現代が「社会と科学が組み合わさった集合体」にあるという事実とその社会と科学が止まることなく動いている事実は、進化の生物学的な解釈を心理学にまで拡張して段階の変化と解釈できることであり、人類は全体にまとまろうとする逃れられない流れの中にいて未来を築く宿命にあるとすることです。そこにはいくつかの試行錯誤の道があって、いろいろな流れに巻かれて右往左往するのではなく、個性の存在としての人間の位置を見失うことなく、将来のある道を選択する必要があります。現代の人に委ねられた、その責任をはたそうと意識することが未来にとって重要なことだ、とピエール テイヤールは言っています。
生物学から見て人類は今も進化しています
(ガリレオの時代にあった状況変化との関連)
ピエール テイヤール・ド・シャルダン
はじめに
私が以前に書いた2つのエッセイ(注)では、生物学的な進化の結果として、科学的に見た考察から、「人類が生命組織の進化において明確な位置」にいて、そこに「進化の飛躍」があったことを述べました。
(注)このブログでは、「精神圏についての分析」と「人間が進化で飛躍すること」の2つです。
ここでもう一度、この主題に戻りたいと思います。今回はその論点を理論家のように穏やかに考察するのではなく、現在すでに私たちのまわりに洪水のように押し寄せている、人類全体へ拡張する組織化(結びつき)の表れについての問題を、思考と行動の両方において緊急で重要ということを強調して、もっと激しい情熱とともに考察したいと思います。
精神圏という考える層が包み込む形態について述べるとき、そこでは私は惑星のまわりに形作りつつある「1つの境界」の仮説のように書きました。しかし私はその内容を十分に強調したでしょうか。穏やかで慎重な説明では、現実として迫ってこないと感じることも確かにあるので、少し控えめ過ぎたかもしれません。
他にも「複数の見方」があるとして書いたことが、あたかも結論のすべてを、時間があって暇なときまで延ばすような、知的な予測というより、学術的な見方の単なるゲームという印象があったかもしれません。しかし、その独りよがりで呑気な態度では、人間が集約することに直面し、溢れるような拡張に気づいている、現代の個々人の状況に実際あっていたのでしょうか。
その多くの兆しに気がついて、それが何か理解しようと求める人々に対して、以下の疑問に積極的な回答を見出せなければ、政治経済、社会、あるいは芸術、神秘主義、どの領域にあっても、この地球で心配なく安定してしっかり耐えられる心の拠りどころが構築されていない、という事実に面しているのが真実ではないでしょうか。
その疑問とは次のことです。この現代の兆しの奇妙な動きに、どの程度の事実があって、どんな人類の個体発生的な重要性があって、それを特徴付けて説明されるべきなのでしょうか。現状は、現代の人が、個人の権利を守るために避難すべき場所がほとんどないような、突然大きな渦に自身が巻き込まれて、そこでは、苦労して手に入れた、個人を特徴つける(伝達されない独自の)個性的な存在が、破壊される危険に直面しています。今私たちが水平線の先にみる生命の流れは、大衆の起こりの影にまだ隠されている何かでしょうか、それとも先には衰退しかないのでしょうか。
最近のここ数ヶ月、私の個人的な観察や知識の中で、「さし迫った直接の必要性」についての意識がますます起こってきています。それは私たちの世代が、世界の進む方向に確固たる価値の選択を必要とされることであり、人間の未来の歴史がそれに依存する、重要な決定をすべき転換点に私たちがいるということです。
このドラマチックな状況にあること、その緊急性を、内容として連携している3つの章で強調したいと思います。これらの章において私たち各々の心の実質に、何かの選択や強制ではなく、それらを知って、その容赦ない圧力や本質の論理を受け入れる必要があると説明したいと思います。
1.人類が巻き込まれている物質的な事実
2.人間社会に生物学的な意味があること
3.選択すべきとき
1番目の論点、事実として認められること
人類が巻き込まれる流れにいるという物質的な事実
私がここで主張すべきことの基礎、すなわち実際にこの世界で起こっていることを理解しようとする試みのための基礎として、1つの平易な事実をわかりやすく述べるだけでは、(私の以前のエッセイでは多分そうであったかもしれませんが)、単なる事実からのある種の付帯的な仮説という範囲をこえる十分な発展がないと思います。太陽が昇って見えるという周知の事実から天動説が言われたのと同様なことがあったかもしれません。私が意味するのは、人類自身に、「社会と科学が組み合わさった集合体」という現代に起こっている本質的な事実のことです。
最初に確かめたいのは、この「現代」という言葉が意味する状況をわかっていただきたいことです。私たちは過去を振り返れば少なくとも分かることですが、人類が最初にこの地球に現れて以来、ただ決まりなく人が大陸を個々に流れるように広がったのではなく、集団を作ってそれが連帯しながら、全体的な傾向を構成して広がったと考えられます。
ここ1万年の間、この地球の表面で、「考えるネットワーク」が織り込まれながら、人はゆっくりと広がって拡張してきました。ほんの最近まで、それほど先端ではない通常の観察では、私たち人間の本質において生物学的な特異性があるとは認識していても、動物学的に言ってしまえば、その現実や潜在にある構造として、人間の本質は全体として特別なものとは考えられていなかったようです。時代が少し前の自然科学者にとっては、人間の「種」は実質的にその発展する進化が平衡状態に達したと考えており、(より高度に発展した精神と感受性以外では)、他の動物系統から区別できるような、より以上に発展する可能性に関しては何も見出することはありませんでした。
しかしこの1世紀の間で、私たちの観察が進み、その穏やかな見方が変わっています。まるで生命組織の何らかの仕組みが、長い間まわりの細胞と区別なく、害がない冬眠状態にあったものが、突然に危険を含んだ成長へと変化したかのように動き始めています。あるいは、私たちは大きな災害の予測を好むのかもしれません。山の雪崩の落下する変化とか、しばらく世の中を騒がせる突然の災害、あるいは台風が空気の加熱で平衡を破って急に生じたり、静かな川の流れで急に渦が起こったりするような、何か急激に変化が起こることへの期待です。
これがまさに私たちが今目覚めようしている状況ではないでしょうか。(まだそれを実際には信じていないとしても)人類の概観は、それ自身の豊富さと収縮の流れによって、抵抗できない大渦巻きの巻き込みの円運動の中へ、かつてなく急速に押し流されて、今まで惰性に欺かれたような状況から、突然に揺り動かされているのではないでしょうか。
世代を越えて巻き込まれているプロセスについて、この巻き込みの(速度の)変化ということを考えて見ましょう。
19世紀まで戻ってみると、そこには範囲が制限された戦いがあって、はっきり前線として区切れる線を設定でき、地図の上ではまだ大きな空白があって、そこへの訪れると別世界のような遠くの異国がありました。
現代では、私たちは数時間の飛行や1秒にも満たない無線で囲まれた惑星にいます。互いに隣接する民族や文化が、世界の人口の高まりによって、ひしめきあっているのを見ています。政治体制の異なった対立がほとんど境界線まで伸びていて、離れた田舎にある小さな農家でも、ニューヨーク、モスクワ、中国で起こっていることに、すでに何らかの影響を受けていて、それらを気にかけないで暮らすことが不可能になっています。
私たちの個人の生活を侵略しているこのプロセスの動きに対し、自分自身を守ることを考え、流れの上昇に対抗して足元をしっかりさせるために、私たちは起こっている現実を拒否したい気持ちになります。そこで考えるのは、地球上のいろいろな人たちが入り混じることは、歴史上ですでに何回も起こっていた、単なる政治体制の再調整という通過の状況であって、決定的で継続した現象ではないのだ、と自分自身に言い聞かせます。そして、これは一時的にまわりの状況が複雑になっているだけで、現時点で偶然に起こっていることだから、しばらく経てば、また何らかの偶然によって解決されるだろう、と思い込みます。
しかしこの考えは、自分自身を欺いて現実を見ようとしていないのではないですか。この人間世界は、私たちの個々に離れた生活をすべてまとめて巻き込もうとしているので、その巻き込む圧力が緩くなるとか、その動きが緩まるとか、考えられるのでしょうか。この情報が氾濫し互いが交流する世界で、私たちは敢えて反抗できるのでしょうか。
どこを見ても、その圧力が緩くなるという兆候はありません。しかし個人としても国家の側でさえも、この流れに対して反抗しようとする動きがあるのを私は否定しません。しかし、これらの自分たちを守ろうとする発作的動きは、それが現れても全く欠陥の塊であって簡単に崩れるものです。
それだけではありません。人間の現象が巻き込みの形をなしているということで、その置き換えられないそして今後も変化しないメカニズムが明確になってきています。
初期の段階にあるのは物質的な力です。その動く範囲がさらに急速に拡大する要素として、人口の急激な増加の作用があり、それが地球の環境規模を圧縮している、という物質的力の現象があります。
この意味で、地球は目に見えて収縮しています。そしてその表面の何十億もの人々は、この収縮の圧力に反応しながら、彼らの間で技術的あるいは政治経済的な再配置を起こしているだけでなく、内省に働く進化の力で生じた、尽きない精神と知的な連携を受け入れて使っています。
私たちが「空間的」にそして「精神的」に交流して結合しあう、閉じた動きにあって、この2つの側面で宇宙的な巻き込みの役割が演じていることから、どうして私たちは反抗する希望があると言うのでしょうか。どうやって脱出するという夢を見ることができるのでしょうか。
この地球という惑星の中で、分子の集合のようにしっかり一緒に包まれた人間たちは、まさにこの考え方を進めると、その本質と構造によって、空間的と精神的との両方で混ざり合うこと以外は考えられないことになります
社会的な意味での生活基準が上昇してきたこと、便利な道具を皆が持ち始めたこと、知識の成長があったこと、あたかもこれら3つの離れた事象とそれらの結合が、何らかの偶然で起こり、それがすごいことのように、私たちは素直に話したり驚いたり、また怒ったりさえしています。しかし惑星という規模で考えると、まさに明確な1つのプロセスであり、単にその3つの側面として扱われるということを、私たちは見過ごしていないでしょうか。
日常の読書や会話でも、人類が互いに引かれることに抵抗できないという、物質的事実のわかりやすい証拠を見ても、ある人は全く判らないとか、あるいは、その証拠を明確に受け入れないことが、しばしばあるのはいかにも驚くことです。しかし過去のことは過去にゆだねましょう。多分、昨日までは個々の民族や文化が最終的には全体として集団を構成するということは、まだ不思議に思えたことでしょう。今日では、事象が急速に加速しているので、このことに何ら不確かさの領域はありません。
以前には人間としての集合が、固定されたものあるいはそれが不滅のものと考えられていましたが、現代ではもっと深い理由によって、これからの発見や論争も要求されますが、再び動くものとなり始めています。この車輪はいつも動いていて、私たちを肉体的あるいは精神的に、押し流そうとしているその勢いは、何らかの反抗を試みてもまったく不成功のままであって、その速度はみるみる加速しています。
どのようにそれに耐えられるのかといえば、この人間世界は、これからは私たち自身がより固く結びついて自らを組織していくことだけが、存在を続けられることになります。私たちは単に天候が嵐になったと思い違いをしているかもしれません。事実は、人間の環境そのものが急速に変化をしているということです。
人間の問題でまず考えるべきことは、もはや人間という「生命の種」が自身を巻き込んでいる、物理的社会的な状況から逃れられるかどうかではありません。なぜなら、この状況は地球の物理化学的構造によって、後退も消すこともできずに強制されているからです。私たちはまずはこれを受け入れる必要があります。
この問題について重要で意味のある質問は、この全体の過程は、私たちをどの方向に導いているのかを知ることです。それは最高へ向かうのでしょうか、それとも絶望の淵でしょうか。
2番目の論点(現在現れていること)
人間社会に生物学的な意味があること
これから先を予測すると、人間大衆を包み込む社会では、爆発的な技術革新が起こっていることが観察でき、何が起こっているのか明快に理解する現代の人は、差し迫る災害に出くわしたかのような驚きの連続になるでしょう。百万年もの期間をかけて起こってきた生命の種の流れで、その苦悩を伴う識別化を経て、民俗学者が原初の共通意識の段階と呼ぶものがそれほど現れないうちに、私たちは技術文明の恐るべき進行によって、大いなる不明瞭の状態へと戻ってしまったのでしょうか。
現状の様子に言い訳すれば、ある意味この悲観的な見方を認めるのに不足はないでしょう。個人のレベルとか、ある限られた範囲では、醜くさ、俗悪、隷属、それとともに個人主義がはびこっていて、疑いなく原始にあった牧草地という楽園を汚しています。
もっと上のレベルで考えても、第2次世界大戦後の処理で、政治的な全体主義体制と呼ばれるものを排除しようとしたにもかかわらず、依然としてそれが増してきて、それが私たちに不明瞭な脅威になっています。そしてこのレベルでは、ある意味私たちにとって不安な例として、シロアリ、蟻、蜂などの「生命の樹」で人間より先に出現した種で観察されることを知っています。その社会集団が奴隷的な状態を形成していて、その「悪しき苦悩」という兆候を、私たち自身が現実に認識できることです。これはまさに、私たちに強制された置き換えられない定めがあるかのように思ってしまいます。
その調査研究がまだ不十分だとしても、このような証拠を見ると、私たちは狼狽してしまいます。これは生命の一般法則なのでしょうか。
生命体として、その種独自の生存は、同じ種の他のものへの隷属を強制されることになるのでしょうか。そして自立的な進歩や個人の自由を増やそうとしても、その意識の上昇や解放は、与えられたレベルを超えると、自動的に自ら止められてしまうものなのでしょうか。私たちは「私」(個人)という表面的な制限の境界線を突き破ることなく、それ以上は上昇しないということなのでしょうか。
もしそうだとすれば、この私たちをつかむ竜巻は、最後は私たちを間化して終わることになります。これはある種の衰退に向かう絶望を意味します。これも、しっかり掴まれて抵抗できない集中する動きを説明する1つの方法です。しかし、この投げやりな回答は、現在の私たちの心を揺さぶって傷つけ、最も簡単に病的に私たちの感受性にひどい印象を与えるものです。(注)
(注)他にもこの傾向を説明する3つの元凶があり、それは現代文学、保守思想、実存主義者の印刷物において書かれることであり、もし災害を予言する者として世に出たければ、人を「驚かすこと」を、やさしく書いて誰かに読ませればよいとする風潮です。
しかし彼らにはそのままやらせておきましょう。ここではもう1つの方法を説明します。この地球で社会を組織していく問題に対し、時代遅れで疲れるしかない方向には真っ向から反対して、人間が全体としてまとまることに向かうという偉大なる現象を、科学を基本にして、生命とこの世界の新しい見方として、もっときちんとした解釈を作り上げましょう。
生命を広い範囲で科学の目で観察することは、その再発見と再評価は現在すでに始まっています。この考え方を以下に要約させてください。
以前の見方は、植物や動物は、その生命体の構造からして、かなり壊れやすいものであることから、そして今まで生命の存在は、時間と空間の狭く制限された範囲で、ただそれを見つけて実際に認められただけなので、私たちは習慣的に生命とは変則的で例外とすることに慣れてしまって、それは巨大な宇宙における、ほんの小さい個別の世界としてしか見ていなかったということです。
しかし、この見方は大きく変わってきています。生命は宇宙で現実に発生するという、新しい方向性が現在の私たちに与えられています。それは微細な構造への追求の成果であり、原子の発見があって、生命組織が分子レベルでより複雑なものであるという発見です。そして、遺伝や進化のメカニズムの観察によって、より程度の高い生命組織へと上昇するという、この「分子」の特徴に一貫性があることの発見です。あらゆる要素における物質の核心には、その中心に不確定性の存在があるということです。
これらの発見からの事実が蓄積された成果は、今までと全く異なる、考えも及ばないほど魅力的であり、潜在する可能性への目を開かせてくれました。
ここでいう意味は、生命の存在が、この世界で不可解で奇異なものから構成された、特別なものではないということです。そうではなく反対に、宇宙にあるいろいろな材質が、その適切な位置や構造によって組み合わされて、まったく一般的な物理化学のプロセスの作用によって、まさに最終的に生じた結果であって、(最近一般的に受け入れられている)空間的に拡張したという状況だけではなく、さらにもっと重要なことは、生命それ自身が質的に内面へ折り重なる動き(あるいは内面に配置する動き)によって特徴つけられるということが、私たちの観察経験から見出されています。そして、この「折り重なる配置」の動きは、その進み方に何ら同質の繰り返しがあるのではなく、ゆっくりした時間の経過とともに、たんぱく質、細胞、あらゆる種類の生命体へと、その複雑度が恐ろしく成長し増加するという動きとなっています。
私たちの考え方は、習慣的にラプラスのいう決定論に確かに影響されていて、エネルギーの消費や最も高い確率の現象は、物理的にただ1つの事象のみがあるという考えになっていて、複数の複雑性へ向かう宇宙は、部分的な「間違い」ではないかと、そこから本能的に後ずさりしています。
しかし、ちょうど宇宙を観察して赤外線スペクトルの偏移が、星間の遠ざかる速度として受け入れられるように、それよりももっと確かに、生命にある動きは、微小な段階から大きくなって、最終的にはかなり大きい個々に閉じた粒子となる動きがあります。この生命の進化の動きやその経過を観察すると、生命自身は個々に閉じて中心化されていて、よりもっと複雑度を増す方へ前進して、そのとまどうような卓越した作りこみの成果があって、そして「次のものを作る材質」になっていく、という持続的な大きな動きを意味しているのではないでしょうか。(その発展の結果としてあるのが、「私たち」人間という1つの複雑な粒子ではないでしょうか?)
この方法で観察すると、生命は本質において全く常軌をはずれたものではなく、私たちのまわりで起こったプロセスの中でも、宇宙の最も基本的な流れの1つであり、さらに最も先進的なものとして、実証的な領域内にあるものです。生命は足がかりを得たところではどこでも、「宇宙的」な粘り強さを持って、持続的なプロセスをいつも同じ方向に、可能な限り到達しようとしています。
多くのことを前提として述べてきたので、ここで人間が全体に向かうという価値と重要性に戻りましょう。
このプロセスの特徴として私たちが観察していることは、先にも言ったように、テクノロジーによって社会が結ばれて束縛されるネットワークであり、そこにある当初の光景では、私たちの個人的な自由が制限されるとか、機械化の歯車の部品にされること以外は、見えてこないという苦悩があることです。
しかし、なぜ私たちはこの同じプロセスのなかで、全体として1つの正しい方向へ組織を構成するものを見出せないのでしょうか。あるいはもっと正確に言えば、私たちはどのようにすれば、そうできるのでしょうか。
最初は純粋に機械化へ盲従するかのように見えることの裏に、生命の本質が進行し持続している、「複雑化」するプロセスが重なっています。もしここで述べる新しい概念が有効であるならば、それが必ず{科学的に}認められるはずです。
ここで言う複雑性あるいは物質の有機的な配置を、調査対象やパラメータとして明らかにしたり測定したりする事は、原子や分子の間に起こる、純粋に偶然的とか機械的な集合(偽の集合複雑性)を観察する場合とは違って、精神としての特徴を形成するまでの段階で、その現われとか成長を見ることになります。
生命体における複雑度がかなり高くなってくると、刺激に対する反応や受容とか選択から意識が生じてきます。このような自然のいくつかの法則は、まだ一般にはその確かな一貫性が認められず、物理化学的な論議にはなっていません。それに、まだ「多くの群集の動き」が組織された高い複雑度まで至らずに、それが「群集の残忍性」になってしまうと言われる場合もあります。しかし、以下の事実が議論を越えて言えるのではないでしょうか。
人間が社会的に組織化していくことは、まだ特に生産的といえる長所が見えてはいませんが、科学の進歩が私たちの既存の概念を変更させてきたというのは事実であり、宇宙の端から端までも改定させようとする、驚くべき「科学への衝動」は確かにあるというのは事実です。私たちは科学によって変更していくべきことがあるということです。
人間が互いに手を取り合って全体に向かうことは、その心と精神を発達させます。それは「心理発生」とともに進んでいます。それゆえに、これは生物学的な進化の本質であり、そこには段階があり、そして次元をこえた変化があります。
今私たちが経験している、人間社会の中に折り込まれている状況を見ると、それは私たちの頭ごなしに、地球で生命が誕生し、そして細胞が生じ、次に思考が生まれたという、宇宙的な折り込みのプロセスがあって、このことの直接的で理論的な拡張以外ではないということになります。科学的に証明できることとして、私の考えではこれ以上の証拠は必要ありません。
すなわち、私が精神圏(Noosphere)と呼ぶ領域内で、そこにある宇宙の材質がより複雑になっていき、もっと複雑にそしてもっと内面化して、現在の人類を超えて明日に期待される未来の人類になっていくという流れが予測できます。
私たちがこの見方を受け入れると、いわゆる人間たちの混沌の真っ只中で、私たちのまわりのすべてのことは、その位置が正しく分類されることになります。この世界はそのあるべき道を進みます、それがすべてです。
私たちは周りから過剰に課せられた活性化に巻き込まれることには反抗します。なぜなら、そうすることで、私たちが獲得した貴重な「私」という部分{個性}を失うことを恐れるからです。
しかし、その巻き込みそのものが十分魅力的であって適切に制御されており、そして、その活性化が単に「機械化」や「本能」からの行動ではなく、その統合が単に個人を識別するだけでなく、個性化するという本質によって、「互いが同意できる全員一致」(内省的な精神)という全体が生じるとなれば、どうしても見逃せないことではないでしょうか。
人類自身を折り込むプロセスに対して、あらゆることを考慮して考えてみると、私たちには以下2つの相反する評価があると思います。このプロセスは明確であり、何も妨げないものです。
1つには、地球において私たちが直面した集約に向かう現象は、容赦ない機械化や私たちの人間性の否定に終わるような、まさに衰退に向かうプロセスとなること。
2つめは反対に、この集約に向かう現象は、私たちの個性を超えてもっと個性化に向かわせる、生物学的に必然の流れとして、より複雑へと向かう動きの兆候であって、その効果の現われたプロセスとなること。
この2つの評価から判断すると、よほど現実に合っているのが2番目と考えます。その有効性は最終的にはまだ示されていませんし、またその評価はまだ認められていません。それでも、私たちの生きる現代という歴史の瞬間を考えると、結果として実際に私たちは、このプロセス上で未来を築かなければならないということを、十分それなりに確かに感じられます。このことが、私がこの文章で言いたいことの核心です。
選択の時
あらゆる領域において、水の流れとか、道を歩く旅人とか、真理を求める理論家や神秘主義者の思考においても、何らの疑問が生じる際に、知識とか道徳というより、物理的に時間や場所における不可避的な転換点があります。そのとき、その必然性からして、そのメカニズムの力とか、あるいは選択の自由からとか、2つの通り道から1つを取る選択として、その1回だけの決定すべき点にきます。
このような強制された取り消すことができない選択、もう1回が決してないという、通り道の途中に現われた選択があると、私たちは苦悩の板ばさみに直面することになります。
しかし、それはまさに社会の中の人が、ここかしこで社会化していく上昇の流れに面して、何人の人たちがその自分自身の状況を見出して理解できているのでしょうか。
私たちのまわりで形成され速度を上げてきている全体化に向けた流れにまみれていると、私たちは止まることも交代することもできません。実際に、その次元が単に惑星というだけでなく、それが宇宙の流れであれば、そこから脱出できると考えることさえもできません。
私が以前述べたように、この状況で論理的には、「実存主義的」に2つの態度が可能です。1つは、あらゆる手段で私たちへの動きを緩くさせ、孤立への脱出を追い求めて、個人主義のなかに崩壊する危険を冒して、絶望の深淵へと突入し、この流れを拒否し抵抗することができます。あるいは2つ目として、それを私たちの生活に与えられた解放する動きとして受け入れて、互いの協調に積極的に貢献し、そこに生きようとすることです。
ここで、私はこの問題の緊急性を示すことが残されています。
いわば水の流れが分かれる点、私たちはこの道の転換点に真に到達したことを示すことが、私の目的です。そしてまた、この瞬間的な今ここという時間と場所において、2つの態度から採用すること以外に、物理的に私たちは存在や行動を続けられないことです。それは人類の統合に反抗するのか、統合に向かうのかという選択です。
ここで緊急性というのは、その意味として、大きな問題に面したときに起こる選択の欠如とか引き伸ばしと思えることに対してであり、私たちの態度に深く根ざした、未決断の状態のままにしてしまうことに対して言っています。これは人類が生存すべきならば、遅滞なく解決しなければならない問題です。
私たちは、平和、民主主義や人権、民族や個の優生学について繰り返して議論し、それが限界まできて科学研究の価値や道徳性について、そして神の国の真実に至るまで、幾度も議論しています。
しかし、ここでもう一度言いますが、これらの避けることができない問題の各々に、2つの側面があるということです。それゆえに、2つの答えがあることになります。
人類の種が個人において最高に向かうのか、あるいは人類が互いに集約する流れにそって、その複雑度と意識がより高いレベルに向かうのか、この相違によって2つの回答があることを見逃してはいけないと思いますが、どうお考えでしょうか。
国際連合とかユネスコのような世界組織の話題が続いています。個人にとっては、これらの存在は無条件に喜ばしいものでしょう。
しかし私たちは、その基本にあることが砂の上で動いているような状況のまま、いつも何かを構築しようとしていて、そのプロジェクトや決定の基底にある基本的な価値や目的について、いわば人間が全体化することに必要な態度については、まだ同意がない状態であることを、私たちは理解する必要があります。
それが理解できていないと、このことが私たち現代の政治、そしてイデオロギーが、沈滞している根源が何かということが理解できていないことになります。これは、人間には流れがなく動かない状態にあるという、あたかもこの世界の古い考えに必死にしがみついていることであり、これでは全く不適当ということになります。
そうであるとすると、私たちは今2つの危険に遭遇していることになります。1つに、効率化されることがない混沌状態を継続するという危険があるだけでなく、もっと悪いことに、地球の成熟を達成するために提供される機会を、失うかもしれないという危険に会うことになります。
ここに純粋に人類にそなわった、「内省」という言葉の意味において、この「板ばさみ」そのものが現れる悲劇的な本質があります。そこで私たちは、明日の未来の世界に導く道の決定について、それを統計的な偶然の役割として受身的に待つことはできません。
ここでは、私たちは積極的に手を取り合って、私たち自身のゲームにもっと熱心になる必要があります。
私が示唆したように、地球そのものが組織的に折り込まれる方向に、救済があることが真実とすれば、行動とそれに反応する繰り返しのメカニズムを通して、生命のプロセスや私たちの歴史の成果があるという確かな証拠によって、この世界の究極にある見方やその見通しを持つことが、その未来を構築することに本質的な部分を演じている、と言えるかもしれません。そうなれば、「魅力に惹かれる精神の領域」という環境を創造することだけが未来に必要で、それがなくては人間性それ自身が収束し続けることが不可能になってしまうということです。
繰り返しになりますが、もし進化そのものが、人間が全体としてまとまるという事実を通して、人類が飛躍することが真実であれば、それは情熱的にしっかりと、人類自身が結びついた意識になる必要があるということです。それは、人類がより進歩するには、集約する力強い信条によって維持されることが必要であろうと言うことです。
私たちがそれを信じるのか、あるいは拒否するかにしたがって、この逃げ道がない全体となるプロセスは、私たちに新しい生命を吹き込むか、私たちを破壊するかのどちらかでしょう。それが真実と思われます。
この極限的状況においては、社会の全体化についての精神の向上と人間性の価値に、積極的な立場で考えようとする信条をもって、まさにこの信条を維持して変化が開かれる方向を発見し、そして飛躍をもたらすための行動が必要です。そしてそれゆえに、次の新しい場面では私たちの「種の感覚」を再確信できることになります。私たちは今これをしなければなりません。
生命は私たちを待つことはないでしょう。そして私たちの状況は安全ではありません。明日になって遅すぎであったと誰が言えるのでしょうか。
今日この世界で事実として起こっていることは、あたかも4百年後に、巻き込みがより早い回転になった後から見れば、私たちがガリレオの同時代の知的位置に戻ったと同じ状況になります。
16世紀の人たちにとって、宇宙が動くという考え方は、(これは、かなり簡略した言い方ですが、太陽のまわりを絶対的に地球がまわるという完全な認識があって)、彼らの心の夜明けとなり、人間中心的な思考の終焉というだけよりも、もっと深い影響を与えました。
私たちが当時を考えると、このショックの内面的な影響によって、今日の物理学や哲学での宇宙全体の星たちについての理論になり、宇宙で生命が発生するという概念への道を与え始めたことになります。そのことは、今経験していることよりも、人々にはそれほど重くない負担であり、あるいは行動にはそれほど直接的ではない刺激であったことは疑いありません。というのは、現代の私たちが経験しているのは、静的で分散した個々の人間性という概念から、地球全体の人類発生的な不思議な運命に向かう、生物学的に強制される道を通過する状況だからです。
その当時は、同じ状況で理論の変換であり、心理学的には同じ種類といえる変化でした。いわば、人間の意識が成熟する段階で、一般的で避けられない1つの成果として、新しい観点を採用する必要性はあっても、自由なる強制として、おとなしく従うだけのことでした。
最初は何人かがコペルニクスの見方を通した世界を見始めて、それからすべての人が同じ考え方で見るようになりました。最初のひらめきは過ちとなる危険はあっても、直感的に受け入れられ、そして、その直感は観察と実証によって確信が増していき、人間の意識に遺産となる確信へと組み込まれていきました。
16世紀に、すでに歴史の経過として起こったことが、その同じことが再び現代で起こっていると思います。そのとき人は自身で本能的に、このままでは続けられないという感覚で、突然に「壁に突き当たった」ことに気がついて、この現象を明らかにする仕組みの解釈が与えられた方向に、積極的な位置への変化を採用する考えが起こりました。それに従って、彼らは選択をしました。そして私たちが振り返ってわかるように、生命の歩みは、その道の分岐点に達して、そこで人の行動において、人の行動を通して、再び正しい道を選択したのです。
それはまた起こることなのでしょうか。私は疑いなくそれは起こるだろうと思います。なぜなら、生命、真実、自由ということが共に統合に向かって本質的なつながりがあると私は深く確信しているからです。これから400年経って、それは私たちにはまだ予測はできないことですが、私たちの後継者が、新しい道に直面することが起こった際に、歴史を振り返って、「400年前に、彼らがはっきり見たことです。その例に従って追い求めよう」と言うのではないかと思います。
ガリレオの時代に「地球は動いている」という転換があったと同様に、もう一度、私たちは全員の一致を達成するべきです。現代という時代の社会の現象について、物質的な構築だけなのか、あるいは精神の活性化なのか、そのどちらが価値あるのか認識するときです。
ここで、もし私が間違えなければ、このバランスはすでに人間の「惑星化現象」という、正しく本質から組織される情熱の方に揺れています。(その結果としての生物学的な効果については、私たちはまだ予測はできませんが)、私たちがこの世界の組織をより良くできると信じれば信じるほど、私たちはそれを信じる理由にもっと気がつくようになり、そしてより多くの人がそれを信じるようになるでしょう。
すでにその方向に、1つの直感として集約しつつあるものがあって、それは何ものも非難されずに動いているように思えます。(注)
(注)私たちが心に留めるべきこととして、人間の全体化の方向における水平線の先は、政治的、経済的、心理学的にはっきりしないけれども、これはあまり重要ではありません。直接的な質問は、この流れが正確にどこへ私たちを運ぶかとか、どんな危険を冒すだろうかを知ることではなく、分岐点に到達して、その流れの行くべき先を単純に決定することであり、いわば、この世界の真の動きから離脱しないということです。
天体にある内部の動きとして、地球が太陽のまわりを回る機構的な動きをするという考え方が、現代の私たちに受け入れられているように、幾世代か後では、何らかの新しい「複雑性の空間」にある内部の動きとして、この地球そのものの精神が折り込まれるという概念は、私たちの後継者によって一般的で有用なことになっていると確信する、というのは、そんなに驚くような予言とはならないと思います。
Saint-German-en-Laye,4 May, 1949. Revue des Quesrions Scientifique, 20 October, 1949.