薬屋のおやじのボヤキ

公的健康情報にはあまりにも嘘が多くて、それがためにストレスを抱え、ボヤキながら真の健康情報をつかみ取り、発信しています。

皆が知らず知らず冷え体質に(三宅薬品・生涯現役新聞N0.286)

2018年11月25日 | 当店毎月発刊の三宅薬品:生涯現役新聞

当店(三宅薬品)発行の生涯現役新聞N0.286:2018年11月25日発行
表題:皆が知らず知らず冷え体質に
副題:長く同じ状態が続くと、それが普通と感じてしまう「冷え」

 高度科学文明の恩恵で、誰もが、盛んに体を動かして仕事や家事をするなんてことはしなくなったことにより、体内熱の発生が最小限となり、その結果、皆が、体温が低下傾向になり、寒がりになったのです。江戸時代の庶民は足袋を履くなんてことはなかったですから、現代人はいかに寒がりになったか、低体温になったか、それは歴然としています。
 低体温は免疫力を低下させ、がんに罹りやすくもなるのです。いいことなし、です。

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 (裏面)瓦版のボヤキ
    往きはよいよい、復りはこわい


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日本人の日本人による日本人のための本当の働き方改革

2018年11月22日 | よもやま話

日本人の日本人による日本人のための本当の働き方改革

 巷ではカルロス・ゴーンさんの不正で大騒ぎしていますが、彼の不正についてよりも、ゴーン経営の本質、それも根っこの部分について、今一度考えてみなければいかんでしょう。
 日産自動車の立て直しに、ゴーンさんが欧米型経営方式の会社づくりをしたのは当然のことですが、これはトヨタ自動車のみならず日本の大企業の経営方式だって、今日では大同小異になっていましょうが、こんなんで本当にいいのでしょうか。
 そもそも「会社は誰のためにあるのか」、これが根っこにあって、それを元にして、それぞれ会社は成立し、発展もすれば衰退もする、といえましょう。
 さて、日本の会社はというと、従業員とともにあり、どちらかというと「従業員のため」にある、これが昔の会社であり、従業員皆が生き生きと働き、それによって日本という国が大きく発展してきた、といえるのではないでしょうか。
 これは、今に通用することでしょう。今日世界のグローバル化により、何もかもグローバルスタンダード(=欧米式)にして、はたしていいものか。
 日本の中小企業のなかには、昔でもここまでの会社は珍しい、という日本型経営方式の会社づくりをしている優良企業が幾つもあります。
 そうした企業から学ぶべきことが非常に多いと感じます。そうした企業は、「従業員の従業員による従業員のための会社」、といったところでしょう。
 その1例を紹介しましょう。こうした企業を見習うことのなかから、はじめて、「日本人の日本人による日本人のための本当の働き方改革」ができるのではないでしょうか。
 ゴーンさんの解任によって、日産自動車が日本型経営方式の会社に変貌してくれることを願っているのですが…。

(みやざき中央新聞 2018.11.5及び11.12の記事で、その前後1週間の4回にわたる講演録からの伊那食品工業の紹介です。)

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仙人は霞だけで生きている(三宅薬品・生涯現役新聞バックナンバーN0.225)

2018年11月10日 | 当店発刊の生涯現役新聞バックナンバー

 毎月25日に発刊しています当店の「生涯現役新聞」ですが、これをブログアップしたのは2014年陽春号からです。それ以前の新聞についても、このブログ読者の方々に少しでも参考になればと、バックナンバーを基本的に毎月10日頃に投稿することにした次第です。ご愛読いただければ幸いです。

当店(三宅薬品)生涯現役新聞バックナンバーN0.225:2013年10月25日発行
表題:仙人は霞だけで生きている
副題:人は何も食べなくても少なくとも丸1年は生きられます

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太古の思想家=釈迦の教えは現代に通ずる

2018年11月08日 | 心に安らぎを

太古の思想家=釈迦の教えは現代に通ずる

 うちは、真宗大谷派、俗に言う“お東”、東本願寺の門徒でして、毎年11月に小冊子「真宗の生活」が配布されます。3分法話が12掲載されているので、これをパラパラッとめくって面白いなと感じた法話を今時分に紹介しています。昨年はパッとしたものがなくて紹介しませんでしたが、今年はいい法話が幾つかあり、そのうちから2つを紹介しましょう。
 一つは「常に今を生きている私」、もう一つは「分別=比べる心」です。
 いずれも釈迦が説いた教え(信仰対象の仏教とは次元が違うもの、太古の思想家=人間である釈迦の主張)ですから、一神教やそれと同類の宗教(仏教もそう)を嫌う小生であっても素直に聞くことができます。
 最初に「常に今を生きている私」、主題は“一瞬一瞬に生きる”というもので、これを釈迦が言っていたとは知りませんでしたが、2018.9.10ついに古希を迎えた小生、人生の考え方がまたひとつ変わってきました」のなかで、これは「武士道の精神文化」であり、正岡子規が残り少ない命をそうした心構えで日々過ごしたことを紹介しました。
 前置きはこれくらいにして、以下に全文を引用します。

1 常に今を生きている私 田畑正久(大分県・佐藤第二病院院長)
 私たちは、今、生きていて、そして未来のどこかで死ぬと考えてしまいがちです。しかし、仏教では、私たちは、一刹那(せつな)ごとに、生死(しょうじ)を繰り返していると教えられます。一刹那、つまり一瞬一瞬、一日一日、朝、目が覚めてその日を初体験する私が誕生して、その初体験した私はその夜死んでいく。生は死と常に隣り合わせにあり、縁あって生かされているのが私のいのちの事実なのです。
 私の身体を構成している約60兆個の細胞は、身体を維持するために200分の1の細胞を毎日自ら壊し、そして同じ数の細胞を再合成することで均衡を保っています。たえずその繰り返しをしているということは、自転車操業という言葉があるように、自転車を休みなくこぎ続けるようにして私のいのちは維持されているのです。停まれば自転車は倒れてしまいます。細胞一つをとって考えてみても、私の思いや努力を超えて、多くのおかげで生かされてきたのです。
 そういう一瞬一瞬、一日一日の足し算が、結果として、一週間になり、一カ月になり、一年、十年となっていくのです。そういう気づきが生きることを輝かせていくのではないでしょうか。
 しかし、フランスの哲学者であるパスカルが「明日こそ幸せになるぞ、来年こそもうちょっとよくなるぞと言って、いつも明日のための準備が今日であると生きている人たちは、明日こそ幸せになるぞと死ぬまで幸せになる準備ばかりで終わる」(取意)と『パンセ』という書物に書いているように、私たちは、明日の準備ばかりで、何か空しく時を過ごしてしまっているのではないでしょうか。
 仏教は、この人生を空しく過ごしてしまうことを問題にし、一瞬一瞬、一日一日を大切に生きよと呼びかけるのです。それは、現実を受け止めて生きていくということからはじまるのです。私の身の現実を引き受け、念仏して精一杯生ききる時、おまかせするという生き方を賜るのです。生かされている間は精一杯、自分の役割を使命としてはたしていこうという意欲をいただくのでしょう。
『病に悩むあなたへ』(東本願寺出版)より
(引用こまで)

 いかがでしょうか。小生は先のブログ記事で、「今、ここを生きる」「一日一日を坦々と生きる」、その繰り返しでいく、これが人生、と書いたところです。
 ところで、引用文の最後のほうで「念仏して…おまかせするという生き方を賜るのです。」というのは浄土真宗(真宗大谷派はその一派)そして浄土宗という宗教の教えでして、思想家であるところの釈迦の言葉とは思えません。

2 分別=比べる心 小川一乗(北海道教区西照寺前住職・大谷大学名誉教授)
 現在では、競争社会のなかでナンバー・ワンを目指すことが大きな目標となっている。そこに何か空しさのようなものを感じ取っているのが、いまの人たち、とくに若い人たちではなかろうか。ナンバー・ワンとは、人と比べて生きることである。人を乗り超えて生きていくことである。ベターに生きよう、よりうまく生きようとするのが、とりわけ競争社会に身を置いている私たちの基本スタンスとなっている。
 競争社会とは、経済的な社会生活に限ったことではない。オリンピックに代表されるスポーツ界においても、身体の健全(体育)という目的が競争という目的にとって代わられて、経済的な利益さえも保証する、そんな社会になっている。
 それに対し、オンリー・ワンは、ベターに生きることではなく、ベストに生きることである。比べる必要のない、それぞれの<いのち>がベストに生きようとすることである。
 そうした生き方を拒む要因は、私たちのなかにある。他と比べて生きようとする心を、仏教では「分別(ふんべつ)」という。比べる心が私たちにさまざまな苦悩やストレスをもたらすのだが、そこにいるかぎり、他と競争し続けるベターな生き方しかできないのである。
 そこで、「分別」を超えていく「無分別」こそが、仏教の覚り(さとり)の基本となるのである。比べる心をもったとき、私たちは上に位置けた者に対しては卑屈になり、下に位置づけた者に対しては傲慢になっていく。しかも、ナンバー・ワンであることは長くは続かず、必ずや追い落とされる運命が待っている。そういう生き方に終始するとき、人間の不幸がどんどん増幅されていく。比べる心を乗り超えたところに、ベターな生き方ではなく、一人一人がベストに生きる生き方が姿を現してくる。
 『阿弥陀経』に、こう説かれている。浄土(釈尊の覚りの世界)にあって、私たちの<いのち>は比べられることなく、それぞれベストに光るのだ、と。
 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
(青色は青く光り、黄色は黄に光り、赤色は赤く光り、白色は白く光る)
『親鸞が出遭った釈尊ー浄土思想の正意―』(東本願寺出版)より
(引用ここまで)

 いかがでしょうか。ところで、釈迦が説いた「無分別」、つまり「比べない」ということについては、思想家(故)小林正観さんがその著書のなかで次のように書かれています。同じような内容になりますが、こちらもご一読なさってください。

「未来の知恵」シリーズ8 (小林正観著[弘園社])
 ただしい人からたのしい人へーもう一歩奥の人格論ー
 第5章 力を抜いて生きる
「き・く・あ」の思想
「き・く・あ」という言葉は聞きなれないものだと思います。私が作った造語ですから、一般的には知られていないでしょう。
「き・く・あ」とは、「競わない・比べない・争わない」の略です。
 前述しましたが、「幸せ」というものを追い続けていった結果、私の中でわかったことがあります。それは、すべての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は地球上に(宇宙にも)存在しない、ということでした。「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した宇宙的な結論なのです。
 では、「幸せ」は「感じるもの」であるならば、なぜ皆がそれを感じることができないのでしょうか。「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。なぜか。
 それは、「競うこと」「比べること」「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。 
 もともと学校教育というものがそうでした。「相対評価」というものでクラスの中の上位何%にいる人を「5」、下位何%にいる人を「1」とランク付けし、そのランク付けの競い合いの中で人材を育成するという教育を日本の教育界はとってきたわけです。
 その結果、私たちは「幸せとは、競うこと・比べること・争うことで初めて手に入るのだ。人より抜きん出て、勝ち続けることが、幸せを手に入れる唯一の道である」と信じ込まされてきました。
「優勝」という言葉は、実は、「優勝劣敗」という四文字熟語の上の二文字です。「優勝劣敗」とは、「優れたものは勝ち、劣ったものは負ける」という思想です。あまり楽しい言葉ではありません。しかし、私たちは「勝つことが正しいことであり、勝つことや抜きん出ることが優れていることの証である」と教え込まれてきました。
 その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してもよい時期に来ているのではないでしょうか。
 21世紀は、「競うこと」「比べること」「争うこと」を基本的な価値観とするのではなく、「競わないこと」「比べないこと」「争わないこと」を基本的な価値観とすることはできないものでしょうか。
 競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけではなく、未来にわたって継続できるような、楽しい)生き方をするということにほかなりません。
 自分の生活の中で「他人とは比べない」「世間と比べない」ということが身についたら、生きることがどれほど楽になるかわかりません。
(引用終わり)

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