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今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった

2019年11月09日 | 心に安らぎを

今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった
(真宗大谷派発行の教化冊子「2020年版 真宗の生活」より)

 本題に入る前に、このことは親鸞の思想とのかかわりが深いので、前置きが長くなるが、親鸞(1173-1263年)が生きた時代はどんなであったか、そして親鸞はどう生きたかについて、大まかに歴史を紐解いてみよう。

 鎌倉時代の始まりは12世紀末(源頼朝が征夷大将軍に就いたのが1192年)で、これでもって平安時代は終わり、王朝国家体制が崩壊した。平安末期の気候は、長く150年ほど続いた温暖期が終わり、地球が急速に寒冷化して、大陸ではモンゴル帝国が南下・西進した時期である。日本列島も寒冷化し、大量に餓死者を出した1181年の「養和の飢饉」(『方丈記』では京都市中の死者4万2300人)が有名である。また、日本のほぼ全域を巻き込み5年近くにわたって続いた「治承・寿永の乱」が同時期に起きている。武家政権の誕生は、この寒冷化が拍車を掛けたことだろう。そして、この寒冷化は50年ほど続いた。

 「養和の飢饉」のとき、親鸞は京都に住んでいて8歳であり、もうそのときは寒冷気候であった。その親鸞は若くして比叡山延暦寺(天台宗)の僧侶となり、厳しい修行を20年間積むも、29歳のとき自力(自らの力で悟りを目指す)仏教の限界を感じ、山を下りて浄土宗の開祖・法然の下に弟子入りし、他力(念仏)仏教の道を歩むこととなった。
 法然(1133-1212年)は親鸞より40歳年上だが、同じ道を歩んでおり、比叡山を下りて1175年には浄土宗を開宗し、順次弟子を抱えて京都では浄土宗がだんだん力を増した。これに脅威を感じた延暦寺は後鳥羽上皇を使って弾圧に踏み出し、1207年に法然と親鸞らの弟子7名が流罪(他に4名が死罪)となり、親鸞は4年間も越後で過ごさせられた。
 親鸞が赦免されて直ぐに法然は死に、親鸞は3年の空白期間を置いて、41歳のときから20年間ずっと東国に出かけ放しで布教し、この間に念仏仏教を大きく広げた。
 親鸞が東国布教を始めてしばらくまでの間が寒冷期であり、布教の途中から温暖期に入り、それはその後80年間ぐらい続くのだが、それまでの約50年もの長かった寒冷期において冷害や旱魃で民百姓は随分と苦しめられ、餓死の危機が去った温暖期に入っても、まだまだ心は荒んでいたことであろう。
(蛇足ながら、今日、温暖化の危機が特に日本において騒がれているが、平安時代がかくも長く続いたのは長期の温暖期(過去2千年間で最大:鹿児島県の屋久杉の年輪の炭素同位体分析による)があったからであろうと思われ、近い将来、寒冷化したらゾッとさせられる。今、やっと平安時代後期の温暖期と同等のところへ入りかけただけであり、もう一段暖かくなってほしいものである。)

 平安末期から鎌倉初期にかけての、こうした時代背景があったからこそ、南無阿弥陀仏と念仏を唱える大衆仏教が広まったと考えていいと小生は思っている。
 親鸞の教えはその後に浄土真宗となったが、法然が開宗した浄土宗と本質に変わりはない。法然は「凡夫(ぼんぷ)=煩悩にとらわれた存在、普通の人間」の救済に重きをおいたのだが、親鸞はそれを一歩進めて「悪人正機(あくにんしょうき)」をも説いた。その「悪人正機」は随分と誤解されているのが実情だ。

 随分と前置きが長くなったが、「凡夫」「善人」「悪人」(これらは仏典に登場し、釈迦が説いたと考えていいであろう)そして親鸞独自が説いた「悪人正機」について、分かりやすく解説されたものが、真宗大谷派発行の教化冊子「2020年版 真宗の生活」に出ていたので、これらと密接な関係にある、表題にした『善魔』(これは仏典にはないが、面白い言葉であるので)と併せて紹介しよう。
 なお、これらの言葉は現代の日本人にもずばり当てはまり、なかでも『善魔』は現代日本社会をありありと指し示しているのではなかろうか。

(「伝記 親鸞聖人」:東本願寺出版より)
◆他力本願
 「他力本願」といえば、現代ではよく「他人の力をあてにする」という批判的な意味で使われていますが、親鸞聖人がおっしゃる「他力本願」の意味はまったく違います。
 「他力」に対するものとして「自力」という言葉があります。この「自力」とは、自分の思いや行動によって、何かを成しとげようとする力を指します。それは一見立派なことのようですが、そこには無意識に“自分こそが正しい”とするごう慢さがひそんでいるのです。
 親鸞聖人の言われる「他力」とは、この自力にとらわれて、他者を踏みつけ、自分も悩み苦しんでいる私だと気づかせる仏さまのはたらきのことをいいます。そのような私たちにどこまでも寄り添い、そのままで救いとろうとする仏さまの大きな願いを「他力本願」というのです。
◆悪人正機
 「悪人正機」は、親鸞聖人の教えのなかでもっとも有名で、またもっとも誤解を受けているものかもしれません。「悪人正機」とは、「善人であっても往生をとげることができるのだから、悪人が往生できないわけがない」という意味です。
 この「悪人」を、世の中でいう泥棒や犯罪者と受け取ってしまうと、罪を犯したら救われるということになります。果たして親鸞聖人が教えられた「悪人正機」とはそのようなものなのでしょうか。
 人間は悲しいかな自力でしか生きることができません。その事実を気づかせるのが仏さまのはたらき(他力)ですが、自身の事実に気づかないままに、自分でどうにかなると思っている人を「善人」といいます。一方、「悪人」は、仏さまのお心にふれ、善人とはいえない自分の身の事実に気づいた人のことをいいます。世にいう犯罪者のことではないのです。
 聖人は、この他力によって生きる悪人こそ、まさしく浄土へ生まれ往く機(対象)なのだといわれているのです。

 (荒山信:名古屋教区惠林寺住職の法話)
 親鸞聖人は縁によって生きる者を「凡夫」と教えてくださっています。「縁」とは条件です。つまり条件次第で何をしでかすか分からない者を「凡夫」といいます。そして自らがその「凡夫」であることに深く気づいた者を親鸞聖人は「悪人」とおっしゃいます。また、自分の意志に従って、どのようにも生きていけると思っている者を「善人」とおっしゃいます。そして南無阿弥陀仏のいのちは「悪人」の大地となり、悪人こそ支えきろうとしてくださるのだと親鸞聖人は教えてくださっています。
 私自身、忘れられないことがあります。それは私が親しくさせていただいている中学校の先生からお聞きしたことです。不登校の生徒さんが、家族から言われて一番つらくなる言葉は、一番は「がんばれ」、二番は「気にするな」、三番は「強くなれ」だそうです。つまり元気になってもらおうと、こちらが良かれと善意で言ったことが相手を逆に追いつめていく言葉になるのだそうです。私はその話を聞いた時、本当にドキッとしました。つまり身におぼえがあるからです。子どもが学校で何かあって落ち込んで帰ってきた時に「がんばれ、気にするな、強くなれ」と言ってきたからです。
 それは、私自身、人間は自分の意志でどのようにでも生きていけるという答えをもっていたからです。まさしく「善人」の姿です。その答えを子どもにおしつけていくのです。親は善意でしているつもりでも、子どもからすれば「善魔」になるのでしょう。善意が相手を追いつめる悪魔となるのです。悪魔ではなく善魔です。
 ある先輩は、「今は悪魔の時代ではなく、善魔ばかりの時代になった」とおっしゃっていました。確かに「がんばれ」という言葉は、力のある言葉であり、ある意味、万能な言葉です。病人を見舞いに行く時なども「がんばってください」と励ますことがあります。しかし、人間は条件次第で、いくらがんばろうとしても、がんばれない時もあります。
 少し変な言い方をするようですが、「がんばれないあなたを大切にしたい」という言葉を、案外子どもは待っているのかもしれません。つまりこちらが「善意」で相手に関わろうとする時があぶないのです。なぜならば、人間は悪意でしたことならば反省できるということもありますが、善意でしている時の、その自分自身は、なかなか反省できないからです。
 ある研修会がひらかれた時でした。最後に、講師の先生にお礼をお渡しし、「先生、本当にお礼が些少(さしょう)で申し訳ありません」と言ったその時です。先生に「いらんことを言わんでもいい、それが善人の言葉なんです。わたくしは精一杯のお礼をいただいたと思っております」と、これも忘れられない言葉です。へりくだったり、謙遜するという形で、実は自分をたてているのです。それで結局は、相手を信頼していないのです。わが身の姿を、その先生に見すかされたようで本当に恥ずかしくなりました。と同時に、私のことを、私以上に、私よりも深く知ってくださっている世界があるんだというおどろきがありました。その世界を「南無阿弥陀仏のいのち」というのでありましょう。
 自分一人では自分のことはわかりません。人とのかかわりあい、つながりの中で自分がみえてくるのです。凡夫の大地になろうと、南無阿弥陀仏のいのちは、歴史を越え、文化を越え、言葉を越え、私の中にはたらき、願いかけてくださっているのです。

(関連記事)真宗大谷派発行の教化冊子「真宗の生活」バックナンバー抜粋
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2 コメント

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他力は素直な信仰。 (baro)
2019-11-09 17:07:49
> 善意でしている時の、その自分自身は、なかなか反省できない
 そうですね。善意や正義感や使命感でする時にこそ、人間はいちばん危ないことをするのかもしれません。政治でも宗教でも何かの主義主張でも、当人はひとに迷惑がかかると思っておらず、むしろ善いことをしていると思っているのでしょうから。

 「自分にしてほしくないことは、人にしてはいけません」とは孔子などいろんな偉人が言っているようですが、キリストは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と言いました。これは『黄金律』と言って、キリストの教えのほうが積極的で優れていると言われるのですが、こちらが善意で誰かに何か益になると思うことをしても、かえって善意の押し売りになって相手からは嫌がられるということもありそうです。
 そして場合によっては善意を押し付けるというのは、相手より高みに立って、ちょっと偽善的に、また高慢になっていることがあるかもしれません。

 他力本願は、私は、謙虚でいい考え方だと思うようになりました。自分自身で南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えて救われたいとは思いませんが、しかしそれは救われるため方便としてじつに簡単で効果的な方法であり、むしろ人間の高慢な自我を放棄し、神仏という上位のものに自分を明け渡している点で、意外にと言ったら良くないでしょうが、なかなか優れたツールではないかと思います。

 簡単なことをするだけで「それで良い」と言われると、凡夫は安心できます。その《安心できる》というのが肝要で、これが宗教では一番大事なのではないかと思います。
 ひとが何か相談をしてきたときは、相手は解決策を知りたいというよりも、問題があっても不安が抑えられ、安心できればよいのではないかと思います。
 ですから何かの相談を受けたときは、《ひたすら相手の話をよく聞きなさい、よく聞くだけでたいてい相手は安心するし、問題を話しているうちに自分で解決策に気付く》と言われる通りです。

『なんでも仙人の人生がどんどん良くなるシンプルな教え』は良い冊子でした。内容は知っていることばかりでしたが、こういう話は知っていればいいのではなく、実行することが大事ですから、新たな気持ちで読み終えることができ、よかったと思いました。と、同時に永築さんが、私と同じ霊的思考を持っていることを知り、うれしく思いました。
霊的思考 (薬屋のおやじ)
2019-11-09 18:52:14
早速のコメント、バーソさん、有り難うござます。
小生は親鸞が好きでもあり、嫌いでもあります。親鸞の思想はなかなかのもの、すごい!と感心させられ、自分もそうあらねば、素直に取り入れねば、と思っています。
でも、仏に身をゆだねて南無阿弥陀仏を唱える、まさに宗教、これはけっこうです、といった今の小生です。よって、南無阿弥陀仏を唱えたことは一度もありません。
ただし、合掌はします。「無になる」のが合掌、と小生は捉えていますゆえ。
小生が「霊的思考を持っている」と言われると、ケツがこそばゆくなります。自分で意識したことはないのですが、無意識的にそうした思考もしているのでしょうかねえ。

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