Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

身体と精神の不均衡と心の領域

2023-10-23 06:06:57 | 身体と精神

身体と精神の不均衡と心の領域

私たちは疲れている時でも、やらなければならないと思って頑張っているといつの間にか疲労を忘れてしまうことがあります。そのとき感じた疲労はどうなってしまったのでしょうか。疲労を生じた原因が解消されてしまったのか、あるいはその疲労の原因は残っていても感じなくなった状態なのでしょうか。身体に起こった疲れとか痛みなど自分で意識して感じた感覚とは何なのでしょうか。私たちの全身には神経が張り巡らされていて、身体の苦痛や疲労を脳で受容する仕組みがあります。そういった神経系などの働きは、自分の気持ちによって制御できるものではありません。それに対し、疲労や痛みなどの身体の変化を意識しても行動を続けたいと思うことがあります。身体の痛みや疲労を感じても無視して仕事をすることもあるし、辛いとか我慢できなくなって身体を休めようと思うこともあります。身体の警告を無視して疲れて倒れるのはまずいと思い身体を休めるのは正常な行動でしょう。しかし、辛くても我慢してやり遂げようと強い思いで頑張るとき疲労を忘れてしまうのはどういうことでしょうか。確かに、末梢で起こった痛みや疲労があるとき、身体の側での自律的な作用で自動に対応することもあるでしょう。しかし、そのときには自分の強い思いに身体の側で追従するかのごとく合わせているようです。ここで自分の中に欲求によって考えることなく動く、自分の心とでも言うような別の領域があるように思えます。

 

<身体 vs 精神>

自分の疲れに対して頑張ってもう少し続けようと考えるのは大脳での反応であり、自分の精神の作用です。疲労を強く感じる時には通常の習慣に従えば、疲労を意識して休むことになります。つまり、疲れたから休むというのは身体の欲求に従うことであり、疲れても休まないのは「そうしたい」という精神からの行動になります。ここで自分の気持ちで「やりたいことをやり遂げる」という強い思いがあれば、それが動機となって疲れを忘れて行動します。通常は筋肉痛とか仕事の疲れなどが自分の意識に対して注意信号を出すとき、その警告に対しては自分で意識しながら対応行動をするはずです。言い換えると、筋肉の活動で疲労が蓄積すれば身体は正常な活性化を外れて、それを脳が受容して注意信号を発します。ここで、強い欲求がある場合には、精神の作用によって疲れて休もうかそれとも続けようかと考えることになります。しかし、欲求が強いときには、いちいちどっちにしようかと考えていません。実際には咄嗟の判断で行動を続けています。最終的な行動の判断は自分の心の領域にある欲求に従い直接的に実行したかのような感じがあります。心の領域は自分というものを全体として統制する位置にあるようです。身体と精神の両方に関係するところに心の領域があって、そこに何らかの葛藤が起こって不均衡を生じるとストレスが起こる原因となるでしょう。そのとき、そのストレスは身体と精神の両方に影響が及びます。

 

<身体行動 vs 心の領域からの直接行動>

一方、私たち生命を持つものは生きることを継続するのが大前提のはずです。それは日常で私たちが自覚している欲求ではありません。身体の側では、生命を継続するために自律的に体内物質の循環や様々な反応が起っています。ある程度まで無理ができる柔軟性はありますが、限界を越えれば身体的な問題が発生することになります。そのときに自分でやろうと考えた行動が、身体に問題を起こす程度にまで負担を強いるならば、行動を中止するしかありません。これに対し、自分の心に何らかの強い欲求が起こった時、身体の側には不調があっても、大脳でやろうと考えることもなく、身体の全体が咄嗟に行動することがあります。考えもせずに他人を思いやる行動をしたり、衝動的に何かを始めたり、理屈抜きで行動をします。そのとき、身体と精神が正常であっても、突然に意識せずに行動が起こり、後でなぜこんなことをしたのだろうと思うことがあります。ここでの行動は、身体の側の状況からでもなく、精神の側つまり大脳で考えることもなく、自分の心に起こる欲求への対応として咄嗟に全身を伴う行動をしています。つまり、私たちは自分の欲求を生み出して実行する領域を別に持っているということです。この場合、欲望を起こしているのは自分の心の領域であり、それができるかどうか、やるのかどうかを考えるのは精神作用のはずです。しかしそのときの行動は精神作用を通り越して実行されます。これは、大脳を発達させた人間でも、自分の内側にある欲から突然に行動へと駆り立てる領域があることになります。そしてこのことは自分の意識に齟齬を起こすものです。人間は身体の欲求からの直接行動だけではなく、大脳の精神作用によって欲求をどうするかを考えて行動します。しかし、そうであっても心の欲求から直接行動をすることもあります。この辺は何か複雑になっていると思えます。そのところをもう少し考えてみましょう。

 

<身体 vs 大脳での内省 vs 心の領域>

生命体である人間は生きることを継続する仕組みを身体の中に備えています。生きることは身体の全体で担っている欲求であり、それがあるからこそ体が1つにまとまって動きます。神経系や脳はそれを自律的な制御で支援しています。つまり、考える頭脳が自覚しないところでも、私たちは正常な生命活動ができています。どこかでバランスがくずれても自動的に修正するよう機構ができていて、体の免疫作用などによる修正機構が常に働いています。しかし、人間は大脳による精神作用によって身体の欲求から独立した動機を持つことになりました。そして、精神独自の欲求が動機となって行動が複雑化しています。私たちは黙々と習慣的に日常行動を続けてその状況に疑問がなければ何も問題は生じません。習慣となっている行動は自分の意識とは別に自動的になされます。これに反して、「もっと新たなことをしたい」「なぜこんなことをするのか」などと意識しだして現状に不満を感じるようになると、精神作用から新たな動機が起こり行動への準備を始めます。そこで身体からの欲求ではなく心の領域での欲求から咄嗟に行動していまう状況もあります。それは、大脳で考えるというより直接的な行動であり、そのとき身体と精神は1つになって全身で対応しています。このことから考えると、その心の領域は本来的に生命として持つ生きる欲求から発展して成り立っていると考えられます。一方、大脳で考えるからこそ、自分の過去の体験などから「こんなわけはない」という思いが起こるし、「自分のあるべき姿はこうじゃない」などの内省もあります。しかし、逆にこういった大脳の内省する作用の試行錯誤が新たな目標を生み行動の動機になります。

 

<大脳での内省 vs 心の領域にある欲望>

考えたことから起こる行動、つまり内省による試行錯誤の結果による動機によって行動することは大脳が関与します。大脳は身体のすべてを制御しているのではありません。どうも身体の警告システムと大脳での認識の間には隙間があるようです。自分で自覚できない生きる意識があり、そして自分が本人として自覚している意識があります。その隙間で咄嗟に作用するのは自分の欲望であり、自分の心の領域です。そのことを自分のなかでどうバランスをとるのかについては、いちいち自分で考えて理屈で行動しているわけではありません。自分の欲は自分の経験や習慣とか固定観念、あるいは性格とか周囲からの影響などによって複雑に絡み合っています。昨今の通信技術の進歩や情報化社会の影響によって、便利なものを欲しくなるような広告が氾濫し、健康についての不安を増長させて商品を売り込む風潮があります。つまり私たちは欲望を過度に刺激される環境で生きています。社会に一歩踏み出せば人間関係の複雑さに絡め取られます。生活を安定させるために仕事をしてお金を得るだけでも精神のストレスを生じます。現代の社会は私たちの心の領域を複雑にするように発展しています。そうなると、私たちの心の領域では様々な欲望や錯覚が作り出されて、自分の心はその幻影や錯覚に惑わされているかもしれません。身体の側では本来的にある平衡感覚によって、そのような惑乱とは関係なく自己完結的に正常に動くはずです。しかし、私たちは欲望に屈して身体の平衡を狂わせて自分をストレスや病気に追い込んでいるのでしょうか。

 

<生きる身体の知恵 vs 自己を自覚する意識と自分の欲望>

一般に生物はその寿命の間黙々と習慣行動を繰り返します。その身体は生きる活性化を自動的に維持しているはずです。体内の代謝では物質どうしの反応の不均衡と調和が繰り返されて循環する機構があります。人間においても自律神経は交感神経と副交感神経が交互に働くことで身体を調整しています。しかし、私たちは自分を意識できるのに、病気や怪我で最悪の状況にでも陥らなければ、生きていることを意識しません。私たちの日常において身体の制御は当たり前であり、空気の存在と同じようなものです。つまり、身体の欲求の範囲内において習慣的な行動だけをしていれば本来的には問題がなかったということです。しかし人間は大脳が発達して言語で思考するようになって、自分を自覚するという意識が生じて、精神作用による行動の動機を起こすことができます。その精神作用によって、単純に生きること以外の個人的な欲求が起こります。旅行や芸術などの趣味や金銭欲・権力欲など様々な欲望が生じています。私たちは自らの欲望を叶えるために行動を起こし、それが叶わないとなると心に不均衡を生じさせます。身体的には胃の痛みや疲労などの自覚症状、精神的にはイライラするなどの内部的な感覚が生じます。身体の状態だけでなく、欲求不満などが心の領域に様々な葛藤や不均衡を起こします。 そして言葉には表せない煩悶のような何か心に引っかかるものを残します。その主体は自分の心の領域に対応する自分という意識です。身体と精神は決して別のものではないのに、そこに自分の独自の欲求からの不均衡があって、それに対応する自分の意識に「ちぐはぐ」な感じを持ちます。しかし、この「ちぐはぐ」な感じは自分の精神作用そのものです。心の領域の欲望と自分の精神のバランスをとるのは自分の意識ということになります。これが最初に提起した問題の回答になると思います。

 

<精神 vs 心の領域>

もともと生命が生きる活性化を継続できるのは、1つの生命の塊がその全体を包む心の領域をなしているから、1つにまとまっていられると考えます。つまり生きる意識から発展した自分の心の領域とは身体と精神との全体を包んで自分を動かすものです。一方、脳や神経系では大脳を発達させて、人類は言語や思考を獲得しただけでなく、自己を自覚し考える精神を生み出しています。人間にある精神の作用は生きるという身体の要求と違って無限の拡張性があり、考えることに限界はありません。つまり精神作用には更なる向上への可能性があります。固定観念に囚われて身体の欲求や雑多な欲望に「かたくな」になる必要はないということになります。つまり自分の意識において心の領域と精神とのバランスした方向にあれば何も問題がないということです。しかし、ここで注意しなければならないのは、精神作用というのは良い方へ向くだけではないということです。精神とは心の領域に従う動的なものであり、心の領域が過度な欲望に支配されるならば、他人を騙し搾取したり利益を独占したりするような悪に向かう精神もあります。ここで、生命における人類の位置を見渡すような見方からすると、それは人類の未来がどうなるかということと関係します。前提として考えるのは、1つには生命の発展は複雑化の方向にあるということです。もう1つは人類は否応なく集約化していくということです。身体の欲求の範囲で行動するだけでは人類以前の動物の行動と同じことです。そこで、人間として複雑化と集約化に伴ってどういう未来があるのでしょうか。この話題を次回にも少し考えてみようと思います。

Written by Ichiro, 10/22/2023, 

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