそれは二次的なことである。
目覚めへの道を指し示す道標にすぎない。

本書をお読みになるうちに、あなたのなかで変化が起こるだろう。

本書のいちばんの目的は、読者の頭に新しい情報や信念を付け加えることでも、何かを説得することでもなく、意識を変化させること、つまり目覚めさせることだ。
その意味では本書は「おもしろく」はないかもしれない。
おもしろがるとは、対象から距離を置いて、考え方や概念を頭のなかでもてあそび、同意したり反論したりすることだからである。

本書の当事者はあなた自身だ。
あなたの意識の状態が変わらないなら、本書の意味はない。
だが目覚めることができるのは、準備が整った者だけだ。
まだ全員というわけではないが、準備ができている人は多いし、一人が目覚めるたびに集団的な意識のうねりは大きくなり、その他の人々の目覚めが容易になる。
目覚めるということの意味がわからない方は、本書を読み続けていただきたい。
目覚めることによってのみ、目覚めるとは何なのかが、ほんとうに理解できる。
わずかに垣間見るだけでも目覚めのプロセスが始まるには充分だし、いったん始まったプロセスは後戻りしない。
本書を読むことでそのプロセスを垣間見る人もいるだろうし、自分では気づいていなくてもすでにプロセスが始まっている人も多いだろう。
その人たちは本書を読むことでプロセスに気づくはずだ。
またある人々にとっては喪失や苦しみが、また別の人々にとってはスピリチュアルな指導者や数えに触れ、人生を変えるような本(そのなかには私の著書『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』[徳間書店刊]も含めたい)を読むことが、あるいはこれらの組み合わせが、目覚めのきっかけになるかもしれない。
あなたのなかで目覚めのプロセスがすでに始まっているとしたら、本書によってそのプロセスは加速され、充実したものになるだろう。

目覚めに不可欠なのは目覚めていない自分を自覚すること、エゴイスティックに考え、話し、行動する自分と、そういう目覚めていない状態を持続させている、人類に刷り込まれた思考プロセスを認識することである。
だから本書ではまずエゴの主な側面に目を向け、それが個人や集団でどう働いているかを考える。
これには二つの重要な理由がある。

第一の理由は、エゴが働く基本的な仕組みを知らなければエゴを認識できず、そのためにだまされっぱなしで何度でもエゴを否認することになるからだ。
つまりあなたは支配され、操られ続ける。

第二の理由は、認識そのものが目覚めの一つの方法だからである。
自分のなかの無意識を認識するとき、認識を可能にするのは意識の覚醒、つまり目覚めである。
エゴと闘っても勝ち目はない。
闇と闘えないのと同じである。
必要なのは意識という光のみである。
そして、その光はあなたなのだ。


人間に固有の機能不全

古い宗教やスピリチュアルな伝統をよくよく見れば、表面的な違いはどうあれ、その多くに共通する二つの中心的な洞察があることに気づくだろう。
その洞察を表す言葉は異なるが、どれも基本的な真実の二つの面を指し示している。
一つはほとんどの人間の「ふつうの」精神状態には機能不全、もっと言えば狂気と呼べるような強力な要素が含まれていることだ。
とくに手厳しいのはヒンズー教の中核となる教えの一つで、この機能不全を集団的な精神病と見なし、マーヤー、妄想のベールと呼ぶ。
インドの偉大な賢者の一人ラマナ・マハリシは、「心とは妄想である」と言い切っている。

仏教では別の言葉を使う。ブッダによれば、ふつうの状態の人間の心はドゥッカ、苦を生み出す。
苦、不満、惨めさである。
ブッダはそれが人間の置かれた状況の特徴だと見た。
どこにいても、何をしていても、あなたはドゥッカにぶつかるし、ドゥッカは遅かれ早かれあらゆる状況に現れる、とブッダは言う。

キリスト教の教えでは、人類という集団のふつうの状態が「原罪」である。
罪という言葉は大いに誤解され、間違って解釈されてきた。
新約聖書が書かれた古代ギリシャ語を文字通りに訳せば、罪とは射手の矢が標的からそれるように的を外れることだ。
したがって、罪とは的外れな人間の生き方を意味する。
先を見ないで不器用に生きて苦しみ、人をも苦しませるのが罪なのだ。
文化的な覆いや誤解をはぎ取ってみると、ここでも人類の状況に固有の機能不全を指していることがわかる。

人類がめざましい発展をしてきたことは否定できない。
人間は音楽や文学、絵画、建築、彫刻などの数々の傑作を生み出してきた。
さらに最近では科学技術の発達によって暮らし方がまったく変わり、ほんの二百年前なら奇跡としか思えなかったことも可能になった。
これは疑いようがない。
人類は大変に知的なのだ。
だがその知性は狂気を帯びている。
科学技術は人類の精神につきまとう機能不全が地球に、他の生命体に、そして人類自身に及ぼす破壊的影響をさらに拡大してきた。
だからその機能不全、集団的狂気は二十世紀の歴史で最もあらわになった。
しかもこの機能不全は現実に強化、加速されている。

第一次世界大戦は一九一四年に勃発した。
恐怖と貪欲さと権力欲が引き起こす破壊的で残虐な戦いは、宗教やイデオロギーに基づく奴隷制や拷問、暴力の蔓延と同様に、人類の歴史を通じてありふれた出来事だった。
人類にとっては自然災害よりもお互いが引き起こす災厄の苦しみのほうがはるかに大きかったのである。
しかし一九一四年を迎えるまでに、きわめて知的な人類はエンジンだけでなく爆弾、機関銃、潜水艦、火炎放射器、毒ガスを発明していた。
狂気に仕える知性!
戦況が膠着したフランスとベルギーの国境付近では、泥土を数マイル前進するために数百万の男たちが塹壕で死んでいった。
一九一八年に戦いが終わると、生き残った者たちは信じがたい思いと恐怖で破壊の跡を見つめた。
一千万人が殺され、さらに多くが負傷し、身体の一部を奪われた人々もいる。
人類の狂気がこれほどの破壊をもたらしたことも、それがこれほど白日の下にさらされたこともかつてなかった。
しかもこれがほんの始まりだとは、誰も知る由もなかったのである。

二十世紀の終わりまでに、同じ人類の手で暴力的な死を遂げた人々の数は一億人を上回った。
国家間の戦争だけでなく、スターリン統治下のソ連で「階級の敵、スパイ、裏切り者」として殺された二千万人や、ナチス・ドイツによる筆舌に尽くしがたい恐怖のホロコーストの犠牲者たちのように、大量殺戮や集団虐殺によって死んでいった人々もいる。
さらにスペイン内戦や、人口の四分の一が殺害されたクメール・ルージュ体制のカンボジアなど、数え切れない内戦の犠牲者もいた。

このような狂気が衰えるどころか二十一世紀のいまも続いていることは、日々のテレビニュースを見るだけですぐにわかる。
人類の集団的な機能不全のもう一つの側面は、他の生命体と地球そのものに人間たちが振るっている暴力だ。
酸素を生み出す森林や植物、動物の破壊と殺害。
工場式農場における動物虐待。
河川や海、大気の汚染。
人間たちは欲に駆られ、自分と全体のつながりを理解せず、ほうっておけば自滅につながるだけの行動をいまも続けている。

人間の存在の核心にある集団的狂気が引き起こす出来事は、人類史の大きな部分を占めている。
人類の歴史は、おおまかに言えば狂気の歴史なのである。
これが個人の病歴だとしたら、こんな診断がつくに違いない。
慢性的偏執性妄想、「敵」と思い込んだ――自らの無意識の投影である――相手への病的殺人癖と暴力と残虐性。
たまに短期間正気を取り戻すだけの犯罪狂。

恐怖、食欲さ、権力欲は、国家や民族、宗教、イデオロギー間の戦争と暴力の心理的動機となっているだけでなく、個人の人間関係の絶え間ない葛藤の原因でもある。
これが他人だけでなく自分についての認識を歪める。
そのためにあらゆる状況を間違って解釈し、恐怖を解消しよう、「もっと多く」を求める自分の必要性を満たそうと、間違った行動に出る。
この「もっと多く」という欲求は、決して満たされることのない底なしの穴だ。

しかしこの恐怖と食欲さと権力欲はここで言う機能不全そのものではなく、それぞれの人間の心のなかに深く根を下ろした集団的妄想という機能不全の結果である。
多くのスピリチュアルな教えは、恐怖と欲望を捨てなさいと言う。
だがこの試みはたいていはうまくいかない。
機能不全の根源に取り組んでいないからだ。
恐怖と食欲さと権力欲は究極の原因ではない。
もっと良い人間になろうと努力するのは確かに立派でほめられるべきことのようだが、当人の意識に変化が起こらない限り、結局は成功しない。
良い人間になろうとするのもまた同じ機能不全の一部で、微妙でわかりにくい形ながら、やはりエゴイスティックな高揚感、自意識や自己イメージの強化を求める欲であることに変わりはない。
良い人間、それは、なろうとしてなれるものではない。
すでに自分のなかにある善を発見し、その善を引き出すことでしか、良い人間にはなれない。
だがその善を引き出すためには、意識に根本的な変化が起こる必要がある。

もともとは高潔な理想から始まった共産主義の歴史は、人々がまず自分の意識状態という内なる現実を変化させようとせずに、ただ外部的現実を変えようと――新しい地を創造しようと――試みるときに何が起こるかを明白に示している。
共産主義者は、すべての人間がもっている機能不全の青写真を考慮せずに行動計画を立てた。
その機能不全とはエゴである。


新しい意識

古い宗教やスピリチュアルな伝統のほとんどに共通する洞察がある。
われわれの「ふつうの」精神状態には基本的な欠陥があるということだ。
しかし人間存在の本質に関するこの洞察――これを悪いニュースと呼ぼうか――から、第二の洞察が生まれる。
人間の意識の根源的変化の可能性という良いニュースである。
ヒンズーの(仏教にも共通する)教えでは、この変化を「悟り」と呼ぶ。
イエスの教えでは「救済」、仏教では「苦滅諦」と言う。
「解放」や「目覚め」という言葉が使われることもある。

人類にとって最大の成果は芸術作品でも科学でも技術でもなく、自らの機能不全、狂気の認識だ。
遠い昔にすでにこの認識に到達していた人々がいた。
たぶんこの機能不全を最初に絶対的な明断さで見抜いたのは、二千六百年前のインドにいたゴータマ・シッダルタである。
ほぼ同時に中国にも目覚めた人類の教師が現れた。
その名を老子という。
老子は最も深い霊的な書物の一つである『道徳経』という形で、その教えを遺した。

もちろん自らの狂気を認識することが正気の台頭であり、治癒と変容の始まりである。
すでに地球上には意識の新たな次元が現れ、最初の花々が少しずつ開き出している。
これまでごく少数ではあるが、同時代人に語りかけた人たちがいた。
彼らは罪について、苦しみについて、妄想について語った。
「自分の生き方を見てごらん。自分が何をしているか、どんな苦しみを生み出しているかを見てごらん」と。
それから彼らは「『ふつうの』人間存在という集団的な悪夢から目覚めることができるのだよ」と指摘した。
彼らは道を示した。

この人たちは人類の目覚めに必要不可欠だったが、世界の側の準備はまだできていなかった。
だからたいていは同時代人に、そして後世の人々にも誤解された。
彼らの教えはシンプルで力強かったが、歪められ、間違って解釈され、場合によっては弟子たちに誤って記録された。
何世紀かが過ぎるあいだ、本来の教えとは何の関係もない、それどころか基本的な誤解を反映する多くのことが付け加えられていった。
これら人類の教師たちのなかには馬鹿にされ、罵(ののし)られ、殺された者さえいた。
またある者は神として崇められた。
人類の精神の機能不全を克服する道、集団的狂気から脱出する方法を示した教えは歪められ、それ自身が狂気の一部となった。

こうして、宗教は人々をまとめるよりもむしろ分断する力となってきた。
生きとし生けるものはひとつであるという認識を通じて暴力や憎悪に終止符を打たせるのではなく、もっと激しい暴力や憎悪を引き起こし、人間同士を、異なる宗教を、さらには同じ宗教の内部までを分裂させたのである。
宗教はイデオロギーになり、人々が自分を同一化させ、間違った自我意識を強化しようと試みる信念体系になった。
人々はこの信念をよりどころに自分が「正しく」て相手が「間違っている」と断じ、敵を、「他者」「異端」「間違った思想の持ち主」と呼んだ。
それによって自分のアイデンティティを確立しようとし、対立者の殺害すらもたびたび正当化した。
人間は自分の姿を象(かたど)って「神」をつくった。
永遠、無限、名づけようのない真実は、「私の神」「私たちの神」として信じ崇拝すべき偶像に堕落した。

だが――宗教の名ではびこってきたこのような狂気の行動にもかかわらず――それでもなお――核心部分では各宗教が指し示した真実が依然として輝いている。
どれほどかそけき光であろうとも、何層もの歪曲や誤解を貫いていまも輝き続けている。
ただし人は自らのなかにその真実の片鱗を垣間見ない限り、その光を認識できない。

歴史を通じて少数ながらつねに意識の変容を経験し、すべての宗教が指し示すものを自らの内に発見した人々がいた。
彼らはこの概念化できない真実を表現するために、それぞれの宗教の概念的枠組みを利用した。

主要な宗教のいずれにも、このような人々が起こした「宗派」や運動があり、そこでは本来の数えの光が再発見されているだけでなく場合によってはさらに強く輝き出した。
キリスト教の初期及び中期のグノーシス主義や神秘主義、イスラム教のスーフィズム、ユダヤ教のハシディズムやカバラ、ヒンズー教のアドヴァイタ・ヴェーダンタ、仏教の禅や不二一元論(ゾクチェン)などである。
これらの宗派のほとんどは因習を打破し、偶像を破壊した。
宗教につきまとう何層もの概念化と信念構造の殻を打ち破りそれゆえにほとんどが既成宗教のなかで疑惑の目を向けられ、多くは敵意にさらされた。
主流の宗教と違って、これらの宗派の教えは認識と内なる変化を強調した。
主要な宗教はこのような秘教的な教えや運動を通じて本来の教えがもつ変容力を回復したのだが、ほとんどの場合、そこに近づけるのはごく少数の人々だけだった。
多数派の深い集団的無意識にそれなりの影響を及ぼせるほど、その人々の数が増えることはなかった。
また時の移り変わりとともに、これらの秘教的宗派そのものが硬直し、形骸化し、概念化して、効力を失っていった。


スピリチユアリティと宗教

新しい意識の高まりのなかで、既成宗教はどのような役割を担うだろう?
多くの人々はすでにスピリチュアリティと宗教の違いに気づいている。
信念体系――自分が絶対的真実だとみなす一連の考え方――は、どのようなものであれ、持ち主をスピリチュアルにはしない。
それどころかその考え方(信念)と自分を同一化すればするほど、自分のなかのスピリチュアルな面から切り離されていく。
「信仰心篤い」人たちの多くはこのレベルに留まっている。
思考を真実と同一視し、その思考に自分を完全に同一化しているので、自分だけが真実を知っていると主張するが、実は無意識のうちに自分のアイデンティティを守ろうとしているだけだ。
この人たちは思考の限界に気づかない。
自分の行動と信念に完全に同意しない人間は間違っていると決めつけ、そう遠くない過去には、相手を殺害することも正当化されると考えていた。
いまでもそう思っている人たちがいる。

新しいスピリチュアリティ、意識の変容は、たいてい制度化された宗教の外で起こる。
思考と概念に支配されたこれまでの宗教でも、その一部には必ずささやかにスピリチュアリティが宿る場所があった(宗教組織はそれに脅威を感じ、多くの場合、抑圧しようとした)。
しかし宗教構造の外側で生じたスピリチュアリティの大きなうねりとなるとまったく新しい現象で、これまでは、とくに西欧では考えられなかった。
西欧文明はすべての文明のなかで最も理性を重視する文明だったし、
スピリチュアリティに関しては事実上キリスト教の教会による独占体制が確立していたからだ。
教会の許しもなくいきなり立ち上がってスピリチュアルな話をしたり、スピリチュアルな本を出版したりすることは不可能だったし、そんなことをしようものならたちまち沈黙させられただろう。
ところがいまでは教会や宗教のなかにも変化の兆しが現れている。
これは嬉しい兆候だ。ヨハネ・パウロ二世によるモスクやシナゴーグ訪問もささやかではあるが嬉しい開放への歩みだった。

既成宗教の外側で盛り上がってきたスピリチュアルな教えの影響に加え、古い東洋の智恵が流れ込んだことも大きな力となって、伝統的な宗教の信者にも形や教義、硬直した信念体系へのこだわりを捨て、スピリチュアルな伝統に隠されていた深さや自分自身の深さを発見する人たちが増えてきた。
この人たちは自分が「スピリチュアル」かどうかは何を信じているかではなく、どんな意識の状態にあるかによって決まることに気づいている。
そしてそれがその人の行動や人間関係を決定する。

形を超えた向こう側を見ることができない人たちは、自分の信念に、つまり自分のエゴイスティックな心にいっそう深く囚われてしまう。
現在、かつてなかった意識のうねりが見られるが、同時にエゴの壁も分厚く強化されている。
一部の宗教組織は新しい意識に向かって開かれるだろうが、さらに頑なに自分たちの立場や教義にこだわり、人間の集団的エゴの自衛と「反撃」の構造の一部になる宗教もあるだろう。
一部の教会、宗派、カルト、宗教運動は基本的には集団的エゴで、自分たちの主義主張に頑固にしがみつく。
現実に対する別の解釈を認めない閉鎖的な政治イデオロギーの信奉者と少しも変わらない。

だが、エゴは解体される運命にある。
その硬直化した構造は、宗教であれその他の制度、企業、政府であれ、一見どれほど強固に見えようとも内側から崩れていくだろう。
いちばん硬直した、いちばん変化しにくい構造がまず崩壊する。
ソ連の共産主義が良い例で、どれほど頑固に守りを固め、どれほど頑強な一枚岩に見えたかしれないが、ほころびが見えたほんの数年で内部から崩壊してしまった。
しかも、誰もその崩壊を予測できなかった。
すべてが突然で、誰もが驚いた。
このような驚きがこれからもたくさん、私たちを待っているはずだ。


変容の緊急性

古い生き方や相互関係、自然との関わりがうまくいかなくなり、根源的な危機が起こって、どうにも解決不可能と見える問題によって生存が脅かされると、個々の生命体――あるいは種――は死ぬか、絶滅するか、進化の飛躍によって置かれた条件の限界を乗り越える。

地球の生命体はまず海で進化したと考えられている。
地上にまったく動物がいなかったころ、海のなかには生命があふれていた。
それからいずれかの時点で、海の生物のあるものが乾いた地上への進出という冒険を余儀なくされた。
たぶん最初はほんの数センチ這い上り、巨大な重力にへとへとになって、重力をほとんど感じず楽に生きられる水中に戻ったのだろう。
だが再び地上への進出を試み、また試み、何度も試み続けて、やがて地上の生活に適応し、ひれの代わりに足が生え、えらの代わりに肺が発達する。
よほどの危機的状況に突き動かされなければ、種がこんな不慣れな環境に挑んで進化上の大変化を遂げるとは考えられない。
海の一部が大洋から切り離され、何千年かかけて徐々に干上がっていって、魚は生息地を離れて進化するしかなかったのかもしれない。

生存を脅かす根源的な危機に対処する――これがいま、人頬に突きつけられた課題である。
すでに二千五百年以上も前に古代の智恵ある教師たちが見抜いていた、そしていまは科学技術の発達によってますます拡大されつつある、人間のエゴイスティックな思考に固有の機能不全、これが初めて地球上の生命の存続を脅かしている。
ごく最近までは――これも古代の教師たちが指摘していた――人間の意識の変容はただの可能性にすぎず、ばらばらに離れたところで文化的宗教的な背景とは関わりなくごく少数の個人が実現しただけだった。
人類の意識の開花が広がらなかったのは、それほどの緊急性がなかったからだ。

地球上の相当数の人々が(まだ気づいていないとしても)まもなく気づくだろうが、人類はいま、進化するか死滅するかという重大な選択を迫られている。
そして古いエゴの思考パターンの崩壊と新たな次元の意識の芽生えを体験している人々はまだ比較的少数であるものの、その数は急激に増加しつつある。

いま生まれているのは、新しい信念体系でも新しい宗教やスピリチュアルなイデオロギーでも神話でもない。
神話だけではなくイデオロギーも信念体系も終わろうとしている。
変化は人々の心や思考よりも深いところで起こっている。
それどころか新しい意識の核心は思考の枠を超えることにある。
思考よりも高い場所に上り、思考よりもはるかに広い次元が自分自身のなかにあることに気づく新たな能力だ。
そのとき人は自分のアイデンティティを、自分が何者であるかの根拠を、いままで自分自身と同一視していた絶え間ない思考の流れには求めなくなる。

「自分の頭のなかの声」が実は自分ではないと気づくと、すばらしい開放感を味わう。
では自分とは何なのか?
自分とは、思考する自分を見ている者だ。
思考よりも前にある気づきであり、思考が――あるいは感情や知覚が――展開する場である。

エゴとは、形への自分の同一化にすぎない。
その形とは何よりも思考の形である。

悪に現実性があるとしたら――絶対的な現実性ではなく相対的な現実性だが――それもまた形(物理的な形、思考の形、感情の形)との全的な同一化と定義できる。
そのために、自分が全体とつながっていること、すべての「他者」及び「生命の源」と本質的に結びついていることをまったく認識できない。
この結びつきを忘れること、それが原罪であり、苦しみであり妄想なのだ。

この分離、分裂がすべての考え、言葉、行動の底流にあり、それらを律しているとしたら、人はどんな世界を生み出すか?
その答えを知るには人間同士の関わりを眺めれば、歴史書をひもとけば、あるいは今夜のテレビニュースを見ればいい。

人間の心の構造が変化しなければ、私たちはいつまでも基本的に同じ世界を、同じ悪を、同じ機能不全を繰り返し創造し続けるだろう。


新しい天と新しい地

本書のタイトルは聖書の預言からとっている。
人類史のなかで、いまほどこの預言がふさわしいことはないと思うからだ。
旧約聖書にも新約聖書にも、これまでの世界秩序の崩壊と「新しい天と新しい地」の誕生を預言する言葉がある。
ただしこの天とは空間的な場所のことではなく、内面的な意識の領域であることを理解しておかなければならない。
それがこの言葉の奥にある意味で、イエスも教えのなかでその意味で使っている。
これに対して地とは形の外的な現れであり、つねに内面を反映している。

人類の集団的な意識と地球の生命は本質的につながっている。
「新しい天」とは人類の意識の変容の始まりのことで、「新しい地」とはその変容が反映される物理的な領域のことだ。
人類の生命と意識は本質的に地球の生命と結びついているから、古い意識が解体すれば、それと呼応して地球の多くの場所で地理的にも気候的にも自然に大きな変化が起こる。
その一部を私たちはすでに目にしている。