Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

生命活性に隠された未来への方向

2020-07-11 06:57:33 | 未来への意識

未来への意識

生命活性に隠された未来への方向

地球という宇宙でありふれた惑星において、生命は無機質の元素からなる大地を、多彩で豊富な環境に変えています。多様な形態に分かれた生物は個々に環境に適応し、個体内の代謝と増殖を自律的に行い、世代交代しながら組織や機能を複雑にしました。生物は段階を追って多様で複雑な形態へと進む道のりを歩んでいます。動物から人間に至る経過で、以前の種の組織を土台に機能を追加しながら、主流となる流れは新たな種を生み出し、より複雑な組織を構成しました。それが現時点で人間の形態となっています。そして人間は自己の意識を明確に自覚して主体としての自分を認識でき、まわりの人たちと集団をなしています。単細胞であった生命体が自律的に活性化して、それが人間という知性をもつ生物になっています。人間が持つ知的な機能は偶然あるいは突然に現れたのではありません。知的な行動には大脳という器官の発達が必要であり、それを支える複雑な身体機能は必須です。生命が活性化を維持しながら、徐々に身体機能や神経系の組織を複雑にした結果において大脳を形成しています。そこには明らかに知性への方向を与えるものがあったはずです。

進化の道のりを考えると、生命は初期の段階からタンパク質を中心とした生命組織を積み上げ、その主流の方向に知性を持つ生命体への道筋はあったことになります。生物進化の主流は、傍系において進化の止まった生物でなければ、常に自己が複雑になる方向を選択しています。生命の活性化を維持しながら、未来の状況へ変化する方向を潜在的に意識しているように見えます。個々には偶然の事象の積み重ねであっても、潜在的に進む方向があって、主流の方向では個体は複雑になる方向に選択して知性を発現しています。そうならば、将来へ発展する道筋にあるべき方向も現在のどこかに隠れているはずです。生命を維持する身体組織が結果として知性を目指していたならば、偶然に知性が生じる訳はないので、そこに方向を与えたものを考えます。それは生命を誕生させた宇宙に潜在する方向性であり、またすべての物質にも内包されているはずのものです。そして物質の結びつきによって新たな固有の性質を生じさせているものです。そしてこの潜在する方向性は人間に至って、身体的な生命の維持からの欲求を離れて、精神的な欲求が動機になる領域を開拓する方向になってきています。

もともと生命の活性化は、何らの不足が生じた刺激に対する反応が循環して活性化を維持しています。不足への反応は欲求となり環境への適応がなされます。人間以前の生命進化は大脳形成の土台となる身体組織の機能に集中しました。しかし、人間となって自己を明確に自覚したことから、個々の内部に精神の領域が現れました。考えたり想像したりすることは、身体の制限を超えて様々な可能性を秘めています。少なくとも、私たちは日々の暮らしで知りたいと思うことがあり、不明なことはわかりたいという欲求が起こります。あるいは余暇に趣味とか娯楽などを嗜む気持ちが起こります。精神の領域には自由度や柔軟性があって、様々な欲求から行動の動機が起こり、身体的な制限との兼ね合いによって行動します。生物の基本にある身体的欲求が。精神領域が現れたことで、人間は多様化して欲求が絡みあい活性化しています。いままでの生物の発展の流れの成果の上に人間があって、さらに複雑へと発展するならば、将来どのようになっていくのでしょうか。生命が自律して活性化している形態が知性を持つに至った現在、未来への方向に示唆する要因となるものを考察することは必要でしょう。

 

1.欲求との葛藤は徐々に複雑になっていく

人に起こる欲求を大まかに考えると、生活をする上で身の回りの欲求を充足する段階がありました。それから生活を便利にする道具が発明されて、視野が広がり人と人との交流が盛んになって仲間の範囲が拡大しています。その間で欲求の形も様々に複雑になり対象となるものも増えています。生活に余裕がでてくると、余暇の時間を充実させようという欲求を持ちます。このような精神的に起こる欲求は、生命を支える身体的な欲求とは性質や強さが違います。興味を持って行動を始めても、身体が欲する欲求とは違って、行き詰れば疲れが生じて面倒になり、それを押して行動する気持ちが起きなくなります。生命の維持という身体的な欲求とは違って、興味から起こる欲求はそれほど切実ではありません。欲求によって行動への動機が起こっても、するかしないかは本人の裁量にまかされます。

欲求の対象が食料など物の形をしているならば、それを獲得することが動機となって行動するのでわかりやすいのですが、目的が知的興味の充足となり知識や技術を深める場合などは、充実に至る意識の程度は個々に多様な状況になります。将来にやりたいことを着実に実現するために、努力を惜しまず行動する人がいる一方で、敢えて困難に立ち向かうより、中途の段階で安易に過ごすことを選択する人もいます。精神的には夢を追い想像する自由があっても、実際の行動の可能性は身体の制限に阻まれます。日常生活に身体の疲れがあると、身体的欲求が強まり、精神的な欲求は抑えられて怠惰に流れます。自己の精神にある面白い、楽しい、充実することをしたいという欲求から行動を起こしても、結果がうまくいかない、動いて疲れた、悩んで眠れないなど、身体的欲求との葛藤が生じて行動への動機がプラスとマイナスの間を行き来します。そこに生じた様々な葛藤から先に進む選択肢がいくつも現れます。

そこに、自己の欲求と集団にある規制との間に葛藤が起こります。自己の欲求を満足させようとする作用が強く表面に出てくると、自分を守り既存の権利を守ることに固執します。それが他人への迷惑や不利益となれば、その上に自己の利益を重ねることに抵抗を生じます。個人的欲求の多様化により集団に及ぼす影響も様々になると、そこで自己主張に強く固執すれば仲間外れにつながります。個人と集団が絡み合うなかでの意識の上昇は様々な欲求から生じる葛藤の動きにあって、そこに偶然あるいは無意識の選択があります。集団において利己主義に抗う人間の精神はその潜在にある意識の方向に基づいて複雑になっていきます。私たちの意識の時間を先に進めるには、いかに上昇への方向を選び取るのかということになります。

 

2.人間の知性に隠されたもの

知性をもった行動とは、目的や手段その過程の効率や成果を考えた行動です。更なる欲求が重なれば強い動機となり、過ぎた欲望とわかれば葛藤や抑制が生じて徐々に弱くなって消えてしまいます。しかし、精神の欲求が多様化して人間どうしの欲求の絡み合が活性化するとき、潜在的な意識にある方向性によって軌道修正される可能性があると考えます。身体としての構造からは、感覚器官から受け取った情報を脳が記憶にとどめ、環境の状況を経験として認識しています。しかし自分が思い出すことのできる記憶だけでなく、突然に頭の中で全体のイメージとして想起されるものがあります。例えば、音楽や美術の作品あるいは小説の流れ、理論の発見などにある現象は、単に経験が積み重なったものとは違って、閃きに似て一瞬で完成形態を示すものです。完成形の情報量が多いにもかかわらず、それは一瞬で閃くと言われます。まず全体を把握して先の結果が見えているということです。人間には隠された機能があり、それが表出することがあると考えます。基本にある生きるメカニズムとその上に構築された脳内の連携から考えると、大脳を形成するまでに構築した組織には、ある程度柔軟で自由度をもった方向の流れがあり、意識下に隠されたものが何らかの機会に触発されて自覚されるように感じます。

通常の人間でも日常の生活の繰り返しのなかで、その置かれた環境で自分の位置を見渡すことができます。自分も含めて全体から見るという能力があります。ここでいうのは、言葉によって概念的に全体を考えるのではなく、直感的に全体の動きが見えて軌道修正する機能のことです。先を見る能力は現在を考える能力によって潜在の中に隠されています。多くの情報を抽象化している大脳皮質に対して、直感的に全体像を俯瞰する部位は別にあって、脳の機能の先にある未来を示唆している可能性があります。

直感的に全体を俯瞰する感覚は過去と未来をも行き来します。自分の現在位置を概念的にとらえるのではなく、明確な理由を伴うことなく、ちょっとこれは違うぞと躊躇することです。自分の自覚が主体となっていても、その下層に潜在する何かがあって、その上に主体としての意識が形成されているという構造が予想できます。頭でよく考え込んで作り上げた目的やその動機による行動でも、直感によって動きを修正されていく状況があります。私たちは動きのある集団のなかにあって、その目的や方向に信頼や安心を持てるのかと考えることができ、個々の潜在にあるものとの関連において感受性を磨いています。

 

3.人間集団も活性化して複雑になる

生命の維持という基本原則を超えて精神の領域に達した人間は、様々な便利な道具を発明し、集団の組織を多様化しました。個人の範囲だけでなく集団においても精神の領域を複雑にしています。そして、主体を持つ個体が集合した絡み合いが、全体としての集合の個性を持つことになります。世の中の仕組みが複雑になればなるほど、そこに多様な精神的欲求が起こります。人は個人の才能や境遇の違いに差があり、集団におかれた環境での経験や学習による差があります。それらの差異は個々に精神的な不足感を生みだし、新たな集団の欲求に形を変えます。人間が集合して活性化すると、日常で繰り返される活動に埋もれていても、集団での軋轢や葛藤から新しい動きを生じるプロセスが始まります。そこで精神の領域に起きた変化は全体に波及します。個人の位置ということから考えると、それが有利でも不利でも優劣の中にあっても、全体の流れに影響するものがあります。特定個人の技能による結果が有利に向かえば、それは個体間を超えて集団として発展することになります。もし集団における進化があるとすれば、特異な1つの個性から始まった変化が、既存の常識のなかでゆっくりと一般常識へと広がるものでしょう。生命の流れが継続するのであれば、密かに未来の人類への選択が続いていきます。現状の私たちの頭脳では未来に発展する仕組みやその可能性について知る能力を持ちえません。それでも集団の中での人々の選択は、より複雑になる方に向かい、それにともない対処も多様になり、気が付かないうちに決められた方向に流れていきます。

私たちの脳は、定型的なパターンにだけ対応しているのではなく、突然に起きた偶然の出来事への対処もしています。集団に属する人間が多くなり交流が活発になれば、その葛藤の組み合わせの数はかなり多く多様に広がる可能性があります。そのすべてをパターン化することは不可能でしょう。現在の人類の大脳にある多くの神経細胞はまだすべてが活性化していないという説があります。そうであれば、今後に精神の活動がより複雑になることに対する準備とも考えられます。身体の機能は進化はなくとも、脳の機能については精神の領域の発達とともに将来に備えて対応する仕組みが構築されるでしょう。私たち人間の未来には、精神の領域に働く機能がもっと発展する余地があります。そして多様な人間が集合することで活性化して、その連携が複雑になるに伴い、人間という種族の全体は、より複雑になる方向に発展しながら未来に進みます。

 

まとめ

すべての生物は、生きている時間の経過において活性化を維持することを余儀なくされています。この強制する力は物質の組み合わせから生じています。別の言い方をすれば、宇宙に生命が生じたのは、物質の活性化の1つの発展であるということです。生きているということは、個々の生命が活性している各主体において、時間が進んでいる経過を常に共有していることです。この経過による変化を生じる仕組みに生命の本質が隠れています。特定の性質をもったミクロ分子の物質が多く集まって、信じられないほど柔軟で複雑な組織をなしているならば、この生物という活性化している塊は、何か途轍もないものであり、科学の理屈で理解する範囲を超えています。私たちが人間としての客観的な見方で、見たり触ったり感じたりする機能だけでは捉えられないでしょう。

私たち人間にとっての客観的な分析では、なぜ起こったのかという追求ができずに、その因果関係だけを応用しています。しかし、客観的な観測結果を法則化することに焦点をあて、型に当てはめているだけでは、おそらく未来への方向は判断できないでしょう。そこに隠れているものがあっても見逃してしまうからです。知覚器官の受容の限界によって気づけない部分があれば、それは無視されるか間違って捉えられます。現時点では生命の本当の仕組みを解明する道はかなり遠いということになります。それでも、人間は言語や思考で築いた知性の上に精神による世界を構築していて、様々なことに興味を広げています。知らないことを分かりたいという欲求が精神への刺激となり、知識の探求行動が深まることで、人間社会での個々の意識を上昇させるでしょう。そこに私たちは期待することになります。

Written by Ichiro, 07/10/2020, 

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