Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

生命と物質

2016-05-21 15:25:06 | 生命と宇宙

生命と物質について


はじめに

現代は世界のあちこちで何らかの紛争があり、その情勢がなかなか収まらない状況にあって、各地で起こっている争いに巻き込まれた地域住民の心配は募るばかりです。昨今の情勢はいろいろな要因が絡み合い、原因と結果が素直に対応していないので、解決の糸口を見出すのは困難を伴います。その国家や民族どうしの紛争の要因は、武器の出入が絡んだ利権とか背景の歴史や宗教の経過が連携して、状況を理解するのも大変なようです。離れた場所で暮らす私たちは、紛争地域の住民の苦悩が早く解決されるようにと願うだけしかないのですが、昨今ではさらに紛争地域からの難民が増加するという新たな問題も起こって、ますます複雑化している印象があります。

一方、私たちの生活は、世の中が1つのゲームになったかのように、娯楽や暮らしに新製品が次々に出現して対応を迫られ、クレジットカードや金融商品などが氾濫する中で、金銭の効率やその時間などを考えながら暮らすようになっています。世の中はお金の流れとともに、日々の生活が複雑さを増してきて頭を使う場面が多くなっています。また人々の考え方が多様化してきて、お金とか利益を目的にしないボランティア活動や災害援助活動も行われています。そして個人の人権や尊厳についての非合法な扱いがあると自分の国だけでなく世界中の人々で話題になります。このような大衆の一般的な動向からすると全般的に人々が地球規模で結びついていくような感じがあります。この広がりはインターネットという場を通して、民族や国家という壁を越えて話題が共有され、それが少しずつ人間全体の意識となっていくように思わせます。しかしニュースでもインターネットにしても、そこに作り話や何らの操作があると言われ、すべてが正しい情報とも言えないようです。私たちは何が本当なのか、どっちが正義かわからないという混沌とした状況の中で、自分の主張や行動を決める必要があります。

地球の未来は人類が担っていると言われますが、果たして、私たち人間は正しい方向に向かっているのでしょうか。このまま利害関係の争いと道徳の混乱の中で自滅する道にあるのでしょうか、それとも困難な状況を乗り越えて正しい道を進めるのでしょうか。そんな不安があるとき、「生命」が長い時間をかけて歩んできた道を振り返ることが必要かもしれません。その何億年もの経過を想像すると、生命には数知れない困難や壁があっても、そのたびに消滅の危機を乗り越えて、粘り強く生き抜いています。そうでなければ私たちは存在していません。そして単純な細胞から私たち人間まで、ひたすら複雑化する階段を着実に上ってきているので、その細胞内の遺伝情報には数億年の膨大なる積み重ねの履歴があるでしょう。そう考えると、現在に遭遇している混乱がいかなるものであっても、生命の進行はきっと無事に切り抜けて先の段階に進んでいくという希望が持てます。ここに生命の粘り強さの不思議があります。

しかしよくよく考えると、生命とは言うけれども、生命も原子・分子からできているのであり、私たちのまわりの物体と、どこが違うのでしょうか。一般に、私たちは生命を普通の物質とは違うものと考えています。しかし、生命という現象が物質の持つ基本的な特徴なのであって、宇宙すべての物質が、その序列において徐々に複雑になっていく段階があるとすると、その物質本来の序列において生命を位置づけられると考えられないでしょうか。この考え方からすると、宇宙で生命が発生することが、より素直に理解できるし、生命が未来へとつながっていくという本来的な希望が持てるようになると思います。

 

I. 生命と惑星

生命が複雑になっていくとは言いましたが、その「複雑さ」の意味するところを、以下のように定義しておきたいと思います。その対象の質を見るときに、相対的に多くの数の要素が組み合わされた構成になっていて、それが1つのまとまりとして組織化されて、それらが込み入って連携している程度のことです。この意味で分子は原子よりも複雑ということになります。この見方で物質を考えるとき、まず宇宙の物質がどのようにできたのかを知る必要があります。天体物理学者の説明によると以下のようになっています。百何十億年も前にこの宇宙が混乱(カオス)の状況で、あらゆる方向に広がる気体(ガス)の状態にあったとき、「原初の混沌」のほぼ同質的な状況に偶発的な何らのわずかな不安定な領域が生じ、その濃い部分が中心となってまわりの部分を巻き込み、これがコアとなって星や銀河となる実体が構築されたと考えられています。この時点での物質は水素やヘリウムなどの原子が主なもので、この巻き込みの集まりが巨大になると、ある点で核融合を伴う爆発が起こって、元素の種類を増やしながら星間物質を生じ、それが局所的に集まって星ができたと考えられます。太陽系の惑星は、ガスや宇宙塵が太陽の周りを回り始め、次々に衝突しながら集積して形成されたと考えられています。

より大きいものすなわち銀河では、おおむね密度の低い領域は、ガス状になっていて、水素、あるいはヘリウムの原子による単純な構成になっています。その銀河に集まる恒星については、表面温度や大きさによって主系列星などに分類され、その中心部の核融合によって鉄までの原子が作られます。超新星爆発の不安定な状態ではウラニウムより原子番号の大きい原子も存在することが予想されます。しかし高い表面温度の星では、ある段階以上に複雑な物質が形成されることはありません。例えば化学的な高分子のような要素が絡み合って組織化した物質は、環境が適した惑星のような宇宙空間でなければ形成されないでしょう。この宇宙には生命に適した惑星という環境があって、そこだけでより高度な複雑さへ上昇します。それは全く偶然に起こっているように見えますが、どんな偶然でその複雑な化学的高分子が現れたとしても、惑星という場こそが、生命の流れを生じ複雑さを上昇させる環境であり、そこで多様な分子が組み合わされて構成されていく、生命を活性化するエネルギーがあります。そしてこのエネルギーは現実に1つの生命細胞へと中心化させて、それが人間までに発展しています。惑星はまさに生命を育む環境として適する領域になっています。

この地球という惑星は、大気があって水が豊富に存在し、そして生命の発展に必要な元素の資源があり、その表面から太陽までの距離が、より高度な化学作用を可能とする正確な位置にあると言われます。私たち自身の生命が、宇宙の星たちが生成や崩壊を繰り返す中で生じた物質から構成されていることは、実際の生活の体験ではあまり感じられないことです。しかし毎日の経験が私たちに教えることは、「この世の自然のすべての行為とその成り行きは、大いなる無駄を繰り返す試行錯誤と、驚くような偶然の作用以外には進行しない」のではないでしょうか。私たちはもっと感情を込めて地球という惑星を身近に感じるべきでしょう。地球は宇宙でかなり小さな孤独に見える惑星ですが、そこに生じた生命は地球の運命を未来の希望へと運んでいます。私たちの科学技術がいくら発達したといっても、依然として宇宙は私たちの理解を超える不可解さにあって、まだほとんどわかっていないのも同然です。そこに誤った光を見ていたり、私たちには見えない光があったりするかもしれません。これは天文学や物理学だけのことではなく、生命の「複雑さ」についても、私たちが実際に感じていることです。

 

II. 生きた細胞の複雑さ

では生きた細胞のことを考えてみましょう。細胞を構成する化学的な分子は高分子として複雑であるだけでなく、そこに含まれる要素の多さと分子やイオンの組み合わせが多様になっていて、その要素の連携で構成された全体が1つの行動として観察できるという、その関係に複雑さがあることになります。それは要素どうしが単一の関係にあるだけでなく、その要素の連携が組織化されているということです。細胞は単に複雑というだけではなく、それは組織化されていて1つの全体として、統合した行動になっています。それは1つの細胞で、その細胞内のすべての要素が中心化されていて、全体で1つのまとまった行動になっています。すなわち行動に伴って、すべての要素が連携するという機能が有効に作用しています。これは全く複雑であると直感できることではないでしょうか。

そこで生命が複雑であるということは、そこに含まれる多くの要素(物質)たちが中心に統合されるように組織化されているといえます。それは1つの生命が1つのまとまりとして行動することから容易に理解できます。そうなると、この複雑さをどのような程度として考えたらよいのでしょうか。科学における分析では、物体を質量とか密度とか大きさなどの特徴によって、あらゆる種類の分類に分けて考えます。しかし、私たちのまわりの物質にある複雑さを分類するには、どういう方法があるのでしょうか。

まずは、世界を構成する物質で複雑さを考えるときに、その物質が1つの単位(まとまり)の物体になっているときに、その物体について、対象とすべき「真の単位(まとまり)」なのかどうかを識別する必要があると思われます。生命において複雑さが発展していることから、そういう動きの潜在する可能性のないもの、単に偶然に集合してまとまりをなしているだけのもの(擬の単位)と、実際に複雑さが発展する要素として重要な意味を持つまとまり(真の単位)を区別して考えます。原子、分子、細胞そして生命体は真の単位とすべきものです。それらは他の物質と関係をなす可能性を持ち中心に向かって発展する方向のある単位(まとまり)だからです。それに対して、土の塊、岩石に埋もれた結晶、天体にある恒星などは、その構造の複雑さがどうであっても、そこに複雑さを発展させて中心に向かって組織化していく仕組みを持っていないと考えます。それらをここでは擬の単位(単なる偶然の集まり)であるとします。これらの単位は多かれ少なかれ偶然の機会によって集まっていて、その密度による違いはあっても、自ら発展を継続させることはなく、いずれは崩壊する方向になります。

次に、この真の単位(まとまり)に対し、複雑さの因子を特徴によって分けて、分類化のシステムを確立することです。この系統的な分類化についての例を以下に考えます。この分類を上下の層別で考えると、その基礎には電子や陽子などの素粒子から自然に形成された原子たちがあります。それは水素からウラニウムまでの92個の化学元素です。この層の上には、原子たちの組み合わせから構成された分子をおきます。これらの分子の中で炭素化合物は巨大な分子量にまで発展します。アミノ酸(あるいはたんぱく質)では、原子の連携が数千を越えており、血液中のヘモグロビンの分子量は約64,500にもなります。この上の層には不思議で神秘なイメージを連想させるウィルスがきます。それらが巨大な化学的分子なのか、あるいは生命体のバクテリアに類するのか定かではありません。しかし、これらの分子量は数百万の単位にもなります。

この上に最も単純な細胞が置かれます。単細胞の生命体に含まれる原子の数を比較する研究調査があるかどうかは知りませんが、1つの例として、ウキクサの細胞には、4x10の20乗個の原子が含まれると推定されています。明らかに1つの細胞の原子は、たんぱく質分子に含まれる原子よりも数が多いと思われます。そしてその上の層はより高度な生命体の世界になり、これらの生命体は細胞の集合として構成されています。細胞が集合する生命体では、全体にある原子の数を比較しても意味ないと思いますが、要するにそこには途方もない数(兆や京の上?)の原子が連携して組織化されて、生命体を構成していることになります。

 

III. 物質から生命への連続

物質を扱う科学として生物学と物理学の間には、生命と物質という対象の相違があって、その対象に自律的な活性があるかないかという区別から、生命現象は物質の持つ特性とは考えられていません。さらに哲学においても物質と生命の区別は必然とされ、その間には明らかに区別する線が引かれています。しかし生命も含め物質はすべて原子から構成されているので、生命と物質という2つの現象を扱う場合、この2つの現象は実証的に複雑性という序列において連続しているはずです。

生命は何兆億以上の原子が1つの塊に集まって、まるで物質粒子が互いの連携で加速されたように活性化して、それが中心に統合されて1つにまとまった活動している現象です。そして、この宇宙には生命が1つの統合単位から、さらに高度に組織化するように進行する動きがあります。この動きを全体として見れば原初の原子の集まった状態から最も高度な生命体まで一貫して上昇する方向があると推定されます。ある生命種の個体の変化を追跡して、その形態に変化が表れた状況では、その個体発生の経過で現われた位置の前後を調べると、個体の機能や要素の追加が、より複雑になる方向に進行しています。つまり、各々の生命種の個体で表される複雑度の段階は、その生命個体の現れた時系列において並べることができます。いわば時間の流れからすれば、その生命種の個体の位置はそれが生じるべき時期に必然として生じたことになります。

この複雑さが上昇していく段階は、進化の時間が経過するにつれて、より高い「意識」へと上昇していく動きであるとして考えてみたらどうでしょうか。生物考古学の成果から、生命体が長い時間の経過とともに、その形態とその機能に複雑さを増していくという観察があります。特に、ここで追加したいのは、生命個体の神経システムに注目して、進化の段階で個体が現れた位置について、相対的な前後の推移を考えると、その複雑さの程度が上昇すると同時に、その個体がより中心化して意識が上昇する方向に活性化されたと推測できることです。すなわちその生命体がより中心化されるとは、個体の行動がより自立的になり個性化されることであり、その個体の「意識」がより明確になっていくと推測するわけです。

 

IV. 複雑の頂点にいる人間

地球の生命の歴史が、複雑さを増しながら意識を上昇させている歩みであるとすると、その成果としての人類の出現は、生命の1つの種としての価値だけでありません。人間は明確な「意識」を持って思考し、内省して未来を予測し何かを創造するという、宇宙的な価値を持つ段階に到達しています。つまり地球で経過した時間と空間の本質的な価値からして、組織の統合をより複雑にして意識を上昇させた、この宇宙の壮大な実験の成果が人類の出現となっています。そして今後さらに人間の複雑さが高度になる過程があるはずだし、新たな機能が追加されることもありえるわけです。仮に地球の生命が、宇宙空間から落とされた微細菌から始まったとしても、人間に至って生じた明確に主張する「意識」は、生命が複雑度を上昇させる経過で生じています。そして現時点の人類を構成している私たちは、この先に人類を超えて発展していく過程にあります。そう考えてくると、現在の私たちは今この過程のどういう位置にいるのでしょうか。

複雑化する過程を考えるとき、比較的単純な分子の段階ならば、その複雑度の序列はおおざっぱに「構成粒子の数」として、そこに含まれる原子の数によって表現できるかもしれません。しかし、その要素の数が百万を越えて、哺乳動物のように何兆もの細胞がある生命体ともなれば、原子の数を測定することは不可能です。また、たとえ計算できたとしても、ほとんど意味のない巨大な数になるだけであり、その数では組織内で連携する質を表すことはできません。より高度の生命体で、複雑度において人間の位置を決めるには、その評価のための変数の設定が必要になります。ある生命体がより複雑であるということは、その生命体が1つの個体としてより中心化されていることであり、その生命体が中心化されるということは、その意識がより明確になると考えられます。言い換えると、生命体における複雑さの程度が高いほど、その意識の程度が高くなっていると考えられます。

この生命の特徴である「複雑さ」と「意識」という、2つの現象は並行しながら同時的に進行しています。もう少しドラマチックに言えば、それらは同質的で交換可能なものということです。そこで次に考えられるのは、生命がある段階に達したとき、複雑度はもはや原子の数で計算されるのではなく、意識が上昇する段階に注目すれば、複雑度の測定を続けることができることになります。ここで意識の上昇の程度とは、単純にその個体の神経システムの発達状況を意味します。従って私たちが意識の成長の因子を大脳の進歩(神経システムの発達)と捉えて比較すれば、無脊椎動物、節足動物、脊椎動物などの経過でその段階が迷路のように見えても、人間の位置と重要性が本質的に明らかになってきます。

ここ数億年の生命の流れにあった、数え切れない生命種のタイプの中でも、人間の大脳は百億以上の神経細胞とその周辺細胞(グリア細胞)によって構成された、最も複雑な脳の構造になっています。その脳が高度に複雑になることで生じた内省(思考)を獲得したことから判断して、地球上で進展した「あらゆる複雑度」のすべての頂点にあると言えるでしょう。そしてこのことは、ホモ・サピエンス以降の生命の進行状況が人類に集中していて、人類という種が人類以外の生命種からますます離れていく傾向にある理由を説明します。この宇宙には、生命が複雑になっていく方向に活性化される動きがあって、それが明確な「意識」を持つ人間を生じさせるならば、この動きはまさに宇宙的としか言えないように思えます。つまり私たち人間は宇宙的な動きの結果として存在していることになります。そうなれば私たちは少し謙虚になって、この地球のすべての要素の中で、人間という現時点で最も複雑であることに何らの価値と責任を見出すべきではないでしょうか。

 

V. 地球人類の現在状況

人間は現時点で複雑さの頂点に達したのではありません。言い換えると、宇宙の物質は地球上でホモ・サピエンスにおいて、中心化と複雑度の最高の状態になって、この惑星で生命の複雑になる進行が、そこで止まってしまった訳ではありません。逆に、現在の状況でこれ以上の進歩がないと言われると、まったく気が滅入ってしまうのではないでしょうか。しかし幸いにも、脳細胞の活性化からしても、人間がその潜在として持つものを最後まで出し切って、最高の状態であるとするものは見当たりません。また、現在の世界情勢をみても人間社会は不安定と混乱にあって、平衡する状況さえ見えていません。現在の私たちは、次の段階に向かう端境期にあるのではないかと思えます。というのは、人間の考え方が地球という単位に集束していく傾向が見えてきて、人類が集約する方向へと何らかの作用があるのではないかと思うからです。そして、この先の地球において、より複雑になり中心化された人類を超えた超人類とも言うべき人々において、究極の充実と幸福が実現されると予想されるからです。

現在の人類に圧力となっている集約ということは、人々すべてを巻き込んで起こっている現象です。今の状況として、地球の国家は経済援助や金融関係で常に緊密に連携しているし、人々の暮らしの中でも国や組織と連携した各情報の収集とか登録があって、国家や個人が自分本位の行動をすれば、まわりから非難の対象になります。いわば、あらゆる状況で私たちの周囲の他人や組織や集団との関係が密接になる方向となっています。私たちの生活は社会の集団(国家、組織、仲間)から伸びている触手にいつもつながっていて、そのことからの影響が良くも悪くも何らかの強制になってきています。この人間が集約していく傾向は避けられない現象に思われます。それは以下の2つの環境構造的な要因から自動的に起こってきている現象であると考えます。

1つは、地球という惑星の限られた範囲で、人間が生存できる場所が限定されていることであり、もう1つは現在も絶え間なく世界人口が増加していることです。この制限された惑星の表面で人がひしめき合い、交通や通信手段の進展も相まって、行動範囲が急速に広がって、必然的に人間たちは他人との接触する機会が増えています。この2つの状況が構造的な圧力となって、人類にはある種の集束作用が必然的に働くと推測されます。また、これら接触の機会によって互いが影響し合って、内面的な関連をより充実させ、人間の精神が前向きに発展していくことが追加できるかもしれません。

しかし、ここで注目すべきポイントは、この集束する現象が予測できない突飛なことではなく、生命の進行には必然的に考えられることです。生命が進化した段階を考えると、その最も低い層にある生命体でも、大陸や海洋の厳しい環境で、個体が群集をなして密接に連携することで生き残り、その発展が継続しています。そこでは困難に打ち克つ方策として群集体を形成し、その成果でより高度な統合をなし得たと推測できます。もし、地球の表面が常に増加し一定の生存空間が常に確保されるとすれば、生命の組織はゆるい連携が継続するだけで発展できません。せいぜい単一細胞の段階くらいまでしかならなかったと推測されます。仮に、そこに人類が置かれたとすれば、集団が散らばった状態で継続するだけで、新石器時代に集団がより大きく統合していく段階にさえにも到達しなかったと考えられます。

 

VI. 生命の進行

社会の進歩という考え方からすれば、実際に集団が拡大するとき、その組織が中心にしっかり結束されなければ継続できないので、そこに結束がゆるんだり外圧があったりするので、それは統合と崩壊の連続であり、混乱や限界状況の繰り返し以外ではありません。もともと物質とは圧縮されることで、活性化されるものではないでしょうか。現代の私たちに影響を与えている社会現象の特徴は、構造的には地球という閉じられた空間と人口の増加という圧力があり、生命の要素群が統合するには外部からの圧縮が必要であることを考え合わせると、現在加速している人類の「集約」は、生命の進行には不可避であるということです。生命の課している方向として、人間が集約することは、この惑星表面でより複雑化する動きの進行に適用される、生物学的なより高い形態そのものに思えます。

ここで生命の進行をまとめてみると、1番目の段階は、生命が細胞となる前の段階で、分子の集合が連携して物質の活性化によって、たんぱく質などの高分子が形成され生命が起ったことです。2番目の段階では、1つの細胞が自身を超えつつ集まり連携して組織化され、より複雑になって人間にまで至ったことです。そして今私たちに課された3番目としての段階は、人間が組織する社会において複雑さを形成する段階の始めにいることになります。それは各個人が内省する個性を持っていて、それぞれが多様である人間という要素の連携においてのみ起こることです。そして最終的には、人々の集合が地球という閉じた制限の中で完全に連携して、人類が惑星化することになるでしょう。人類を概観すれば、それは地球という惑星で生まれ、その表面にあまねく広がり、その地球をおおうマトリックス(精神圏)の中で単一の有機的統合体を徐々に形成しつつあるということになります。その統合は1つの超複雑な、超中心化した、超意識的でより高度になったものであり、地球という惑星と共に継続して上昇したものです。宇宙において生命の耐えられる惑星があれば、地球と同じようにどこでも何らかの惑星化した精神が形成されることでしょう。そこで展開する人間の意識が惑星の全体にまとまっていくという考えは、必然的に推察できることです。

これからの生命の進行として、この社会の現象が優位になると思うのは、それが私たちの理性を満足させるからであり、そこに向かう動機や意志が強化できるからです。そしてこの考え方は私たちの知性も満足させます。もし人類が今「惑星化の段階」に集約しているとすれば、現代世界の混乱も説明でき、流れの方向もはっきりと見定めることができます。現在私たちは経済や精神のネットワークの中で苦悩しながら、行動し、生産し、そして集約することを強制されて不安になっています。この苦悩は超組織への最初の兆候であり、潜在的に付随して生じる現象であること以外には考えられません。また歴史上で起こったことを見ても、集団が統合されるとき、まず起こるのが争いであり、そこに居住する大衆を巻き込んで関連する地域全体に広がります。その混乱で人々の生活には苦悩しかないように思えます。しかし生命の進行という覚めた目から見れば、これらの混乱は誕生の危機以外にどんな側面があるのでしょうか。地球の人類に運命付けられている「意味」を考えると、その行く末がどこかを見定めて正しい選択をするしかないと思われます。この流れの事象に生じた集約する混ざりあいは、正しい方向に向かうならば、機械化や隷属化ではなく、私たち自身の個性を覚醒させ複雑さを増して、意識を上昇させるものになるはずです。

 

VII. 新しい段階

ここで逆に考えて、もし人類が「惑星化」の統合に向かうのではなく、小さく孤立した優位な集団においてのみ、人間が究極の完成に到達するという運命であったらどうでしょうか。その優れて孤立したグループだけが人間の進歩の究極に達するのであれば、この地球で今まで生命が長い時をかけて組織を複雑化させてきた努力と苦悩は、悲劇的な見当違いだったことになります。生命の多様な要素が組織化され、それが集約され結局は惑星として1つに統合される、と考えた私たちは騙されたことになります。もしそうならば、私たちは今ある連携関係をすべて即座に中止して、機械を破壊し研究開発を止めて、個人の純粋な能力開発とか解脱を見出せるような、別の何らかの方法を追い求めるべきです。けれども、この宇宙の惑星全体を巻き込むような作用と、生命の進行にある膨大な努力と苦悩の長い経過と蓄積を考えると、その究極が人間の小さな孤立した集団において達成され完成されるとは到底思えません。それはすべての全体を組織し統合するものであるはずです。そしてさらに銀河とか宇宙とかのより大きな組織の統合へと向かうはずのものです。

やはり人類が見出すべきものは、その発展の先にあるべき新しく集約する段階です。もし私たちの各々が、今の人類によって、より高い段階に上昇していくと信じることができれば、そこにエネルギーの新しい流れが起こり、大衆の中から健全な力が湧き起こるはずです。地球の多くの人間を全体としてまとめる組織は、一時的な躊躇はあってもそれを克服して、より一層宇宙の流れにそって進行する動きが強まるでしょう。実際に生命が惑星で1つになるという考え方、そしてそこにある希望は、生物学的な進化という見方からよりも、精神のエネルギーという観点からもっと重要に思えます。人類の進む先には希望があると確信して、そこに熱意をもって進むこと、それは精神の活性化を私たちにもたらすはずです。その熱意がなければ、物質的なエネルギーがいくらあっても、人類は地球の表面で人生の倦怠と怠惰の誘惑に負けて死に絶えてしまうでしょう。この精神の炎は行動の動機と充実の喜びで私たちを力づけてくれるはずです。

そこで、人類の集約が精神の成長を促進するときに、そこに「中心に向かって複雑化する」ための条件があります。それは、統合の過程で互いがより密接に引かれる必要があることです。単に外部からの圧力で近くなるだけでなく、あるいは摩擦が少ない所だけで近くなるのではなく、すべてが直接的に内面の魅力によって、心から心への連携によって互いが引かれることが必要です。つまり共通の仕事への強制や奴隷化による集約ではなく、共通の意志を持った人間どうしが心を合わせ一致して行動できることです。たとえば分子の構築は原子どうしの親密性によって確保されるとすれば、同じように意識の高い段階では、互いの親密な「思いやり」を通して個性を充実させる人間たちが、より高い段階へと上昇することになります。それは私たちの日々の経験として、スポーツの試合でペアとかチームなどのグループ行動を見るとき、そのチームのまとまりで必要なのは、各個人の個性を殺すことではなく、個々の個性を伸ばしながら全体としてより大きな力となることであり、それは全体において個人を解放することです。真実の統合とは心や精神において統合されることであり、それは個人を奴隷化することではなく、個性を中和するのでもありません。全体が1つになる中で、最高の個性が発揮できることです。それはすなわち集約における超個性化です。

そこで状況を地球という惑星のスケールに広げて考えてみることにします。物質の進化の本質にあるのは要素どうしが結びつくことです。そこにある力の作用です。この生命の奥深くにある共通意識を基礎にして、人類が惑星の包み込みを進行させ、地球で1つにまとまった意識という感覚に達した人類を想像してみましょう。そこには恐怖や不安をもたらす残虐な行為とか機械化や奴隷化の悪夢は全くないはずです。そこにあるのは新しい種類の「愛」と呼べるものであり、私たちはまだ知ることができないものですが、惑星化が上昇する過程において、事実もたらされると予測できるものです。この人類の心に「宇宙的な愛」がもたらされる状況とは、ユートピアとして絵に書いた空しい夢ではなく、それには可能性と必然性があります。この「惑星化」というのは、地球のすべての人間にこの同じ愛が起こって、人類がそれぞれ個人を失うこと無しに、1つの意識になることです。各個人を前提としない全体の愛というものはありません。

そして人類の惑星化が究極に向かって進み、その適切な効果が生じて地球としての精神が1つに包み込まれ、人間の思考がより組織化され密度が高くなっていきます。その先の究極には、惑星としての地球とその人類にとって、不可避的に定められた最後があると推測できます。その全体化の最後に、人類自身がしっかりと集まり、その包み込みによる成熟の限界点に到達した後、さらにその先に内面の水平線が上昇した宇宙全体の精神への中心化があって、それは意識が最高にまで上昇した極点となっているかもしれません。そこから意識を超越した永遠へと吸い込まれていくと考えられないでしょうか。

この現象は外面的あるいは物質的には、ほとんど消滅に近いかも知れません。しかしその実際は究極の統合への単純なる変容です。惑星を超越するということは、空間的に惑星の外に出るのではなく、精神的に内面的に、この宇宙の超中心へ向かうことです。人類の最終的成熟とは宇宙の創造主の意識に触れる神聖なる歓喜にまで至ることであり、これはここでの複雑化の理論の究極の結論となるものです。


Inspired from “Life and the Planets” written by Pierre Teilhard de Chardin.

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人間の意識

2016-05-05 22:37:43 | 意識について

人間の意識

 

はじめに

この世の中は元素から構成された物質でできていて、人間も同じ物質から構成されているのに、私たち人間は物質を観察してその構造を考え、他の物質に変えるなどの操作をすることができます。そして私たち人間には心があり精神があると言われています。この物質でできている私たちが、抽象的な概念を思考でき、過去の経過による因果関係を分析して、未来の予測を考えることができるのはなぜでしょうか。

もともと物質は地球上でその単体だけ独立して存在するのでなく、循環したり相互に関連する構造になっています。例えば岩石や砂は珪素や酸素、金属元素などの物質が集まっていて、火山の噴火や隆起・侵食などで山や平野を構成します。水素や酸素は化合して水となり、川や海を形成する他にも、生命体の要素として空と大地の間を循環しています。その生命体は、アミノ酸やたんぱく質などの高分子から形成され、その組織そのものがより大きな組織(より高い序列)の1部分となって、この序列が際限なく繰り返されています。生命体では、物質が時間と空間のなかで絡み合って相互に作用しながら統合されていく動きがあって、長い経過の中で各要素の相互関係の複雑化が形成されています。そうなると意識はどこから入ってくるのでしょうか。

生命体の進化について観察すると、そこで循環される系統発生は時間によって奥行きと一貫性を与えられ、生命全体の大きな流れを構成しています。それゆえ必然的に、この世界を構成している現象は、時間的に先にあった状態を考えることができるので、私たちはそれを観察する際に「その前がどうであったか」というように、時間の経過による変化を観察することができます。時間にそって何らかの物事が起こり、そこに前後関係があり因果関係があるとして理解しています。現在という認識においても、現在それ自身が過去から未来への動きにあって、現在の知覚は次から次へと継続しています。私たちは過去から未来に動く時間と空間の連続体の中で生活していますが、それを気づく人間の意識は、この連続体としての有機的な全体性のなかで、どういう位置で構成されたのでしょうか。

人間の意識が世の中を概観しようとする際には、それは時間の経過とともに認識しています。あるいはもっと正確には、時系列を調べて因果関係から、時間の効率やその行動を考えようとする傾向があります。時間が行動に付随しているというよりも、時間そのものが目的の1つになっているような傾向です。さらに、この時間が目的になっている傾向に関連して、その時間の価値を再評価するような、それに対応する行動に心理的な影響があります。それは、時間をかけてじっくりやるとか、ちょっと急いで焦ってやらなければとか、のんびり構えてゆっくりやろう、などの心持が生じる傾向です。人間に意識があるのは自明に思われますが、この現象の詳細について、私たち人間を対象にして、もっと観察や検証を深めるべきではないかと思います。

 

I. 有機的な奥行きを持つ意識

過去の時代には私たち人間には変化がないと信じられていました。しかし現代では、この世界は時間と空間においてダイナミックに体系付けられた生命の進化があることに私たちは気付いています。この2世紀の間に、科学や哲学の研究として概観される中に、今や進化という考え方が浸透してきているようです。超保守的な集団を除いて、現代の思想家や科学者は生命の進化を認めているし、私たちは発明や発見による社会の変化の中で暮らしていて、もはや私たちの意識は心理的な変化の流れと、時間と空間の連続体にある発展の中で生きていると感じています。

時間の流れに連携するシステムに従った宇宙の物質は、空間的には巨大から微小に、時間的には過去の闇から未来の深淵に向かう無限の広がりにあります。宇宙、地球、社会、仲間、それぞれ連携の度合いが異なっていても、それぞれが独立しているのではなく、何らかの関連をもった動きがあります。そして、この終りの見えないネットワークに絡まった連携するシステムで、その中の個々には自由な動きがあるように見えても、事前に決定されていたかのように段階を進んで生命が人間にまで発展したと思えます。

ここで、空間と時間の連続性という枠組みの中で、一定の方向に生命の流れが進行していると考えると、私たちがそこに生じている流れの方向や本質に対し、基本的にそれが何か納得できなければ、先に進もうとする意欲は持てません。それでは、それは混乱と恐怖に向かう滅亡への道なのでしょうか、あるいは希望ある明日が保証されている道なのでしょうか。その動きの中では、私たちは未来に対し、どうやって何らかの視野が持てるのでしょうか。しかし、その問いに対し現代の科学者たちからは何の答えもありません。結局、巷のうわさ話で毎度繰り返される予言やオカルト的解釈と同じように、答えのない謎として科学的な解釈がないままに、偶然の成り行きにまかせる態度の研究者が多いように思えます。しかし、生命の進化についての考え方も、小さなグループの直感から始まり、最初は世間から途方もないこととして相手にされなかったことが、地道な研究成果の積み重ねによって、20世紀になって急速に浸透したのではないでしょうか。

その研究は、過去に生きて土に埋もれてしまった生命の化石を、多量に収集して分類し分析する生物考古学の地道な成果があってこそ、地球上の生命における進化の過程がわかり、徐々に機能を獲得する進化という現象が一般的な知識にまでになったのではないでしょうか。そして哺乳動物から類人猿を経て人類が生じたことは遺伝子の研究からも、ほぼ間違いないことです。この大いなる生物学的進化の動きの本質にあるものとして、私たちの「人間の現象」とは、単なる偶然の役割だけで生じたものではないと疑問を持って、そこから何らかの仮説を立てて追及すべきではないでしょうか。現在でもこの人間という明確に自らの「意識」を持つ現象を説明する仮説について、生物化学、神経生理、大脳構造などの説明から、その奥の深い複雑さを全般的に統合する機構は全く解明されていないようです。それは人間の出現が、生命全体の長い歴史の時間の流れの中で、少しずつ継続して複雑化が積み重なり、その凝縮されたものから意識が徐々に生じてきたからではないでしょうか。まさに人間がユニークであるとして、その特徴を科学的に考えるべきで、単に偶然として割り切るのではなく、物質の世界が統合された結果として、人間を見なすことが必要ではないでしょうか。

 

II. 人間のユニークさ

そこで、人間がユニークな存在として認められる特徴をいくつか考えてみましょう。まず、人間は地球上で現在知られている物質の中で、物理化学的な複雑さを考えると、特に脳の機構において最も高度に統合されたものであると指摘できます。その統合された組織化の程度によって、人間はすべての生命体の中で最も高度に中心化されていて、自分自身を「意識」できる存在です。そして人間は記憶を組み合わせて内省することで、未来を考え発展しようとする精神を持ち、地球上で他に知られている意識のある生物では頂点にあると言えます。現時点で人間は、地球上の進化で最新であって最も統合された成果物と考えられます。

しかし科学の研究は、これらの人間の特徴を掘り下げて、生命がこの統合に至る詳細をまだ明らかにしていません。最近の科学の傾向は、物質の変化する特性を、ミクロな領域とマクロな領域の2つの空間的方向のどちらかに集中して研究が進められています。しかし、どちらの方向でも、生命という現象にある「意識」という統合の奥深さを説明する方向に近づいているとは思われません。それは今の科学が生命についての有機的な時間軸(意識の時間軸)についての領域を開拓できていないからではないでしょうか。この宇宙に生じる生命発生の動きが、熱力学で言われるエントロピー(乱雑さ)が増大に向かう方向とは逆に進むこと、つまり生命が時間の経過によって徐々に高度に組織化される方向に動いたことは、明らかに観察される現象ですが、これについてどうしてその理由の説明がないのでしょうか。

生物学の研究成果によって、生命はウィルスやバクテリア、原生動物などの単細胞動物から発展して、結果として天文学的な複雑さをもつ組織(脳)が形成され、同時に自分自身を中心化して意識を獲得し、思考する人間にまで至っています。さらにその人間は社会をなして組織化し、集約に向かっているように思われます。この話しをもう少し飛躍させると、宇宙における物質とはもともと生命を発生させるものであって、その物質は人間に至って精神を持つようになり、惑星としてのまとまりを形成して、その先は銀河や宇宙全体にまで統合が進んでいくと考えてもよいのではないでしょうか。つまり生命進化の本質は地球だけでなく宇宙全体に適応されていると考えます。星の生成や崩壊が繰り返される中で元素が用意され、太陽と惑星という関係が生じて、惑星に生命が生じる環境が用意され、有機物が生じて生命が誕生するという経過は、太陽と地球というだけでなく、宇宙全体にも及ぶ可能性のある発展であり、そこで意識が生じて精神を形成することは宇宙の必然に思えます。

そうなると、なぜ生命とは単純に物質に本来ある特有の性質であると定義しないのでしょうか。宇宙にある物質が何らのエネルギーによって、より高い程度の複雑さの段階に向けて運ばれるのが基本と考えないのでしょうか。そして、なぜ時間そのものが、より高い程度への上昇する変化を蓄積してくことであると定義しないのでしょうか。そこでは、複雑さ、集中の程度、中心化すること、意識の起こりなどが、同時的にかつ相対的に成長し増加しているのではないでしょうか。

この生命発生は、宇宙のスケールで私たちの個体発生の法則を包み込んでいるものであり、今それは地球をおおう精神圏を形成するまでになっています。このプロセスにおいて、「人間の現象」が示唆することは、私たち人類の位置やその特徴に明確さがあるという現実を受け入れるべきと思います。現在のプロセスの頂点にあるものが人間であるとすると、その個々の人間は地球の精神として1つにまとまって集約していく傾向が見えています。ここに未来につながる一連の事象が表現されているとすれば、人間の作り出す空間と時間の状況に最も適切な形態の方向がすでに与えられていると予想されます。

 

III. 集束する感覚

生命物質の進化の段階を時間の経過で捉える試みとして、ここでは生命が種として生じた全体の流れを1つの曲線として、おおまかに考えてみます。最初はアミノ酸やたんぱく質のような高分子からなる1つの塊として始まり、生命種が各方向に拡散して広がって多様化したと考えられます。それが、ある時点から人類に向かって収束する方向に舵がとられ、人類という1つの種に狭められていく傾向として見ることができます。それゆえ進化における生命種の動きは前半と後半に分かれることになり、その前半は円錐の広がり、そして後半は円錐が収束するイメージで表現できると思います。そして、この円錐の収束という例えは、生命が人類という価値に合わせるように、その変異のすべてが不可避的に進んできたことを、私たちの意識でイメージできるのではないでしょうか。

そして地球で人類の出現した段階を、時間と空間に沿って収束する経過として捉え直すと、私たちの感覚からは、現在地球上での個々の意識の集合体としての精神は、中心化と複雑化の過程において、まだ進化の究極までは達成されていないと認められます。実際に、この世界の傾向が全体の統合の状態に向かって動いているならば、そしてそれ以上に、人間が全体の統合への潜在的な傾向をすでに持っているならば、私たちの現在の状況は「エネルギー」が活発化していて、不安定な状態にあることになります。

今の世界の現実には、多くの内面的あるいは外見的な前兆として、道徳的な不安や宗教あるいは民族としての不安が、政治的・社会的な混乱の増加とともに多かれ少なかれあって、現在の世界に何か「途轍もない」ことが起こるのではないかという感じがあります。世界情勢を見ると、中国の経済不安、アメリカの金融危機やウォール街の動向は混乱の度合いを深め、インターネットのネタとしても、第3次世界大戦、異常気象、太陽フレア、大隕石の衝突など話題に事欠きません。しかし悲観的なことだけを考えていては、落ち込んで将来に希望をなくしてしまいます。そうではなくて、現実に一般的な事象として、本質的なことで何か重要な兆しはないのでしょうか。

 

IV. 未来への希望

時間が止まることなく1方向に進む現実によって、物質的あるいは精神的にも、私たちは現在ある位置にとどまることはできません。しかし、自由な精神から時間を考えると、現在を流れる1つの時間システムのほかに、「永遠」という時間の経過のない究極にあるもう1つのシステムを考えることができます。そこに、私たちは個人の時間を超えて、円錐の頂点にまで収束した人類を考えて見ることができます。そのはるかな先には究極のものがあって、そこに向けて私たちが動いていると考えてもよいことになります。そこでは恐らく、私たち個々が超複雑な1つのシステムを形成して、現在の脳細胞より以上に密接に連携し、超中心化している状態となっているでしょう。そこで将来の私たち人類は1つの限界に到達するはずです。人類はそれ自身が集約的に上昇した、より高い人類の方へと巻き上げられていきます。この考えから予測される希望を考えてみましょう。

1番目に、この宇宙は暗く先の見えない恐怖ではありません。いわば、その深いところにある真実が明らかになって、その圧倒的に巨大な宇宙の「時間と空間」の無限さは、そこに散在する断片を集めながら、意識が成長していく過程そのものです。他方では、悪のすべての形態、不正義、不平等、苦悩、死は、論理的には悪ではありません。宇宙発生にある世界の労苦は必然的に立場を変えて、それ自身の成長のための模索であり、それに勝利する価値を付加する要因となります。そして私たちが密集している地球は、経験を積み重ねる学習の場となります。もし何らかの限界の壁に当たって不可解にも進めないとならば、それは私たちの統合が誤った偽のマトリクスに陥っていて、やり直すだけのことです。

2番目に、宇宙はその倫理的な真実を示唆します。いわば、現在の状況における道徳は混乱の苦痛にあるように見えていますが、基本的な生命(いのち)の本義にある道徳以外に、何が良くて何が悪いと誰が言えるのでしょうか。私たち自身が進む道で、実際に楽しくないことや興味のないことを強制されて、私たちは一生懸命になれるでしょうか。そこで私たちの精神の活性化に反対する信条は防御するべきです。また一方で、人間のエネルギーは、正しい指導がなければ浪費されます。しかし論理的には、すべての動揺は円錐の時間の頂点において混乱の最後を迎え、各々の人間の存在として直接的な人間の究極の精神が実現されることになります。この目的に到達すべき最良の方法は、すでに見出だされているとすべきです。生命それ自身が目的を持つと知ることが、その強さの源でありその希望になるのではないでしょうか。そして、その目的は方向とすべき最高のものに向かっていて、私たちのすべてが、個人的に社会的に国家的に民族的に、もっとも密接に、あらゆる感覚で、一緒に引き合うことによってのみ獲得されることになります。

3番目に、宇宙には真実の価値があります。いわば、その中の要素の最も小さいものであっても、制限なしにそれが成長・発展することです。しかし自分より上のもの高いものが見えない人、世界の究極が見えない人には、毎日の生活はつまらない退屈なものになるだけであり、その努力は実りの無い全く無駄な時間となります。しかし、自分自身の存在を超えて精神の統合が継続することがわかる人は、すべての行動と事象はその興味とともに充実し、自分の行動の舵をしっかり握ろうとします。世界が充実に向かって進んでいることを自覚すれば、毎日何をしているとか、あるいは何を経験するとか問題ではありません。身体とか道徳とか自然とか人口とか、組織的や集約的なこと習慣など、それらのことに何らの区別や差別なく、私たちに係わる時間と空間の円錐の方向に貢献している程度に従って、すなわち身体的に精神的に自然と活性化しているはずです。

4番目に、この宇宙には暖かく光るものがあります。いわば、この光は全体的な互いの愛の力によるものです。それは自分以外の他人との行動の係わりにおいて、自分自身を発見し完全にすることです。しかし、その個人が自分自身の進む道だけに孤立して閉じた範囲で隣人を見ているのでは、互いの関係の理解にはなりえません。そこでは、私たちが単に1つの要素としてだけでなく、互いに協力して探求しながら1つの精神を見出そうと、その光を探し始めるときから孤独ではなくなります。そのときに人間の意識を介して確立されるものがあります。そこに基本とする密接な関係が生まれ、個人の足跡の集まりを1つの方向につなぎとめながら、次の段階へ向かう流れが生じます。それ以前の時間と空間においては、この精神を引く宇宙的な力は認識されません。この光の存在は、精神の統合を可能にするために必然となるものです。

5番目に、そして最後に、宇宙は内面で光り輝いています。いわば、私たちの奥にある神秘的な情熱の、最も高いものがそこで充実しています。宇宙的な流れが収束するということは、その究極点において、最も高い意識の中心の存在が推測できます。そして、私たちがこの最高の中心の特性を分析しようとすれば、上を越えたはるか先に、何らかの稀にも完全な人類の集合を見るのは明確なことです。この世界の先にあるものを考えて見ると、私たちが移動している先の極点とは、超意識とか超個性とか、現実を超えた何らかのものであり、そこから私たちの方に何らかの力が必ず作用しているはずのものです。それは直接的で物理的な統合の宇宙的ネットワークを通してだけでなく、さらにより、直接的に中心から中心へ(いわば意識から意識へ)私たち自身にある最も敏感な感受性に触れながら、常に今も作用しているはずです。それゆえ、私たちの人間性は、生を受けるたびに新しくなり、発見する情熱に励まされ、そこに自己謙譲と互いに尊敬する態度において、自身を論理的に完成する方向に進む時間の矢になっています。

 

V. 超自然としての意識

超自然的な神秘性との関連において、創造主とは私たちより上にある高い存在であるとする認識です。そこに尊敬や崇拝があり、それを知り近くなろうとすることです。何らの救済への期待あるいは困ったときの神頼みとしての存在ではなく、困難や苦悩はすなわち試練であり、それを乗り越えて少しでも近づきたいという希望をもたらすものです。もし、この世に神のみが為しうる業として認める神秘な瞬間があれば、その存在を信じることにつながり、それはその人の覚醒につながります。それが物質の構成から意識が生じそれが人間において精神となることに光をもたらすはずです。精神は時間と空間にあって、もはや物質から独立しているものではなく、対立するものでもありません。それは、究極にある(神あるいは創造主の)引き付ける力のもとで、生命の統合と中心化によって長い時間と苦労をかけて生じているものです。この次元の時間と空間にある物質には本質的に意識の種があって、それが生命のエネルギーとなって成長し発展しているとすれば、生命には本来的に試練を乗り越えようとする情熱を持っていることになります。生命が人間に至って明確な意識となって、先を見る目を育てて、順次に新しい環境を生み出しながらそれを維持し、さらにもっと発展させていくことになります。そこに、一貫性と明瞭さが付け加えられていくことになります。

宇宙の精神を「円錐」構造として考えると、その頂点には神あるいは創造主、あるいは究極に到達した人間性があって、永遠の時間の中に全体を包み込んでいることになります。そして、その神あるいは創造主はすべての時間とすべての空間を通して影響しているはずです。そして頂点に集束する構造という世界では、時間と空間のすべての段階において発生の相互連携があって、そこに創造主の意図という神秘的な作用が働いています。この世界において、精神そのものは真に宇宙的なものと考えられ、私たちの情熱と心の奥で調和して、進歩しようとする行動から生じるものです。

 

VI. 宗教と神(創造主)への方向性

現代のおおよそ宗教というものが、神(究極)の存在に触れる神秘ということではなく、多くが世俗的なことに影響されてしまっているように思えるのはなぜでしょうか。現代において宗教の存在に当惑していることは、その集団行動において何らの強制あるいは禁止することであり、その静的な側面においてのみ、個人の徳とか私心がないことへの信頼感で存在しています。過去には、「まわりの人に傷あれば癒し、敵を和らげ、不正を減らし、できるかぎりすべての世話と献身する」ことなどを意味したようです。しかしそこで個人が「超自然的な」神に近づくために必要とされたのは、この世界の物事に執着する感覚に束縛されずに、それを消し去ること、すなわち個人が世俗を離れ解脱によって超自然の次元を垣間見ようとすることでした。しかし、もし私たちの進む先の本質が精神の集束であって、人間が進む先が離脱ではなく創造主に近づくことであれば、個人の意識は統合の方向になるのではないでしょうか。

精神が集束する円錐とすると、個人が隣の人とより密接になる1つの可能な方法は、円錐の頂点が狭まっていく方向にしっかりと向いていることです。言い換えると、世界の全体がそれぞれの領域から頂点に向かう動きがあるならば、究極に近づくにつれて、隣人とより近く密接になっていくことになり、これは互いの心遣いや思いやりがなければできないことです。そして、物質としての実体をもった人間は、範囲が閉じた惑星では、互いが意識し合って助け合わなければ、全体への統合はありえません。そして、すべてがその隣人を愛することは、またそれも不可能に思えます。しかし、私たちの意識の奥には、究極から引かれる神秘の力が作用していて、その方向に私たちを近づけようと働いて、互いに密になることを強制しているように思えます。そこで私たちが幸福と充実を感じるためには、より多くの人々が互いに認め合い、心遣いや思いやりに情熱が持てるような、上昇と統合の方向を具体化していく必要があるように思います。

確かに私心がないこと利己主義でないことは、心が広く他人を認める態度のことです。しかし、それが「あるがまま」の何もしない態度ではなく、まわりの人と交わって、教えるあるいは教えられる行動が必要です。至らぬ人は切り捨てて行くのではなく、一緒に上昇して行く道です。それは避けるとか除ける道ではなく、通るべき道です。そこから生じる思いやりの輪は、その個人に止まることなく、隣人を巻き込んで上昇する力のように広がります。これはすべての人間活動の心にある共通の本質です。個人の持つ多様な方向性は最終的に1つの豊富な全体に統合されます。人間までに積み上げられてきたもの、そして人間の精神として向上してきたものは、究極(神あるいは創造主)の方から引かれる力の作用によるものであり、そして人間はその究極に集約していきます。

この世界を通して、国、民族、階級、職業、信条などの違いはあっても、生命の進む先にある意識の次元を考えながら行動を始めている人々がいるはずです。現時点ではそのような人は、外部の観察者から見て少し変わった存在のように見えるかもしれません。しかし彼らどうしは互いに気付いていて、通りかかればいつでも仲間として認識し合います。彼らは、世俗の古い概念や形を捨てながら、明日には彼らが考えることが全体の世界に理解されることを知っています。

 

Inspired from “The New Spirit” written by Pierre Teilhard de Chardin.

 

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