思想家ハラミッタの面白ブログ

主客合一の音楽体験をもとに世界を語ってます。

霊と肉体

2016-09-19 21:56:00 | 思想、哲学、宇宙論
http://ww81.tiki.ne.jp/~okwhiro/C11_4.htm#212


114 霊と肉体

更新日時:
2009/12/12




人の本質は肉体ではなく霊であり、霊が肉体に命を与えているのです。霊の力なしには貴方の精神活動は無く、肉体を稼動することも出来ません。霊が宿っているから人は高度な精神活動が出来るのです。脳は霊からの指令を受ける受信機であり、脳には豊かな感性も、高度な判断力も、深い情動も生み出す能力はありません。意識(霊)は脳の中に封入されているのではありません。それを証拠に人は睡眠中、意識(霊)が肉体を離れて自由に旅をしているではありませんか。



深く洞察してみれば貴方は肉体に束縛されていることが分かるはずです。霊と肉体はそれぞれに違う原理で作動しているのです。貴方が如何に精進をしようとしても肉体は肉体独自の原理で稼動しているので限界を超えた事は出来ないし、肉体の変調は精神に大きな影響を及ぼします。



肉体は機械である故に無理を続けると故障します。壊れたら治さなくてはならないし、常に手入れをしておかなければ働いてくれません。霊と肉体は本来の次元が違うけれども、貴方はこの地上界にいる間は通常、肉体を通してしか自己を表現出来ないので肉体の限界に閉じ込められているという訳です。霊の働きは自由で無限、肉体の働きは有限なので、人は意識の成長に伴い肉体の束縛を感じるようになります。

(天空より)




意識の創発

2016-09-19 18:31:51 | 思想、哲学、宇宙論
無数の言霊(生命エネルギー)が集合し相互作用することで、

意識が創発されるのではないだろうか。

脳に集合した言霊から意識が創発されるのかもしれない。

逆に言霊が先に集合したところに脳が作られる可能性もある。


地球に集合した言霊から地球意識が創発され、

宇宙全体の言霊から、神の意識が創発されるのではないだろうか。


言霊(生命エネルギー)が集合することで、意識が創発されるということは、

意識を生み出すのに物質的基盤は必ずしも必要としないことになる。

ブラフマン

2016-09-19 14:29:31 | 思想、哲学、宇宙論

梵我一如とは、宇宙全体としての「梵(ブラフマン)」と、個体としての「我(アートマン)」が本質的には同一であるとする思想。また、同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダ哲学の究極の悟りとされる。代表的な思想家は、シャーンディリヤ、ウッダーラカ・アールニ、ヤージュニャヴァルキヤなどである。


ブラフマンとは普遍的に存在する万物の原理・生命の源と考えられている。宇宙全体、宇宙精神ともいうべきニュアンスがある。アートマンとは単なる自我というより、真の自己(真我)、といったニュアンスがある。この世に多数の人間として存在しているように見える多数の自我はマーヤー(幻)であり、真我はひとつとされる。


人間が梵を吸収することにより生命力が増すという思想もある。


ヴェーダにおける解脱とは、個人としての我が、宇宙全体である梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、あらゆる苦しみから逃れることができるとする。


この思想はバラモン教、ヒンドゥー教のみならず、仏教やジャイナ教などインドの哲学・宗教全般に影響をあたえた。


ブラフマン

ブラフマン (Brahman) は、インド哲学における宇宙の根本原理。唯一不変の絶対的実体である。「ことば」を意味するサンスクリット語を語源とし、呪力をもつ「賛歌」「呪句」を表した。やがてそれらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、さらに、この力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされた。


インドのカースト制度の頂点に位置する司祭階級バラモンは、ブラフマンから派生した形容詞ブラーフマナを名詞にしたもの――「ブラフマンに属する(階級)」の意味である。ブラフミン( Brahmin )ともいう。


聖典ウパニシャッドによれば、このブラフマンとは、外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の実在である。それは純粋な存在と意識そのものであり、ある意味では「宇宙精神」とも呼べるものである。


ブラフマンは全ての物理現象、精神作用を超越しているから人智によって捉えることも表現することも不可能である。


ブラフマンは宇宙の源である。神聖な知性として見なされ、個々人の魂を含む全ての存在に浸透している。それゆえに、多くのヒンドゥーの神々は1つのブラフマンの現われである。初期の宗教的な文書、ヴェーダ群の中では、全ての神々は、ブラフマンから発生したと見なされる。


ヒンドゥーの神々の体系では、ブラフマンはブラフマー(創造者)と同一のものと見なされる。ブラフマーは三神一体(Trimurti)の神々の1つであり、ヴィシュヌ(保持者)と、シヴァ(破壊者)とは本来同一とされている。


アートマン

アートマン(Atman) は、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。無意識と同一視されることもある。仏教では「真我」という。元は「息」を意味するサンスクリット語の Atma を語源とし、ここから「生気」「霊魂」「自我」という意味が派生し、ついには「個体を支配する原理」とみなされるにいたった。アートマンは個の中心にあり対象を認識をするものである。それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないとされる。



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ブラフマンとは宇宙に遍在する生命エネルギーと、そこから創発された神が作り出した法則を一緒にしたものと言えるでしょう。

by ハラミッタ




無限の生命エネルギーとの融合

2016-09-19 11:44:46 | 思想、哲学、宇宙論
ビッグバンで宇宙に広がったのは生命エネルギーである。

宇宙の根源的実在は生命エネルギーであり、

あらゆるものは生命エネルギーから生まれてきた。

神も例外ではない。


神は、宇宙に偏在する無限の生命エネルギーから創発された存在であり、

宇宙全体を統括している。

我々は意識を神と共鳴させることで、無限の生命エネルギーと融合することができる。

不思議なメッセージ

2016-09-19 11:07:35 | 思想、哲学、宇宙論

http://lmr.cc/m_AUM1.html


オーム(宇宙意識)

(注:宇宙意識オームは、人格霊ではないが、その思いがアマーリエの言語中枢によって翻訳された。)


大宇宙に遍在するエネルギーはオームの、宇宙の身体(からだ)です。

「宇宙空間は真空だ」と言われますけど、真空は何もないわけではなくて、このオームの愛のバイブレーション。これはたとえて言うならば、母親の胎内(たいない)の羊水(ようすい)のようなものです。温かくて一切を育む愛のぬくもり、一切を産み出す栄養、可能性、それが宇宙空間にはぎっしりと詰まっています。それをわたくしたちが見ることができないからといって、「何もない」と言うのは、それは間違いです。

神の愛があらゆる生命の可能性を含み、そこここに遍在(へんざい)するすべてのマテリアル、材料、素材を宇宙空間に込めて、そこに神の世界からの理念、「このような存在をあらしめたい」と思う理念が降りきたったときに、その中にある、羊水の中にある素材をつくって、ひとつの求心的な磁場ができることによって、そこに一挙に集中して引きつけられて、この三次元に物体化する。そういうふうにやって宇宙はできてきました。

この大宇宙の空間は母親の胎内であると、幼子(おさなご)を包んでいる羊水と胎盤(たいばん)とその胎内であると、そのようにとらえてみてください。羊水の中には酸素も栄養も、ありとあらゆる人体を構成する栄養素がその中にもう存在しているのではないでしょうか。そうやって、でもいつもそこの胎内の中に胎児がいるわけではなくて、そこに宿らんとする意志によって、ひとつの生命体が使命を受けて降り立つということが決まって着床(ちゃくしょう)したときに、そこに創造の創造が始まるのです。

宇宙も全くそれと同じ形態で構成されて、あなた方の住んでいる惑星も、太陽系も、すべての全宇宙はそうやってつくられたのです。神の愛。神の愛に満ちたバイブレーション。あなた方を創造せしめるその物質の中に、エネルギーの中に、愛は込められているのです。

あなた方の肉体がどのような粒子、素材でできていて、どのように羊水の中で、どのような愛によって受精(じゅせい)し、その形態を、遺伝的なその核分裂(かくぶんれつ)の中で育んで、あなた方人類というものが存在するようになったか。そのすべてのプロセスが神の愛であるということ。

愛というものが観念的な、精神的なものであると、あなた方は思っておられるかもしれないけれども、神の愛というのは、三次元に物体化し、そこにおき創造していくという、その絶え間ない連鎖の中に愛は脈々と流れていくということ。あなた方はすぐ、物質的なもの、その科学的な現実的な実態というものと、愛というものを精神的な思い、遊戯(ゆうぎ)にしてしまって、切り離してしまうから、そこで分離し違和感があるのだと思う。

神の愛とは、愛の思いイコールこの世界に、各次元の世界に創造し、あらゆるものをつくり上げ、そこに生命(いのち)を吹き込み、そこに神の愛の表現形態を実存させていく生命の息吹(いぶき)をそこここに表現していく、その現れ、行い、それが愛そのものであるということ。そこのところをあなた方地球人類は理解しなくてはいけない。