Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

自分の記憶はどこに保管されているのか

2023-07-31 06:29:36 | 精神圏への旅

自分の記憶はどこに保管されているのか

私たちは人によって程度の差はあるけれども、様々なしかもかなり多くの記憶を保持しています。まずは会話や読書に最低限必要な数万語ともいわれる単語を記憶していて、それを組み合わせて思考できます。そして4・5歳の頃から自分の印象に残った出来事を年齢にそって思い出すことができます。あの当時はどうだったとか考え出すと次から次へ記憶が紐解かれる感じがします。それだけではありません。印象に残った本の内容とか感動した風景、あるいは美味しかった料理など結構はっきりと思い出せます。また、気に入った音楽の調べが折に触れて頭のなかに流れてきます。私たち一人ひとりは、自分が主役として役割を果たしてきた様々な物事を時間の経過とともに思い出すことができます。そう考えると記憶した内容は相当な量までになっていて、それを頭の中に保持していることになります。そしてその記憶は時の経過や関連する事などの因果関係とともに、その時々の感情にも結びついています。それらは大量な情報になっていて、とても脳には入りきるとは思えないほどです。本当にこれらすべての記憶は脳の中に保存されているのでしょうか?現時点では脳の各部位と身体機能や言語機能との関連についての研究はありますが、それらの情報がどのように脳の中に記憶されているのかはまだ解明されていません。私たちは脳のなかに膨大な記憶をどのように貯めているのでしょうか?

現時点の考え方では、記憶は脳内の細胞に何らかの形でコード化されて保存され、必要に応じて取り出されていると想定されています。脳は神経細胞や周辺のグリア細胞などを含めて数百億以上あるとされるので、脳細胞が記憶素子としての数に相当するという点では納得はしても、活性化する細胞内で記憶を整理し長期固定化できるということに疑問が残ります。なぜなら脳は様々な生体の機能を果たしているからです。大脳は言語や思考を担っているし、情動やホルモンの制御、身体の動きや感覚器官との連携があり、細胞自体の新陳代謝もあります。もし脳が記憶装置として機能しているならば、その装置は記憶内容を安定した状態で維持する必要があります。しかし、生きている細胞の中では様々な物質が循環し活性化していて、神経細胞であっても神経伝達物質の移動や電位変化があります。細胞内の物質は常に入れ替わりがあり、その変化において生命の活性化を維持しているはずです。そうなると細胞内では、シリコンでできたコンピュータメモリのように1と0の変化を静的な状態でそのまま保存することはできないように思えます。そのうえ、記憶の内容を思い出すという機能はどのように実現されているのでしょうか。一般に記憶装置の検索はインデックスを付けて、どこに何が格納されているかをわかっているので取り出すことができます。しかし私たちの脳では連想により即座に思いつくように感じます。このようなことから、脳は記憶装置そのものではなく、別のどこかに記憶するところがあって、脳はそれと同調して読み出している器官として機能しているという考え方もあり得ます。

現代の生物学者のシェルドレイク(1942~)の考えでは、生命体には脳とは別に記憶領域があると仮定し、これをMorphic Field(形態領域)と名付けています(詳しくはRupert Sheldrakeを参照)。つまり、脳は記憶装置というよりは別の領域にある記憶とのチューニングシステムのようなものであって、過去の記憶は脳内に保存されていないかもしれないということです。このような考え方は、現在の科学的な物の見方とは明らかに異なっていますが、もう少し考察してみる価値があると考えます。ここで例の1つとして生物の発生を考えてみます。1つのどんぐりから樫の木が生じるとき、どんぐりのなかに小型の樫の木があるわけではありません。どんぐりという単純な種子から複雑な樫の木の構造や組織が生じています。そして動物の場合でも1つの受精卵の成長を考えるとき、その動物種に一定の経過があって胚発生となります。ここで単純な構造と思われる受精卵において、その種に決められた道筋があって複雑な組織が生じるのはなぜでしょうか。1つの受精卵そのものに将来の構造や機能の可能性をすべて含んでいなければならないと考えるのは無理が生じます。一方、DNAという遺伝情報はタンパク質の構造をコード化していますが、タンパク質は生体の構造の土台となる物質であり、全体構造の設計図ではありません。生物はその個体すべての細胞で同じDNAを持っていて、その組み合わせ個々の部位や機能に影響があっても、個体全体の形状を表現していません。そこでシェルドレイクは1つの個体は目に見えない形態形成の領域に取り囲まれていると説明しています。

全体の形状については、部分が全体を表すという構造の仕組みが話題になっています。無生物の例で言うと、磁石は細かくしても1つ1つが磁石になり磁界を持ちます。全体が部分で表されるホログラムも電磁場の干渉を利用していて部分が全体を表すことができます。生体細胞が集って1つの生命の種をなしている場合も、磁界や電界と同じように自身やまわりを巻きこむ領域があると考えたらどうでしょうか。つまり、1つの閉じた生物には目に見えない形態形成の領域があるしてみましょう。それぞれの種には独自の形態形成にかかわる領域があり、それぞれの個体の形態領域にはその部分ごとに全体を表す領域があるとします。例えば私たち一人ひとりの中に、全身の形態領域があり、そして腕や脚の領域や腎臓や肝臓の領域があります。その内部にはそれぞれの組織の領域があり、次に細胞や細胞内の構造の領域があり、その土台には分子の領域があって、一連の領域が階層構造のようになっています。そして、それぞれの領域ごとに一種の記憶を内蔵していることになります。肝臓の領域は以前の肝臓の形状によって形成され、樫の木は以前の樫の木の形態や組織によって形成されることになります。その領域の構造は過去にその種に起こったことに基づいた累積的な記憶があって、それに影響されていることになります。これは、遺伝によって次世代に伝わっていく情報だけでなく、その生物種における領域の記憶あるいは集合的記憶であって、その影響によって個体の全体設計や習性が決められているということです。そして個々の生物において新しい習慣を獲得したとき、それが仲間と形態共鳴して、その種の全体に広がっていくという考え方です。

現代の生物学という分野で科学的教育・訓練を経た学者が、時間と空間を超えて記憶が保管されている領域があるという説を唱えたことは大変興味を引かれます。生物は自己の形態や形状を保持している領域と共鳴することによって、細胞内の物質が入れ替わったり変化したりしても、形状を安定して維持できているというわけです。そして、こういった形態の記憶があるとすれば、生体細胞の特徴の1つである自己を複製する能力も説明できます。例えば、樫の木の小さな枝からも大きな樫の木へと成長することがあるし、扁形動物を刻んでもその断片から新たに完全な扁形動物が成長する可能性があります。このような生物の形状は、同じ生物にとって過去の状態と自己共鳴していると考えられます。それ故に、細胞内の様々な化学物質は常に入れ替わって変化しているにもかかわらず、全体や器官などの形状は安定して維持していることが説明できます。また、種における新たな習性の獲得においても形態領域を通じての自己共鳴によって調整されることになります。神経経路などによる物理的なつながりだけでなく、生物の種はそれぞれに目に見えない領域が全身をおおっていて、その領域の影響を受けていることになります。

生命は人類まで至りましたが、人類が発現すると同時に、新たな人類という種の形態領域が定まり、その領域の上に種族や個人の記憶が積み重なります。これは人類だけでなく、生物にはそれぞれ集合的記憶の領域のようなものがあって、段階的に広がって、それは地球の全体にまで拡張します。生命体の種は形態領域において共鳴しつつ、同時に時間を移動していることになります。これを逆向きに考えると、すべての生物は地球の生命としての記憶を土台にしていることになります。それは、すべての生命の経過の痕跡が、時間と空間を超えた私たちの見えない領域に記憶されているということですこのような観点からまわりを見ると、を見る目が全く変わるような印象があります。私たちのまわりには目に見えない記憶の痕跡が折り込まれていて、その記憶の痕跡は階層構造をなしてそれぞれの部分に影響を及ぼしています。そこには個人の様々な記憶をはじめ、仲間の集団や組織の行動に関しての記憶もあり、それらの成長や発展とともに付随する記憶も拡張していきます。もちろん、私たち生物の未来もその影響を受けていることになります。過去の生物は種の形態や習性を保存してきましたが、自己を明確に自覚した人類からは、その精神も保存することになります。

人類では形態領域が発展して精神圏になる

それでは私たち人類のことをもう少し考えてみましょう。テイヤール・ド・シャルダンは以下のように言いました。「動物は知ることができると言われます。しかし動物の中で、ヒトだけが知るということを知っています。この能力は人において新しい特徴である、選択の自由、未来の予見、計画する能力などの多くの能力の基礎になるものとして誕生しました。」そして、ヒトの意識の中心は内省の領域に生じる自立性を獲得しながら、生物の進化に独自の流れを起こしました。人間において自己の意識が明確に芽生えたということは、その方向に影響を与えたものがあるはずです。それは宇宙に生命を生み出し継続させているものであり、地球の生物全体の記憶の痕跡でもあると私は考えます。ここで、ヒトの脳の神経細胞が何らかの記憶フィールドへ連携しているとするならば、まず一番強く共鳴するのは自分自身の形態領域であるはずです。そして、その領域は人類の発展とともにまわりの仲間に広がります。そして、連携する輪が共鳴して徐々に領域を広げていき、最終的には地球レベルにまで広がるだろうと予測できるものです。

個々の人間に目に見えない形態領域があるとすれば、それは物質における重力の影響のように、その人だけでなくまわりに影響を及ぼします。ある人が思考して得た新たな概念などの成果は、目に見えない領域を通して人間どうしの共鳴につながります。ある人が試行錯誤して考えた行動が新たな習慣となると、それが領域に記憶され他の人との間に共鳴を生じます。人間にはやる気とか精神の奮起というようなことがあって、目に見えないエネルギーによって行動が生じます。同じように、目に見えない領域における共鳴によって他人に精神のエネルギーの影響が広がります。これは精神圏という領域と重なるように思えます。つまり思考する人が多く集まり、そこに精神の集約が起こると、さらに有機的な組織を超える精神の共鳴によって、より複雑に向かう集団としての特徴を帯びることになります。

テイヤール・ド・シャルダンによると、個人の意識が内省的巻きこみによって人類という種の集約的な巻きこみとなり、それが地球をおおって私たちを精神圏へと導くとしています。彼は、生命において意識が中心化すること、人間という種に織り込まれた精神、惑星による包み込み、この3つの連携で精神圏が誕生したとしています。これは個人と人類と地球を巻きこむ形態領域を前提とする、同じ概念であると私は考えています。

生命が進化し発展してきた経過において、生物はその個々の細胞を土台として組織を複雑にしてきました。生命の細胞は集合して1つのまとまりをなし、活性化しながら複雑な組織を維持して時間的にも継続を可能にしています。そこで、生体では細胞内の物質は常に入れ替わっているし、細胞自体も定期的に入れ替わります。しかしその場合においても、その細胞独自の機能を維持できているのは、その仕組みを記憶する機構をどこかに備えているからです。今や人類にまで至った生命の機能は、大脳という複雑な器官を発達させ、その活性化を維持しながら様々な機能と莫大な記憶を保持しています。この複雑さを保持する仕組みはどこに隠されているのでしょうか。私たちの目に見えていることや知識としていることはわずかな部分であって、実際は広大な目に見えない領域があるのかもしれません。もしかしたら、磁界や電界あるいは重力などのエネルギーも含めて、複雑に入り組んだ目に見えない領域が私たちを取り囲んでいて、私たちに影響を与えながら共に発展しているのかもしれません。

Written by Ichiro, 07/31/2023, 

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現実の認識に仄めくもの

2022-05-08 22:26:05 | 精神圏への旅

現実の認識に仄めくもの

漠然と日常を繰り返すことが退屈でつまらないと不満がある訳ではなく、現実の人生を恙なく過ごして倦怠を感じるというわけでもありません。しかし何かやりきれない思いがあります。毎日の繰り返しに「これで良いのか」という思いが起こります。何かができなかったわけでもなく、精神的に不安定になっている感じがあります。何かが歪んでいて何とかしたいと感じが起こり、じっとしていられなくなります。何かわからない焦りが、あるいは逸る気持ちがどうして起こるのでしょうか。やりたいことができなくて焦っているなら未練と言えるでしょうが、それとも違います。人生を無為に過ごしていたわけでもありませんが、自分の思いと現実とが何か食い違っていると感じます。現時点から早く先に行きたいと現実から逃避しょうとする思いなのでしょうか。この現実と乖離していくような気分が起こるのを何とかならないものかと思います。

自分にとって現実とは何なのでしょうか。自分の内側で感じている現実は私自身の見方によるものです。家庭のなかでまわりを見渡すと必要を超えた便利な道具に囲まれています。しかし果たして私たちの生活は豊かで充実しているのでしょうか。私たちの日常では個人の情報が保護されているし、監視カメラで安全が確保されていると思っています。しかし、私たちは本当に安全な状況であるとして安心できるのでしょうか。まわりの現実というものが何か「ちぐはぐ」に感じられます。人間の脳は日常生活に適応しやすいように、まわりの現実を自分の都合のよいように補正して知覚しています。それは自分の思い込みから作り上げた歪なものであり、自分という個性が内側に構築してきた現実です。その自分で作った歪な状況に納得している自分に気づいて、追い込まれるような焦りが生じます。焦る気持ちとか逸る気持ちは自分の内にあるものなので、それが何かの不足や不満から起ころうとも、それらは全く自分の精神的な状況です。それだからこそ自分の思いと現実における葛藤において、精神的に抵抗せざるをえない状況が内部に作り出されます。

一方、直視したくなくて無意識に排除している現実もあります。現代人は普段から何かと競争にさらされていて、やり遂げなければならないと思い込まされています。私たちは家庭でも仕事でも、平均とか普通とかいう言葉で惑わされて、私たち自身に負い目があるような気持ちにさせられます。まわりには危険が一杯あり、自分も他人も安心して生きることが難しいと思い込んでいます。そういった気持ちに自分で自分を縛っていて、まわりとの関係に必要のないことまで心配して前のめりになって生きています。時間の制限はないのに、ともかく早く上手にやり遂げるのが良いことだと錯覚のように思い込んでいます。そして時間にゆとりができれば、何もしないことに罪悪感を感じてしまう傾向にあります。法律はあっても本当に守られているのは何なのかは不明に思えます。そういった周りのことに対抗するかのように、自分の内にも自分だけの現実を作り上げています。それは自分がイメージする閉じた世界であり、いわば我儘に創造した白昼夢です。私という自覚において、そのイメージは当然のようにまわりと乖離が生じます。そこに自分を閉じ込めておいて良いのでしょうか。

私たちの持つ現実という認識は、身体の知覚器官からまわりの情報を取り込んで作り上げています。生命として必要な欲求からの知覚情報が基本にあって、個々における相違が付加されています。生活のなかでの小さな喜び、ちょっとした恐怖、倦怠感や気分転換、気分の高揚や感動などの積み重ねによって影響されます。まわりの物や起こったことについて1つ1つの認識から現実が成り立っています。それを現実として納得している自分があって、自分自分は目の前の認識が正しいと思い込んでいます。そういった意識で周りを見ています。そこに自分を主体とする視点があります。それは自分の内側に作っているものであって、対象にしている実際の現実の本質とは別の世界です。自分が見たいもの聞きたいものを中心にして作り上げた現実は、自分を良く思いたい気持ちを土台にしていて、自分が安心できるように作られます。自分に都合の良いものや回避したいものが混ざり合った中から、自分に強く影響するものを取り込んでいます。

私の現実は主体となる自分を中心にした現状を、脳の内部にイメージとして作り上げたものです。実際に知覚した印象に自分の思いが刷り込まれます。知識を吸収し経験を重ねることで新たな行動や様々な感情が起こり取捨選択されて積み重ねられます。そこに自分の理想とか未来への思いなどの期待も込められます。それは現実にある時間と空間そのものではなく、自分のなかの幻想や期待感も含まれます。自分の様々な思いが込められた現実に違和感が生じたとき気持ちが混乱します。対応に悩んで落ち込、自分に閉じこもって様子を見ようとします。何か頼れるものに依存する行動を起こすかもしれません。しかし、自分の内に作り上げてきたものと自分のまわりの現実との間に相違があるなら、その新たな現実に気づいたことを内省してみるのは理に適っています。この場で当たり前のように自分の主観は正しいと判断するのはおこがましいでしょう。

自分が現実として思い描いているものに違和感が生じたとき、それに抵抗する気持ちも起こります。そのときに、自己の内部で完結していた現実に対し、抵抗するというする感覚を積極的な意味で捉えることができます。現実に対する認識は、自分に都合よいものを組み合わせた思いで塗られています。その納得してしまったはずの因果関係が能動的に働いて葛藤となって内省を促します。葛藤とはそこに精神としての抵抗が生じているということです。これに対処するのは穏やかなる忍耐です。自分のなかの現実にある葛藤を超えて新たな現実の再構築に向かいます。自分に閉じた固定観念だけによって印象を作り上げるのではなく、自分に対して考えさせ見させようとしているものを発見する丁度よい機会になるはずです。

現実の世界では常に自分の意識とまわりの物質が干渉してながら緊張感を生じています。私たちの精神はこの緊張感を意識せずに対処すること慣れてしまっています。しかし、抵抗する精神に気づいたとき、自分の意識は今に囚われている現実を離れて、時間と空間を超えて内省に向かいます。そこに葛藤による緊張感から生まれた能動的な働きがあります。この緊張感は、現実の時間と空間を超えるように、受け取るだけの片方向だったものが、自分からの意識を伴う双方向という感覚をもたらします。それは精神において時間と空間から自由になる瞬間です。逸る気持ちが生じて内省を促し意識を活性化する起爆剤となります。穏やかなる忍耐によって葛藤を対処することで精神エネルギーは活性化します。まわりにあるものと自分との間にある緊張感から自分を再認識します。そこで自分の内部に構築している精神は物質と直接的に干渉しない次元にあるものです。この試行錯誤は未来の知性に向かう知覚に近づいてるのかもしれません。

まとめ

私たちの周りには便利な道具が溢れていますが、私たちは精神的に満たされているとは思えません。私たちの生活は個人情報や環境の保護の取り組みで守られているように見えますが、それでも何らかの不安や制限の中で生きることを余儀なくされる時代にいます。そこに実際の関係を見させないものがあって、何かに操られているように現状を納得させられている自分がいます。人間の生命を維持することが優先されているなら、その個人にとってすべての真実をわかる必要はありません。しかし、そこで納得してしまうのではなく、抵抗する気持ちが心の底に蠢いています。素直に納得できないことが自分に焦りや逸る気持ちを起こさせ精神の刺激になっています。基本に生命として決められた道筋があっても、自分の意識として作り上げた世界があるからこそ葛藤があります。私の前にたとえ温い現実世界があっても、そこに閉じこもるのではなく抵抗するエネルギーが起こります。それは単に抵抗する気持ちだけでなく、葛藤の絡み合いに対して穏やかなる忍耐からの内省を促します。自分の内にある現実をどう作るか、それは自分に任されているという思いがあります。

私がはっきりした目標がないまま漠然とした日常を繰り返すことに抵抗を感じるとき、自分の内にある精神と現実の認識との間に乖離が生じます。単調に生きることに我慢できずに私の精神に不均衡が起こり、それが焦る気持ちにつながります。私のなかに起こる逸る気持ちや焦りの感情とは、それは現実からの逃避を目論んだものではなく、自分と現実との乖離において精神エネルギーから発生したものです。自分のなかで固執していたことに相違を見出し見直され、さらに精神の欲求へと広がっていく感覚があります。自分の内側に起こる葛藤を見つめ直すと、そこで生じたエネルギーが活性化するのを感じます。それは生命のエネルギーが単に生きる継続に費やされるだけでなく、精神のエネルギーに昇華していくようです。単調な生活を継続しているように見えても、その実、私は自己の内に高度な現実を作り上げるための準備をしています。基本的には生きることを継続していても、行動に独自の精神的なものを積み重ねることを模索しています。

これを大げさに言えば、精神において生じる抵抗を人間の進化という側面から考えようということです。人間の精神における進化はおそらく複雑で多様な現実で鍛えられます。もし個々の現実の感覚が潰されて平均化してしまうなら個性の破滅と同義です。それでは人間集団は生命の進化において消滅する種となるでしょう。単に人生を全うするだけでなく、やるべきことが何かあると考えたとき、現実の認識に抵抗して内省することで精神エネルギーが活性化します。そういった試行錯誤で鍛えられた精神は、囚われていた固定観念を超えて自己の意識を広げます。それは現実の認識に仄かに現れた、未来にあるべき知性に向かう欲求への拡張です。うまくすれば未来には何らかの脳の機能の拡張があり、気づきの閾値が向上することが期待できるでしょう。現時点は、人生で我儘に作り出した現実を自分の内側に構築して「それでいいじゃないか」と開き直っている段階ではないでしょうか。

Ichiro, 05/07/2022, 

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生命の裏で見守るもの

2022-03-21 09:28:45 | 精神圏への旅

生命の裏で見守るもの

どうせ一度きりの人生だものハチャメチャに生きてみるかと思っても自分の中に引き留めるものがあります。目の前に欲しいものがあっても手に入れるのはよしておこうと制止する気持ちが起こります。他人に迷惑がかかるとか、手に入れるお金がないとかということではなくて、欲しいものでも今は止めておこうという考えが浮かびます。また逆に、商品を見て欲しいなと漠然と思いつつ、よく考えずに衝動的に購入してしまうこともあります。自分の欲求に際して自分の意識に上らずに何かを仕掛けてくるもの、それは何なのでしょうか。後から考えると、自分の人生で必要なことや為すべきことのようなものに関して、自分の意識の背後にじっと静かに観察しているものがあって、気が付かないうちに対応してくれているような感じがあります。

ここで言うのは脳の左右の部位の話のように、論理的な脳の領域に対する直観的な思考領域のことではありません。自分が生きることに付き添い見守ってくれているものがあるという感覚です。自分の過去を振り返ってみると、そこに良くも悪くも人生の彩として印象に残るものがあります。しかし、本当にこれで良かったのかという思いも生じます。はたして自分の人生に何らの意味があったのかと悲観的にもなります。そんなとき自分に対して考えさせようとしているもの、見させようとしているものがあったことに気がつきます。自分にそれを見せてくれたり聞かせてくれたり味あわせてくれたりしたものがあったということです。それは命を吹き込むというほどの大げさなものではありません。自分と共にいて、何かの機会に制止や促進などの示唆をしたり、それとなく支援しているような働きあるいは存在を感じさせます。

人生には生きることに集中して活動する身体とそこでいろいろと考えている自分の意識というものがあります。そして自分の意識を支えながら干渉はしないけれども困ったときに手を差し伸べてくれることがあった気がします。自分が単に見たり聞いたりするだけでなく、意識がなぜか対象に集中して緊張感が生じ、内部から感動が起こってくるときがあります。そこから生じる感覚は感覚器官の情報への自動的な対応ではなく、内部の能動的なものがあって、対象との関係において緊張感を生むものです。自分の先入観に囚われているのではなく、その枠を超えて直観的に感じるものです。自分で作り上げた限界のなかで自らで納得してしまった葛藤に喘いているときも、敢えてすべきことを考えさせてくれるものがあります。自分の中に作り上げた現実の世界という認識をできるようにしてくれます。そこに生命として決められた道筋があって、自分の限界に至る道を予感できるようになります。自分であると意識していることの裏側に、意識せずにする行動があり、知らずに進んでいる道があるかのようです。

それを想像するに、生命に付随して3次元物質に依存する時間と空間を超えた非物質的な存在を仮定したくなります。生命を持つ閉じた1つの塊は、それが多種多様な形態があるにもかかわらず、生きようと必死で行動しているという共通点があります。生命体はその継続に困難があれば精一杯の抵抗で対応します。植物や動物や昆虫などにも生命に伴う意識に関する非物質的なものが存在している可能性がないともいえません。人間はその上に言語・思考の機能が加わり、自分であるという意識を持って内省し、行動に意味を持たせることができます。そして生きる上に必要な道徳的・倫理的な示唆によって支えられています。自分の中で作り出した客観性という枠組みの世界において、人生を恙なく送らせてくれるものがあります。危ない状況に対して目前で踏みとどまることができます。自分の背後にあるものは、自分を押しのけて前に出ることはなく、もしもの時に支えて、その存在に気が付かないように助けているように感じます。物質的な欲求と精神の欲求を見極めて判断していく自分があるとき、何を選ぶかは自分に任されていると自覚できます。もちろん責任は自分にあるけれども、自分の運命と生きる意識との関係において、すでに世界が定まっていると感じます。

まとめ

興味を引くことがあっても、実際にやってみようと行動を起こすまでにはならないことが多いものです。一方、ある特定のことに関しては興味を持って何とか努力してやりぬこうと思うことがあります。ここにある差異は自分のなかでの欲求の強さや興味を持つ対象に違いがあるだけでしょうか。自分の性格や嗜好などの精神作用によって特定の対象に動機が形成されているのでしょう。しかし、自分の運命の背後にそれを支えている存在を私は仮定できると思います。それは裏で自分を操っているのではなく、見守っているという感じのものです。なんとかここまで人生を恙なく過ごすことができたのは、何らかの陰からの支援があったのではないかと感謝するしかないと思っています。これでは他力本願のような感じもありますが、それは自分という意識を生じる脳の機能によるというより、何らかの存在からの一方的な対話という外部刺激的な感覚です。けれども実際に判断し行動するのは自分だし責任も自分にあります。こっちから期待しても応えてくれないけれども、何かのときには安心して前に進める頼もしい存在です。それは自分の運命からのお知らせ程度に考えておくのが良いかもしれません。

Ichiro, 03/20/2022, 

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生死を超えた先にあるもの

2021-12-21 11:10:00 | 精神圏への旅

生死を超えた先にあるもの

はじめに

地球において生命という自律的に活性化する物質の集まりが現れて以来、その生命は複雑になる方向に進化して人類に至っています。現代の人類は神経系の中枢に大脳が発達して言語や思考を獲得しています。そして、自己の意識を自覚して、自己の頭脳のなかに思想あるいは精神の世界を創造しています。この流れは偶然の積み重なった結果ではなく、宇宙には生命という現象を必要とする何かがあり、生命という形態が複雑になっていくことを土台にして何かが目論まれていると考えます。生命という現象があって、そこに自己の意識の自覚において精神が宿りそれが発展した先には何があるのでしょうか。宇宙に物質があって、その集まりが生命という活性化を為していることは、単に生命そのものが出現したことだけでなく、それを超える一貫性を持つ発展があると考えて間違いではないでしょう。その発展の過程にある今この時において、この宇宙に存在する私たち個々の立場はどのように解釈したらよいのでしょうか。つまり、個人が自覚する精神において、その生から死への一生という間で、宇宙の発展における一貫性をどう解釈して安心するかということです。ただ単に成長して子孫を残せば良いというだけでは、精神を自覚した人間には耐えられないでしょう。そして個々の人間が望みを失い怠惰や倦怠に陥ってしまえば発展はありえないでしょう。生きている間は恙なく普通に暮らすことができ、生活の欲求が満たされて好きなことができる、というだけで私たちは満足できるのでしょうか。

今の状況に自分がいることの意味

今、私として存在を自覚する自己の意識があって、まわりにある物を認識して、頭の中でその対象を考え巡らすことができます。そこで今生きている私にとって焦りに似た気持ちが起こります。それは、死ぬまでになすべきことがあるのを忘れてしまって、生活に埋没しているのではないかという不安です。しかし、自分の置かれた時間とその意味を考えるとき、今が自分にとってどういう状況なのか、どうして自分がここにいるのかと追求しても答えを得られずに苦悩のなかに浸ります。様々な個性を持つ人間は、その誕生から死までの間、その個人における1つ1つの事に、何らかの意味を持つような仕組みがあるのでしょうか。現代の人間には考える時間があり、その考えることに特に束縛がなく、その範囲で漠然とした考えで自己満足している自分があります。個々の人間は偶然にその家族として現れて、死ぬまでの間、家族や友人や仲間との関係を保ち、世の中の消費において循環に寄与するだけなのでしょうか。そういった苦悩に解決の糸口はあるのでしょうか。精神を持つまでに発展した人間は、考えることができる故に、生命の活性化や世代を継続する束縛を超える救済が用意されているはずです。

現代は個人ではなく集団で関わり合う

現代では生活の向上のために日々新しい道具やサービスが生み出され便利さや効率が追求されています。まわりを便利な道具に囲まれて、人々は時間の余裕が少しずつ増えています。私たちは生活に追われて生きるだけでなく、不満や不安を解消して生活を改善したいとする意欲が生じています。そして、よりおいしい食事やより便利な道具を得るためにお金を稼ぐことを強いられます。私たちはお金と時間に余裕ができると物やサービスを買い、満足あるいは不満を感じて関係者に意見や評価あるいは文句を伝えます。結果として個人は大衆という集団の中で、おおむね生活を便利にしていくことに貢献していることになります。製品を作る側にも変化があり、昨今の一般消費財は過去の時代のように個人が作って売るわけではありません。製品の企画検討から設計・開発・テスト・流通などかなり複雑な過程を経て市場に出されます。そこで多くの人が適材適所で組織的に働いています。しかし、個人としての関わりは歯車の一部であり、製品に対する個人の貢献は局所的であり専門化しています。つまり、製品を市場に出すには目的に沿った組織の集団の力が必須です。製品の機能や価格とのバランス、消費者に受け入れられるかどうか、見せ方や宣伝・広告など、様々な検討事項や試行錯誤があります。市場に出ても口コミ評価や市場調査などが盛んに行われています。新製品1つを取ってみても状況が複雑に絡まっていて、多くの人間が関与しないと製品が市場に出せないような状況になっています。人間たちが集まってまとまることで始めて成果が上がり、人間一人の力では立ち行かない状況が現れています。現代の世の中では個人の存在というものが霞んできています。

人間が複数集まるということは多様な個性が集まることであり、そこに何らかの軋轢が生じます。1つの強烈な個性を持つ精神が波紋を起こすと、まわりに様々な影響が広がります。組織の目的が明確であり、その集団の責任者がしっかりしていれば反対意見を越えてまとまります。しかし、反対意見が強ければまとまらないだけでなく、目的から離れて他人に対する妬みなども起こります。考え方の違いが感情的な反発につながり仲たがいが起こります。逆に、個々に違いはあっても共感や共鳴する精神の出現へと発展して、次第に集団の個性としてまとまる流れが見えてきます。そうなると集団の中の個人は全体と動きを合わせる歯車の1つになります。細胞による生命の組織にも同じことが言えるでしょう。生命は物質の組み合わせであっても、生命体として組織化して自律的に活性化している物質の塊です。生命活動をする塊は細胞が集まった組織の上に成り立っています。個々の細胞に主観というものはなく、全体を統率する意識において連携され、1つの生命体としての集合における行動のみが現れます。

物質、生命、精神の一貫性

生命の個体が生きている間は、活性化を維持する欲求によって、物質を交換してエネルギーを発生する動きになっています。それにはまわりの物質を取り入れるときなど、その識別に特化する知覚が必要です。それゆえ取り入れて利用して排除するなどの工程において様々な器官が発達しています。個々の器官は担当する作用をこなすだけの機能を持ちます。それぞれの器官は専門化して全体を支え神経系を通して脳という中枢で制御されます。人間に至って脳は生命体の活動を統御するだけでなく、大脳が発達して言語や思考を獲得し、物質の束縛を離れて精神の世界を構築できるまでになっています。この連続性から考えると、人間の精神も物質が基礎になっているということになります。そうなると精神の動きも物質に囚われる必然性があり、そこに一貫性があります。ここで物質と精神を連携させているものは生命活動であるのは間違いないでしょう。人が生まれて死ぬまでにやっていることは、その活性化の維持する期間において、主体なる個人がまわりの物質に対する認識を積み重ね、様々な記憶を積み重ねていることです。そして個体の死とともに同じ時間と空間にある仲間達から明確に分かれることになります。一貫してそれを支えているのはミクロの世界であり、それは人間の意識とも関連します。

この宇宙には生命の活性化の期間である生死を超えて一貫しているものがあります。それは原子や分子といわれる基本的な物質であり、それはミクロの世界と言われています。そこで、生から死という変化とは、組織として活性化していた生命体が、多くの物質が集まっただけの塊になることです。生きている私たちが物質を認識するには、生命の活性化を全体として制御できる複雑な組織が必要です。死ぬことはその主体が自己を認識できない状態になってしまうことです。自己を自覚する意識の主体が認識できていた状態が、死を境に不活性の単なる物質の塊になることです。そうなると脳のなかで作り上げられた精神という世界とそれを自覚できている意識との関係はどうなってしまうのでしょうか。この関係性において、死ぬことによって物質の塊が不活性になり、そこで培われた物質の認識はすべて消えてしまうのでしょうか。それとも、その関係性は何らかの連携によって変換されてどこかに残されるのでしょうか。

物質の意識から精神の意識へ

ミクロの世界の元素においても、自然界にある単純な水素からウランまで徐々に複雑になる方向に向かったと考えてよいでしょう。その様々な元素が組み合わさって生命となり、生命が自己の意識を自覚して人間になっています。物質が複雑に集まった生命体である人間は、物質と直接関係しない精神という世界を作り出しています。これを言い換えてみると、まず物質どうしの引き合う力による連携があり、そこから生命が生じて、生命から精神の世界へと発展しています。これらすべてを包含するミクロの霧があるということは、生と死を超越した世界がそこにあるということになります。物質が連携するには、相手の物質を識別する方向性あるいは意識が必要です。その連携を土台にして、生命体が知覚においてまわりを識別するための器官を発達させました。そしてさらに組織を複雑にして人間に至ります。それゆえ物質の状態から生命、そして人間の意識まで一貫して続いているものがあると考えて良いのではないでしょうか。

物質が生命体を構成して自律した活性化をする、ということには物質の組み合わせに方向性があるということです。それが人間となり精神の世界に向かうように流れていることです。そして生命が複雑な組織へと進化していることや、物質自体も単純なものから複雑なものが現れたことから、精神の世界も自律して活性化してより複雑になると予想されます。生命の流れから考えると、最初は物質どうしの共鳴あるいは共感による引く力が生命を生じています。生命の誕生は物質どうしの共感が積み重なったものであり、そこに方向性が働いています。これはミクロの世界の霧のなかにある現象であり、それこれが精神の世界と関連しています。物質の集合に必要なものは引き合う力であり、人間の場合は共感する感情です。そして物質から構成された生命の意識が人間の意識を媒介として、地球において共感・共有されて集合意識を作ります。

生死を超えたところに一貫性があります。個々の一生はその存在が1つの波紋であることで地球の意識の発展に寄与しています。人間の多くの精神に何らかの波紋を生じて反感や共感する状況を作り出します。1つの精神でなされる波紋は次元を超えた歪みとなってまわりに波紋を残します。重力の影響のように、1つの波紋がそれが小さくとも全体に影響します。物質世界での個による現象は、たとえ小なりといえどもまわりに影響を及ぼさずにはおきません。精神の世界においても同様に共感や共鳴として伝わります。物質どうしの意識から始まり、生きる意識を経て自覚する意識から集団の意識へ発展して、地球の意識に至ります。物質世界の個人は独立した個の存在であっても、精神世界においては個となる存在にはならないだろうと予想されます。つまりその精神は集合の一部として機能を継続する可能性があるということです。そこでは自己の自覚とか主体による主観ということは幻想であることになります。物質世界で個人に生じた精神はそこに留まらず、個を超えて共感することになります。共感に多様性が生じて、時には間違った共感もあり得ます。物質世界での連携が精神世界での共感となり未来の集合意識へと導きます。そうなると、個々の精神に起こる波紋はミクロの世界に吸収されていくというのは単なる幻想でしょうか。

まとめ

この宇宙には物質が集まるという方向があり、そこに明確に生きる方向があるからこそ生命が宿りました。個々の生命はまわりの物質に変化の動きを与え、それに伴い様々な試行錯誤が生じて自らの行動を起こす動機となります。そして自己を自覚した意識を持つ生命において精神が宿りました。この関係を言い換える次のようになります。物質が集まることによって新たな性質が発現します。新たな性質を成すという過程によって物質に秘められた方向が露わになります。未来に望まれる決められた方向性が性質となって発現します。地球の歴史的な時間で考えれば、生命の活性化は空気中の酸素濃度や天然資源の蓄積あるいは炭素の循環などで地球を豊富にする作用に寄与しています。ここにも生と死を超えた物質の発展に一貫性があります。現状で精神までに至った人間には行動の動機となる様々な感情があり、多様な個性があって精神の世界を豊富に充実させています。この宇宙では、個々の生死を超えた意識の流れつまり全体の方向があるようです。物質が集まって組織化すること、そして生命という自律して活性化する塊が複雑になるのは宇宙の法則のように思えます。

生命の流れの台本に沿えば、生があるものはその死とともに活性化の活動を中止し、ミクロ世界の集合体の関係性に戻ります。ここで生と死の違いについては、生きている間は変化を認識する意識があり、死はそこで固定された変化のない意識となります。個人の精神において、死による変化はその残滓の波紋にあります。人間の精神は個々には物質の利用に囚われていても、宇宙の物質として循環する一貫性の中にあります。今も、ミクロ世界の霧にある一貫性のなかで物質の意識に囚われながら、生から死へと繰り返してその波紋が積み重なり合います。そして、個人の精神の世界に起こった小さな波紋が集団の感情や思考の波紋となって残ります。その個々の生死を超えた先はどうでしょうか。生命は物質の組織的な集合であり、その組織が明確な方向性を持って複雑になるという流れがあります。そこでは単純な生命の個体があって、それから組織的で複雑な集合となって新しい性質が現れています。物質の段階ではできなかったまとまりの集合が、生命として物質的な活動を止めたときに、精神の組織としてまとまる可能性が予測できます。個の生と死を超える先にも何らかの集合があると予想できます。

そういった集合があるとすると、活動を止めた変化のない意識の集合を豊富にするために、生きている時に意味のある変化を蓄積することが求められます。しかし個々の人間は、すでに動きのない生活習慣や固定観念におおむね囚われています。つまり変化よりも安定が求められています。自分だけは全体が見えていると思っても生活に根付いた固定観念は取り払えません。私たちは自己の自覚において物事を客観的に見ることができると思っていますが、それは自己の主観的な見方において客観的であるとしているだけのことです。死によって主体としての意識がなくなるとき、主観と客観の区別はなくなるはずです。だからこそ物質の不思議さをミクロ世界の奥に追求すべきということになります。そこには、すでに積み重なって用意されたものがあり、さらに人類の未来に希望すべきものもあるはずです。人間の精神のあつまりが集合する意識となって地球の未来への道筋を決めている可能性もあります。もしかすると、生命が自己の意識を持ち精神の世界を創造する方向にあるのは、この次元や時間を超えた波紋の情報のためではないでしょうか。それは変化のない意識の集合である精神の世界、すなわち精神圏ということです。人間としての生命は個々の生死を超えて向かう先があるかもしれません。私たちは死に際して精神圏への旅を始める準備をしている、と考えて安心することにします。

Written by Ichiro, 12/20/2021, 

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