Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

言葉の持つ役割と生命の進路

2020-03-28 08:52:48 | 脳と意識

言葉の持つ役割と生命の進路

私たちが考えているとき、頭の中に記憶された過去の楽しいこと辛いことを回想したり未来の行動を予測したりします。このとき脳内では自分の母国語の言葉を使って考えています。「われ思う故に我あり」という有名な言葉に象徴されるように、自分が今考えているという自覚は脳内の言葉によるものです。私たちが自分というものを自覚するとき、脳内において言葉の想起によってなされていると考えられます。しかし、言語にならない事象に出会ったときにはどうでしょうか。すでに脳内に記憶されている、それに近いものに置き換えるか、喜びとか怖れなどの感情として抽象化されるでしょう。そして、言葉で思考できない故に、体が自然に反応して身構えたり行動を避けたりするかもしれません。そのような自分が確実ではない状況において、記憶された因果関係の知識による言葉がない場合、直感的に何かを感じることがあります。この状況は、感覚器官からの情報の刺激に対して、言葉として知識や概念がないとき、脳の神経細胞レベルの信号が直接に「直感」として自覚に作用をしています。この直感は脳の神経細胞の信号レベルに関連したものと考えます。

感覚器官からの情報に対応して、脳の神経細胞において言語として記憶された知識との整合があり、個人の自覚へと反映される経過があります。私たちは気づいていないけれども、言葉での思考には下部に支える層があって、言葉として参照して自覚する前に神経細胞レベルの信号を言葉に解釈する必要があります。人間は言葉を獲得したことにより大脳での情報処理を複雑にしています。人間以前の生物の個体は、外界とのかかわりのなかで生きることを確実にしてきた進化の歴史があります。生命が膜で閉じた個体となって活性化を維持しながら神経系を構築しています。脳の発達によってより多くの情報を処理できるようになり、個体を外敵から守る機能を追加し、自己を自覚する方向にありました。そこから人間には言葉を操る喉などの器官が発現して、言語を編み出し意志の伝達や交流から思考するという経過があったはずです。言い換えると、生物の基本にあるもの、生きることを維持しようとする動機は、細胞の代謝や複製を行って単に生きることを維持して世代を重ねるだけでなく、それが徐々に個体としての機能を積み重ね、それが主体として自覚する方向に発展しています。言葉は生命の流れにあって、自己を明確に自覚する思考の道具として、それまでの段階を超えて生み出されたかのようです。

生命の発展を実現してきた生体の機能は、結果として知性を持つ人間を目指したことになります。その知性は大脳の発達を中心にしたものであり、そこに自己の自覚や言語の獲得があったことに大きな意味があります。言葉は徐々に発展して、単に対象についての感情や状況など意志を伝えるだけでなく、比較や選択などの試行錯誤から言葉とその意味を多様化して、単純な言葉を組み合わせて複雑な概念を構成します。しかも言葉が表す概念は個人の受け取り方に違いを生じ、それが個性になって集団のなかで差異が生じ多様化します。考え方の違いは言葉を脳のなかで記憶をどのように組み合わせて理解しているかと置き換えられるかもしれません。言葉の組み合わせが刺激となって充実した感情が起こってくると、この因果関係が新しい言葉の意味を持って次の行動に影響を及ぼします。私たちは咄嗟の行動以外は言葉で考えて行動します。

人間は誕生以来、耳から入る音声情報によって言葉を覚えていき、その後文字を覚えて読み書きへと発達します。言葉そのものは単なる音のつながりであり記号の組み合わせです。その音なり形なりに人間どうしで通じる意味を付加して、意志を伝達するする手段にしています。言葉で意志を通じるようになるには、私たちの幼児期に感覚器官と脳との相互作用において相当な経験・学習を必要とするものであり、家庭や学校での教育が必須になります。人間の幼児期においても、積極的に言葉を吸収していく動機があって、結果ほとんどの人間は言葉をしゃべれるようになります。言葉は幼児期から脳と耳や喉の器官との連携で徐々に学習されていて、思考や内省するときの手段として日常に使われています。ここで行われた言葉の学習とは神経細胞の組み合わせに、言葉と意味の対応を埋め込むことであると解釈できます。脳や身体を鍛える学習や教育ということは、まず覚えることそして記憶した内容をより効果的あるいは効率的にしていく方法を構築していることになります。

言葉は神経細胞の信号で支えられている

言葉で表されるものが単なる音や記号の並びであっても、その並びが脳に刺激となって、それに対応する意味が脳の中で連想されます。この音や記号とその意味との連携はすでに学習され記憶されたものを脳のなかで呼び起しています。これらの記憶した言葉の連携が集まって思考するための材料になっています。思考は言葉の連携によって構築されるので、人間の思考は言葉と意味との連携を学習して得た範囲に制限されます。元々人間の脳は、言葉としての音とその意味が多様化して複雑になるに従い、神経細胞の信号のつながりを効率化するように対応したでしょう。人間の脳は音と意味を連携する機能を確立して、徐々に言葉として音と意味の関係を多く広げて言語を得たことになります。そこから試行錯誤を経て言葉を記号に置き換えています。この経緯から、言葉で考えているということは、音や記号を用いて考えていても、それを意味に変換するために神経細胞の信号とのやり取りが必要です。言葉としての音や記号には、その下部に神経細胞に記憶された信号の組み合わせがあって、私たちはそのまとまった作用を思考として自覚していることになります。

人は言葉を使って考えますが、考えているとき脳の神経細胞レベルのやり取りまでわかりません。それでも1つの言葉に象徴される意味や言葉の組み合わせから生じた概念は、脳内の細胞での信号レベルの絡み合いにまで落とされて記憶されているはずです。言い換えると、思考しているとき主体的な自覚に基づいて、頭の中で言葉のやりとりをしていても、その土台にあるものは神経細胞の絡み合いのなかで飛び交う無数の信号として記憶されています。私たちは脳細胞の信号レベルのことは自覚できないけれども、それによって組み立てられた言葉によって自己を自覚して考えていることになります。日常的な言葉のやり取りは言葉を支える下部組織としての神経細胞レベルの信号の上にあることになります。とすると、下部組織にある信号レベルでは刺激として受け入れて反応しようとしても、対応する言葉が脳に記憶されていない場合、認識できないことになります。あるいは、脳に記憶された言葉の意味による制限によって、細胞レベルの多様性が切り捨てられる可能性もあります。実際に、自分で認めたくない感情は抑えることができるし、気づきたくない状況には気づかないで済ますことができます。言葉による思考と神経細胞レベルの信号はどのような関係になっているのでしょうか。神経レベルの機能の可能性は計り知ることができません。言い換えれば、知ることのできない機能において発展する可能性があります。将来において生命の方向性として実現されていくものがあるはずです。

言葉は地域や民族によって多様化し時間の経過によって変化しながらも、互いの意志を伝えてきた道具です。私たちの生活になくてはならない機能ですが、言葉を使うには耳や喉の器官と脳の記憶が連携している状況が必要です。私たちが言葉を使っているのは、神経細胞における信号レベルの記憶を言葉に置き換えて構成し直していることです。たとえ言語として言葉を表象する発音や文字が違っても、下部組織にある神経回路の組み合わせにおいては、内容はほぼ同じです。だからこそ私たちは言語が違っても翻訳して内容を解釈できることになります。つまり基本にあるのは神経細胞レベルの信号の組み合わせです。つまり声や文字を道具にして、何らかの意味を相手に伝えられるということです。人間は数十万年前に言葉を獲得して、神経細胞で飛び交う信号の上に言葉によって理解する構造を成し遂げました。人間は言葉を発明して思考を獲得し、自己を自覚したことにおいて生命として一歩前進しています。しかし、その根底には生物が進化を通じて積み重ねてきたものがあるはずです。それは私たちの神経細胞の連携に記憶されています。ここで、一瞬の閃きという現象をヒントにすると、大脳にある奥深い機能を垣間見ることができるのではないでしょうか。

人間を超える発展

私たちは状況が一瞬にしてわかったと自覚することがあります。あるいは天才のなした仕事で、全体の作品が一瞬で閃いて、それを文字や音符や絵筆で表したと言われます。多くの情報を抽象化してまとまった全体像を直感的に俯瞰できても、それを伝えるには相応する技術の習得を必要です。言い換えると、信号レベルでは一瞬で閃いていますが、言葉や音符などの手段で変換できなければ伝えられないということです。言葉にならない全体イメージのような信号レベルの記憶における理解のことを、「直感としてわかる」ということになります。そこに主体となる個人があって、その神経細胞による全体の状況を俯瞰する作用があり、結果としてそれを自覚しています。私たちが考えているとき、神経細胞の絡み合っている信号を単に言葉に変換させているだけではありません。そこには全体をまとめる主体として作用するものがあって、その主体が言葉を使って考え個人の行動を起こしそれを認識しています。自己を自覚する意識は大脳内で言葉の理解によってなされたとしても、そこに主体として行動を統括しているものがあります。

天才の仕事や直感での理解などのことを考えると、脳の中で言語などに変換して考えている時間よりも、神経細胞の信号が連携するレベルのほうが格段に速いと考えられることから、信号レベルで全体のイメージを俯瞰する状況があることは予想できます。私たちの内で主体となるものが、神経細胞の信号レベルで起こったことを、言語に変換する前に受けとめています。私たちが自分自身として自覚している意識があって、その自分自身の主体だけがすべてと考えてしまうけれども、実際はその下部組織に全体を俯瞰する作用があって、それに私たちは気づいていないのかもしれません。逆に、神経細胞という下部組織にあって絡み合っている信号は、もしかしたら先にあるものを見ているのかもしれません。そこには生命の流れの方向性があって、私たちの神経細胞はその方向に沿って生命の未来への準備を着々としている可能性があります。

Written by Ichiro, 03/27/2020, 

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言葉と思考の先にある意識の発展

2020-03-02 04:38:04 | 脳と意識

脳と意識

言葉と思考の先にある意識の発展

私たちが日常の暮らしのなかで自分の身体を思うとき、意識するものと意識できないものがあります。手足などや目や耳を向けたりする筋肉の動きは意識しますが、その動きで起こっている体内のタンパク質の代謝は意識できません。そこに自律しているものと意識するものが混在しています。つまり、私たちの身体が生きている状態を自律的に維持していることについては意識しません。ここで、私たちが考えている時には、自分の言葉において考えているという意識の自覚を持つことができます。しかし、人間の大脳には多くの神経細胞があって、そこで起こっている信号レベルで直接的に自己を自覚しているわけではありません。根底にあるはずの神経の信号レベルで自己を意識しているのではなく、自分を自覚しているのは脳内での言葉の組み合わせによる自覚です。人間に思考が発達したのは、言葉の役割が大きく影響しています。言葉がなくても食料を探したり危険を避けたりできますが、集団のなかで生活の効率を高めるために言葉による会話が重要な働きをしたのは事実でしょう。人類の初期において、人間が会話をできるように神経系のつながりや喉とか感覚器官などの機能がすでに発達していたのは不可思議なことです。その機能があって、集団のなかで狩猟や農耕の暮らしを効率化において言葉を増やしていき、言葉の組み合わせが思考になっています。そして、言葉は単に仲間と伝達しあうだけでなく、脳のなかで内省する手段となっています。

私たちが頭の中で言葉をつないで思考するとき、脳内に起こった音声や文字のつながりは、神経細胞の信号として記憶されたものです。脳の中には記憶された多くの情報があって、私たちは情報を語句の並びに関連させています。しかし、それらの情報は脳内の神経細胞どうしの連携において電気的信号あるいは化学伝達物質の絡み合いに蓄積したものです。私たちは脳内で神経の信号の絡みを瞬時に言葉に変換しながら思考しています。そして、その変換そのものを意識することがありません。おそらく言語は違っても、脳の基本にある記憶や変換のシステムは人間に共通のものでしょう。なぜなら、言葉とは脳にとって後天的に学習するものだからです。人間の脳は後天的な情報を扱える柔軟性があって、幼少時にはどんな言語であっても脳のなかで組み合わせが起こり、思考できるようになります。神経系や脳の構造が人間の形態までに進化する間に、その柔軟性を獲得しています。そして、この形態は遺伝子によって後世まで継続し、なお発展していきます。

しかし、神経細胞を相互につなげる信号そのものが思考ではありません。例えば「木になっている実はリンゴだろうか?」と考えるとき、リンゴとして想起される形や色などは、神経信号での絡み合いにあるイメージ記憶です。それに、私たちは学習して得た文字や音による言葉を当てはめます。そして神経信号に記憶されているイメージに、関連していると意識した情報が積み重なり、言葉どうしの連携に新たな意味が生じて記憶に追加されます。しかし、私たちはこの学習過程を常に意識しているのではなく、現時点の最終結果における言葉の連携を意識します。それらの言葉の組み合わせが連携して、「それが合っているかどうか」という思考にまで発展しています。この思考への発展において、人間の初期から大脳や感覚器官、神経細胞の記憶の仕組みがあり、言葉に意味を持たせその連携から思考へ至る流れは用意されています。つまり、大脳を必要とした思考に至る方向性があるからこそ、身体の構造や神経系・脳そして感覚器官の進化が目指されています。まるで未来に思考するまでの行程が予期されていて大脳が形成されたかのようです。

そして、思考している主体は生理学的検証から大脳にあると言われています。思考の対象となる記憶や特定の語句の反応から、思考時に反応する神経細胞の領域が特定され、意識している実態は、大脳の前頭葉付近にあると推定されています。しかし、それだけではないでしょう。神経の信号の絡み合いの中に流れを生じさせているものがあって、それが方向を制御しているという考え方もあります。例えば、コンピュータを外から見るとCPUが忙しく活動しているけれども、実際には読み出し専用メモリにプログラムされているソフトウェアに沿って働かされているという状況も考えられます。私は自己を自覚して思考する主体は、人間全体の細胞と共鳴する「生きるという意識」が基本にあると考えています。

つまり、生きることを維持することを命令するソフトウェアはどこにあるのか、という問題になります。自己を複製することや代謝の仕組み、複雑への進化がプログラムされているとすると、それは遺伝子情報でしょうか。生物を構成する1つ1つの細胞の核に遺伝子というものがあって、形状や機能などの情報が組み込まれています。遺伝子は細胞の核のなかにあって、細胞が分裂する際に受け継がれ、1つの生物では、すべての細胞に共通の情報が含まれます。もとは生殖細胞から受け継がれた、受精した卵として1つの細胞だったものが、分裂して増えて成体となったので、個体すべての細胞は同じ遺伝子を共有します。それはタンパク質の合成に関与してはいますが、ある特定の細胞核の遺伝子情報が、全体のつながりを制御しているとも思えません。

それでは、動物に神経や脳が発生して複雑になってきた流れにあるソフトウェアに相当するものはどうなっているのでしょうか。これは生物を1つにまとめている「生きる意識」があって、そこに方向性があると考えます。この方向があるということが、複雑への進化となり、遺伝子にある自己を複製するという機能のなかに複雑に向かう動きを実現させていると推測します。世代を超えて生きることを効率的に維持し、組織を複雑にした方向は、大脳の発達に向かっています。人間に新たに発現したのが言語機能であり、これによって言語を介在して自己を自覚できる状況になっています。大脳には大きな部分を占める言語野があって、言葉を介在することで人間が自分という個体を意識して行動に多様性を持たせることができるようになっています。この傾向はさらに発展するはずです。

大脳において言葉が介在して思考するということから、言語における置き換えというシステムはどうなっているのでしょうか。もともと、言葉は音のつながりや文字の形になっていて、その内容を抽象しています。「りんご」という言葉は3つのひらがなの集まりであって、私たちが食べている果物そのものではありません。言葉は対象そのものではなく対象を言い表す記号です。私たちの脳は、「りんご」という音のつながりと実際の対象となる果物の両方を結び付けています。まず「リンゴ」という言葉を聞いた時、音のつながりを判断する機能があって、それが実際の形状や色などの記憶を連想によって呼び出します。形状と味覚などの連携は異なった神経細胞の絡み合いに記憶されています。今は言語が多様に発散しているので、「りんご」はその言語によって全く異なる音声や文字に置き換わります。もし、神経細胞のイメージを外部から参照できれば、言葉が違っても脳内で連想するイメージは対象と同じものになるでしょう。私たちは「りんご」という言葉によって、対象を思い起こしますが、実際は神経細胞の電気・化学的信号の記憶が言葉に置き換えられています。同様に感覚器官で受容した情報は言語とは異なり、神経経路を通る信号として入ったものが、脳で記憶され、思い起こすときに言語に変換されます。私たちは神経細胞そのものの信号ではなく、抽象化された音声や文字として脳内で言葉に変換して、そのつながりによって思考します。大脳はこの変換作業に忙しいので、それなりの大きさの領域が必要と考えられます。

もともと動物は外部環境から必要な情報を得て、直接的に行動します。人間の場合は、言葉で置き換え思考することができ、飛躍的に効率化して行動できます。それでも感覚器官からの情報に対して、意識せずに身体が自動的に対応することもあります。私たちが寒いとか暑いと感じたとき、それは皮膚感覚から入った情報が脳で解釈されて言葉に翻訳されたものです。それと並行して、私たちの体は寒さや暑さに対して血流や汗腺など自動に対応します。しかし私たちは、寒いとか暑いとかいう言葉が浮かんで意識します。人間は自己を自覚した故に、自分という意識において、感覚器官から受け取った情報を考えます。自己を自覚する意識において、それぞれの経験からの補正や追加があります。それゆえに、人間という閉じた生命体は、そこに1つの個性や人格を持ちます。しかし、その1つの個性は、電気信号や伝達物質の特性を知ることがなく、自動的に情報を識別し選択して記憶として保存します。そこから必要なものは長期記憶として残るものもあれば忘れてしまうものもあります。

しかし単に記憶というのではなく、頭の中で全体のイメージとして想起されるものがあります。音楽や美術の作品あるいは小説の流れ、理論の閃きなどにある現象は、単に経験が積み重なったものとは違います。音楽や美術などの作品は、あらかじめ概ね完成形が頭の中に浮かんで、音符やキャンパスに表現したものと言われます。完成形の情報量が多いにもかかわらず、それは一瞬で閃くと言われます。そこに全体を俯瞰するものがあって、先に結果の全体が見えているということです。天才だけでなく一般人でも、人間は自分という主体とする行動するだけでなく、自分も含めて全体を俯瞰する能力があって、環境のなかで自分を見ることができます。そこに全体として見る能力があります。ここでいうのは、言葉によって思考を積み上げるのではなく、全体として直感的に見ることができる機能があるということです。多くの情報を抽象化して全体像を俯瞰できるということは、大脳の機能の先にある未来を示唆しているのではないでしょうか。

Written by Ichiro, 02/28/2020, 

 

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