Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

生命の流れにある方向性

2022-12-31 03:52:09 | 精神のエネルギー

生命の流れにある方向性

はじめに

おおよそ物質というものは外から力が加えられなければ、常に変化を続けることはありません。しかし、生命という不思議な現象を現す生物は、自らの内部で常に変化を起こして活性化を続けます。そして個々の生物はそれぞれ種の継続だけをしているように見えますが、全体として様々な成果を地球にもたらしています。一例をあげれば、私たちが暮らす地球では、空気中の酸素組成や食料循環などの環境を整備してきたのは生物たちの働きです。それぞれの生きている間は食料の循環に組み込まれて成長し、増殖あるいは生殖を繰り返し種を維持しています。しかし、個々の生物は生を続ける動きはしていても、何かの危険や障害あるいは一定の期間で生を停止します。生物の種は多くの誕生と死を重ね、現時点で残った種は幾多の困難を克服して続いたことになります。生物たちは生きるための活性化を続けていますが、死すなわち活動の停止は各生命個体にとって不可避のことです。そして世代を重ねる間に、個々の生命活動の裏には進化の力が働いて、徐々に複雑な種へと推し進めます。現在、その変化の鍵となる遺伝子の分析研究は詳細レベルにまで進んでいます。しかし、その配置や組み合わせが組織や様々な機能と関係することがわかっても、なぜそうなったのかを知ることはできません。生命個体が以前の組織の上に重なりつつ複雑な方に向かって変化が起こるのは不思議なことです。生物が活性化を続けられる仕組みや長い時間の経過で進化する仕組みは、そこに巻き込まれている私たちが知るよしもないことなのでしょうか。

生命が動物となった初期のころから神経系の萌芽があり、それが徐々に複雑になって末端に神経が集まり脳を形成しています。生物は物質を取り込んで活性化しながら、生を維持するだけでなく、脳そして大脳への発達という方向がありました。そして大脳の形成は、身体の制御を超えて、自己を意識するという精神的な機能へと移行しました。長い道のりを経て私たち人類という種が地球に現れています。人類以前では、生物は種の継続を基にした行動していますが、大脳の発達した人類は体系化した言語を獲得して思考しさらに内省することを始めました。人間は自己を明確に意識しています。もともと生物にとって、活性化を維持するための食料確保や生殖などの行動は生物に仕組まれた「欲求」です。これに対して、私たち人間の日常生活では「やる気」とか欲望によって行動が支えられています。それは生きるためというより内から湧いてくる精神的なエネルギーのようなもので動かされていると感じます。言い換えると、生きるためにしょうがなくやるというだけでなく、自己の思いにかられて行動を起こしていて、それは自分が意識した動機による欲求から起こったものです。そうであればこそ目的が完遂されたときには充実感伴います。現在では人類がその精神エネルギーによって作り出した様々な成果物が善かれ悪しかれ地球の隅々まで浸透しています。

 

精神のエネルギー

避けられない危険に遭遇すれば生命を落とすしかない生物に対して、人間はなんとかしようと手段を考えて対処行動を編み出します。また不便と感じることがあれば改善して新たな道具を作りだします。自分のやりたいことを意識したとき、何らの障害や困難な状況に直面すれば進むか退くかの葛藤が起こります。それを乗り越えようとするとき、そこに精神のエネルギーが起こります。悩みや葛藤に対して、緊張が生じて自己の意識が集中し頭脳を働かせて対処しようとします。これらに関与しているのは、単に生きている状態を保つというよりまさに精神エネルギーの欲求による行動となっています。それは生物にある生命の維持行動とは異な、大脳が発達した人類の行動の基本です。人間は自己を明確に自覚していて内省しながら未来の行動を考えます。しかし個々に多様な状況で生じた精神エネルギーの欲求は、善に向かうことも悪に向かうことも可能です。何を考えどうしようとも何でもできる自由があります。世の中には善人も悪人もいるし、他人を助けようとする人もいれば騙そうとする人もいます。人の数だけ個性があって、善や悪だけでなく良心的や排他的な行動もあり、利他主義もあるし自分勝手に行動することもできます。精神のエネルギーは生命の維持に逆らうこともでき、敢えて苦しみを経験して解脱へと昇華することさえします。無益な争いや殺し合いから生じる暗闇との葛藤から新たな心境が起こることもあり得ます。他人に迷惑をかけてさえもお金の獲得に執着する人もいます。さらに最悪では、一部の人の破壊行動によって人類全体の滅亡すらあり得えます。

人間という精神のエネルギーで行動する存在が、生物において生命の活性化を継続するだけの段階を超えて現れたのは何故でしょうか。そして、これからも、生命として与えられた枠は超えられませんが、人類が醸成している精神エネルギーにも発展する方向があるはずです。しかし、人には様々な個性があって、そこに決まった方向性などないようにも思えます。そこに善悪は関係ないとしても、精神エネルギーの方向はどうして決まるのでしょうか。生きるエネルギーから派生したと思われる、この多彩な精神エネルギーはどこへ向かうのでしょうか。私たちの段階では悩んで葛藤して、それだけで終わる人生しかないのでしょうか。そして、私たちの時代に変化の兆しはあるのでしょうか。自己を自覚してはいても、生命の底流に気が付けないまま、精神エネルギーを多様に発散させている段階にあるということなのでしょうか。

 

不可避の傾向に希望を見出す

それぞれの個性から生じた多彩な精神エネルギーの向かう先をいろいろと考えると興味が尽きません。もし多くの人間が自分勝手な行動をして自分の利益だけを目指して行動すれば混乱しか生まないでしょう。しかし、世間では他人に迷惑ばかりかける人間たちが蔓延しているという話も聞かないし、現実の世の中はそれほど混乱しているようには思えません。一方で、生活様式が多様にな経済流通が盛んになって私たちの暮し変わってきました。世の中に溢れる商品や製品の豊富さが混乱のように見えています。豊富な物資に囲まれた生活をするだけで私たちは満足できるのでしょうか。お金や財産を多く持っていることで解決できることも多いですが、それだけではありません。生活の充実と精神の充実は違うことは理解できます。豊かな生活を求めるだけでなく、心の豊かさや精神的な充実感に対する憧れのようなものもあります。私たちは与えられた枠組みのなかで、ただ漫然と時間を過ごしているだけではないでしょう。私たちの心の奥では精神エネルギーを活性化しながら発展する方向がどこにあるか試行錯誤をしているはずです。

ここで思うに、私たちは未来を見据えた目標に向かって精神エネルギーを使っているのでしょうか。私たちは物事を客観的に見ることができると思っています。しかし、それは大脳が培った自分という主観的な見方において、客観的であると判断しているだけのことです。私たちは本当に正しく見えているかどうか証明ができないのに、主観的な観念に囚われて現状を認識しています。現時点では実際は本当はどうなっていのか思いもつかない現実があります。しかし、ここで明確なことがあります。地球に生命が存在し進化したこと、人間が自己を自覚する意識を持って自ら考えることができること、これらのことは生命が人類に向かって歩んで実現した不可避の傾向によるものです。すなわち生命の流れということに信頼するしかないという状況に追い込まれていると感じます。ここに生命という仕組まれた環境のなかで自分なりに発見していかなければならない苦渋の行動があります。いちいち悩んでいては日常生活ができません。先の見えない問題において、広がりがある可能性の中で先を考えるのは限界があります。幸いにして現代人の人生では子育ての期間を終わった人は考える余裕が生まれるはずです。そこで意識が徐々に明確になっていくことに期待するしかありません。毎日を過ごしているなかで、折に触れて内省し意識を上昇させている人も多いるはずです。

生命の経過を振り返ってみると、生命の仕組みが人間において新たなる転換を果たしています。生命は人間に仕組まれた精神という新たなる領域へ踏み込んで、進化をさらに大きく進めました。その方向にはしっかりとした底流があったからこそ、例えば大脳のような複雑な組織が構成されたと考えます。しかも、生命の流れがこれで終着点であるという証拠はどこにもないので、変化そのものは究極を目指して続くはずです。理屈抜きで、生命の流れは目的を持った方向があるだろうと思うしかありません。私たちが生命に関するこれらの現象に気づくことができたというのは、与えられた課題のようなものであると思います。生物の個体組織が発展してきた経過は、環境に適応して種を維持しながら、組織や機能を複雑にする方向に発達しました。この系列から想像すれば、精神の領域においても大脳の機能は今後の複雑さに対応していくでしょう。現実にも様々な電子機器や社会構造はますます複雑になり、私たちもそれに適応しています。携帯やPCで複雑なツールやゲームを自然と使いこなしています。これは頭の回転や指の反応速度などの表面的なものだけではないでしょう。

人類において未来への希望とは何でしょうか。未来の人間とは私たちの上に重なるものです。現時点の発展の可能性において決まった方向があるならば希望があることになります。私たちの大脳は現在も進化の中途にあって前進を続けています。そこに希望を見出す必要があります。生命という現象は仕組まれたものとしても、人間である私たちがそのすべてをわかっていない複雑な状況に気づいています。この精神という人類が得たものが大脳の形成による内省の深まりであるならば発展させていくべきでしょう。複雑になっていくことに気づいたこと、わかっていないということがわかってきたことに意識の上昇があります。現時点での精神の発展の可能性においても、生命の不可避の流れに希望があります。一例として、誰かが人類の精神にとって前向きな考えを持ったとして、その誰かが考えたことは人類全体に波及する可能性があります。そういった通信や交流する環境はすでに世界中に構築されています。大部分の人々が無視していても、受け取る人は受け取るということになります。その前向きの考えが精神として人間の思考全体に波及する方向がありえます。そのような前向きへの認識から精神を発展させる知性があると期待できます。活性化のための生命エネルギーは宇宙に仕組まれた枠にあるものだとしても、精神エネルギーは生きるエネルギーと異なってその束縛から解放されています。私たちの日常の行動は、何となく習慣的に無意識に行うものがある一方、自己の思いを推し進めようとする「やる気」によって意識して行うものもあります。

精神からのエネルギーが生むものは、精神の崩壊からの逸脱であり、精神の奥に潜む「よりどころ」の発見にあるはずです。言い換えれば、まわりのことに頼るのではなく大切なものは自分の奥にあるという現実の発見です。人間の個性は多様な分布となっても同質や無意味な平等の方向には発展しません。しかも誰かが考えたことは人類全体に波及するように世界は並列に変化します。大部分は無視する状況があっても受け取る人は受け取れるという意識によって発展します。現時点では深く内省するのは一部の人でしょう。いまだ人類全体としては目先のことに振り回されている状況は確かにあります。しかしここで、現時点で大脳の発展が終わったと思える兆候はなく、現時点はまだ発展の中途段階であり、これからも続くということを強調したいと思います。不可避の傾向が底流にあるからこそ、心の奥にあるものを信頼できるということです。私たち一人ひとりの心にある萌芽に、未来の知性期待して良いのではないでしょうか。

Written by Ichiro, 12/30/2022, 

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