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Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

収束すること(生命の大いなる動き)

2015-04-28 22:07:25 | 日記

宇宙にある星座とか、地球の大気に起こる低気圧や海や川に起こる渦のように、螺旋形に渦をまく現象があります。このように外から内に向かって巻き込む現象の中心はどうなっているのでしょうか。台風の目というのは、急に風が止んで静かな状況になるとよく言われます。風呂の浴槽から水を抜くときにできる渦は、別の空間への移動に思えます。その中心は変化の特異点になっています。それでは、生命が人間の集合において巻き込みの動きを見せているとすると、その中心の特異点はどうなっているのでしょうか。

もし宇宙の物質が互いの引力で中心に向かうという構造になっていると考えると、生命についても、まさに1つの閉じたシステムが意識を中心に巻き込んでいると言えないでしょうか。

 

地球で最初に生命がどのように発生したかは、まだ完全に解明されてはいませんが、いったん生命が出現すると進化が始まり、この地球は長い年月をかけて思考を獲得し、人間まで達しています。

それでは、生命をもつ細胞は、どうしてそのシステムが維持できているのでしょうか。細胞は物質を取り込んだり交換したりして、たんぱく質をはじめ各種の物質を合成また分解する独自のシステムを作って活動しています。この細胞には核があって、DNAなどの再生のための仕組みをもち、次の世代へと増殖します。これらの細胞は、分子や物質たちをどうして離れさせずにまとめておくことができるのでしょうか。

 

生命の要素(単一細胞や複数細胞)は多様な集まりをなしていて、これらは宇宙の粒子(原子や分子)の拡張であることは理解されます。しかし、その内部構造は単なる拡張ではなく、中心に向かう拡張になっていて、それは意識が発生する方向にあるようです。つまり意識が、自己の構造にある物質全体をまとめて、1つの閉じたシステムになっていることになります。1つの細胞に意識はないように見えるけれども、実際は意識に発展していく制御機能がどこかにあって、その下部構造である物質自体にも意識となる前段階をもっていることになります。つまり物質自体にも意識の元があると考えられることになります。

 

人間の身体においても、宇宙の粒子という系列の配置として考えてみると、人間はその構成が細胞からできており、それのすべてがまとまって1つの行動単位となっていることから、1つの超細胞として考えることができます。しかしそこには、1つの小さな「内部性」があって、それ自身が精神的中心であると同時に、宇宙においても微小な精神の中心であり、多かれ少なかれ宇宙の目指すものを反映していると思われます。

 

結局、「意識」は宇宙にある物質(個々の粒子)の1つの特徴であるといえるかもしれません。そして宇宙の分子的な拡散の状態とは、宇宙の意識が潜在する可能性の多様な状態を表現しています。そこから生命が生じ、意識が明確になってきます。そして意識は宇宙的単位の序列に従い、その単位の組織化された複雑さが増加するのに比例してより深く内面的になっていきます。

これらの序列では内面性の程度において、いわゆる中心(意識)があって、それ自身の複雑さ(身体の形状、そして特に頭脳など)は、その機能において確かな段階が識別されます。ここで意識(中心化)の程度は、中心化複雑性のパラメータとなるものであり、私たちより先にあるべき超人類も含めて、生命の序列の絶対的な測定方法になりうると考えられるものです。

 

宇宙の物質は、意識のないもの、意識が観察されないものから、序列に従って人間までが中心に向かう1つの系列としての構造に表すことができるように思えます。私たち自身も生命の大きな同心円のなかに置かれたものとして考えると、ここに中心に向かう(中心化した)宇宙というものが現れてきます。そしてこの同心円の全体の要素は、システムの中心点において、確かに本質的な極点あるいは宇宙の統合の焦点を予想できることになります。

 

これは間違いなく1つの動きの存在を示しています。宇宙の生命が中心に向かって複雑性が増加する軸に沿った序列にあるとすると、それは全体の中心があるというだけでなく、それ以上に中心に向かう流れによって運ばれる動きがあるように思われます。中心化複雑性から考えた精神の領域では、世界は中心に向かって収束する方向があるようです。宇宙では時間を通して生命の本質的な動きが観察でき、内面的には「中心化し、なお複雑化する」プロセスを表すシステムになっているといえます。現時点では、より複雑な次の人類が同心円のより中心に近いところに現れつつあるところかもしれません。少なくとも旧い考えにしがみついて、間違えた試行錯誤にはまらないように、確かに先に現れるべきことを考えたいと思います。

 

現代の科学で認められているように、人間の機能の中枢には大脳があり、それはかなり複雑な構造をもって精神の中心という働きをしています。そうなると人間を1つの粒子と考えれば、最初は拡散した状態にあっても、しだいに互いの引力で集まって社会システムを形成するのではないでしょうか。人が社会を作る現象は、1つ1つの精神的中心が作りあげている宇宙のように思えるので、それゆえに潜在的に宇宙と共通に存在するものがあって、その1つ1つが世界に関係する部分的中心として行動するなかに、宇宙の目的意識というものが見出だせるかもしれません。

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生物学的に見て人類は進化しています

2015-04-26 02:33:07 | 生命進化の方向

現代が「社会と科学が組み合わさった集合体」にあるという事実とその社会と科学が止まることなく動いている事実は、進化の生物学的な解釈を心理学にまで拡張して段階の変化と解釈できることであり、人類は全体にまとまろうとする逃れられない流れの中にいて未来を築く宿命にあるとすることです。そこにはいくつかの試行錯誤の道があって、いろいろな流れに巻かれて右往左往するのではなく、個性の存在としての人間の位置を見失うことなく、将来のある道を選択する必要があります。現代の人に委ねられた、その責任をはたそうと意識することが未来にとって重要なことだ、とピエール テイヤールは言っています。

 

生物学から見て人類は今も進化しています

(ガリレオの時代にあった状況変化との関連)

ピエール テイヤール・ド・シャルダン

 

はじめに

 

私が以前に書いた2つのエッセイ(注)では、生物学的な進化の結果として、科学的に見た考察から、「人類が生命組織の進化において明確な位置」にいて、そこに「進化の飛躍」があったことを述べました。

(注)このブログでは、「精神圏についての分析」と「人間が進化で飛躍すること」の2つです。

ここでもう一度、この主題に戻りたいと思います。今回はその論点を理論家のように穏やかに考察するのではなく、現在すでに私たちのまわりに洪水のように押し寄せている、人類全体へ拡張する組織化(結びつき)の表れについての問題を、思考と行動の両方において緊急で重要ということを強調して、もっと激しい情熱とともに考察したいと思います。

 

精神圏という考える層が包み込む形態について述べるとき、そこでは私は惑星のまわりに形作りつつある「1つの境界」の仮説のように書きました。しかし私はその内容を十分に強調したでしょうか。穏やかで慎重な説明では、現実として迫ってこないと感じることも確かにあるので、少し控えめ過ぎたかもしれません。

他にも「複数の見方」があるとして書いたことが、あたかも結論のすべてを、時間があって暇なときまで延ばすような、知的な予測というより、学術的な見方の単なるゲームという印象があったかもしれません。しかし、その独りよがりで呑気な態度では、人間が集約することに直面し、溢れるような拡張に気づいている、現代の個々人の状況に実際あっていたのでしょうか。

その多くの兆しに気がついて、それが何か理解しようと求める人々に対して、以下の疑問に積極的な回答を見出せなければ、政治経済、社会、あるいは芸術、神秘主義、どの領域にあっても、この地球で心配なく安定してしっかり耐えられる心の拠りどころが構築されていない、という事実に面しているのが真実ではないでしょうか。

 

その疑問とは次のことです。この現代の兆しの奇妙な動きに、どの程度の事実があって、どんな人類の個体発生的な重要性があって、それを特徴付けて説明されるべきなのでしょうか。現状は、現代の人が、個人の権利を守るために避難すべき場所がほとんどないような、突然大きな渦に自身が巻き込まれて、そこでは、苦労して手に入れた、個人を特徴つける(伝達されない独自の)個性的な存在が、破壊される危険に直面しています。今私たちが水平線の先にみる生命の流れは、大衆の起こりの影にまだ隠されている何かでしょうか、それとも先には衰退しかないのでしょうか。

 

最近のここ数ヶ月、私の個人的な観察や知識の中で、「さし迫った直接の必要性」についての意識がますます起こってきています。それは私たちの世代が、世界の進む方向に確固たる価値の選択を必要とされることであり、人間の未来の歴史がそれに依存する、重要な決定をすべき転換点に私たちがいるということです。

このドラマチックな状況にあること、その緊急性を、内容として連携している3つの章で強調したいと思います。これらの章において私たち各々の心の実質に、何かの選択や強制ではなく、それらを知って、その容赦ない圧力や本質の論理を受け入れる必要があると説明したいと思います。

 

 

1.人類が巻き込まれている物質的な事実

2.人間社会に生物学的な意味があること

3.選択すべきとき

 

 

1番目の論点、事実として認められること

   人類が巻き込まれる流れにいるという物質的な事実

 

私がここで主張すべきことの基礎、すなわち実際にこの世界で起こっていることを理解しようとする試みのための基礎として、1つの平易な事実をわかりやすく述べるだけでは、(私の以前のエッセイでは多分そうであったかもしれませんが)、単なる事実からのある種の付帯的な仮説という範囲をこえる十分な発展がないと思います。太陽が昇って見えるという周知の事実から天動説が言われたのと同様なことがあったかもしれません。私が意味するのは、人類自身に、「社会と科学が組み合わさった集合体」という現代に起こっている本質的な事実のことです。

 

最初に確かめたいのは、この「現代」という言葉が意味する状況をわかっていただきたいことです。私たちは過去を振り返れば少なくとも分かることですが、人類が最初にこの地球に現れて以来、ただ決まりなく人が大陸を個々に流れるように広がったのではなく、集団を作ってそれが連帯しながら、全体的な傾向を構成して広がったと考えられます。

ここ1万年の間、この地球の表面で、「考えるネットワーク」が織り込まれながら、人はゆっくりと広がって拡張してきました。ほんの最近まで、それほど先端ではない通常の観察では、私たち人間の本質において生物学的な特異性があるとは認識していても、動物学的に言ってしまえば、その現実や潜在にある構造として、人間の本質は全体として特別なものとは考えられていなかったようです。時代が少し前の自然科学者にとっては、人間の「種」は実質的にその発展する進化が平衡状態に達したと考えており、(より高度に発展した精神と感受性以外では)、他の動物系統から区別できるような、より以上に発展する可能性に関しては何も見出することはありませんでした。

 

しかしこの1世紀の間で、私たちの観察が進み、その穏やかな見方が変わっています。まるで生命組織の何らかの仕組みが、長い間まわりの細胞と区別なく、害がない冬眠状態にあったものが、突然に危険を含んだ成長へと変化したかのように動き始めています。あるいは、私たちは大きな災害の予測を好むのかもしれません。山の雪崩の落下する変化とか、しばらく世の中を騒がせる突然の災害、あるいは台風が空気の加熱で平衡を破って急に生じたり、静かな川の流れで急に渦が起こったりするような、何か急激に変化が起こることへの期待です。

これがまさに私たちが今目覚めようしている状況ではないでしょうか。(まだそれを実際には信じていないとしても)人類の概観は、それ自身の豊富さと収縮の流れによって、抵抗できない大渦巻きの巻き込みの円運動の中へ、かつてなく急速に押し流されて、今まで惰性に欺かれたような状況から、突然に揺り動かされているのではないでしょうか。

 

世代を越えて巻き込まれているプロセスについて、この巻き込みの(速度の)変化ということを考えて見ましょう。

19世紀まで戻ってみると、そこには範囲が制限された戦いがあって、はっきり前線として区切れる線を設定でき、地図の上ではまだ大きな空白があって、そこへの訪れると別世界のような遠くの異国がありました。

現代では、私たちは数時間の飛行や1秒にも満たない無線で囲まれた惑星にいます。互いに隣接する民族や文化が、世界の人口の高まりによって、ひしめきあっているのを見ています。政治体制の異なった対立がほとんど境界線まで伸びていて、離れた田舎にある小さな農家でも、ニューヨーク、モスクワ、中国で起こっていることに、すでに何らかの影響を受けていて、それらを気にかけないで暮らすことが不可能になっています。

 

私たちの個人の生活を侵略しているこのプロセスの動きに対し、自分自身を守ることを考え、流れの上昇に対抗して足元をしっかりさせるために、私たちは起こっている現実を拒否したい気持ちになります。そこで考えるのは、地球上のいろいろな人たちが入り混じることは、歴史上ですでに何回も起こっていた、単なる政治体制の再調整という通過の状況であって、決定的で継続した現象ではないのだ、と自分自身に言い聞かせます。そして、これは一時的にまわりの状況が複雑になっているだけで、現時点で偶然に起こっていることだから、しばらく経てば、また何らかの偶然によって解決されるだろう、と思い込みます。

 

しかしこの考えは、自分自身を欺いて現実を見ようとしていないのではないですか。この人間世界は、私たちの個々に離れた生活をすべてまとめて巻き込もうとしているので、その巻き込む圧力が緩くなるとか、その動きが緩まるとか、考えられるのでしょうか。この情報が氾濫し互いが交流する世界で、私たちは敢えて反抗できるのでしょうか。

 

どこを見ても、その圧力が緩くなるという兆候はありません。しかし個人としても国家の側でさえも、この流れに対して反抗しようとする動きがあるのを私は否定しません。しかし、これらの自分たちを守ろうとする発作的動きは、それが現れても全く欠陥の塊であって簡単に崩れるものです。

それだけではありません。人間の現象が巻き込みの形をなしているということで、その置き換えられないそして今後も変化しないメカニズムが明確になってきています。

初期の段階にあるのは物質的な力です。その動く範囲がさらに急速に拡大する要素として、人口の急激な増加の作用があり、それが地球の環境規模を圧縮している、という物質的力の現象があります。

この意味で、地球は目に見えて収縮しています。そしてその表面の何十億もの人々は、この収縮の圧力に反応しながら、彼らの間で技術的あるいは政治経済的な再配置を起こしているだけでなく、内省に働く進化の力で生じた、尽きない精神と知的な連携を受け入れて使っています。

 

私たちが「空間的」にそして「精神的」に交流して結合しあう、閉じた動きにあって、この2つの側面で宇宙的な巻き込みの役割が演じていることから、どうして私たちは反抗する希望があると言うのでしょうか。どうやって脱出するという夢を見ることができるのでしょうか。

この地球という惑星の中で、分子の集合のようにしっかり一緒に包まれた人間たちは、まさにこの考え方を進めると、その本質と構造によって、空間的と精神的との両方で混ざり合うこと以外は考えられないことになります

 

社会的な意味での生活基準が上昇してきたこと、便利な道具を皆が持ち始めたこと、知識の成長があったこと、あたかもこれら3つの離れた事象とそれらの結合が、何らかの偶然で起こり、それがすごいことのように、私たちは素直に話したり驚いたり、また怒ったりさえしています。しかし惑星という規模で考えると、まさに明確な1つのプロセスであり、単にその3つの側面として扱われるということを、私たちは見過ごしていないでしょうか。

日常の読書や会話でも、人類が互いに引かれることに抵抗できないという、物質的事実のわかりやすい証拠を見ても、ある人は全く判らないとか、あるいは、その証拠を明確に受け入れないことが、しばしばあるのはいかにも驚くことです。しかし過去のことは過去にゆだねましょう。多分、昨日までは個々の民族や文化が最終的には全体として集団を構成するということは、まだ不思議に思えたことでしょう。今日では、事象が急速に加速しているので、このことに何ら不確かさの領域はありません。

以前には人間としての集合が、固定されたものあるいはそれが不滅のものと考えられていましたが、現代ではもっと深い理由によって、これからの発見や論争も要求されますが、再び動くものとなり始めています。この車輪はいつも動いていて、私たちを肉体的あるいは精神的に、押し流そうとしているその勢いは、何らかの反抗を試みてもまったく不成功のままであって、その速度はみるみる加速しています。

どのようにそれに耐えられるのかといえば、この人間世界は、これからは私たち自身がより固く結びついて自らを組織していくことだけが、存在を続けられることになります。私たちは単に天候が嵐になったと思い違いをしているかもしれません。事実は、人間の環境そのものが急速に変化をしているということです。

 

人間の問題でまず考えるべきことは、もはや人間という「生命の種」が自身を巻き込んでいる、物理的社会的な状況から逃れられるかどうかではありません。なぜなら、この状況は地球の物理化学的構造によって、後退も消すこともできずに強制されているからです。私たちはまずはこれを受け入れる必要があります。

この問題について重要で意味のある質問は、この全体の過程は、私たちをどの方向に導いているのかを知ることです。それは最高へ向かうのでしょうか、それとも絶望の淵でしょうか。

 

 

2番目の論点(現在現れていること)

   人間社会に生物学的な意味があること

 

これから先を予測すると、人間大衆を包み込む社会では、爆発的な技術革新が起こっていることが観察でき、何が起こっているのか明快に理解する現代の人は、差し迫る災害に出くわしたかのような驚きの連続になるでしょう。百万年もの期間をかけて起こってきた生命の種の流れで、その苦悩を伴う識別化を経て、民俗学者が原初の共通意識の段階と呼ぶものがそれほど現れないうちに、私たちは技術文明の恐るべき進行によって、大いなる不明瞭の状態へと戻ってしまったのでしょうか。

現状の様子に言い訳すれば、ある意味この悲観的な見方を認めるのに不足はないでしょう。個人のレベルとか、ある限られた範囲では、醜くさ、俗悪、隷属、それとともに個人主義がはびこっていて、疑いなく原始にあった牧草地という楽園を汚しています。

もっと上のレベルで考えても、第2次世界大戦後の処理で、政治的な全体主義体制と呼ばれるものを排除しようとしたにもかかわらず、依然としてそれが増してきて、それが私たちに不明瞭な脅威になっています。そしてこのレベルでは、ある意味私たちにとって不安な例として、シロアリ、蟻、蜂などの「生命の樹」で人間より先に出現した種で観察されることを知っています。その社会集団が奴隷的な状態を形成していて、その「悪しき苦悩」という兆候を、私たち自身が現実に認識できることです。これはまさに、私たちに強制された置き換えられない定めがあるかのように思ってしまいます。

 

その調査研究がまだ不十分だとしても、このような証拠を見ると、私たちは狼狽してしまいます。これは生命の一般法則なのでしょうか。

生命体として、その種独自の生存は、同じ種の他のものへの隷属を強制されることになるのでしょうか。そして自立的な進歩や個人の自由を増やそうとしても、その意識の上昇や解放は、与えられたレベルを超えると、自動的に自ら止められてしまうものなのでしょうか。私たちは「私」(個人)という表面的な制限の境界線を突き破ることなく、それ以上は上昇しないということなのでしょうか。

もしそうだとすれば、この私たちをつかむ竜巻は、最後は私たちを間化して終わることになります。これはある種の衰退に向かう絶望を意味します。これも、しっかり掴まれて抵抗できない集中する動きを説明する1つの方法です。しかし、この投げやりな回答は、現在の私たちの心を揺さぶって傷つけ、最も簡単に病的に私たちの感受性にひどい印象を与えるものです。(注)

 

(注)他にもこの傾向を説明する3つの元凶があり、それは現代文学、保守思想、実存主義者の印刷物において書かれることであり、もし災害を予言する者として世に出たければ、人を「驚かすこと」を、やさしく書いて誰かに読ませればよいとする風潮です。

 

しかし彼らにはそのままやらせておきましょう。ここではもう1つの方法を説明します。この地球で社会を組織していく問題に対し、時代遅れで疲れるしかない方向には真っ向から反対して、人間が全体としてまとまることに向かうという偉大なる現象を、科学を基本にして、生命とこの世界の新しい見方として、もっときちんとした解釈を作り上げましょう。

生命を広い範囲で科学の目で観察することは、その再発見と再評価は現在すでに始まっています。この考え方を以下に要約させてください。

 

以前の見方は、植物や動物は、その生命体の構造からして、かなり壊れやすいものであることから、そして今まで生命の存在は、時間と空間の狭く制限された範囲で、ただそれを見つけて実際に認められただけなので、私たちは習慣的に生命とは変則的で例外とすることに慣れてしまって、それは巨大な宇宙における、ほんの小さい個別の世界としてしか見ていなかったということです。

しかし、この見方は大きく変わってきています。生命は宇宙で現実に発生するという、新しい方向性が現在の私たちに与えられています。それは微細な構造への追求の成果であり、原子の発見があって、生命組織が分子レベルでより複雑なものであるという発見です。そして、遺伝や進化のメカニズムの観察によって、より程度の高い生命組織へと上昇するという、この「分子」の特徴に一貫性があることの発見です。あらゆる要素における物質の核心には、その中心に不確定性の存在があるということです。

これらの発見からの事実が蓄積された成果は、今までと全く異なる、考えも及ばないほど魅力的であり、潜在する可能性への目を開かせてくれました。

 

ここでいう意味は、生命の存在が、この世界で不可解で奇異なものから構成された、特別なものではないということです。そうではなく反対に、宇宙にあるいろいろな材質が、その適切な位置や構造によって組み合わされて、まったく一般的な物理化学のプロセスの作用によって、まさに最終的に生じた結果であって、(最近一般的に受け入れられている)空間的に拡張したという状況だけではなく、さらにもっと重要なことは、生命それ自身が質的に内面へ折り重なる動き(あるいは内面に配置する動き)によって特徴つけられるということが、私たちの観察経験から見出されています。そして、この「折り重なる配置」の動きは、その進み方に何ら同質の繰り返しがあるのではなく、ゆっくりした時間の経過とともに、たんぱく質、細胞、あらゆる種類の生命体へと、その複雑度が恐ろしく成長し増加するという動きとなっています。

 

私たちの考え方は、習慣的にラプラスのいう決定論に確かに影響されていて、エネルギーの消費や最も高い確率の現象は、物理的にただ1つの事象のみがあるという考えになっていて、複数の複雑性へ向かう宇宙は、部分的な「間違い」ではないかと、そこから本能的に後ずさりしています。

しかし、ちょうど宇宙を観察して赤外線スペクトルの偏移が、星間の遠ざかる速度として受け入れられるように、それよりももっと確かに、生命にある動きは、微小な段階から大きくなって、最終的にはかなり大きい個々に閉じた粒子となる動きがあります。この生命の進化の動きやその経過を観察すると、生命自身は個々に閉じて中心化されていて、よりもっと複雑度を増す方へ前進して、そのとまどうような卓越した作りこみの成果があって、そして「次のものを作る材質」になっていく、という持続的な大きな動きを意味しているのではないでしょうか。(その発展の結果としてあるのが、「私たち」人間という1つの複雑な粒子ではないでしょうか?)

 

この方法で観察すると、生命は本質において全く常軌をはずれたものではなく、私たちのまわりで起こったプロセスの中でも、宇宙の最も基本的な流れの1つであり、さらに最も先進的なものとして、実証的な領域内にあるものです。生命は足がかりを得たところではどこでも、「宇宙的」な粘り強さを持って、持続的なプロセスをいつも同じ方向に、可能な限り到達しようとしています。

 

多くのことを前提として述べてきたので、ここで人間が全体に向かうという価値と重要性に戻りましょう。

 

このプロセスの特徴として私たちが観察していることは、先にも言ったように、テクノロジーによって社会が結ばれて束縛されるネットワークであり、そこにある当初の光景では、私たちの個人的な自由が制限されるとか、機械化の歯車の部品にされること以外は、見えてこないという苦悩があることです。

 

しかし、なぜ私たちはこの同じプロセスのなかで、全体として1つの正しい方向へ組織を構成するものを見出せないのでしょうか。あるいはもっと正確に言えば、私たちはどのようにすれば、そうできるのでしょうか。

最初は純粋に機械化へ盲従するかのように見えることの裏に、生命の本質が進行し持続している、「複雑化」するプロセスが重なっています。もしここで述べる新しい概念が有効であるならば、それが必ず{科学的に}認められるはずです。

 

ここで言う複雑性あるいは物質の有機的な配置を、調査対象やパラメータとして明らかにしたり測定したりする事は、原子や分子の間に起こる、純粋に偶然的とか機械的な集合(偽の集合複雑性)を観察する場合とは違って、精神としての特徴を形成するまでの段階で、その現われとか成長を見ることになります。

生命体における複雑度がかなり高くなってくると、刺激に対する反応や受容とか選択から意識が生じてきます。このような自然のいくつかの法則は、まだ一般にはその確かな一貫性が認められず、物理化学的な論議にはなっていません。それに、まだ「多くの群集の動き」が組織された高い複雑度まで至らずに、それが「群集の残忍性」になってしまうと言われる場合もあります。しかし、以下の事実が議論を越えて言えるのではないでしょうか。

人間が社会的に組織化していくことは、まだ特に生産的といえる長所が見えてはいませんが、科学の進歩が私たちの既存の概念を変更させてきたというのは事実であり、宇宙の端から端までも改定させようとする、驚くべき「科学への衝動」は確かにあるというのは事実です。私たちは科学によって変更していくべきことがあるということです。

 

人間が互いに手を取り合って全体に向かうことは、その心と精神を発達させます。それは「心理発生」とともに進んでいます。それゆえに、これは生物学的な進化の本質であり、そこには段階があり、そして次元をこえた変化があります。

 

今私たちが経験している、人間社会の中に折り込まれている状況を見ると、それは私たちの頭ごなしに、地球で生命が誕生し、そして細胞が生じ、次に思考が生まれたという、宇宙的な折り込みのプロセスがあって、このことの直接的で理論的な拡張以外ではないということになります。科学的に証明できることとして、私の考えではこれ以上の証拠は必要ありません。

すなわち、私が精神圏(Noosphere)と呼ぶ領域内で、そこにある宇宙の材質がより複雑になっていき、もっと複雑にそしてもっと内面化して、現在の人類を超えて明日に期待される未来の人類になっていくという流れが予測できます。

 

私たちがこの見方を受け入れると、いわゆる人間たちの混沌の真っ只中で、私たちのまわりのすべてのことは、その位置が正しく分類されることになります。この世界はそのあるべき道を進みます、それがすべてです。

 

私たちは周りから過剰に課せられた活性化に巻き込まれることには反抗します。なぜなら、そうすることで、私たちが獲得した貴重な「私」という部分{個性}を失うことを恐れるからです。

しかし、その巻き込みそのものが十分魅力的であって適切に制御されており、そして、その活性化が単に「機械化」や「本能」からの行動ではなく、その統合が単に個人を識別するだけでなく、個性化するという本質によって、「互いが同意できる全員一致」(内省的な精神)という全体が生じるとなれば、どうしても見逃せないことではないでしょうか。

 

人類自身を折り込むプロセスに対して、あらゆることを考慮して考えてみると、私たちには以下2つの相反する評価があると思います。このプロセスは明確であり、何も妨げないものです。

 

1つには、地球において私たちが直面した集約に向かう現象は、容赦ない機械化や私たちの人間性の否定に終わるような、まさに衰退に向かうプロセスとなること。

 

2つめは反対に、この集約に向かう現象は、私たちの個性を超えてもっと個性化に向かわせる、生物学的に必然の流れとして、より複雑へと向かう動きの兆候であって、その効果の現われたプロセスとなること。

 

この2つの評価から判断すると、よほど現実に合っているのが2番目と考えます。その有効性は最終的にはまだ示されていませんし、またその評価はまだ認められていません。それでも、私たちの生きる現代という歴史の瞬間を考えると、結果として実際に私たちは、このプロセス上で未来を築かなければならないということを、十分それなりに確かに感じられます。このことが、私がこの文章で言いたいことの核心です。

 

 

選択の時

 

あらゆる領域において、水の流れとか、道を歩く旅人とか、真理を求める理論家や神秘主義者の思考においても、何らの疑問が生じる際に、知識とか道徳というより、物理的に時間や場所における不可避的な転換点があります。そのとき、その必然性からして、そのメカニズムの力とか、あるいは選択の自由からとか、2つの通り道から1つを取る選択として、その1回だけの決定すべき点にきます。

このような強制された取り消すことができない選択、もう1回が決してないという、通り道の途中に現われた選択があると、私たちは苦悩の板ばさみに直面することになります。

しかし、それはまさに社会の中の人が、ここかしこで社会化していく上昇の流れに面して、何人の人たちがその自分自身の状況を見出して理解できているのでしょうか。

 

私たちのまわりで形成され速度を上げてきている全体化に向けた流れにまみれていると、私たちは止まることも交代することもできません。実際に、その次元が単に惑星というだけでなく、それが宇宙の流れであれば、そこから脱出できると考えることさえもできません。

 

私が以前述べたように、この状況で論理的には、「実存主義的」に2つの態度が可能です。1つは、あらゆる手段で私たちへの動きを緩くさせ、孤立への脱出を追い求めて、個人主義のなかに崩壊する危険を冒して、絶望の深淵へと突入し、この流れを拒否し抵抗することができます。あるいは2つ目として、それを私たちの生活に与えられた解放する動きとして受け入れて、互いの協調に積極的に貢献し、そこに生きようとすることです。

 

ここで、私はこの問題の緊急性を示すことが残されています。

いわば水の流れが分かれる点、私たちはこの道の転換点に真に到達したことを示すことが、私の目的です。そしてまた、この瞬間的な今ここという時間と場所において、2つの態度から採用すること以外に、物理的に私たちは存在や行動を続けられないことです。それは人類の統合に反抗するのか、統合に向かうのかという選択です。

 

ここで緊急性というのは、その意味として、大きな問題に面したときに起こる選択の欠如とか引き伸ばしと思えることに対してであり、私たちの態度に深く根ざした、未決断の状態のままにしてしまうことに対して言っています。これは人類が生存すべきならば、遅滞なく解決しなければならない問題です。

 

私たちは、平和、民主主義や人権、民族や個の優生学について繰り返して議論し、それが限界まできて科学研究の価値や道徳性について、そして神の国の真実に至るまで、幾度も議論しています。

しかし、ここでもう一度言いますが、これらの避けることができない問題の各々に、2つの側面があるということです。それゆえに、2つの答えがあることになります。

人類の種が個人において最高に向かうのか、あるいは人類が互いに集約する流れにそって、その複雑度と意識がより高いレベルに向かうのか、この相違によって2つの回答があることを見逃してはいけないと思いますが、どうお考えでしょうか。

 

国際連合とかユネスコのような世界組織の話題が続いています。個人にとっては、これらの存在は無条件に喜ばしいものでしょう。

しかし私たちは、その基本にあることが砂の上で動いているような状況のまま、いつも何かを構築しようとしていて、そのプロジェクトや決定の基底にある基本的な価値や目的について、いわば人間が全体化することに必要な態度については、まだ同意がない状態であることを、私たちは理解する必要があります。

 

それが理解できていないと、このことが私たち現代の政治、そしてイデオロギーが、沈滞している根源が何かということが理解できていないことになります。これは、人間には流れがなく動かない状態にあるという、あたかもこの世界の古い考えに必死にしがみついていることであり、これでは全く不適当ということになります。

そうであるとすると、私たちは今2つの危険に遭遇していることになります。1つに、効率化されることがない混沌状態を継続するという危険があるだけでなく、もっと悪いことに、地球の成熟を達成するために提供される機会を、失うかもしれないという危険に会うことになります。

 

ここに純粋に人類にそなわった、「内省」という言葉の意味において、この「板ばさみ」そのものが現れる悲劇的な本質があります。そこで私たちは、明日の未来の世界に導く道の決定について、それを統計的な偶然の役割として受身的に待つことはできません。

ここでは、私たちは積極的に手を取り合って、私たち自身のゲームにもっと熱心になる必要があります。

 

私が示唆したように、地球そのものが組織的に折り込まれる方向に、救済があることが真実とすれば、行動とそれに反応する繰り返しのメカニズムを通して、生命のプロセスや私たちの歴史の成果があるという確かな証拠によって、この世界の究極にある見方やその見通しを持つことが、その未来を構築することに本質的な部分を演じている、と言えるかもしれません。そうなれば、「魅力に惹かれる精神の領域」という環境を創造することだけが未来に必要で、それがなくては人間性それ自身が収束し続けることが不可能になってしまうということです。

 

繰り返しになりますが、もし進化そのものが、人間が全体としてまとまるという事実を通して、人類が飛躍することが真実であれば、それは情熱的にしっかりと、人類自身が結びついた意識になる必要があるということです。それは、人類がより進歩するには、集約する力強い信条によって維持されることが必要であろうと言うことです。

 

私たちがそれを信じるのか、あるいは拒否するかにしたがって、この逃げ道がない全体となるプロセスは、私たちに新しい生命を吹き込むか、私たちを破壊するかのどちらかでしょう。それが真実と思われます。

 

この極限的状況においては、社会の全体化についての精神の向上と人間性の価値に、積極的な立場で考えようとする信条をもって、まさにこの信条を維持して変化が開かれる方向を発見し、そして飛躍をもたらすための行動が必要です。そしてそれゆえに、次の新しい場面では私たちの「種の感覚」を再確信できることになります。私たちは今これをしなければなりません。

生命は私たちを待つことはないでしょう。そして私たちの状況は安全ではありません。明日になって遅すぎであったと誰が言えるのでしょうか。

 

今日この世界で事実として起こっていることは、あたかも4百年後に、巻き込みがより早い回転になった後から見れば、私たちがガリレオの同時代の知的位置に戻ったと同じ状況になります。

16世紀の人たちにとって、宇宙が動くという考え方は、(これは、かなり簡略した言い方ですが、太陽のまわりを絶対的に地球がまわるという完全な認識があって)、彼らの心の夜明けとなり、人間中心的な思考の終焉というだけよりも、もっと深い影響を与えました。

私たちが当時を考えると、このショックの内面的な影響によって、今日の物理学や哲学での宇宙全体の星たちについての理論になり、宇宙で生命が発生するという概念への道を与え始めたことになります。そのことは、今経験していることよりも、人々にはそれほど重くない負担であり、あるいは行動にはそれほど直接的ではない刺激であったことは疑いありません。というのは、現代の私たちが経験しているのは、静的で分散した個々の人間性という概念から、地球全体の人類発生的な不思議な運命に向かう、生物学的に強制される道を通過する状況だからです。

その当時は、同じ状況で理論の変換であり、心理学的には同じ種類といえる変化でした。いわば、人間の意識が成熟する段階で、一般的で避けられない1つの成果として、新しい観点を採用する必要性はあっても、自由なる強制として、おとなしく従うだけのことでした。

最初は何人かがコペルニクスの見方を通した世界を見始めて、それからすべての人が同じ考え方で見るようになりました。最初のひらめきは過ちとなる危険はあっても、直感的に受け入れられ、そして、その直感は観察と実証によって確信が増していき、人間の意識に遺産となる確信へと組み込まれていきました。

 

16世紀に、すでに歴史の経過として起こったことが、その同じことが再び現代で起こっていると思います。そのとき人は自身で本能的に、このままでは続けられないという感覚で、突然に「壁に突き当たった」ことに気がついて、この現象を明らかにする仕組みの解釈が与えられた方向に、積極的な位置への変化を採用する考えが起こりました。それに従って、彼らは選択をしました。そして私たちが振り返ってわかるように、生命の歩みは、その道の分岐点に達して、そこで人の行動において、人の行動を通して、再び正しい道を選択したのです。

 

それはまた起こることなのでしょうか。私は疑いなくそれは起こるだろうと思います。なぜなら、生命、真実、自由ということが共に統合に向かって本質的なつながりがあると私は深く確信しているからです。これから400年経って、それは私たちにはまだ予測はできないことですが、私たちの後継者が、新しい道に直面することが起こった際に、歴史を振り返って、「400年前に、彼らがはっきり見たことです。その例に従って追い求めよう」と言うのではないかと思います。

 

ガリレオの時代に「地球は動いている」という転換があったと同様に、もう一度、私たちは全員の一致を達成するべきです。現代という時代の社会の現象について、物質的な構築だけなのか、あるいは精神の活性化なのか、そのどちらが価値あるのか認識するときです。

 

ここで、もし私が間違えなければ、このバランスはすでに人間の「惑星化現象」という、正しく本質から組織される情熱の方に揺れています。(その結果としての生物学的な効果については、私たちはまだ予測はできませんが)、私たちがこの世界の組織をより良くできると信じれば信じるほど、私たちはそれを信じる理由にもっと気がつくようになり、そしてより多くの人がそれを信じるようになるでしょう。

すでにその方向に、1つの直感として集約しつつあるものがあって、それは何ものも非難されずに動いているように思えます。(注)

 

(注)私たちが心に留めるべきこととして、人間の全体化の方向における水平線の先は、政治的、経済的、心理学的にはっきりしないけれども、これはあまり重要ではありません。直接的な質問は、この流れが正確にどこへ私たちを運ぶかとか、どんな危険を冒すだろうかを知ることではなく、分岐点に到達して、その流れの行くべき先を単純に決定することであり、いわば、この世界の真の動きから離脱しないということです。

 

天体にある内部の動きとして、地球が太陽のまわりを回る機構的な動きをするという考え方が、現代の私たちに受け入れられているように、幾世代か後では、何らかの新しい「複雑性の空間」にある内部の動きとして、この地球そのものの精神が折り込まれるという概念は、私たちの後継者によって一般的で有用なことになっていると確信する、というのは、そんなに驚くような予言とはならないと思います。

 

Saint-German-en-Laye,4 May, 1949. Revue des Quesrions Scientifique, 20 October, 1949.

 

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現代の意味

2015-04-24 19:21:08 | 日記

現代の私たちは情報の氾濫や技術の革新の中で、めまぐるしい人生を送っています。携帯やスマートフォンで店舗やレストランやを探し、買い物をして現金ではなくカードでの支払いが平気になりました。手紙や文章を書くのは紙ではなくパソコンを使いプリンタで印刷します。そのパソコンも10年前のものはすでに使えず、いつも次世代の機種に買い替えを強制されます。またこの便利さはインターネット上でデータが管理され利用されることが条件になっていて、ある意味で自分の情報を他に委ねて、面倒なことから解放されています。現金を自分でもっていても盗難や事故にあうので、社会に巻き込まれて暮らしたほうが楽になるということがあります。この感覚はもう元には戻れないでしょう。このような現実は何を意味しているのでしょうか。

日本の街を歩いていても外国の人を見かけるようになりました。最近では観光だけでなく定住されている外国の人たちも多いようです。米国の都市ではすでに多くの民族が混ざっているという印象があります。良いことにしても犯罪などの悪いことについても外国の人が関与していることを否定できない時代になっています。混ざり合うならば、その方向で考えざるをえないということになります。この社会で生きるには、それなりに習慣や見かたを変える場面もあるでしょう。倫理の考えが世界で標準化してきて、道徳的に正しいことは誰がやっても正しいし、悪いことは誰がしても悪いことになってきたので、互いがチェックして正しい方向を選択していくのは当然のことです。人が嘘や偽りをいうとき、言う人聞く人の双方が試される機会であり、互いの向上を思って言ったことなのか、自分のことだけを考えて言ったことかの判断が生じます。自分だけがよければいい、あるいは他人の犠牲において自分が豊富になったり得をするのが目的ならば、周りの社会では認められないということになります。混乱に乗じて扇動があるような場面では、その混乱の先を考え、人間として通るべき道として、正しい選択のための試練と認識して、誤った方向に向いた扇動は避けるように心がけることです。ある意味、個性を尊重し理性で互いを認識して交流するという流れがあると感じます。私たちは常に互いの充実を考えて生活する社会に暮らしているということになります。

この現代にどういう意味があるのか、人類の進化が続いている現象において、その1つの段階にあると考えられます。その先を考えて見ましょう。そして現代を振り返りましょう。

 

地球の人類が精神としてまとまっていくのに、政治的に偉大な指導者が必要なのではありません。大衆が互いに思う心が1つになる方向に進んでいけば、おのずと個性によってそれぞれの得意を生かして分担できるようになるでしょう。そのときに、技術の革新によってコンピュータが巨大なデータを管理するのは必然の方向であり、情報がすべて自由に公開されるでしょう。財産はそれを求める人が得られるでしょう。ほとんどの人は何かするのに必要最低限が得られればそれでよいとなるでしょう。人の価値はその個性で決まるので、財産と何の関係もありません。そのため財産のない人がある人の奴隷になることはありません。大衆が自らまとまって組織していくのであれば、国の政治が大衆をまとめる必要はないでしょう。民族どうしが交流し無駄を省くことを考えれば、国という境界は意味ありません。付き合いができない人たちは世界の辺地にまとまって、自分たちだけの社会を作ってひっそり暮らすでしょう。大衆のまとまりが直接的に産地と協同すれば、途中の無駄なことはなくなり、経済は簡素化して裏で物流を操作する人たちが存続する理由はなくなるでしょう。そして、人間はより正しい方向を考え、より精神を複雑にしていくでしょう。精神を充実させることに、よりもっと互いに知り合って向上するための努力に時間を使うようになるでしょう。どんな人でもなんらかの貢献ができる世界になっていくでしょう。

この理想があってそれを考えていると、なんだか楽しく生きられます。今まで無駄だとかくだらないとか思って嫌悪していたり、犯罪や陰謀めいたことでだまされたりすること、争いごとなどがあって落胆したりしたことは、この世界の進行に従って、将来いつごろにはなくなっていくだろう、などと勝手に想像して楽しむことができます。

ただの気休めなのか、それとも現実にありえることなのか、未来次第ですね。

 

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これから先の人間の進化

2015-04-16 00:30:17 | 日記

生物学では生命の進化を学ぶと思います。長い年月をかけて微生物から植物や動物へと多種多様に拡散して、そこから高等な哺乳類が出現して、それから類人猿まで進化し、その経緯から人間が別れてきたと言われています。私たち人間はチンパンジーなどの類人猿とDNAの塩基配列がよく似ていると言われると、何か不思議な感じがします。確かにチンパンジーと人間ではかなり外見が異なって見え、しかも人間はこの世界にくまなく広がって、すべての動物や植物よりも優位にいます。この人間の大きな特徴の1つに大脳の発達があって、思考するという機能が追加され、道具の使用や言語文字の発達とともに現在の形態になったと言われます。そうなると、これからも人類は先に進んでいくのでしょうか。

生理学的な組織やDNAの変化は、進化の時間がかなりゆっくりしていることから、10万年くらいの期間では私たちはその変化を観察することはできません。しかし歴史上のことを振り返ると、私たちの衣食住にかなりの変化がありました。その外見のことだけでなく、中世以降に科学の発達によって、意識にもかなり変化があったのではないかと思います。

とくに最近では時代が変わったとよく言われます。ここ100年くらいで明かにテクノロジーの大幅な進歩がありました。世はインターネット時代となり、世界中で文章や言葉を伝えあうだけでなく画像や動画でも連携しています。その技術の進歩によって意識が変化してきたことがあるのではないかと思います。確かに現代では国や民族が違ってもいろいろな情報が世界中で共有されていて、どこかで何かがあっても誰かが見てレポートしています。これは今まで国とか民族というくくりの中で物を考えてきた習慣からすれば、かなり大きな変化であり、地球上の人々の交流がますます盛んになるということだと思います。

そこで、ちょっと前まではあまり考えなかったことですが、公共の報道機関や、国家や民族を代表する人たちの言うことが、本当に正しい内容なのかと問われることです。事実を歪曲して自分たちの都合の良いことだけしか言わないのではないか、あるいはその言葉の裏には何かがあるのではないか、などと私たちは考え始めています。つまり大衆のレベルで批判精神の高まりがあります。

例えば、化石燃料を使わない、クリーンで経費のかからない動力機関があったとしても、現在は既得権益を得ている業界がそれを阻もうとして、つぶしにかかるということがあります。似たようなことは医療や食品の業界にもありそうです。その時点では自らの利益を守れても、批判精神が高まってきた大衆をそのまま「だまし続ける」のは難しいでしょう。すくなくとも世代の交代を重ねることで、結局は良いものは良いとなるはずです。

また、人口増加はなぜ急速に起こってきて、止まらないのでしょうか。単に生活水準の向上や医療の発展の結果だけでしょうか。これに対し将来の食糧問題を懸念して、人口を削減しようとする陰謀めいた話もあるようです。しかし多くの人を納得させる流れというのは、決して少数の人たちだけが得をする状況の継続ではありえません。正しい批判を持つ意識の高まりを大きくするには、かなりの人数が必要だとは考えられないでしょうか。言語が違っても意志の疎通はあるといいます。開いた心は言語を超えるということです。互いの交流がもっと進み、自分や家族だけを考えるような利己主義がだんだん少なくなって、どんな人とも心と心が通じ、互いの個性を尊重し認め合う人たちが増えて、未来の世界を切り開いていくのではないでしょうか。そこでは、お金が多い少ないとか経済的な環境、能力や地位などは関係ないはずです。大衆のレベルでは互いに「思いやりの心」を持って1つになっていくのではないか、という気がします。ここに、これから先の意識の進化があるかもしれません。

 

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精神圏(Noosphere)についての分析 (2)

2015-04-04 23:57:18 | 精神圏とは

精神圏(Noosphere)についての分析 (1)からの続きです。

精神圏についての分析の後半です。これからの精神圏の未来についての話になります。

 

(注)Noosphere(ノウスフィア)について、はギリシャ語でNousはMindであり、この言葉としての意味は「人間思考の領域(Sphere of human thought)」となります。

 

 

精神圏(Noosphere)についての分析 (2)

人間の未来について

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン


4.精神圏(Noosphere)の段階とその未来

 

私たちは生物学的なプロセスをはっきりと識別する見方を取り入れて、この社会の全体性が表現できることがわかりました。もう少し進めて、未来をしっかり調査して私たちが今話題にしている歩みの方向を予測できるかもしれません。

 

ここで、人間が集約した有機体としての精神圏というものが、再起の一般法則(生物の進化に現れる繰り返しの現象)にかなうものであり、それは宇宙において複雑に向かう機能と意識の高まりに導くものであって、その大きな展望が私たちの前に開かれていると、ここで一旦受け入れてみましょう。そうすることで、人間としての上昇する曲線を拡張して、どのような場所に、どんな道を通って、私たちが未来に運ばれているのか予測できるのではないでしょうか。

 

今私たちが直面しているのは、(実際にすでに進行している)「惑星化の段階」とでも言える状況にいることです。ここで疑いなく真実であると思えることがあります。それは人間の集団が地球の表面を長い間拡張し続けてきて、その長い期間にわたって、その動物学的な広がりが、1つの組織的な集合に向かって変化しつつある傾向になっていることです。しかし、今この変化はその成熟の段階に達したばかりのところにいます。そこで、この集合の長い歴史の主要な段階をちょっと見てみたいと思います。

 

最初に、過去の深淵の中において、私たちは薄く散らばった狩猟集団が古代世界のここかしこにわたって広がっていたことがわかっています。その後の段階では、1万5千年前ごろ、より密集した状態として明確に定義される2番目の散らばりの段階がありました。豊穣な谷間で始まった農業の集団のことです。社会生活の中心、そこで人は、安定した状態に到達して、新しい世界に侵略するという拡張力を達成しました。それから、ほんの7、8千年前に、最初の文明がいくつか起こり、大陸の大きな部分に広がっています。これらは実質的には王国として続いていました。そして同じような動きが大きく成長して、しばしば互いに侵略し、また大きな部分では分裂や統合を繰り返していました。

私たちがこの過程で見るように、必然的な動きとして広がって厚みを増していく集合の状況は、その成果が見てすぐにわかることです。その結果として、人類はその地図から最後の空いた場所さえも消してしまったことになります。現在地球上のあらゆるすべての場所で接触があり、そしてそれはより密接になっています。今日経済的あるいは精神的なネットワークに組み込まれて、いくつかの大きなブロックだけが互いに面して残っています。いずれにしても結局のところ、これらのブロックが集合する方向にあるのは必然的なことではないでしょうか。「共有する衝動」の波が先行して振動して、社会のそして民族や大衆の欲求のまさに深いところから要求が生じ、階級とか皮膚の色の区別なしに、人間の事象が前進しながら変化することにおいて、最終の行動はすでにはっきりと準備されています。その形態はまだ識別されているものではありませんが、人類の明日は「汎組織化された」世界として目覚めようとしています。

しかし、私たちはこのことについて間違ってはいけません。私たちが向かっている統合の状態と、今まで知っていたすべての集合との間には、本質的な違い、すなわち段階の相違があります。歴史上の偉大なる王国は、地球を部分にしか決して征服できませんでした。ここで全体への変化ということで探す必要のある新しく示唆される特別なことは何でしょうか。

 

いままで、私たちはこの地球上で、それぞれに分かれた集団の中で落ち着くこと以外には気にかけていませんでした。ここにどんな種類の流れが生じているのでしょうか。どんな不明の領域が開かれているのでしょうか、その全体集団はいつ突然に完成するのでしょうか。

今この惑星の人間として形をなしていることは、本質的には進化それ自身の再起{繰り返し}であるということを私は信じています。多段ロケットが段階的に切り離されて、再度火がつけられて新しく発射されるように、その衝動が発射する物体を私たちすべて実際に知っていることであり想像できることです。そういった行為のいくつかは、その最高の究極の状態を完成するための流れとして、生命がすでに用意しているように私には思えます。

その始めの段階では、この惑星上で受けとることができる、あるいは解放されるエネルギーの要素資源を使って、不合理な結びつきも含んで、人に至るまでの、より低位な状態の有機的組織を仕上げることでした。そして2番目の段階では、それまでの進化を超えた人類への進化です。個人的に集約的に、精神圏のもとで科学的に適応されたエネルギーの磨かれた形態の使用によって、すべての人が内省的に作用して、その全員が自身で一致するように協調した努力のおかげによる進化です。

 

私たちは有機的組織に巻き込まれて、どこへ行くと言えるのでしょうか。原子の結合についての知識、ホルモン、細胞、遺伝の法則は私たちをどこに運ぶのでしょうか。どんな力が解放され、どんな放射があって、今まで自然によって決して試されたことがないような、どんな新しい配置の動きがあるのでしょうか。私たちがこれから、どんなすごい力を世界の歴史において最初に使うことになるのでしょうか。

人類という種が創造されたときに確立された出発点があり、そこから生命の2番目の冒険が始まったことになります。しかし、このすべてはまだ現象の外面的な状況以外のものではありません。惑星化することで、人間性はテクノロジーという新しい肉体的力を獲得しています。その力は物質を超組織化させることができるものです。

そして、より重要に思えることは、そのメンバーの直接の収束によって、あたかも共鳴現象のように、その存在がまだ思いもよらない精神の力を解放できる可能があることではないでしょうか。

 

最近私たちの心の中に、発生学的な期間の認識、集約する傾向への感覚について、ある種の新しい能力が現れてきていることを、私はすでに述べました。この目覚めは必然的に自然な結果として、すべての面から、私たちにある有機的で一般化した感覚へと拡張していきます。この感覚を通して、人間や宇宙の内面性について、まさにこのまったく複雑であることが、即時的に親密性を持って現実とともに満たされて、長い間夢でしかなかった「宇宙の感覚」による特別なある種の精神によって理解されるようになります。しかし今はまだそれは決して集約的には適応されていません。

 

そこで、その深さと新しい内面的な恵みの領域において、いままで実現が不可能と思われた、惑星化された生命の属性に1つの事象が追加されるように思えます。私が意味するのは、「思いやり」で結びつく心の力が人間大衆へ浸透することです。それはある意味受身的な感情として心や精神を連携するものであり、今は特定の人間にだけに時折とか偶発的に起こる「テレパシー」の現象が、一般的で普通になると思われます。

しかし究極には、それが能動的な「思いやり」の状態になるでしょう。そこでは各々の離れた人間要素は、精神圏で発生した高い緊張状態にある「共有衝動」によって、個々を絶縁する仕切りを破って、すでに理論的に推測される、不思議な親密性の分野を生じさせるでしょう。私たちを構成する原子たちの間の引き合う力がかなり強いものであるならば、同じように人間分子たちの間で引き合う力も同じであると期待できないでしょうか。

私が言うところの人間性は、私たちが目に見える範囲でその脳を構築しつつあります。未来の明日があるためには、その互いに引く力の動きが、論理的そして生物学的に深くなることを通して、「その心」を見出していかなければ、統合の力による究極の全体性が決して完全には達成できないということではないでしょうか。

他の言葉に置き換えると、精神圏で今起こっている技術革新を伴う外面や合理性の領域での構築的発展は、互いの結びつきという感情の領域へも必然的に浸透していくものではないかと思われます。

 

このアイディアはすばらしく魅力的に思えます。私たちの現実の世界を見ると、まだ憎しみや嫌悪の力が優位になっています。しかしこれは、私たちが科学から学べることを、単に拒否しているからではないでしょうか。科学とは私たちがあらゆる領域で、毎日のように試行錯誤をしていることであり、不可能にも思えたことを容易にできるように変え、さらには直接的で必然的にさえしていることから、この次元の段階においては、まさに「変化があった」ことになります。

 

少なくとも私にとっては、2つのことが今確かに思えます。1つは、私たちはすでに達成した集約的な組織の状況に従って、惑星化への過程が全員一致の成長という方向に、より一層前進していることです。そして2つ目は、この全員一致の成長は、その収束という本質を考えると、本来あるべき限界に到達せず無限に続くことはありえないということです。すべての円錐形は頂点を持ちます。人間の集合のケースにおいても、その集合の最高点を、ただ想像するのではなく定義できるものとして、どのように私たちは追い求めたらよいのでしょうか。

 

私がこの文章全体で採用している経験的な事象という見方からは、以下のように言えると思います。

まさに最初に言えることとして、人を人として作り上げているものは、私たちが知っているように、それは個々の意識の高まりによって、内省の力を獲得したという点にあることです。そして私が示したように、人間の進歩の測定とは、世紀が過ぎるに従い、互いに作用し意識する心の、内部の関係あるいはつながり合う思考を通した、この内省する力の増加にあります。

そこで、進化の究極の段階において、集約的人間性としての最高の栄誉あるいは限界となるべきものは、持続性と自立性の理由から、全体としての内省的機構の中心部における、ある種の焦点を確立することにあります。

 

もしこれを認めると、人間の歴史は全体として2つの限界点の間での進歩として表せます。低いほうは要素の意識としての中心点であり、究極のものは内省の精神圏の中心点です。

生物学的な意味で言えば、全体としての精神そのものが中心化されるときにのみ、(それはまだ数百万年かかるかもしれませんが)人間性はそれ自身を完成しその内部的平衡を達成します。

 

かなり先の離れた未来での、最終的な思考の努力による、究極の最高点のことを今は考えないでおきましょう。しかし現在から言えることは、私たちが今ある流れの先には、何らかの最高点に達するということです。この水平線に刻まれた最後の頂点を越えて、もっと先に何か識別されるものはあるのでしょうか。あるいは、ないのでしょうか。

 

まずこの考察の始めの段階では、「ない」となります。なぜなら、その不思議な極点は、私たちを導いた指針の複雑な絡み合いや混乱を超えて最高にまで上昇しています。そこでは「意識と複雑性」の法則によって、より多くのより良く組織化された要素が増加しつつある巨大なシステムの中心から生じている、かつてなく中心化した意識という位置にあることになります。

しかしそのとき、私たちは完全に新しい状況に置かれています。今のところ、私たちは以下のように考える以外に他に方法がありません。それは今の時点で不可能に思われることですが、私たちが地球以外の考える惑星とのコンタクトができる運命にあると仮定すれば、深淵なる時間と空間を通して、ある日地球以外の多くの精神圏で構成された組織的な複雑さの中に統合されると思われます。人間性はその成熟に達して、人間性だけがそこに対面した状況で残るでしょう。そして同時に、私たちの再起の法則は、内部関連の統合の役割が基本であることからして、その作用をやめることになるでしょう。

1つの考え方として、すべてがここで終わりとなるように思えます。あたかも精神圏的内省の最終点に達して、この宇宙的衝動は、天体の法則によって示唆されるような、容赦ない崩壊の状況に沈み込んで、尽くしきって終わる運命ということです。

 

しかし、もう1つの見方として、何も終わらないと言えます。この究極の点では、その力の強さにおいて、個人の意識は他の作用が加わった驚くべき特徴を得ています。それは今までは言ってこなかったこと、「生きる意志」に関する内省の主要な特徴のことです。自身で内省することにおいて、個人の意識は未来を予測する驚くべき特性を獲得しています。それは死を考えることも意味しています。そして同時に、生命がその目的の追求において、もし何らか最善の仕事が全体の崩壊から守られることがなければ、作用し続けることは心理学的に不可能であり、無駄な努力であることはわかっていることです。

 

ここに生命の行動の全体性という問題が存在します。私たちはまだ、この絶対性について要求される事実の十分な説明を持っていません。この絶対についての要求は、分離している人間要素では容易には識別されないことですが、精神圏において成長し強められる衝動の1つです。全体の滅亡という考えは、個人の範囲で考える分には私たちに訴えるものはありませんが、人間性の全体に拡張されれば、それが反感となり私たちを悩ませます。

集約した人間性がそれに要した期間やその数にある潜在性にもっと気がつくようになって、そして生きていくために耐えるべき重い負担があるとわかると、もしこのすべての負担への努力が何の結果を出せずに終わるというならば、私たちは「だまされた」として反抗するだけ、となるのは事実ではないでしょうか。惑星化された人間性においては、「不可逆であるという一貫性」は特に必要とされる特徴となります。そして生命それ自身はより豊富でより重い負担とともに、成長し続けなければならないことになります。

そして、それは逆説的に究極の中心点でのことです。それは宇宙的にユニークに生じており、いわば明らかにそれ以上の統合ができない点であり、その精神圏は精神のエネルギーの最大程度に充電していて、なおまだ他への前進へと向かうことが強要されています。

そして、ここで期待されることは以下のことです。ある惑星が太陽系の中に残ることなく横切って進む軌跡のように、意識の曲線は複雑性を成長させるコースを追及しながら、時間と空間の物質的枠組みを突き超えて、どこかの超中心の統合と一貫性のほうへ向かうものと思われます。そこでは最終的に、この世界では置き換えられない、そして伝達されえない、詳細にわたるすべてのものが組み上げられるでしょう。

そしてここで、生物学の領域において必然的に立ち入ってくるもの、科学の領域におけるその適切な場所において、神の問題に至ることになります。

 

 

結論: 自由ということ

 

それでは、私たちが考察してきた道を振り返ってみましょう。

最初、私たちのまわりには、互いに結ばれていない混乱した人間性だけが見えていると考えていました。群集や大衆、そこには残虐なことや醜いものだけが見えていました。

私が試みたことは、読者に対し最も一般的に受け入れられている科学からの確固たる結論によって、この苦悩の情景を何とか超えられるように励ますことです。そして私たちがより高く上昇するように、より明快な形が得られるような予測をしようとすることです。最後の日に咲く巨大なハスの花のように、私たち自身の中でゆっくりと閉じていく惑星の次元における、人間どうしが組み合わさって作られる大きな花びらを見ようとすることです。

この巨大な花びらにおいて、その折り込んでいく圧力のもとで、精神のエネルギーが、ゆっくりと巨大な全体性のメカニズムで開放されていき、それから遺伝の機構によってある種の超頭脳のなかに集中して、その力の中心は少しずつ、かつてないほどより強く成長しながら、普遍的な将来像へと変化します。この穏やかで力強い見方においては、個人レベルの細かい例外や混乱の状況があっても、個々の心の中では、静かで落ち着いた大きな不可抗力的な動きが優位となって、全てが含まれ全てが宇宙の部分とともに調和することになります。

 

生命と意識はもはや自然における偶然の例外ではありません。むしろ生物学において、物質の物理学に対する補正を意味するものです。繰り返しますが、物質の世界では材質が要素のエネルギーの放射を通して分散しており、そして生命の世界では、その同じ材質が思考の放射を通してもう一度収束しています。本当の終端がどちらかにあるのではなく、1つともう1つが確かに釣り合う必要があるのではないでしょうか。結局、この調和は究極の見方、もう少し言えば、未来へのプログラムにおいて達成されます。もしこの見方が受け入れられるならば、私たちの前途にはすばらしいゴールが見えることになります。そして進歩のはっきりした流れが見えることになります。一貫性があること、そしてより豊かになること、これは真実の2つの基準となります。

 

これは幻覚なのでしょうか、それとも現実なのでしょうか。

決めるのは読者です。しかし躊躇している人やそれを認めない人たちに対しては、私は次のように言いたいと思います。「他に何か良い考えをお持ちでしょうか、人間の過去の発展と現在の進歩の流れの中で、人の現象を全体として考えて、もっと科学的に良く説明し示唆する何かもっとよい考えをお持ちでしょうか。」

あなたは、以下のように答えるかもしれません。

「それはそうですが、一貫性が要求されるシステムにおいて重要な要素が何か欠けているのではないですか。ものすごい機械化が発展する機構のなかで、1個の人間として個性をもつ生物としての価値を超えて、何が貴重なものなのでしょうか。そこで、私たちの選択と行動の自由は残されているのでしょうか。」

しかし、この見方では、私が言うところの、どこにでも現れていて、すべてにおいて高まっているということを、わかっていないということではないでしょうか。

 

私たちは、ある種の生まれつきの強迫観念から逃れられないということを、私は良くわかっているつもりです。それは可能な限り個人として離れた存在とすることで、自分自身を最も良く知ることができる、という考えのことです。しかし、真実はこの逆ではないでしょうか。

 

私たちの各々において、まさに本質によって、すべては要素の状態において、行動の自由を含んでいるということを忘れてはいけません。その自由というのは、私たちは適切な方法で他人と交わり、連携することによってのみ、より広く自由が達成できるものです。これは確かに、ある種の危険な作用に思われます。なぜなら、それが混乱した混ざり合いとか、歯車のかみ合わせの協調だけとか、何か単純な形のままに留まって、私たちの行動が互いに打ち消しあい機械的になる傾向というのは、あまりにしばしば実際に見出せることです。

そうではあっても、それは有効なことです。なぜなら、共通した見方あるいは共有する情熱において、精神から精神へと伝わることは、疑いなくすべてのことを豊かにします。たとえばチームで何かをするとか、恋人のケースを考えれば理解できます。互いどうしの「思いやり」で何かが達成されるとき、統合は制限ではなく、私たちの存在の可能性を高めることになります。

私たちはこれを毎日のように、あらゆるところで見ていますが、ある限られた範囲でしか見ていません。もしこの法則が物事のまさに全構造に適用されるとしたら、1つの大きくすべてを包むスケールでは、なぜそれがより相応に価値があることにはならないのでしょうか。

これが2つに分かれて引く力が作用する分野では、単純にどちらの力が強いかという緊張関係の問題です。そして、純粋に機械化された何らかの配置にあって、盲目の状況で集っているケースでは、大きな数の法則の効果が私たちの活動に現れることになります。それは真実のことです。

しかし全員一致が重要なことであると、内面から理解して集まっているケースでは、その効果はそこに含まれる個々をより個性化することになります。そしてその個々はその個性によって的確に配置されることを付け加えたいと思います。1つの個の自由は離れた状態では、弱く不確かなものです、そして試行錯誤によって容易にそれ自身が失われるかもしれません。しかし全体としての自由は、その作用が自由であるがゆえに、その最後にはその行くべき道を見出します。

 

そして、この文章全体を通して、この世の中に関する人間の自由の選択において、私が本来ある不確実さを最小にしようと追求しないでいるのは、私たちは惑星化の道を収束という方向に、自由と制限との両方によって動いていることを、私は暗示的に意味しているからです。ある決定が宇宙の進化の何らかの過程の「最後に」現れると人は言うかもしれませんが、まったくそれとは違う形態になっています。低い端においては、自由が制限され最も可能性のある方向に強制されており、高い端では自由が勝利して不可能の方向への上昇となります。この間を動きながら進んでいるということです。

 

そう考えると私たちは安心してよいかもしれません。私たちが包まれている巨大な社会あるいは産業の未来システムは、私たちを押しつぶすという脅威にはなりませんし、私たちの精神を奪い取ろうとしているのでもありません。そこから発散するエネルギーは、その力を使うことができるという意味で自由というだけでなく、もっと自由です。なぜなら、そのシステムは全体のなかの最小の要素であってさえも同じように、よりもっと精神化されているという状態において生じているからです。

精神圏の心に達することによってだけ、(今日はっきりわかっていることとして)、私たちのすべてが一緒になっても、その各々が個々の状態のままで、人間性の充実を見出す希望を持つことができ、実際にそれを確かにすることができます。

 

Revue des Questions Scientifigues (Louvain)

January, 1947. pp. 7-35.


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