偶然から必然への動きに気づく
欲しい物や知りたい知識が偶然に思いもかけずに手に入って嬉しくなることがあります。偶々目についた本屋に入って偶然に探していた本に出合うとか、道でしばらく会っていなかった人に偶然に出会うことがあって、それがきっかけになって新たな行動に発展することがあります。たまたま同じ数字が信じられないほどに重なって、それが自分と関係して奇妙な一致を見せて驚くこともあります。また、悪いことが重なって起こって、巡りあわせの悲運に沈んだりします。偶然の事象によって思いもかけないことが起こったとき、それに気づいて驚くけれども、何かの因縁があったのかもしれないという思いを残して忘れていきます。何故起こったのかと深く詮索できることもなく、偶然に起こったことだけが記憶に残ります。しかし、それは本当に偶々起こっただけのことなのでしょうか。自分で説明できないけれども、起こった因果のつながりに意味を見出せるので、不思議な感覚に捉えられます。どうして起こったのかはわからないので、不思議な思いに囚われて身震いします。そして、私たちは偶々出合ったことだ、偶然に起きたことだと納得します。自分の対応の仕方として偶然という感覚において対処しています。しかし、思いもつかないことが偶然に起こり、それが自分にとって意味のあるということなのに、そこに起こる意味を見出すことなく忘れていくことが奇妙に思えます。このあたりをちょっと考えてみます。
1.私たちは固定観念や一般通念に縛られている
私たちは日常の暮らしで、それぞれの習慣に馴染んでいます。そこで経験した見方や一般通念などによって脳に固定したパターンができていて、それ以外は見えなくなっています。例えば、未来のことはわからないという一般通念があって、それに反するような事実を認識すると、自分の意識では無視あるいは軽視されて思考の経路から外されます。あるいは、過去の記憶と辻褄あわせして最も都合のよいもので納得し、既存の感覚で上書きして感情を落ち着かせます。外界のことを受け入れた感覚器官からの情報を、脳で補正して理解する仕組みが作り上げられています。これは固定観念に囚われて事実を歪曲していることに他なりません。飛行機を見たことのない人が、それを大きな鳥と思っても無理ないことです。一般通念として記憶に固定化された見方や、経験によって脳でパターン化した因果のイメージがあって、自分でそういうものだと思い込んでまわりを見ています。私たちは自分の思いでまわりを見ていて、事実をそのまま反映させていない可能性があります。もしかしたら偶然のなかに必然の流れがあって、ただ気づかないだけかもしれません。偶然と必然とは、どこで区別しているのかを考えると、生起する因果を知っているか知らないかの違いだけなのではないでしょうか。もし未来につながる方向に気づこうとする意識があるなら、そこに向くように行動を選択することがあるのではないかと思います。その向かう方向に一致する兆候を認めると、自分の中で無意識に選択を向けていくということがあるのではないかと思います。
2.多くの生起のなかで気づく意識
人は自己をとりまく環境のなかにいて、その中心に自分をおいて考えています。そこにある自己をまわりとの関係において見ています。まわりに起こる様々な事象のうち、自分に関わり合いがないものは無視しています。自分の行動に関係することは、脳にパターン化した記憶があって、因果関係をすでに知って無意識的に対応しているので、そこで不思議は感じません。その因果関係は、自分を主体とする意識が、まわりに起こったことから納得して受け入れて、脳にパターンを形作り自分のなかで客観として反映しているものです。それ以外のことで、自分と直接関係ない範囲では様々な因果関係があっても、通常は無意識的に無視されます。しかし、何らかの偶然の生起が自分にとって意味があり興味を引くものであったとき、その生起にある因果のつながりが理解できないならば、その出来事に不思議であるという感情の高まりがあり、感覚が集中します。その偶然に至る行動や思考のつながりを超えて、自分の知らなかった因果があることに気づきます。ここで、偶然の一致として知覚したときは、無意識的に無視したり見ないことにしたりするのではなく、それに気づいたということです。
一方で、そのことに気づかせようとする力が無意識的に働くとしたらどうでしょうか。確率的にあり得ないことや因果を理解できないことが、本人にとってどうして起こるのかわからないとき、偶然の一致あるいは共時性の事象として置き換えて納得するしかありません。例えば、ある決まった数字や文字があり得ない確率で並行して起こっているのを見るとき、そこに何かに気づかせようとする意図を感じます。偶然でしかない事実を見て、それがあり得ないと感じたとき、それは自分にとって何を意味するのでしょうか。知性を持ったと言われる人間でも積み重ねた経験が不十分であり、まだ知らないことが多いと感じます。そこで何故どうしてという葛藤から思考を深めていくプロセスが始まります。偶然として納得しただけでなく、何かに気づいた人間にとっては、それが新しいきっかけとなります。日常の暮らしでは、一般通念にないことは驚きながらも無視するしかありません。しかし、習慣に固定化された因果関係だけに囚われ、型に当てはめているだけでは、少なくとも発展する方向ではないでしょう。様々な因果の巡る関係のなかで偶然として顔を出すものがあるとき、そこから必然を探し当てることが求められているかもしれません。そこに生命にある基本の力が働いていると感じます。
3.生物のプロセスにおける偶然
過去に生物が発展した例から考えると、多くの試行錯誤から偶然に前向きの成果を上げると、それが継続するように遺伝として獲得されると言われます。このような例を良くよく考えると、偶然から必然へ元々決められた流れにあるように思えます。生命体は多くの経験によって、起こった変化を成果として取り入れていく経過があります。それは決められた流れに沿って、偶然におこった結果をその仕組みの中へ選択して取り入れています。それが徐々に組織を複雑にしていった生物の過程にあります。大脳が発達した人間に当てはめてみるとどうでしょうか。知性があって因果を結び付けることができる人間は、日常のなかで多くの因果関係を当たり前として無視していても、脳が偶然に起こったと認識すると、突然そのことに気づきます。その変化は自分の経験にある固定化されたパターンを超えています。そこに新しい発見の気づきはないでしょうか。
私たちは日々の暮らしの中で、それぞれの固定観念を培ってきています。原因と結果の形で固定化して、その因果関係に納得して受け入れ、パターンとして固定化することを繰り返しています。脳のなかで起こる考えの連鎖は、経験で固定した様々なパターンの集まりです。そのパターンは本人にとっては事実の積み重ねだけれども、その基になっているのは、まわりの事象を自分が知覚できる範囲で受け取っているものです。現実に見えるものは、網膜に映る情報の範囲に制限され、そのときの感情や脳で記憶されたパターンにおいて現実と思い込んでいるものです。極端に言えば、自分のまわりのすべてのものは、知覚や感覚の制限によって、そう見えているものです。自己としての主体の認識では、記憶のなかのパターンと同調する事象は普通のことであり、必然のこととして認識されます。私たちに知覚できないことが関係するならば、その因果を判断できないので全体を見通すことができません。私たちは毎日の中で、事実を誤認するパターンを積み重ねている可能性もあり得ます。
生きるメカニズムの基本にあるものを考え、生物の発展した経過や神経系から脳が構築されてきた仕組みを考えると、生命をもつ閉じた塊には確かに方向性があります。何かを目指しているように感じます。生命には時間の経過とともに知性を持つまでに至る必然と思える流れがあります。生命は複雑になっていく流れに沿って偶然から得た経験を重ねています。人間においても、個人の様々な体験において偶然に遭遇した新しい発見を続けていて、いろいろ推敲しながら理解の仕方を組み上げていけることになります。それが生命の未来に沿うものであるかどうかということがポイントです。偶然のことから複雑になる方向に気づいて、未来の人類への芽生えが起こってくる可能性があります。過去の固定観念から徐々に峻別していくという感覚が生じて、偶然という事象から未来の知的行動へと収束していく流れは否定できません。人間の基本には生命の流れという方向があって、偶然という事象とともに現時点における試行錯誤が続いているということになります。しかし、偶然を必然にしていく試行錯誤の中で、生命の維持のために制限された機能によって、歪曲されて見えなくなっているものがあって、それが障害になっているということです。
4.まとめ。主観の偏りからの脱却は未来の方向
私たちは毎日の生活のなかで、感覚器官からの情報を蓄積して、まわりにあることを脳で客観的事実としたものを土台にして暮らしています。様々な原因と結果の関係から、効率的な方法を見出して生活の利便性を追求しています。しかし、日常の暮らしが便利になって平穏な生活をしていくだけでよいのでしょうか。日常で不思議な事実として体験したことが、「ぞくっ」と身震いする感覚とともに毎日の暮らしに1つの綻びを作ります。それが生きているという思いを高め、生命の流れを自覚するとき、自分が理解できない流れに置かれていることを痛感します。その偶然の一致が入り込むとき、様々な内省を育む余地が生じます。一般通念の考え方と自分に起こったことで齟齬があるとき、それを気づかせようとする力が働いていると感じます。それは生命の基本の力が働いているのかもしれません。もし生命としての流れにあるにもかかわらず、固定化した一般通念に影響されて、自分の中の主観的な思いが歪曲されていたらどうなるのでしょうか。私たちが現状に満足しているのならば、変化があっても無視して気づかないでしょう。
意識としての基本は変化に気づくことです。意味のある変化に対して自分の意識が反応して気づくことで、固定化した観念に対して本当の事実を捉えることになります。それは偶然の一致とか奇跡でも何でもなく、未来に向かう道を示唆している可能性があります。過去から未来への経過のなかで、私たちには現時点として気づく意識があります。知的思考のできる人間は、偶然の必然の狭間にあって気づくことを繰り返します。過去と未来の事象の混沌のなかで、知りたいという思いと知らせたいという何かが交錯しているかのように、現時点の意識がそこに結びつくという可能性があるかもしれません。例えば、そろった数字や文字などは見て聞いてすぐわかるので、気づかせるためには簡単な方法として捉えられます。それをあり得ないこととして笑って無視するかどうかは本人次第です。
ここで、分かる人間と分からない人間が区別されます。人間は主体として活動している自覚があって、自分で考えて行動します。その行動は自分の思い通りになるようにまわりを歪めて知覚することも含まれます。まわりにたくさんの偶然の変化があるなかで、自分という1つの意識が主体となる行動において、変化を意識するか無視するか逆らうかの選択を迫られます。もっともその前に、そもそも変化がわかる人間とわからない人間に分かれていくことになります。私たちにも生命の流れが継続しているのであれば、自然とそこに生命の未来として浮き彫りされていく現象が現れることになります。その変化に気づいた人たちにおいて、試行錯誤による未来の人類への選択が密かに続くことになります。
Written by Ichiro, 12/28/2020,