生命と物質について
はじめに
現代は世界のあちこちで何らかの紛争があり、その情勢がなかなか収まらない状況にあって、各地で起こっている争いに巻き込まれた地域住民の心配は募るばかりです。昨今の情勢はいろいろな要因が絡み合い、原因と結果が素直に対応していないので、解決の糸口を見出すのは困難を伴います。その国家や民族どうしの紛争の要因は、武器の出入が絡んだ利権とか背景の歴史や宗教の経過が連携して、状況を理解するのも大変なようです。離れた場所で暮らす私たちは、紛争地域の住民の苦悩が早く解決されるようにと願うだけしかないのですが、昨今ではさらに紛争地域からの難民が増加するという新たな問題も起こって、ますます複雑化している印象があります。
一方、私たちの生活は、世の中が1つのゲームになったかのように、娯楽や暮らしに新製品が次々に出現して対応を迫られ、クレジットカードや金融商品などが氾濫する中で、金銭の効率やその時間などを考えながら暮らすようになっています。世の中はお金の流れとともに、日々の生活が複雑さを増してきて頭を使う場面が多くなっています。また人々の考え方が多様化してきて、お金とか利益を目的にしないボランティア活動や災害援助活動も行われています。そして個人の人権や尊厳についての非合法な扱いがあると自分の国だけでなく世界中の人々で話題になります。このような大衆の一般的な動向からすると全般的に人々が地球規模で結びついていくような感じがあります。この広がりはインターネットという場を通して、民族や国家という壁を越えて話題が共有され、それが少しずつ人間全体の意識となっていくように思わせます。しかしニュースでもインターネットにしても、そこに作り話や何らの操作があると言われ、すべてが正しい情報とも言えないようです。私たちは何が本当なのか、どっちが正義かわからないという混沌とした状況の中で、自分の主張や行動を決める必要があります。
地球の未来は人類が担っていると言われますが、果たして、私たち人間は正しい方向に向かっているのでしょうか。このまま利害関係の争いと道徳の混乱の中で自滅する道にあるのでしょうか、それとも困難な状況を乗り越えて正しい道を進めるのでしょうか。そんな不安があるとき、「生命」が長い時間をかけて歩んできた道を振り返ることが必要かもしれません。その何億年もの経過を想像すると、生命には数知れない困難や壁があっても、そのたびに消滅の危機を乗り越えて、粘り強く生き抜いています。そうでなければ私たちは存在していません。そして単純な細胞から私たち人間まで、ひたすら複雑化する階段を着実に上ってきているので、その細胞内の遺伝情報には数億年の膨大なる積み重ねの履歴があるでしょう。そう考えると、現在に遭遇している混乱がいかなるものであっても、生命の進行はきっと無事に切り抜けて先の段階に進んでいくという希望が持てます。ここに生命の粘り強さの不思議があります。
しかしよくよく考えると、生命とは言うけれども、生命も原子・分子からできているのであり、私たちのまわりの物体と、どこが違うのでしょうか。一般に、私たちは生命を普通の物質とは違うものと考えています。しかし、生命という現象が物質の持つ基本的な特徴なのであって、宇宙すべての物質が、その序列において徐々に複雑になっていく段階があるとすると、その物質本来の序列において生命を位置づけられると考えられないでしょうか。この考え方からすると、宇宙で生命が発生することが、より素直に理解できるし、生命が未来へとつながっていくという本来的な希望が持てるようになると思います。
I. 生命と惑星
生命が複雑になっていくとは言いましたが、その「複雑さ」の意味するところを、以下のように定義しておきたいと思います。その対象の質を見るときに、相対的に多くの数の要素が組み合わされた構成になっていて、それが1つのまとまりとして組織化されて、それらが込み入って連携している程度のことです。この意味で分子は原子よりも複雑ということになります。この見方で物質を考えるとき、まず宇宙の物質がどのようにできたのかを知る必要があります。天体物理学者の説明によると以下のようになっています。百何十億年も前にこの宇宙が混乱(カオス)の状況で、あらゆる方向に広がる気体(ガス)の状態にあったとき、「原初の混沌」のほぼ同質的な状況に偶発的な何らのわずかな不安定な領域が生じ、その濃い部分が中心となってまわりの部分を巻き込み、これがコアとなって星や銀河となる実体が構築されたと考えられています。この時点での物質は水素やヘリウムなどの原子が主なもので、この巻き込みの集まりが巨大になると、ある点で核融合を伴う爆発が起こって、元素の種類を増やしながら星間物質を生じ、それが局所的に集まって星ができたと考えられます。太陽系の惑星は、ガスや宇宙塵が太陽の周りを回り始め、次々に衝突しながら集積して形成されたと考えられています。
より大きいものすなわち銀河では、おおむね密度の低い領域は、ガス状になっていて、水素、あるいはヘリウムの原子による単純な構成になっています。その銀河に集まる恒星については、表面温度や大きさによって主系列星などに分類され、その中心部の核融合によって鉄までの原子が作られます。超新星爆発の不安定な状態ではウラニウムより原子番号の大きい原子も存在することが予想されます。しかし高い表面温度の星では、ある段階以上に複雑な物質が形成されることはありません。例えば化学的な高分子のような要素が絡み合って組織化した物質は、環境が適した惑星のような宇宙空間でなければ形成されないでしょう。この宇宙には生命に適した惑星という環境があって、そこだけでより高度な複雑さへ上昇します。それは全く偶然に起こっているように見えますが、どんな偶然でその複雑な化学的高分子が現れたとしても、惑星という場こそが、生命の流れを生じ複雑さを上昇させる環境であり、そこで多様な分子が組み合わされて構成されていく、生命を活性化するエネルギーがあります。そしてこのエネルギーは現実に1つの生命細胞へと中心化させて、それが人間までに発展しています。惑星はまさに生命を育む環境として適する領域になっています。
この地球という惑星は、大気があって水が豊富に存在し、そして生命の発展に必要な元素の資源があり、その表面から太陽までの距離が、より高度な化学作用を可能とする正確な位置にあると言われます。私たち自身の生命が、宇宙の星たちが生成や崩壊を繰り返す中で生じた物質から構成されていることは、実際の生活の体験ではあまり感じられないことです。しかし毎日の経験が私たちに教えることは、「この世の自然のすべての行為とその成り行きは、大いなる無駄を繰り返す試行錯誤と、驚くような偶然の作用以外には進行しない」のではないでしょうか。私たちはもっと感情を込めて地球という惑星を身近に感じるべきでしょう。地球は宇宙でかなり小さな孤独に見える惑星ですが、そこに生じた生命は地球の運命を未来の希望へと運んでいます。私たちの科学技術がいくら発達したといっても、依然として宇宙は私たちの理解を超える不可解さにあって、まだほとんどわかっていないのも同然です。そこに誤った光を見ていたり、私たちには見えない光があったりするかもしれません。これは天文学や物理学だけのことではなく、生命の「複雑さ」についても、私たちが実際に感じていることです。
II. 生きた細胞の複雑さ
では生きた細胞のことを考えてみましょう。細胞を構成する化学的な分子は高分子として複雑であるだけでなく、そこに含まれる要素の多さと分子やイオンの組み合わせが多様になっていて、その要素の連携で構成された全体が1つの行動として観察できるという、その関係に複雑さがあることになります。それは要素どうしが単一の関係にあるだけでなく、その要素の連携が組織化されているということです。細胞は単に複雑というだけではなく、それは組織化されていて1つの全体として、統合した行動になっています。それは1つの細胞で、その細胞内のすべての要素が中心化されていて、全体で1つのまとまった行動になっています。すなわち行動に伴って、すべての要素が連携するという機能が有効に作用しています。これは全く複雑であると直感できることではないでしょうか。
そこで生命が複雑であるということは、そこに含まれる多くの要素(物質)たちが中心に統合されるように組織化されているといえます。それは1つの生命が1つのまとまりとして行動することから容易に理解できます。そうなると、この複雑さをどのような程度として考えたらよいのでしょうか。科学における分析では、物体を質量とか密度とか大きさなどの特徴によって、あらゆる種類の分類に分けて考えます。しかし、私たちのまわりの物質にある複雑さを分類するには、どういう方法があるのでしょうか。
まずは、世界を構成する物質で複雑さを考えるときに、その物質が1つの単位(まとまり)の物体になっているときに、その物体について、対象とすべき「真の単位(まとまり)」なのかどうかを識別する必要があると思われます。生命において複雑さが発展していることから、そういう動きの潜在する可能性のないもの、単に偶然に集合してまとまりをなしているだけのもの(擬の単位)と、実際に複雑さが発展する要素として重要な意味を持つまとまり(真の単位)を区別して考えます。原子、分子、細胞そして生命体は真の単位とすべきものです。それらは他の物質と関係をなす可能性を持ち中心に向かって発展する方向のある単位(まとまり)だからです。それに対して、土の塊、岩石に埋もれた結晶、天体にある恒星などは、その構造の複雑さがどうであっても、そこに複雑さを発展させて中心に向かって組織化していく仕組みを持っていないと考えます。それらをここでは擬の単位(単なる偶然の集まり)であるとします。これらの単位は多かれ少なかれ偶然の機会によって集まっていて、その密度による違いはあっても、自ら発展を継続させることはなく、いずれは崩壊する方向になります。
次に、この真の単位(まとまり)に対し、複雑さの因子を特徴によって分けて、分類化のシステムを確立することです。この系統的な分類化についての例を以下に考えます。この分類を上下の層別で考えると、その基礎には電子や陽子などの素粒子から自然に形成された原子たちがあります。それは水素からウラニウムまでの92個の化学元素です。この層の上には、原子たちの組み合わせから構成された分子をおきます。これらの分子の中で炭素化合物は巨大な分子量にまで発展します。アミノ酸(あるいはたんぱく質)では、原子の連携が数千を越えており、血液中のヘモグロビンの分子量は約64,500にもなります。この上の層には不思議で神秘なイメージを連想させるウィルスがきます。それらが巨大な化学的分子なのか、あるいは生命体のバクテリアに類するのか定かではありません。しかし、これらの分子量は数百万の単位にもなります。
この上に最も単純な細胞が置かれます。単細胞の生命体に含まれる原子の数を比較する研究調査があるかどうかは知りませんが、1つの例として、ウキクサの細胞には、4x10の20乗個の原子が含まれると推定されています。明らかに1つの細胞の原子は、たんぱく質分子に含まれる原子よりも数が多いと思われます。そしてその上の層はより高度な生命体の世界になり、これらの生命体は細胞の集合として構成されています。細胞が集合する生命体では、全体にある原子の数を比較しても意味ないと思いますが、要するにそこには途方もない数(兆や京の上?)の原子が連携して組織化されて、生命体を構成していることになります。
III. 物質から生命への連続
物質を扱う科学として生物学と物理学の間には、生命と物質という対象の相違があって、その対象に自律的な活性があるかないかという区別から、生命現象は物質の持つ特性とは考えられていません。さらに哲学においても物質と生命の区別は必然とされ、その間には明らかに区別する線が引かれています。しかし生命も含め物質はすべて原子から構成されているので、生命と物質という2つの現象を扱う場合、この2つの現象は実証的に複雑性という序列において連続しているはずです。
生命は何兆億以上の原子が1つの塊に集まって、まるで物質粒子が互いの連携で加速されたように活性化して、それが中心に統合されて1つにまとまった活動している現象です。そして、この宇宙には生命が1つの統合単位から、さらに高度に組織化するように進行する動きがあります。この動きを全体として見れば原初の原子の集まった状態から最も高度な生命体まで一貫して上昇する方向があると推定されます。ある生命種の個体の変化を追跡して、その形態に変化が表れた状況では、その個体発生の経過で現われた位置の前後を調べると、個体の機能や要素の追加が、より複雑になる方向に進行しています。つまり、各々の生命種の個体で表される複雑度の段階は、その生命個体の現れた時系列において並べることができます。いわば時間の流れからすれば、その生命種の個体の位置はそれが生じるべき時期に必然として生じたことになります。
この複雑さが上昇していく段階は、進化の時間が経過するにつれて、より高い「意識」へと上昇していく動きであるとして考えてみたらどうでしょうか。生物考古学の成果から、生命体が長い時間の経過とともに、その形態とその機能に複雑さを増していくという観察があります。特に、ここで追加したいのは、生命個体の神経システムに注目して、進化の段階で個体が現れた位置について、相対的な前後の推移を考えると、その複雑さの程度が上昇すると同時に、その個体がより中心化して意識が上昇する方向に活性化されたと推測できることです。すなわちその生命体がより中心化されるとは、個体の行動がより自立的になり個性化されることであり、その個体の「意識」がより明確になっていくと推測するわけです。
IV. 複雑の頂点にいる人間
地球の生命の歴史が、複雑さを増しながら意識を上昇させている歩みであるとすると、その成果としての人類の出現は、生命の1つの種としての価値だけでありません。人間は明確な「意識」を持って思考し、内省して未来を予測し何かを創造するという、宇宙的な価値を持つ段階に到達しています。つまり地球で経過した時間と空間の本質的な価値からして、組織の統合をより複雑にして意識を上昇させた、この宇宙の壮大な実験の成果が人類の出現となっています。そして今後さらに人間の複雑さが高度になる過程があるはずだし、新たな機能が追加されることもありえるわけです。仮に地球の生命が、宇宙空間から落とされた微細菌から始まったとしても、人間に至って生じた明確に主張する「意識」は、生命が複雑度を上昇させる経過で生じています。そして現時点の人類を構成している私たちは、この先に人類を超えて発展していく過程にあります。そう考えてくると、現在の私たちは今この過程のどういう位置にいるのでしょうか。
複雑化する過程を考えるとき、比較的単純な分子の段階ならば、その複雑度の序列はおおざっぱに「構成粒子の数」として、そこに含まれる原子の数によって表現できるかもしれません。しかし、その要素の数が百万を越えて、哺乳動物のように何兆もの細胞がある生命体ともなれば、原子の数を測定することは不可能です。また、たとえ計算できたとしても、ほとんど意味のない巨大な数になるだけであり、その数では組織内で連携する質を表すことはできません。より高度の生命体で、複雑度において人間の位置を決めるには、その評価のための変数の設定が必要になります。ある生命体がより複雑であるということは、その生命体が1つの個体としてより中心化されていることであり、その生命体が中心化されるということは、その意識がより明確になると考えられます。言い換えると、生命体における複雑さの程度が高いほど、その意識の程度が高くなっていると考えられます。
この生命の特徴である「複雑さ」と「意識」という、2つの現象は並行しながら同時的に進行しています。もう少しドラマチックに言えば、それらは同質的で交換可能なものということです。そこで次に考えられるのは、生命がある段階に達したとき、複雑度はもはや原子の数で計算されるのではなく、意識が上昇する段階に注目すれば、複雑度の測定を続けることができることになります。ここで意識の上昇の程度とは、単純にその個体の神経システムの発達状況を意味します。従って私たちが意識の成長の因子を大脳の進歩(神経システムの発達)と捉えて比較すれば、無脊椎動物、節足動物、脊椎動物などの経過でその段階が迷路のように見えても、人間の位置と重要性が本質的に明らかになってきます。
ここ数億年の生命の流れにあった、数え切れない生命種のタイプの中でも、人間の大脳は百億以上の神経細胞とその周辺細胞(グリア細胞)によって構成された、最も複雑な脳の構造になっています。その脳が高度に複雑になることで生じた内省(思考)を獲得したことから判断して、地球上で進展した「あらゆる複雑度」のすべての頂点にあると言えるでしょう。そしてこのことは、ホモ・サピエンス以降の生命の進行状況が人類に集中していて、人類という種が人類以外の生命種からますます離れていく傾向にある理由を説明します。この宇宙には、生命が複雑になっていく方向に活性化される動きがあって、それが明確な「意識」を持つ人間を生じさせるならば、この動きはまさに宇宙的としか言えないように思えます。つまり私たち人間は宇宙的な動きの結果として存在していることになります。そうなれば私たちは少し謙虚になって、この地球のすべての要素の中で、人間という現時点で最も複雑であることに何らの価値と責任を見出すべきではないでしょうか。
V. 地球人類の現在状況
人間は現時点で複雑さの頂点に達したのではありません。言い換えると、宇宙の物質は地球上でホモ・サピエンスにおいて、中心化と複雑度の最高の状態になって、この惑星で生命の複雑になる進行が、そこで止まってしまった訳ではありません。逆に、現在の状況でこれ以上の進歩がないと言われると、まったく気が滅入ってしまうのではないでしょうか。しかし幸いにも、脳細胞の活性化からしても、人間がその潜在として持つものを最後まで出し切って、最高の状態であるとするものは見当たりません。また、現在の世界情勢をみても人間社会は不安定と混乱にあって、平衡する状況さえ見えていません。現在の私たちは、次の段階に向かう端境期にあるのではないかと思えます。というのは、人間の考え方が地球という単位に集束していく傾向が見えてきて、人類が集約する方向へと何らかの作用があるのではないかと思うからです。そして、この先の地球において、より複雑になり中心化された人類を超えた超人類とも言うべき人々において、究極の充実と幸福が実現されると予想されるからです。
現在の人類に圧力となっている集約ということは、人々すべてを巻き込んで起こっている現象です。今の状況として、地球の国家は経済援助や金融関係で常に緊密に連携しているし、人々の暮らしの中でも国や組織と連携した各情報の収集とか登録があって、国家や個人が自分本位の行動をすれば、まわりから非難の対象になります。いわば、あらゆる状況で私たちの周囲の他人や組織や集団との関係が密接になる方向となっています。私たちの生活は社会の集団(国家、組織、仲間)から伸びている触手にいつもつながっていて、そのことからの影響が良くも悪くも何らかの強制になってきています。この人間が集約していく傾向は避けられない現象に思われます。それは以下の2つの環境構造的な要因から自動的に起こってきている現象であると考えます。
1つは、地球という惑星の限られた範囲で、人間が生存できる場所が限定されていることであり、もう1つは現在も絶え間なく世界人口が増加していることです。この制限された惑星の表面で人がひしめき合い、交通や通信手段の進展も相まって、行動範囲が急速に広がって、必然的に人間たちは他人との接触する機会が増えています。この2つの状況が構造的な圧力となって、人類にはある種の集束作用が必然的に働くと推測されます。また、これら接触の機会によって互いが影響し合って、内面的な関連をより充実させ、人間の精神が前向きに発展していくことが追加できるかもしれません。
しかし、ここで注目すべきポイントは、この集束する現象が予測できない突飛なことではなく、生命の進行には必然的に考えられることです。生命が進化した段階を考えると、その最も低い層にある生命体でも、大陸や海洋の厳しい環境で、個体が群集をなして密接に連携することで生き残り、その発展が継続しています。そこでは困難に打ち克つ方策として群集体を形成し、その成果でより高度な統合をなし得たと推測できます。もし、地球の表面が常に増加し一定の生存空間が常に確保されるとすれば、生命の組織はゆるい連携が継続するだけで発展できません。せいぜい単一細胞の段階くらいまでしかならなかったと推測されます。仮に、そこに人類が置かれたとすれば、集団が散らばった状態で継続するだけで、新石器時代に集団がより大きく統合していく段階にさえにも到達しなかったと考えられます。
VI. 生命の進行
社会の進歩という考え方からすれば、実際に集団が拡大するとき、その組織が中心にしっかり結束されなければ継続できないので、そこに結束がゆるんだり外圧があったりするので、それは統合と崩壊の連続であり、混乱や限界状況の繰り返し以外ではありません。もともと物質とは圧縮されることで、活性化されるものではないでしょうか。現代の私たちに影響を与えている社会現象の特徴は、構造的には地球という閉じられた空間と人口の増加という圧力があり、生命の要素群が統合するには外部からの圧縮が必要であることを考え合わせると、現在加速している人類の「集約」は、生命の進行には不可避であるということです。生命の課している方向として、人間が集約することは、この惑星表面でより複雑化する動きの進行に適用される、生物学的なより高い形態そのものに思えます。
ここで生命の進行をまとめてみると、1番目の段階は、生命が細胞となる前の段階で、分子の集合が連携して物質の活性化によって、たんぱく質などの高分子が形成され生命が起ったことです。2番目の段階では、1つの細胞が自身を超えつつ集まり連携して組織化され、より複雑になって人間にまで至ったことです。そして今私たちに課された3番目としての段階は、人間が組織する社会において複雑さを形成する段階の始めにいることになります。それは各個人が内省する個性を持っていて、それぞれが多様である人間という要素の連携においてのみ起こることです。そして最終的には、人々の集合が地球という閉じた制限の中で完全に連携して、人類が惑星化することになるでしょう。人類を概観すれば、それは地球という惑星で生まれ、その表面にあまねく広がり、その地球をおおうマトリックス(精神圏)の中で単一の有機的統合体を徐々に形成しつつあるということになります。その統合は1つの超複雑な、超中心化した、超意識的でより高度になったものであり、地球という惑星と共に継続して上昇したものです。宇宙において生命の耐えられる惑星があれば、地球と同じようにどこでも何らかの惑星化した精神が形成されることでしょう。そこで展開する人間の意識が惑星の全体にまとまっていくという考えは、必然的に推察できることです。
これからの生命の進行として、この社会の現象が優位になると思うのは、それが私たちの理性を満足させるからであり、そこに向かう動機や意志が強化できるからです。そしてこの考え方は私たちの知性も満足させます。もし人類が今「惑星化の段階」に集約しているとすれば、現代世界の混乱も説明でき、流れの方向もはっきりと見定めることができます。現在私たちは経済や精神のネットワークの中で苦悩しながら、行動し、生産し、そして集約することを強制されて不安になっています。この苦悩は超組織への最初の兆候であり、潜在的に付随して生じる現象であること以外には考えられません。また歴史上で起こったことを見ても、集団が統合されるとき、まず起こるのが争いであり、そこに居住する大衆を巻き込んで関連する地域全体に広がります。その混乱で人々の生活には苦悩しかないように思えます。しかし生命の進行という覚めた目から見れば、これらの混乱は誕生の危機以外にどんな側面があるのでしょうか。地球の人類に運命付けられている「意味」を考えると、その行く末がどこかを見定めて正しい選択をするしかないと思われます。この流れの事象に生じた集約する混ざりあいは、正しい方向に向かうならば、機械化や隷属化ではなく、私たち自身の個性を覚醒させ複雑さを増して、意識を上昇させるものになるはずです。
VII. 新しい段階
ここで逆に考えて、もし人類が「惑星化」の統合に向かうのではなく、小さく孤立した優位な集団においてのみ、人間が究極の完成に到達するという運命であったらどうでしょうか。その優れて孤立したグループだけが人間の進歩の究極に達するのであれば、この地球で今まで生命が長い時をかけて組織を複雑化させてきた努力と苦悩は、悲劇的な見当違いだったことになります。生命の多様な要素が組織化され、それが集約され結局は惑星として1つに統合される、と考えた私たちは騙されたことになります。もしそうならば、私たちは今ある連携関係をすべて即座に中止して、機械を破壊し研究開発を止めて、個人の純粋な能力開発とか解脱を見出せるような、別の何らかの方法を追い求めるべきです。けれども、この宇宙の惑星全体を巻き込むような作用と、生命の進行にある膨大な努力と苦悩の長い経過と蓄積を考えると、その究極が人間の小さな孤立した集団において達成され完成されるとは到底思えません。それはすべての全体を組織し統合するものであるはずです。そしてさらに銀河とか宇宙とかのより大きな組織の統合へと向かうはずのものです。
やはり人類が見出すべきものは、その発展の先にあるべき新しく集約する段階です。もし私たちの各々が、今の人類によって、より高い段階に上昇していくと信じることができれば、そこにエネルギーの新しい流れが起こり、大衆の中から健全な力が湧き起こるはずです。地球の多くの人間を全体としてまとめる組織は、一時的な躊躇はあってもそれを克服して、より一層宇宙の流れにそって進行する動きが強まるでしょう。実際に生命が惑星で1つになるという考え方、そしてそこにある希望は、生物学的な進化という見方からよりも、精神のエネルギーという観点からもっと重要に思えます。人類の進む先には希望があると確信して、そこに熱意をもって進むこと、それは精神の活性化を私たちにもたらすはずです。その熱意がなければ、物質的なエネルギーがいくらあっても、人類は地球の表面で人生の倦怠と怠惰の誘惑に負けて死に絶えてしまうでしょう。この精神の炎は行動の動機と充実の喜びで私たちを力づけてくれるはずです。
そこで、人類の集約が精神の成長を促進するときに、そこに「中心に向かって複雑化する」ための条件があります。それは、統合の過程で互いがより密接に引かれる必要があることです。単に外部からの圧力で近くなるだけでなく、あるいは摩擦が少ない所だけで近くなるのではなく、すべてが直接的に内面の魅力によって、心から心への連携によって互いが引かれることが必要です。つまり共通の仕事への強制や奴隷化による集約ではなく、共通の意志を持った人間どうしが心を合わせ一致して行動できることです。たとえば分子の構築は原子どうしの親密性によって確保されるとすれば、同じように意識の高い段階では、互いの親密な「思いやり」を通して個性を充実させる人間たちが、より高い段階へと上昇することになります。それは私たちの日々の経験として、スポーツの試合でペアとかチームなどのグループ行動を見るとき、そのチームのまとまりで必要なのは、各個人の個性を殺すことではなく、個々の個性を伸ばしながら全体としてより大きな力となることであり、それは全体において個人を解放することです。真実の統合とは心や精神において統合されることであり、それは個人を奴隷化することではなく、個性を中和するのでもありません。全体が1つになる中で、最高の個性が発揮できることです。それはすなわち集約における超個性化です。
そこで状況を地球という惑星のスケールに広げて考えてみることにします。物質の進化の本質にあるのは要素どうしが結びつくことです。そこにある力の作用です。この生命の奥深くにある共通意識を基礎にして、人類が惑星の包み込みを進行させ、地球で1つにまとまった意識という感覚に達した人類を想像してみましょう。そこには恐怖や不安をもたらす残虐な行為とか機械化や奴隷化の悪夢は全くないはずです。そこにあるのは新しい種類の「愛」と呼べるものであり、私たちはまだ知ることができないものですが、惑星化が上昇する過程において、事実もたらされると予測できるものです。この人類の心に「宇宙的な愛」がもたらされる状況とは、ユートピアとして絵に書いた空しい夢ではなく、それには可能性と必然性があります。この「惑星化」というのは、地球のすべての人間にこの同じ愛が起こって、人類がそれぞれ個人を失うこと無しに、1つの意識になることです。各個人を前提としない全体の愛というものはありません。
そして人類の惑星化が究極に向かって進み、その適切な効果が生じて地球としての精神が1つに包み込まれ、人間の思考がより組織化され密度が高くなっていきます。その先の究極には、惑星としての地球とその人類にとって、不可避的に定められた最後があると推測できます。その全体化の最後に、人類自身がしっかりと集まり、その包み込みによる成熟の限界点に到達した後、さらにその先に内面の水平線が上昇した宇宙全体の精神への中心化があって、それは意識が最高にまで上昇した極点となっているかもしれません。そこから意識を超越した永遠へと吸い込まれていくと考えられないでしょうか。
この現象は外面的あるいは物質的には、ほとんど消滅に近いかも知れません。しかしその実際は究極の統合への単純なる変容です。惑星を超越するということは、空間的に惑星の外に出るのではなく、精神的に内面的に、この宇宙の超中心へ向かうことです。人類の最終的成熟とは宇宙の創造主の意識に触れる神聖なる歓喜にまで至ることであり、これはここでの複雑化の理論の究極の結論となるものです。
Inspired from “Life and the Planets” written by Pierre Teilhard de Chardin.