Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

生命の流れにおける人間の課題

2019-05-08 05:51:43 | 意識という謎

意識という謎

Part-II 生命の流れにおける人間の課題

私たちは日常生活の中で理解できないことや不思議なことに、ふと気づくことがあります。そして何だろうという気持ちを持ちます。しかし、すぐ忘れて日常生活に戻ります。後になって、そのとき自分の意識が一瞬切り替わっていることに気づきます。そのときの意識はどういう動きをしたのでしょうか?自分が何かわからないことに気づいて、そこに思考を集中しますが、やっていることが他にあったりすると気持ちを切り替えます。このとき、通常の生活の状態を続けようとする気持ちと、自分の知識や経験で説明できないことを調べたい気持ちが交互して切り替わっています。ここで思うに、私たちの意識は基本の日常的なものと調査研究的なものというような2つの方向があるように思います。そして、この2つの方向は生命が生きる特徴として持っている方向と同じなのではないでしょうか。

生物は細胞から出来ていて、多くの細胞が組織的に集まって閉じた生物の個体を作り上げています。その個体は生きている状態を持続するために内部の反応を維持する仕組みがあります。そのために内部でエネルギーを作り出す必要から、常に物質を取り入れ排出する活動をしています。これら多くの細胞が1つの生物という全体組織として行動しています。その生きている状態には、様々な内部反応が次から次へと持続する作用とともに、生物の行動全体を1つにしている、ちょっと不思議な力が作用しています。つまり、2つの種類のエネルギーがあって、生きるための多くの反応を継続する個々の力を支えているものがあり、一方で全体を統率しているもの、それはあたかも個体にある細胞内すべての遺伝子の共振のようなものがあって、生命の継続を支えています。

個体を1つに統率している力は成長や増殖など種の保存に関わっていて、多くの物質の動きを閉じた個体として中心に引き付けているものです。それは環境の変化に対応していく柔軟性があって、世代を越えて個体の特徴や機能を複雑にしていく性質を持っています。このような性質はすべての生物にあるようです。もっと広い範囲で考えると、地球という惑星に根を下ろした多くの生物は、まるで「生命」という大きな流れにある意識を共有していると言って良いかもしれません。その意識によって個々の生物には「生きようとする意志」が起こっていて、すべての生物で同じように維持されています。言い換えると、生命の流れの影響下にある個々の生物たちは、それぞれに「生きる意識」があって、個体における行動は、この生きる意識が中心となって活性化の状態を保持しているように思えます。

<ミラーテスト>

いろいろな研究から、生物が機能を複雑にした流れがわかっていて、その結果人間は大脳が発達して自分の存在を「明確に」自覚できていると言われます。これに対して人間以前の生物は、遺伝子に刻まれた情報が優位にあって、一般にその種としての本能による行動であり、種としての成長と生殖を繰り返していて、個体の違いはそれほど目立ちません。人間に飼われたペットのように、環境から影響によって個々の反応や行動の違いはわかるけれども、生命個体が独自に自己を認識している様子は見えません。ここで自己を自覚しているのか、そうでないのかという対比を明確するという意味で、鏡を使った「ミラーテスト」という面白い実験があるので紹介します。

ミラーテストとは、対象動物の身体の目の届かない場所に気づかぬように印をつけて鏡を見せ、その印が自分についていると判断できるかどうかを調べます。ほとんどの動物は鏡に写る動くものを敵とか仲間とか、自分とは異なっているものと見なす行動をします。しかし、一部の哺乳類や鳥類は自分についた印だとわかり、それを気にして取るような行動をします。人間の場合、2歳くらいまでに鏡に写るものは自分であるとわかるそうです。この実験から示唆されるのは、自己について「明確に意識する」のは人類という種になってからであり、自己を自覚して他を意識することで独自の心の世界が開けてきたと考えます。これまでの生物の進化は徐々に自己を自覚する意識を育ててきたということです。この自己を意識しているということが、単に生命を持続させ世代交代をするという流れに、新たな展開を加えています。

自己を意識するまでに生物として進化の段階がありました。単細胞の段階では、外界と接する膜において、そこに接する物質の分子構造における反応の違いによって、結合とか反発などの作用で取り入れたり排出したりしています。動物のような複雑な細胞組織体では、脳や感覚器官という機能を発達させていて、単なる刺激への反応ではなく、末端からの情報を細かく識別して、まわりにあるものが危険なのか食料なのかを判断できています。それでもその細胞1つ1つは分子のつながりによる活動を維持しています。この段階では、自分自身に気づくよりも種の保存が優先され、食料の摂取とか天敵に襲われた情報が遺伝子に刷り込まれて、適切な反応によって生き残ることが主な活動となります。経験の蓄積によって種の維持がなされる裏には、多くの同種の犠牲の積み重ねがあったはずです。経験のない個体は天敵の前に出て自己が食料になるし、厳しい環境で食料が識別できない個体は餓死することになります。しかし地球上では原子や分子のレベルで循環しているので、生命の大きな流れにおける食料連鎖の側面からは問題がありません。

そして長い期間の後に、人間になって自己を意識できるようになったわけです。幼少時でも鏡に写るものが、それは他ならぬ自分であると判断しているとすると、そこに判断できる識別機能がすでに備わっていて、まわりの雑多な情報との関わりのなかで自分が区別できていることになります。つまり、自己を認識することは、感覚器官から入ってくる様々なまわり情報を、自分との関わりとして捉えていることです。まわりの状況を感覚器官から受け取って、自分とのかかわりにおいて識別でき、成長していく間に自分の内部世界を独自に構築することになります。ミラーテストにおいて、目立つ印が自己の身体についていることが分かれば、その印に対する行動への動機が起こります。違いや変化を識別できるからそれに対する行動が起こります。この場合、視覚から得た情報の刺激が、外部の食物とか危険物ではなく、自己の身体部分として「即座にわかる」ことが重要に思えます。ここに生きることの継続について、精神の領域が徐々に高度になる段階が伺えます。環境を識別して生存に効率的に対応するだけでなく、自分自身の身体とわかって行動するということに意味があります。識別することが自分との対比を通して他との関連に広がっています。だからこそ自分自身が道具を使うという発想が芽生え、それが動機となってより効率的な行動ができるわけです。このことが、動物の進化で知的生物に近い段階で起こったことが示唆されます。言い換えると、生物は長い進化の歴史で、知的生物を意図したかのように、識別と選択の機能を内面的に複雑にしたことになります。すべての生物にあるはずの「生きる意識」は、統率する細胞集合体を知的生物に近づけるように、自身を自分として明確に自覚する方向に舵をとったことになります。

一般の生物は生命を維持する意識が優位にあるので、種の保存が優先され生存の継続に注力されています。それは知的生物であっても基本となることです。人間といえども思春期には異性に関心が生じて生殖への欲求が高まります。家族で集団をなす動物に起こる1つの例として、縄張り意識があり生き残りをかけて自分たちの領域を守ります。仲間と認めたものは受け入れても、それ以外は排斥します。人間においても同様であり、生き抜くため強い個体が望まれ、互いの闘争心が育まれます。過去においても争いはいつもあって、部族同士の争いから始まり、スポーツ競技や現代の受験戦争まで幅広く生活に影響を及ぼしています。個々の様々な競争に勝つものが残り、優位な遺伝子が選択されます。一方において、人間は自己を明確に自覚することで徐々に精神の領域を創造していて、他の存在を識別して自己との対比において、自己とまわりとの関係を考えるようになっています。個々に独自の世界を持ちながら集団と相互に影響して、自己の欲求と集団の規律や協調性とバランスさせて行動します。

大きな集団の中にあって他人との触れ合いが密になると、多様な価値観や様々な個性を理解するようになり、無益な競争を避けるようになります。精神の領域の発達は自己だけでなく他人を思いやることに広がり、感動や思いやりの記憶を共有するようになります。心の世界を豊かにする欲求が生じて、絵画や風景への感動とか音楽を鑑賞して感情を豊かにしています。現代では、家電や電子機器によって仕事の手が空いてきて、そこにできた時間の余裕から趣味や旅行などの余暇を楽しんで心の充実を求めようになりました。生命が人間となって、精神の領域が心の世界を充実する方向になってきたと言えます。多様な広がりの可能性のある精神の領域は、他人との触れ合いが深くなるとともに、そこに生じてくる関係の複雑さがわかって、自己の頭脳で描き出す世界を益々多様で豊富にしています。しかし、自分の世界に閉じ籠もり交わりを避けるようになってしまうと、現状維持という怠惰に流れてしまいます。自分だけに閉じた領域では、仙人とか聖人でもなければ、精神の領域を複雑する方向は難しいでしょう。

現状でわかることは、複雑になって多様な関係に気づいていくことが生命にとって必要なことなのでしょう。例えば、私たちは地球上にある微生物や樹木など、そこに生きるあらゆる多様な生物があることを知っています。私たちは生きるだけが大変だった時代を過ぎて、社会全体が豊かになって理解したことが多くあります。時間の余裕ができて、何か楽しいこと興味あることをしようという気持ちが起こってきています。そのまま、私たちは住む所を確保し家族を育てお金を増やすだけの生活をしていれば良いのでしょうか。個人の一生の間に経験を積み重ねた内容は、暮らしに埋没することから心の充実へと移ってきています。ただ生きるだけでなく「心の充実」を求める欲求が少しずつ大きくなっています。それは趣味や娯楽の方向とか、わからないことを調べる研究の方向とか、いろいろと幅広くなるでしょう。それにともない、私たちの感覚器官や脳の機能がもっと多様な情報の違いを識別できるようになるでしょう。そして、私たちの意識として気づくことを豊富に充実するものへと集中させていく欲求も生じるでしょう。

<まとめ>

生物として個体が生きることに固執し、生体活動を続けさせているものを「生きる意識」とすると、人間において自己の存在を考え精神という領域をなす意識は、1つの段階を越えた印象があります。人間以前の生命の進化は、自己の意識を自覚するまでの進化であり、次の段階は自己を自覚してからの進化であると考えてもおかしくないと思います。人間は自己の意識を明確にすることで、生物として新たな段階を迎えました。この宇宙における意識の流れは、物質が集合して識別と選択をしながら生命の方向へと進みます。生命へと中心化した意識は人間においてさらに発展して、行動の主体となる自己を自覚できるようになりました。この生命の流れが宇宙の構造に依存しているとすると、明確なる自覚への道は必然の方向にあって、その傾向の延長に人類が向かう先があることになります。

下位には物質どうしが絡まって中心化した細胞という過程があって、生物には環境に最適な形態となるように、個体を中心化しながら複雑な組織へと変化する方向がありました。その中心化した自己を明確に自覚した私たちは、自らの意識の深くにある方向を探ることができるはずです。そして、それは先にあるはずの識別すべき方向を見出せることでもあります。究極には全体を包み込む「すべてをわかっている意識」があるとすると、それは神と同義と言って良いでしょう。その全体の意識の末端にすべての物質がつながっていて、すべての物質にも小さな意識の欠片があるとすれば、何らかの共有する方向が存在するはずです。そして、それは精神の領域の方向を決めている可能性があります。人間は集団での絡み合いを複雑にしながら精神の領域を発展させているとすると、そこに作用している力あるいは宇宙に基本にあるはずの普遍的なものを探りたいとする欲求も深まるはずです。

 Written by Ichiro, 05/08/2019, 

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