言葉の持つ役割と生命の進路
私たちが考えているとき、頭の中に記憶された過去の楽しいこと辛いことを回想したり未来の行動を予測したりします。このとき脳内では自分の母国語の言葉を使って考えています。「われ思う故に我あり」という有名な言葉に象徴されるように、自分が今考えているという自覚は脳内の言葉によるものです。私たちが自分というものを自覚するとき、脳内において言葉の想起によってなされていると考えられます。しかし、言語にならない事象に出会ったときにはどうでしょうか。すでに脳内に記憶されている、それに近いものに置き換えるか、喜びとか怖れなどの感情として抽象化されるでしょう。そして、言葉で思考できない故に、体が自然に反応して身構えたり行動を避けたりするかもしれません。そのような自分が確実ではない状況において、記憶された因果関係の知識による言葉がない場合、直感的に何かを感じることがあります。この状況は、感覚器官からの情報の刺激に対して、言葉として知識や概念がないとき、脳の神経細胞レベルの信号が直接に「直感」として自覚に作用をしています。この直感は脳の神経細胞の信号レベルに関連したものと考えます。
感覚器官からの情報に対応して、脳の神経細胞において言語として記憶された知識との整合があり、個人の自覚へと反映される経過があります。私たちは気づいていないけれども、言葉での思考には下部に支える層があって、言葉として参照して自覚する前に神経細胞レベルの信号を言葉に解釈する必要があります。人間は言葉を獲得したことにより大脳での情報処理を複雑にしています。人間以前の生物の個体は、外界とのかかわりのなかで生きることを確実にしてきた進化の歴史があります。生命が膜で閉じた個体となって活性化を維持しながら神経系を構築しています。脳の発達によってより多くの情報を処理できるようになり、個体を外敵から守る機能を追加し、自己を自覚する方向にありました。そこから人間には言葉を操る喉などの器官が発現して、言語を編み出し意志の伝達や交流から思考するという経過があったはずです。言い換えると、生物の基本にあるもの、生きることを維持しようとする動機は、細胞の代謝や複製を行って単に生きることを維持して世代を重ねるだけでなく、それが徐々に個体としての機能を積み重ね、それが主体として自覚する方向に発展しています。言葉は生命の流れにあって、自己を明確に自覚する思考の道具として、それまでの段階を超えて生み出されたかのようです。
生命の発展を実現してきた生体の機能は、結果として知性を持つ人間を目指したことになります。その知性は大脳の発達を中心にしたものであり、そこに自己の自覚や言語の獲得があったことに大きな意味があります。言葉は徐々に発展して、単に対象についての感情や状況など意志を伝えるだけでなく、比較や選択などの試行錯誤から言葉とその意味を多様化して、単純な言葉を組み合わせて複雑な概念を構成します。しかも言葉が表す概念は個人の受け取り方に違いを生じ、それが個性になって集団のなかで差異が生じ多様化します。考え方の違いは言葉を脳のなかで記憶をどのように組み合わせて理解しているかと置き換えられるかもしれません。言葉の組み合わせが刺激となって充実した感情が起こってくると、この因果関係が新しい言葉の意味を持って次の行動に影響を及ぼします。私たちは咄嗟の行動以外は言葉で考えて行動します。
人間は誕生以来、耳から入る音声情報によって言葉を覚えていき、その後文字を覚えて読み書きへと発達します。言葉そのものは単なる音のつながりであり記号の組み合わせです。その音なり形なりに人間どうしで通じる意味を付加して、意志を伝達するする手段にしています。言葉で意志を通じるようになるには、私たちの幼児期に感覚器官と脳との相互作用において相当な経験・学習を必要とするものであり、家庭や学校での教育が必須になります。人間の幼児期においても、積極的に言葉を吸収していく動機があって、結果ほとんどの人間は言葉をしゃべれるようになります。言葉は幼児期から脳と耳や喉の器官との連携で徐々に学習されていて、思考や内省するときの手段として日常に使われています。ここで行われた言葉の学習とは神経細胞の組み合わせに、言葉と意味の対応を埋め込むことであると解釈できます。脳や身体を鍛える学習や教育ということは、まず覚えることそして記憶した内容をより効果的あるいは効率的にしていく方法を構築していることになります。
言葉は神経細胞の信号で支えられている
言葉で表されるものが単なる音や記号の並びであっても、その並びが脳に刺激となって、それに対応する意味が脳の中で連想されます。この音や記号とその意味との連携はすでに学習され記憶されたものを脳のなかで呼び起しています。これらの記憶した言葉の連携が集まって思考するための材料になっています。思考は言葉の連携によって構築されるので、人間の思考は言葉と意味との連携を学習して得た範囲に制限されます。元々人間の脳は、言葉としての音とその意味が多様化して複雑になるに従い、神経細胞の信号のつながりを効率化するように対応したでしょう。人間の脳は音と意味を連携する機能を確立して、徐々に言葉として音と意味の関係を多く広げて言語を得たことになります。そこから試行錯誤を経て言葉を記号に置き換えています。この経緯から、言葉で考えているということは、音や記号を用いて考えていても、それを意味に変換するために神経細胞の信号とのやり取りが必要です。言葉としての音や記号には、その下部に神経細胞に記憶された信号の組み合わせがあって、私たちはそのまとまった作用を思考として自覚していることになります。
人は言葉を使って考えますが、考えているとき脳の神経細胞レベルのやり取りまでわかりません。それでも1つの言葉に象徴される意味や言葉の組み合わせから生じた概念は、脳内の細胞での信号レベルの絡み合いにまで落とされて記憶されているはずです。言い換えると、思考しているとき主体的な自覚に基づいて、頭の中で言葉のやりとりをしていても、その土台にあるものは神経細胞の絡み合いのなかで飛び交う無数の信号として記憶されています。私たちは脳細胞の信号レベルのことは自覚できないけれども、それによって組み立てられた言葉によって自己を自覚して考えていることになります。日常的な言葉のやり取りは言葉を支える下部組織としての神経細胞レベルの信号の上にあることになります。とすると、下部組織にある信号レベルでは刺激として受け入れて反応しようとしても、対応する言葉が脳に記憶されていない場合、認識できないことになります。あるいは、脳に記憶された言葉の意味による制限によって、細胞レベルの多様性が切り捨てられる可能性もあります。実際に、自分で認めたくない感情は抑えることができるし、気づきたくない状況には気づかないで済ますことができます。言葉による思考と神経細胞レベルの信号はどのような関係になっているのでしょうか。神経レベルの機能の可能性は計り知ることができません。言い換えれば、知ることのできない機能において発展する可能性があります。将来において生命の方向性として実現されていくものがあるはずです。
言葉は地域や民族によって多様化し時間の経過によって変化しながらも、互いの意志を伝えてきた道具です。私たちの生活になくてはならない機能ですが、言葉を使うには耳や喉の器官と脳の記憶が連携している状況が必要です。私たちが言葉を使っているのは、神経細胞における信号レベルの記憶を言葉に置き換えて構成し直していることです。たとえ言語として言葉を表象する発音や文字が違っても、下部組織にある神経回路の組み合わせにおいては、内容はほぼ同じです。だからこそ私たちは言語が違っても翻訳して内容を解釈できることになります。つまり基本にあるのは神経細胞レベルの信号の組み合わせです。つまり声や文字を道具にして、何らかの意味を相手に伝えられるということです。人間は数十万年前に言葉を獲得して、神経細胞で飛び交う信号の上に言葉によって理解する構造を成し遂げました。人間は言葉を発明して思考を獲得し、自己を自覚したことにおいて生命として一歩前進しています。しかし、その根底には生物が進化を通じて積み重ねてきたものがあるはずです。それは私たちの神経細胞の連携に記憶されています。ここで、一瞬の閃きという現象をヒントにすると、大脳にある奥深い機能を垣間見ることができるのではないでしょうか。
人間を超える発展
私たちは状況が一瞬にしてわかったと自覚することがあります。あるいは天才のなした仕事で、全体の作品が一瞬で閃いて、それを文字や音符や絵筆で表したと言われます。多くの情報を抽象化してまとまった全体像を直感的に俯瞰できても、それを伝えるには相応する技術の習得を必要です。言い換えると、信号レベルでは一瞬で閃いていますが、言葉や音符などの手段で変換できなければ伝えられないということです。言葉にならない全体イメージのような信号レベルの記憶における理解のことを、「直感としてわかる」ということになります。そこに主体となる個人があって、その神経細胞による全体の状況を俯瞰する作用があり、結果としてそれを自覚しています。私たちが考えているとき、神経細胞の絡み合っている信号を単に言葉に変換させているだけではありません。そこには全体をまとめる主体として作用するものがあって、その主体が言葉を使って考え個人の行動を起こしそれを認識しています。自己を自覚する意識は大脳内で言葉の理解によってなされたとしても、そこに主体として行動を統括しているものがあります。
天才の仕事や直感での理解などのことを考えると、脳の中で言語などに変換して考えている時間よりも、神経細胞の信号が連携するレベルのほうが格段に速いと考えられることから、信号レベルで全体のイメージを俯瞰する状況があることは予想できます。私たちの内で主体となるものが、神経細胞の信号レベルで起こったことを、言語に変換する前に受けとめています。私たちが自分自身として自覚している意識があって、その自分自身の主体だけがすべてと考えてしまうけれども、実際はその下部組織に全体を俯瞰する作用があって、それに私たちは気づいていないのかもしれません。逆に、神経細胞という下部組織にあって絡み合っている信号は、もしかしたら先にあるものを見ているのかもしれません。そこには生命の流れの方向性があって、私たちの神経細胞はその方向に沿って生命の未来への準備を着々としている可能性があります。
Written by Ichiro, 03/27/2020,