生命の不思議と時間の関係
はじめに
日が暮れていく山の景色を眺めていると、太陽が西の空を赤くしながらゆっくりと沈んでいき、鳥の群れが鳴きながら帰路を急ぐように空を横切って飛んでいきます。少し温度が下がって肌に触れる風に心地良さを感じます。このような自然の変化は私たちには何となく充実している心持を与えてくれます。もし私たちが実際に見えている光景が感覚器官に制限されていなければどうなるのでしょうか。視覚できるのは紫外線と赤外線の間にある光の波長なので、それを私たちは色で感じています。けれども、その範囲を越えて見えるとすると、私たちの目に入るのはもっと複雑に入り組んだ不明瞭な形がそこにあることになります。少し範囲を広げて赤外線や紫外線が見えるとすると、太陽に照らされた植物や動物の形はハローを伴った複雑な形となって、私たちは異なった印象として見えているでしょう。もっと範囲を広げて電磁波も見えれば、対象とする植物や動物は携帯電話の電磁波にまぎれて、その形すら明確に識別できないでしょう。そしてそれらの形を識別する脳では、対象を判断するパターンが大幅に増えて、私たちの脳の情報処理では能力を超えるでしょう。視覚だけでなく聴覚や臭覚や触覚にしても、その情報量が大きくなれば、それに合わせて識別して選択するパターンが広がります。生物の進化では、生きることを優先して徐々に器官の拡張や淘汰があったので、現在の私たちの感覚器官は、処理できる範囲の適切な領域だけに集中するように形成されています。それは生物が生きていくために個体全体をバランスさせながら発展する必要があって現在の形になったということです。
生物は長い間に徐々に進化をしていて、単細胞の生物から複数細胞の生物になり個々の細胞が集合する組織を持つ構造になりました。そしてタンパク質という高分子の特徴を巧みに利用して生命活動を維持しています。生物は組織がある程度高等になると、神経系を組織して脳を形成して感覚器官で外界のものを識別する能力を持ちます。このような組織や器官では多くの酵素が働いて、外界から取り入れた物質からエネルギーの生産などの化学反応が行われます。そこで、このような生体内での化学反応には、当然反応の前と後の時間の経過が必要です。さらに生物が成長したり進化したりすることは時間の経過を前提にしています。その進化で変異を起こすために、おおむね生物はいったん胞子や卵などの1つの細胞から始めることになります。その胞子や卵を作るには成熟した成体に成長する必要があり、生物はそれぞれ固有の寿命で個体の成長と世代を繰り返します。つまり時間が一定方向にきっちり進むからこそ、生物は順調に進化を達成してきたわけです。この生物の種に起こった進化は時間の経過とともにあって、個体は1つの細胞から成長し世代を越えて変異を繰り返して、知的な生物に向かって段階を上昇したことになります。この生物の流れを全体にまとめて1つの生命システムとして見ると、このシステムにとって1方向に進む時間の経過は前提であり必須です。しかし、はるかな昔に地球上で生命を形成する動きが始まって、生命の誕生が最初に成功したとき、その直前には無数の組み合わせの候補が現われて淘汰を繰り返して、生命に適切な形態が残されていく経過があったはずです。この生命誕生の以前にあった経過の時間は、生命誕生後の時間と同じだったのでしょうか。ミクロ領域での時間に関しては、現代の科学でも私たちが感じている時間と異なった事象があるようです。ここで考えているのは、生命にとって時間の経過が必須ということは、生命はその都合によって一定方向に進む時間だけを感じていて、実際には宇宙に多様な時間があるということはないでしょうか。
<生命発生の不思議>
生物の基本にある細胞では多くのタンパク質が主要な働きをしていますが、そのタンパク質の構造は単細胞生物でも高等な生物でも基本となる化学構造はおおよそ似ています。化学反応を常温で促進する酵素の作用やタンパク質の3次元構造によって特異的に識別する免疫などの役割を作り出した生命は、時間をかけてその緻密な機能を実現してきたといえます。生物は1つの個体としての組織を維持しながら、長い間の世代交代で外界と効率的に適合する方策を追加して複雑になっています。この単細胞生物から始まって生命が知性を実現するまでに至った流れは、まさに驚きに値するものです。そこには個体の形態や機能を追加して、種が変異して段階を上昇する仕組みが基本方針としてあったかのようです。ここで思うのは、初期の単純な生物たちの時代にあっても、生命はすでに先につながる道筋を判っていたのではないかという考えが浮かびます。それは後継していく種の個体が長い期間の後で複雑な機能を獲得し、神経を発達させて脳を形成していくために必要な基礎を、当初から知って準備した可能性のことです。それは初期の時代に、アミノ酸やタンパク質という高分子に依存した構造を見出し、多くのタンパク質で構成された組織が徐々に複雑になっていく変化の基礎を内包できたことです。初期の生命が細胞を形成した経過にはわからないことが多いのですが、例えば細胞に核を形成するとか、そこに遺伝子という進化の仕組みを内包するなどのことを、どうして始められたのでしょうか。
この宇宙には生命発生が必然の事象とすれば、それが起こる可能性はいついかなる時にもあるはずです。生命が発生するきっかけになる物質が集中する動きは、条件が整った惑星では限りなく繰り返されて、多様な前生命体が生じる試みは地球で長い期間に続けられていたはずです。しかし初期にあった多様な前生命体の塊は、環境に適合しながら高等な生物に上昇する複雑化を為しえたかどうかは、相当後になってみなければわからないことに思えます。細胞膜で閉じて核に遺伝子を有し複製していく仕組みはかなり複雑です。40億年以上前の化石の観察からも生命の発生に成功した例は、現在に続く生命システムの1つだけであり、この1つの流れが続いて地球をほぼ独占しています。その上、この流れはあたかも知的生物への段階的な道筋を知っているかのように、時間の経過にそって神経系や脳を構築して意識を上昇させています。この生命の流れは最初地球上に小さな塊として生じてから、ずっと継続して不可逆的に複雑化を繰り返し知的な生命へと発展しています。なぜこんなことが実現できたのでしょうか。
古生物学の研究やDNA解析によって、実際に時間の経過で生物に機能が追加されて複雑になったのは観察できる事実です。しかし環境への適合や身体機能の効率を争うだけで、生物に脳という新たな機能が追加されるのでしょうか。生物の組織がある程度複雑になると、神経系や脳を形成するように仕組まれていたのではないでしょうか。個々の機能については環境との関わりで適応放散の枝分かれから淘汰があったと考えることは可能です。しかし、まだ単細胞の段階で、細胞核に包まれた遺伝子という形態が最適であるという解はどうしてできあがったのでしょうか。進化の流れのように長い時間を必要とする場合、どうやって先の段階まで予測したような大脳に至る神経系を複雑にする方向を規定できたのでしょうか。生物が徐々に上昇していく仕組みは、すでに生命発生以前にアミノ酸の塊が生命へと集束する時代にもあって、そのときに生命発生への道筋を知りえたのでしょうか。そして、生命発生から1つの細胞に至る上昇はどうしてできたのかという疑問が起こります。
<生命と時間のかかわり>
そんな生命の出現の不思議に困惑してくると、科学的な範囲での推測を超えて、時間が一定方向に経過するという考えを根本的に変えてみようと思います。ここで、生命が発生する直前の段階において、生命の基本を構成する物質の塊は、未来の時間あるいは別の時間にアクセスできていたのではないかという考えが浮かびます。最初の生命をもつ塊が誕生すると同時に、その内部で起こった反応の変化において、前から後へ1方向の経過が必須とする状況に迫られて、生命システムとしての時間が流れ始めたとしたらどうでしょうか。その後のすべての生命はこの時間と連携し同期していることになります。つまり生命誕生とともに生命システムにおいて時間が始まったことになります。その前の段階では、生物以前の物質の塊は多様な時間の次元が混在する中にあったので、より複雑になるための形態あるいは仕組みを別の時間次元から真似ねて、将来に知的になる生命の基本型の最適な基礎を構成できた可能性があるということです。つまり時間は私たちが感じている1方向のものだけではないと考えます。
私たちの生活のあらゆることが時間に関わっているだけでなく、生命をもつ物質の塊には時間の経過が必要だったということを深く考えると、そこに生命と時間には深い関係があるということに気づきます。岩石や水などの物質にも変化はあるけれども、まわりの動きに適合して自らが変わっていくという性質はありません。しかし生物にとっては、まわりに起こったことが自己に影響する場合には、時間の経過において内部の平衡を調整する動きを起こさなければ生きる状態を継続できません。そこで時間が気まぐれに止まってしまうとか方向が逆になっては困ります。そして生物の進化は時間の経過とともに組織が複雑になり洗練されて、知性を備えて効率を高めるように進化しています。そして生物が最初に現われたときから、すでに生命の流れに目指すものがあって、それは霊長類や人間のように複雑で知性のある生命へと確実に段階を上ってきています。そこで偶然の試行錯誤にいくら時間をかけても、確実に複雑化する上昇が繰り返しあったことは説明できません。さらに生物の進化は長い期間で不可逆的に複雑な種の段階へと変異しています。可能性がゼロではないとしても、偶然の積み重ねだけを無闇に繰り返して、複雑な組織が実現するのでしょうか。試行錯誤を繰り返すだけでは、生物が実現した緻密な身体構造を作り上げられるわけはありません。そうなると、生命が発生した時点の閉じた塊において、知的な生物への道筋を持って、より複雑な形態への上昇を目指していたと考えます。そうなると生命発生の時点で、遠い未来に実現する体制を備えていることを確信した上で進化の道を進んだことになります。これは未来の形態がある程度わかっていなければできないはずのことです。しかし、時間が1方向にしか進まない環境では、先の状態を予想できるわけがありません。それはどういう仕組みがあれば可能なのでしょうか。
<時間と空間の知覚>
太陽の動きを見て私たちは時刻の変化を知ることができます。また季節の移り変わりなど自然における一定の状態変化があって、私たちは時間の経過を感じ取ります。日常にある時間は、このような経過していく感覚であり、それは時計を頭に浮かべて時刻の表示が進んでいくことと一致しています。そして日常における時間の経過や時刻が移っていく動きは、森羅万象のすべてを包含しているという印象を私たちは持っています。しかし、この生命システムとしての感覚に対して、量子論的なミクロの物質が時間の動きに影響される状態を考えると、私たちの感じている時間とミクロ領域の時間経過による状態変化とは直接には結びつかない可能性があります。言い換えると、私たちがまわりの物質の動きを観察するとき、私たちが拠り所にしているのは、時間はあくまで一定方向に動いて同期している世界にいて、その世界あるいは宇宙だけを見ているということです。その時間に同期してすべてが同じに動いていると感じられる宇宙だけを見ているといえます。言い換えると、私たちは感覚器官の制限によって、すべての宇宙を見ていない可能性があるということです。宇宙には私たちの感覚器官では知覚できない領域があって、この知覚できない次元を含めれば、すべてが同じ時間を共有しているのではなく、私たちの属する生命システムの都合上で1つの方向の時間しかない世界だけを感じているということです。
地球上にあった生命の流れ全体を生命システムとして表すと、そのなかにいる私たちは1つの時間がまわりすべてを巻きこんで正確に時を刻んで経過している感覚を持ちます。この感覚は私たちと連携している物質すべてのシステムにとって真実と思うしかないものです。しかし、宇宙のすべてのことについて、本当にそれだけが真実と言い切れるでしょうか。言い換えると、私たちに変化として感じるのは、私たちの感覚器官からは、3次元空間の物質が経過する時間で起こった変化を識別しただけのことです。その変化を観察した精密測定機器ですら、人間の感覚を基本にして設計されて、その感覚器官に受容できる範囲に情報を変換して落とし込んでいるので、最終的には人間で知覚される情報です。人間が作って利用する機械や道具などは、人間の知覚される行動において取り込まれて利用されているので、生命システムの一部としての知覚範囲を越えることはできません。そして人間を含める生物の全体は、最初の1つの生命から生じて、それが地球を包み込む生命システムになるまで、生きて継続することを優先したために、そこで発達した感覚器官は生きることに有効で必要な変化だけに対応してきています。つまり、多くの情報は切り捨てられているので、感覚器官の情報だけに頼った既存の方法では宇宙の真実としての状態や変化を見分ることができない可能性があります。言い換えると、宇宙の空間と時間というものが、私たちに知覚できる範囲を超えて、その背後に広大な領域を持っているならば、それは私たちのような未発達の生命体の感覚では掴むことができないということになります。
生物の知覚というのは、太陽の光線による光や温度などの環境の変化のなかで、そこに多様な生物が絡まって生命システムを作り上げ、それが徐々に組織化されてきました。そこで育まれた生命システムの感覚器官は、それぞれの生物に有効な変化だけを効率的に識別することに集中します。この生命システムの都合を中心に構築されている感覚器官の機能は、ある時点での起きた変化を識別して、それに反応するという時間の経過の中にあるので、これは生命システムの特定個体に関わる1つの特殊な状況変化への関与であり、その識別に対照となった時間が、宇宙にある確かに1つだけの時間であると断定できません。まして時間は宇宙に1つだけであると証明できなければ、私たちには時間が一定方向に経過すると観察されても、その時間を遡って宇宙に開闢があると断定することはできないでしょう。それはあくまで「私たちが観測できる宇宙」がそうなっているということです。生命システムが変化を識別して上昇への選択をする都合によって、それによって経験を積み重ねて知性を形作る経過をなすために、過去から現在および未来へと経過する時間の方向が必須だったということです。生命システムは進行していく方向に、きっちりと経過していく時間だけを識別する必要があって進化したので、その延長にある私たちも、そう捉えるしかなかったことになります。これは、もちろん現代の科学では立証できない話で興味本位になってしまいますが、あくまで1つの仮説として追及しようと考えています。
<まとめ>
生物の形態が地球上で変化してきた流れは、過去から未来に進む時間だけがある世界でなければ実現されません。この時間の流れがあってこそ、生命が複雑化していく変化を生じさせることが可能になります。生命システムからしてみれば、時間の経過において様々な変化を識別して対応する行動をしていることになります。そのために時間の経過は必須であり、この1方向の時間にある世界だけを感覚器官から知覚するようになったと考えます。そのため、私たち人間が、見たり触れたりする現実の物質粒子やその変化は、私たちの感覚器官から脳を経由してパターンとして知覚しているので、そこで経験したことだけが世界のすべてであると認識しています。それに囚われて疑いを持たないのは、生命システムによる制限によるものと考えます。しかし大脳が発達して言語による思考をするようになった人間は、その生命システムによる制限を超えて、自由に考えを発展させることができる位置にあります。そうなると、生命の発生という現象を現状の科学では解明するには、いままでの生命システムで構築されてきた感覚器官や大脳での仕組みをさらに複雑にして、意識を上昇させる何らかの変異が必要かもしれません。そうして人間は生命活動を正常に維持しながらも、徐々に意識を上昇させて次の段階へと発展していくという希望があります。
時間に多様な次元があるという考え方においては、宇宙には始まりも終わりもなく、そこには多様な次元が渾然としたネットワークになっていると仮定できます。その一部に生命が存在する特殊領域があって、その生命システムの中に巻き込まれていれば、生命システムにとって必要のないことは知覚されないほうが良いし、その発展の都合によって目的に集中することを優先して自らのシステムを完成していくでしょう。このような動きを考えると、宇宙にあるすべてのシステムのなかで、生命システムとは個々に自由はあっても、事前に決定された発展の仕組みを持つ流れを持っていて、そこに特別な位置を指定するために時間があると考えたほうがすっきりします。このような宇宙の姿が真実に近いとすると、知性を上昇していく中途の段階にある人間にとって、そのすべてを理解するのは簡単なことではないと考えます。