Noosphere<精神圏>

進化の途上にある人間、これからどう発展するのか。

混迷からの脱出

2017-07-15 22:25:26 | 現代と不安

混迷からの脱出

<人間社会の混乱とその先の道>

昨今の私たちの暮らしは生活費の負担増や犯罪の増加、大気の汚染や食料品の質など多くの問題を抱えています。表面的に見れば国の政治や経済動向は、大衆の利益や国の将来についての政策というより特定集団の利益が優先されて、国どうしの対立が深まり経済が停滞しているようです。この状況に加え多様な価値観を持つ人がまわりに増えていて、今後の動向も不確かで混乱が深まっていくようです。そこで、私たちは不安を忘れようと人間関係に注意して財産や地位を守り、なるべく現状を維持しようとして身構えることになります。しかし将来の保証はないので、不安が消えるわけではありません。真面目に生きるのは苦悩でしかないのでしょうか。誰でも幸せに暮らしたいと思うし、そのために自分の財産を減らすことのない安定や家族の安心を望みます。しかし現実は先の見えない混乱のなかで、現状の不安を強制され続ける心理状況になっています。

社会は信用と秩序によって維持されるはずですが、権威への信頼が失墜してきて社会が混乱すると、不正や悪の見方も曖昧になって、取り締まりが不平等になり混乱がより深まります。個人が真面目に自分の行動に責任をもって正しい道を進みたくとも、そうはできない状況になっているのでしょうか。マスコミやメディアの情報では、いつまでたっても対立や争いがなくなる気配はなく、一部の特権を持つグループが優位にあって、大衆は奴隷のように働いて放置されているようです。現状の混乱はさらに深まっていくようです。このようなことを考えていると、世の中はどうしようもなく混迷に向かっていて、将来の人間社会の行く末は、滅びの道への選択しか残されていないのでしょうか。しかし、私はそうではないとする確信を持っています。

多様な個性が集まった人間の集団では必ず対立が起こりますが、そこで嫌悪の感情によって排除したい気持ち起きてくると、争いが具体化します。しかし、嫌悪や反発する気持ちがあっても、相手が同じ人間で個性が違うだけという心遣いがあれば、そこからバランスの取れた行動をしようとする心が起こります。世の中には対立する状態が常にあって、引く力と押す力、正と負、引力と反発力などが対立してアンバランスを作り出しています。アンバランスな状態からバランスに向かうエネルギーによって、正しい方向を模索して進む道を選択するし、反発があるからこそ違う方向の可能性を考えることになります。そこに新しい未来を創造する方向を発見することもあるはずです。そして、生命が数十億年もかけて歩んだ歴史には、相手を排除するのではなく、「共生」という互いの協調を基本として、上昇に向かう過程があることを説明します。

 

<生命の歩んだ道>

それでは生命が歩んだ道を少し考えて見ましょう。生命が長い期間をかけて歩んだ道をよくよく考えてみると、その切れずに続いた流れには確かに希望が感じられます。生きている物は、多様な機能が複雑に連携したバランスの上に、全体が1つに統御されて成り立っています。そこに何らかの強い刺激が加わると、そのバランスはすぐに壊れてしまいます。しかし生きる状態を維持しようとするエネルギーをもっていて、少しのことには反発して生き残り、そして複製を作って世代交代して繁殖します。多数の世代の繰り返すなかで、新しい機能を追加して環境に適合させ、自己の生存を有利にします。そしてある程度方向が固まってくると、生物は集団を作って集団全体としての行動を示すようになります。人間にも同じような作用が働いていて、生を維持する気持ち、上昇に向かう気持ち、集団へ結びつく気持ちがあります。

古生物学での化石の研究によって、生物は地球の地質的な時間の経過で系統発生における変化があって、その流れにある奥行きや一貫性がだんだん明確になってきています。これを一言で言えば、生命は段階的に後戻りしないで複雑になってきた大きな流れがあります。現代では生物の形態について、地質学や遺伝子学の成果、あるいは炭素同位体の時間経過の裏づけによって、必然的に化石の前と後の状態を考えることができるので、生命の歩みを観察する際に「その前がどうであったか」というように、形態や機能の変化を観察することができます。生物の形態に変化が見えた前後の関係を分析すると、時間に沿って複雑な方に上昇した変化があったということです。この理由は現在の科学ではまだ謎になっている部分です。生命の歩みというのは、1つの個体に中心化された意識が起こり、それが複雑になっていく動きを持っていて、徐々に高度に組織化されてきています。他の生物よりも複雑な人間という段階になっても、その生命の流れは止まることなく続いています。

生物は個体自身が徐々に形態を複雑にしたことに加えて、細胞内にあるミトコンドリアや葉緑体などは、細胞内に別の生命である細菌が共生して取り込まれたといわれています。そしてこれらの生物たちの協調による連携によって地球が構成されています。地球上に人が溢れた現代でも、動物や植物たちは私たちの仲間の一員であり、その多くの生物は人間とそれほど違わない細胞組織からできています。生命誕生の詳細は解明されていないけれども、現代の私たちは生命の流れが人類にまで続いているとして、その変化の段階を考えることができます。言い換えると、生物が複雑になった変化の結果において、そこに気づくことができる意識というものを私たちが獲得したということになります。

生命の組織が発展して複雑な大脳を形成するようになり、私たちは言語や思考の機能を獲得して、自己の意識に目覚めた段階になっています。この自己の意識を自覚したと同時に、人間の意識は未来への方向性をも獲得しています。ここまで続いた流れが現時点で止まっているという兆候はないので、今後も続いていくはずです。現代の人間は、将来の目的を実現しようとする動機をもって、それを効率的にする行動を考えます。そして、仲間を増やして協調して効率を上げようとします。言い換えると、現代の人間の意識は、今後も仲間たちと精神を協調して活性化に向かい上昇を継続させています。

 

<生命進化と人間の位置>

生命の種としての動きにおいて、その種の維持がある程度成熟の段階になると、複雑な方へ上昇する変化が起きたり、集団を形成したりする経過があります。これを人間に当てはめて考えましょう。自己の生を維持しようとする気持ちが強い段階では、自分の身を守って保守的になり、他を排しても自分の係累を残そうとする気持ちになります。それがある期間を経て上昇へのきっかけに気づくと、多様な選択のなかから試行錯誤によって意識が上昇する方向を探るようになります。他の生物と異なり、人間において上昇しようとする気持ちは道具を発明するようになり、生活を改善して技術の進歩を促進しています。一方、人間は農耕生活によって集団で協調する行動が必要不可欠となり、それが小さな村から国という単位までに発展しています。その集団の拡張は今や地球規模に連携していることに気がつきます。国家、民族、会社、社会活動などのまとまりにおいて、それぞれ連携の度合いが異なっていても、それぞれが閉じて独立しているのではなく、いろいろな動きによって関連しています。何かが起こった背後には複雑な絡み合いがあって、単純な原因だけとは割り切れなくなっています。私たちは現在集団が複雑に絡み合う中で方策を探る、新たな段階での試練にあります。これは生命の確かな流れからの示唆であって、その流れは未来に向けて進んでいくものです。

世の中に人間の数が増えて、その社会集団が大きくなると、全体をながめて多くの数を占めている、大衆としての動きに方向性が現われます。部分的な行動に多様性はあっても、そのなかから上昇する方向に収束するかのように、それと知らぬ間に選択している行動が生じています。それは、混乱した状態が深まってくると、皆がこのままではまずいのではないかと心配になることです。大衆の視点からみて、少なくとも現在の方向選択は間違っていると気づくことになります。気づくことはすなわち意識することであり、これらの意識の集合が大きくなれば、世の中を上昇する方向に軌道を修正することが可能になります。集団行動においては、各個人の権利を留保するだけでなく、そこで生じる義務と責任が伴っていることを忘れることはできません。

生命の歩んだ道において、現時点で人間は最先端にいることになっています。そして、ここ1世紀くらいの科学技術は確かに急速に進歩しています。しかし人々の意識についてはどうでしょうか。はるか昔に農耕生活をしていたときに、血縁関係にある人間の集団が、隣の集団といざこざを起こして優位を争う状況とあまり変わっていないのではないでしょうか。確かに交通機関やインターネットが発達して、国や民族を越えて交流が盛んにはなりましたが、それぞれの国の政治や経済は大衆の意識に連動して、まだ停滞しているように思います。私たちはまだ金銭欲や名誉欲が優位にある状況なのでしょうか。しかし、医療技術の改善や環境の整備によって、人口は増え続けているので、この人口増加は確率として意識の高い人間を多く生み出すことになり、将来に希望がないわけでもありません。その上、人間の増えることが時間の経過とともに、多様な複雑さが精神の緊張を高めて、その閾値を超える状態を目指す動きがあると期待できます。私たちの先にあるのは、精神が安定から停滞に向かうのではなくて、反対に集約的な内省が起こって緊張から集約の活性化を高める方に向かいます。

そうであれば、生命の動きの基本にある、集約的に協調して助け合って試練を乗り越えるという方向は納得できます。混乱の土壌でも上に向かって出る芽があって、意識の上昇が明日への動機と情熱になって、成果という実を結ぶことになります。世の中が段々暗く不安になっていくのではなく、より複雑になっていくのに対応して意識の上昇が必要になるということです。つまり、人間にとって意識の上昇とは、多くの精神が集約して協調できることであり、未来の複雑さへの対応を実現することではないでしょうか。

 

<まとめ>

現代の科学者は、時間と空間に体系付けられた生命の進化があることを、おおむね認めています。そして、私たちはますます複雑になっていく社会で対応を迫られながら、世の中の込み入った状況のなかで生きるしかないと感じています。少なくとも数世代前の人々は、そうは感じていなかったと思います。そこに社会組織や科学技術の発展による成果が取り入れられて、全体が徐々に複雑になって混乱として見えています。そこで生物の細胞などの研究成果から、生命体が争いを回避してきた方法の1つに「共生」という関係があり、その進化の長い期間で他を排除して自分だけが生き残るのではなく、その特徴を認めて相互の許容のもとに密接な関係を築いているのが注目されます。それが互いの特性を尊重して協調する行動であったことは、私たちにとって希望となります。実際に意識の上昇という側面では、現時点の私たちの世代では、まだ表立った成果は出ていませんが、少なくとも大衆レベルで、思いやりや助け合いという意識は進んでいると感じます。

この混乱のなかで人間の精神が集束していくと、それぞれ個人は隣の人とより密接になります。言い換えると、世界の全体がそれぞれ別途に頂点に向かっているとするならば、究極に近づくにつれて、隣がよく見えてきて、より近く密接になっていきます。この流れに従うには、互いを認める心遣いがなければできないことです。そして、閉じた惑星という制限された領域にあっては、人間どうし互いが意識し合って助け合わなければ、その方向に収まっていくとは思えません。そうなると現状の混乱は、細かい粒子のブラウン運動のように、ぶつかり合って熱を発生して、消耗するだけなのでしょうか。いや、そうではないと思います。多くの粒子が集まるなかで、やや大きな塊ができ、その方向に集中する動きが生じても、それが本流でなければ、いずれは崩壊してもとの粒子に戻ります。そして、すべての粒子が正しい方向に集まって塊となり、それが大きくまとまって組織化されていくために、試行錯誤が行われているのではないでしょうか。私たちは現実の混乱のなかで、正しい方向を見極めるのは確かに困難に思えます。しかし、この宇宙に知的生命が生じたことを考えると、私たちの意識の奥(前意識)には、究極から引かれる何らの力が作用していて、その方向に私たちを近づけようと、互いに密になることを強制しているように思えます。

意識の進む先は究極の焦点へと集束していくとすると、その頂点には、神もしくは創造主あるいは究極に到達した人間性があって、永遠につながる時間(水平時間)の中に全体を包み込んでいると私は考えます。そこから、すべての時間とすべての空間への影響が必ずあるはずです。この頂点に集束する構造という世界では、時間と空間のすべての発生や変化に相互の連携があって、そこに宇宙の創造主の意図ともいうべき、現状では神秘としか言いようのない作用が働いているはずです。精神そのものが、私たちの心の奥で上昇への情熱と調和して、先に進める行動を生じさせています。

私たちは全体が見えていない連携するシステムにあって、その中の個々には自由な動きがあるように見えても、生命の流れは事前に決定されていた段階を踏んで、人間という相当に複雑な組織にまで発展しています。この流れからすれば、混乱が増していく先にあるのは、悲惨な地獄絵図ではなく、必ず上昇への方向が現れるはずです。そこで私が考えるのは、宇宙のすべての時間(水平時間)は過去から未来にらせん状につながって常に連携して存在していて、未来があるからこそ現在の活性化の動きがあるということです。私たちが未来に幸福と充実を感じるためには、未来の方向に逆らわずに、多くの人々が互いに認め合って心遣いに情熱が持てる方向を具体化していく必要があるように思います。

人間が自己を自覚する意識を獲得して、将来を見る目が育くまれて、集約して大きな集団にまでなっています。そこに必要となるのは、多くの人々が集団のなかで個性を伸ばせるように、他人を認める心遣いをしながら協調する精神を発展させる方法を開発していくことになります。私たちには、そこに一貫性と明瞭さを付け加えていく責任があります。「人間の現象」とは、単なる偶然の蓄積だけで生じたものではなく、そこに何らかの宇宙の法則があるはずです。私たちが生命の先端に位置するものであれば、生命の流れに適うべき使命があるということです。現状の混乱のなかで贅沢を好むのも質素に暮らすのも好きずきですが、私たち1人1人が生命の方向とどう関わっているのか。この宇宙でどの方向に意味があるのか考えてみてはどうでしょうか。

 

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この世界にある不安

2015-12-30 09:47:40 | 現代と不安

人類は、言語、民族、宗教や習慣など、いったんは地球上で多様に広がったけれども、現代では科学技術の進歩によって、互いの距離が近くなり、その精神が1つに収束する傾向にあります。互いがより連携して人類の進歩に役立つことが選択され、皆が協調して先に進むことが約束されているはずです。何らかの特権グループが他の人たちを支配するという構造ではなく、何10億もの人たちが協調し、それぞれの個性を生かしてすばらしい未来を作っていく必要があります。

しかし今、現実の世界は国家や民族が軍事とか経済で何らかの争いが絶えず行われ、それに対して、ほとんどの大衆は無気力を強いられています。ここに不安が起こってきます。ここで問題にする不安という言葉は、突発的な事件に対する恐怖とか、個人が生活物資の不足や何らの危機にあることを言っているのではありません。「宇宙的な流れ」の中で「生物学的」な苦悩を表現するために使っています。自分たちが生きる世界の深い真理を捜し求めようとする人たち、何かをつかむ感覚が優れた人たちにも、そういう不安があるかもしれません。

人間はその知性によって、宇宙に生命が存在し進化のメカニズムがあることに気がつきました。また人間はその知性によって、先を予測でき、発明することで社会を変えてきました。この流れを考える際に、あまり強調されていないポイントがあります。それは「道徳的」な危険に対するものであり、2つの側面を持つ不安です。まず、何でも考え行動できる自由が生じたことから、それを無軌道に開放できる危険に対する不安があります。しかし同時に、本当にこれで良いのかと考え、突然深夜に目覚めるような、心理学的パニックに陥る不安もあります。この2番目のもの、進歩に伴う悪あるいは少なくとも苦痛と呼べるものが、人の意識の上昇過程において「生物学的に」予測されます。この問題を以下の2つの項目で要約します。

 

1. この不安は時間の経過によって消滅していくものではなく、ある種の発作現象のように世の中に広がっています。自分たちだけのことを考えるグループが、利益を独り占めにして、優位となる技術や知識を公開せず、情報を混乱させて分断を図り、金や権力によって他を支配しようとしているのであれば、旧来の支配構造の継続であり、人類の進歩に反するだけでなく後退していることになります。本当に、こんな状況があるのならば、私たちは正しい方向に進んでいるのかと不安になります。そして、取り残された私たちは、この地球で残るべき人類なのか、という不安が起こってきます。

2. すなわち今の状況は、人類の進歩の観点から見て、例外的な状況であり、正しい道を進んでいないと批判される状況ではないか、という疑いがあることです。これを正すためには、生物学的な進化の経路を辿り、科学的な心によって、開かれるべき進路を考え「安心」できることが必要です。「種の存続」には客観的な条件があり、この宇宙を心理学的に認識することで、先に向かって定向進化的な収束をもつ構造を理解することで解決できるのではないか、と考えます。

それでは、これらの点について考察してみましょう。

 

不安の起こり(初期のもの)

知的な存在となった人類にとって、世の中に直面して「自分自身に気づく」という意識は、初期の普遍的な苦悩であり、人の誕生とともにある本質的なものです。しかし、これはまだ進んだ形態というわけではありません。その意識が最初に現れたときから、私たちは注意し批判的になって、それをゆっくりと良く考え理解しながら、個人と集団の両方で発展してきています。そうするなかで、この世の中で生きていく不安が、徐々に強さを増してきたと同時に、人間は個人として、自分の足元が失われるような感覚を持つようになっています。この感覚は、人類が生物の種として生き残ってきた事実の中で、心理学的に避けられないドラマチックな明暗を背景にしている、はっきりと合理的に認識できるものです。

社会が未発達な段階の共同体においては、そこに初期的な共通意識が存続していることを民族学者は注目していますが、社会がより文明化してくると、個人の意識が目覚めてきたと見なすことができます。過去には、まだ差別化のある社会構造のなかで、一部の特権をもつ市民が、人権の尊重や自主性を増加させる傾向を表し、いくたびかは無政府主義の方向さえもありました。この傾向が近代になって「民主主義」の起こりによって明確になっています。

人類が何十万年も存続し試行錯誤による進歩の後でも、15世紀から20世紀の西側世界にあったように、自分たちだけが優位とする支配構造のなかに閉じていて、人間自体の価値とか権利が、より鋭い感覚で意識される尊厳にまで至っていませんでした。しかも、人々がやっと自分自身(個人としての人間の価値)を見つけたと思った、そのまさに瞬間に、その上そう感じさせるような状況において、この世の中に取り残されていると感じ始めることがあります。

個人が1つの要素として、自分自身を無意味と感じさせるような、恐れとか不安が起こってきています。物質の世界あるいは人の社会においても、個人が決してそんなに重んじられることもなく、またそれほど十分に理解されていない不安です。これについて、物質的な面と人間に直面することについて考察したいと思います。

 

宇宙の巨大さ

初めに最も大きな衝撃となって圧倒しているのは、宇宙が巨大であることです。その捉えられない次元のものすごさを考えると、十分な迫力で私たちに迫ってきます。その昔地球が、まわりの星の整然とした動きの中心に置かれている、と信じられていたときには、星の輝く天上はまだ穏やかな賞賛をもってながめていられました。しかし、このすばらしい天体システムが私たちの見方からはずされて、私たちが観測する空間が拡張し爆発的に広げられて、私たちは何万光年とか銀河のことを計算し始めています。そこに天文学的な極端な大きさが現れてきて、その巨大さが説明され、より精密になった映像を見ていると、そこにある検知できない微小な星々の集まりに埋もれて、私たち個人が絶対的な無意味さに気力をなくしそうになる感覚があります。私たちがこの巨大さという、はるかに圧倒する大きさの中で、単に無視されてしまうのではないかと感じます。私たちが経験によって知っているように、宇宙が現代の心に最初に苦悩を吹き込んだ、その巨大さの影の部分は疑いがありません。

しかも、この初期の精神不安の原因は、もう1つのより微妙で危険なもので強化されます。宇宙がそれ自身私たちの経験として「閉ざされたシステム」として現れているからです。閉ざされているという感覚は、宇宙があまり大きく「多数」なので、私たちはその中に消えてしまうという感覚のことです。私たち自身が微小なことによって、大海に失われていると感じるだけでなく、さらにその中に閉塞的に閉じ込められていて、しかも個人が失われているならば、もっと深刻であると思います。

 

現在の物理学や数学の限界

最近になって私たちは、時間と空間の認識という、経験上の次元的な事実として、急激に「不可能」の問題に遭遇しています。(生物学でも物理学でも)歴史的事実として、現実の状況の方向がどこで終端となるのか、究極を見出すことができないことです。宇宙の始まり、空間や時間について、あるいは素粒子について、すべてが正確に説明できていません。一方、精神的な意味では、私たちの心は、毎日失敗を繰り返して後戻りをさせられる状況にあって、上とか先にあるべき何らかの汎人間とか超人間に、直接接触するような現象へ介入できないという不可能があります。

ちょうど多くの報われない行為の後で、物理学者が素粒子の空間での絶対的な位置と動きを、決定する望みがないと最後にはあきらめたように、私たちはより広い心の分野で、必然性のある方向へと、私たち自身の考えを変更する必要があります。あらゆる真実を探求する観点において、私たちはすべての方向において、あたかもベールで隠されたかのように、生命の発生が直接に影響したポイントや、人間の現象が実証的に生じた点はわかっていません。つまり私たちは、始めも終わりも明確にできていません。

 

囚われていること

それゆえ、宇宙の巨大な大きさを考えると、物理的にも精神的にもそこに囚われて、私たちはその束縛から決して生きて逃れることができないように包まれています。この束縛や窒息という感覚は、私たちを破滅させるかのように、内部からあらゆる瞬間に現れてきて、混乱と崩壊をもたらそうとしています。それは巨大であり、閉じており、ついには恐怖になります。これはフロイトによって注目されていたことです。コペルニクスの改革から始まった地動説は、世紀を越えた流れとして、継続的に人の心に対して、より「非中心化」を感じさせてきています。これは自分が宇宙の中心でないとする感覚です。最初は天文学から、この「非中心化」が起こってきましたが、生命の領域である生物学や、人間自身の内面を研究する心理学でも起こってきています。しかし、見方を変えることによって、この無意味なものへと消えていくような印象が、正しく訂正されるだけでなく、積極的な逆転となることを示したいと思います。

 

しがらみの数々

現代人が最も苦悩を感じる経験として、彼が勇気と時間をかけて、何かを発見しようとするとき、彼自身のまわりの世界を見て、すでに決まりきった慣習とか伝統として続いたことが、精神という名のもとに「しがらみ」となって、無数の触手のようにからみあい、まさに個々の心の中で自由を束縛する苦悩そのものとして浸透しています。過去には、私たち自身は、完全に自分自身を管理できている、あるいは少なくとも自分の存在は完全に自分にあると確信していました。私たちの知性や意志において、私たちは私たち自身のまったくの主人であると、かなり単純に考えることができました。

そして今、科学によって身体の物質を情け容赦なく分断して分析が進み、私たちのもっとも精神的と考えられていた複雑なことが、微妙な神経線維(大脳)による複雑な相互作用であると見なし始めています。しかし、内面の相互関係は、あらゆる角度から見ても、理解の範囲を超えて、とんでもなく複雑な機能や未知の部分が次から次へと出てきて、私たちの制御や解明から逃れようとしているかのようです。それゆえ、見通すことができない不明瞭な対象には満足な結果を出せないので、その以外の制限のないところにあるもの、つまり心とか精神に関係することは取り除こうとします。そうして、現代の科学は、すべての凝視から、私たち自身の最も内側の深さにある、人間そのものを排除し追い払うようになっています。

それはまるで、私たちの本能的な行動は、不明瞭で見えないことからは目をそらして、他人の陰に紛れるように、人々に混じって安全なシェルタに隠れてしまう動きに見えます。しかしこの結果だけを見ても、そのときでさえも、そこに私たちの苦悩が理解できます。私たちは、そこにくつろぎが感じられると考えているかもしれません。しかし、そこで待っているのは、しがらみから逃れられないのと、まさしく同じ亡霊です。そこには偉大なる外側世界があるという幻想が、私たちをそこに向けさせるため前に立ちはだかるように待っています。

この地球の光景は、過去の世代では、ちょうど天国を思いめぐらすように、何か穏やかでくつろいだものと信じられたかもしれません。何千年の歴史、また生命の何百万年の歴史が、希望もなく失われるという感覚は、確かに持つべき理由はありません。しかし現代では、内省の積み重ねによって、非情な制約が集約してきたことで、私たちの社会に奥深い変化が起こっていて、最も大衆的な側面からそれを見たときにさえ、何かがゆがめられていることに気づきます。以前は少なくとも親しみ慣れた人々の間においては、釣り合いの取れない次元の世間でさえも、物事は引き続き存在すると考えることができました。私たち自身の努力によって築かれ守られた明晰さや個性は私たちのものであるはずでした。しかし、最も身近に思われる関係にもうごめいている、見通せない側面を見て、人々は逆に奇妙な困惑した側面を持ち始めています。確かに状況は悪化してきているように見えます。この原因として、数の多さ、不透明さ、侵略的非個性化という、私たちの心に不安を抱かせる3つの宇宙的特徴を認めることできます。

 

3つの不安

1つ目は数の多さです。私たちは、極端に大きな群集に直面して、1人を見失う感じをもつ機会はめったにありません。しかし容赦ない統計数字が私たちにより一層はっきりと示していることです。人間の数が増える勢いは、この惑星上で2011年に70億を越え、人間は互いにくっつくように生きており、全体の人口動向の計算からは、地球の限られた表面に行きかう人の数は、まもなく100億に達するとも見積もられています。この人口増加をざっくりと考えてみると、過去の方向の長さでは、その増加量は比較的すぐに減少することに気づきます。しかし、未来の方向では急速な拡張となります。そして、私たちはこの100億なるものを良く考え理解しようとすると、この数の大きさに直面して、個人の価値や現実性がまったく崩壊してしまうのではないかという感覚になってしまいます。

2つ目に不明瞭さです。前にも指摘したように、私たちの心のすべてに広がっている、先が見通せないベールのために、うろたえてしまう感覚を起こさせます。しかしそれ以上に、私たちが世界にどうしようもなく囚われていると感じていることにさえも、しかるべくして正当な理由があることに(憤慨して)気づいて、しかも私たちはそれに異質なものを感じ、はっきり嫌悪するわけではなく、それは人々を非情にも互いに分け隔てています。いつの時代でも、人は常にはっきりしないことに悩んでいて、しかもそれほど急速に発展することはないので、私たちの世代では極端な個人主義と極端な自己反省から、内面的な隔離の意識を感じることが、確かにあるかもしれません。しかし、この宇宙ですべてが同時に閉じられていて、各々個人がそれぞれで不明瞭さの中に閉じこめられているとすれば、この人間の条件は、まさに悲劇というものです。

3つ目に非個性化ということです。これは、単に人の態度や礼儀で言われる、形式の一般化を意味するのではありません。人類がその要素としてあまりに多くなりすぎたことに気づいて、そこから発した非個性化へ向かう「悪意ある力」を意味しています。単純に私たちが見えなくなると感じる深淵ではなく、私たちが吸い込まれ、そして呑み込まれて個性を失って生きているとさえ感じる、巨大で猛烈な支配組織の構造にある深淵です。世界が全体化する過程で、そのすべての人間が影響されて、1人の人間が非個性化によって、1つの質量に変えられてしまう、と思える宇宙です。現実は、個々人がまだ動物の本能や原始的な共通意識から、精神的にそれほど成長していない状況にあって、その目の前に以前より別のもっと暗いトンネルがあるのが見えてきたことです。そして人をそこに運ぶ宇宙の流れから、逃れようとするには、個人はその力があまりに弱いということです。

 

不安への対処

私たちは、逃れられない暗闇に囚われていると感じるだけで、明るい日の光の中には出られないのでしょうか。そうならば、確かに私たちは、現代の実存主義的な不安に囚われています。しかし一方では、醒めた目でこの不安の現れをよく見定めて、そこですぐに物理学的、哲学的、道徳的に何かを見出そうとし始めるのではないでしょうか。ここでそれが罪になるのかどうか、はっきりしない感じからくるものは、間違いなく道徳的なものです。また、その不安のなかに、何かの間違いや、正しくないことがあるのではないかと、示唆するものを見出そうとするのではないでしょうか。そして、何かの対策や便宜を考え、何とかすることができるにちがいない、と思うのが本来の人間ではないでしょうか。

 

不安の解消と確信

将来の世界があるならば、それは考えられるべきもの、ということに誰もそれほどの疑いをもちません。知的でない狂信者が、無節操に排除するのでなければ、それはありえることです。これは、世界の存在そのものが、私たちの存在理由に対する積極的な保証です。その保証があって初めて、考えの対象としては十分であり、すべての特徴を実際に保有しているということです。これが、あらゆる真実の哲学がよってたつ基礎となります。そのとき、私たちは、一般的な方法で、物理学に適用する議論のように、同じ力の関係を、単に「考えられる」ということばを「生きられる」というように適用させられないでしょうか。つまり、私たち生命がこの世界に存在し、生命それ自身が包括して、自然に成長するという事実から、はっきりと結論を出すべきである、ということです。この生命がそれ自身の周りや、その中にすべてのものに見出されていて、私たち生命が意識し認識していることです。また生命の存在がなければ、どんな基礎(空気、食料、光等)があっても、この世界の存続は完全に無に等しい、という結論を導き出せるのではないでしょうか。それゆえ生命という存在には、一貫性があるということです。

存在と生命の全般的な相互関係を考えれば考えるほど、個人の必要条件という限界{個性の創造}に到達した、人間要素の場合において、私たちが宇宙で窒息しないようにする方法として認識できることが、1つあると確信します。それは、生命全体を含む世界の構造は、この宇宙の現実の客観的構造と共通であることです。これがまさに、実存的不安に対する特別な解毒剤として説明したいことです。それは「収束する」宇宙の特徴というものが再び安心させ、心を解放するということです。

私たちが分析を進めていくにあたって、多様性の形(活性あるいは非活性)に関して何ら特別の仮定はしていません。ここでは、人の意識がまわりに開かれていて、埋もれていることに気づいていることを考えます。序列のない巨大な多様性、あるいはその多様性が機能的あるいは静的に最も多様に配置されているとき、そこで私たちが考慮するすべては(そして実際に最初に現れるものすべては)、まわりの世界にある要素たちが、正とか悪とか清濁含めて盲目でランダムな動きにある、ということです。そうであれば、私たちの時間や空間で混乱に直面したときの困惑や不安とは、おそらく休みなき宇宙の動きのなかで、何らかの適応の失敗から導かれたことではないでしょうか。

 

解決への道

それでは、もっともらしい仮説を組み立てましょう。

生命の発展という現象から、多くの示唆することを考え合わせてみると、物理学で言われる宇宙空間の拡張する理論に反して、宇宙の物質自身は拡張する方向には沿っていないと仮定します。宇宙に含まれる物質の全体は、個々の生命を構成する物質として、その内部から、より複雑な統合の状態へと、収束の方向に積極的に揺れ動いています。そこで、生命の作用による複雑化する傾向に伴い、精神の内面性が増加するという、特別な効果を生じています。つまり、これは生命が収束する構造にあるということであり、これが事実であるなら、宇宙はランダムに爆発的な拡張にあるとはいえないことになります。拡散しているどころか、この宇宙にある生命は、複雑化して意識が上昇するという内部的な構造によって、そこに何らかのある種の宇宙の本質によって、内省による統合を重ねて将来へと進歩しながら、究極的中心へと向かって収束していることになります。もしこれが真実であれば、物質の領域であっても、人間の領域であっても、私たちが不安の対象とした亡霊は、逆に輝きのなかで消えていきます。そこで不安は追い払われることになります。

これがどのように起こるか見てみましょう。

 

収束の道で起こること

1つ目に、宇宙は最初に盲目なる巨大さの衝撃によって、私たちを消し去るように思えました。これは森の深い所や大都会にいるような、その中で自分が何の価値もないという感覚です。そこで私たちは前に歩む道を、精神を失ったかのようにうろつくだけです。しかし、森や大都会にあっても、人間が通っていく道のまわりに、その本質として生命が進化してきた道を認め、宇宙の流れが放射するシステムを認める瞬間には、愛が呼び起こされ、そして恐怖による不安が消されていきます。その理由は、物質のつながりによって生命を生じさせたのは愛の力によるものであり、生命が組織を組み合わせて上昇させる力は愛そのものだからです。現在私たちが通る道が、荒れ果てた雑草がどんなに厚く茂っても、私たちが過ごす生活がどんなに暗くても、そこに他人の暖かさや友情そして互いの守りの連携が、この星の中心にあって、私たちを待ってくれているので、そこに至る道をもはや失うことはありません。

2つ目として、この宇宙は私たちに不可解さや不明瞭さによって、苦悩をおこさせています。その閉じた天井の下で、反応のない大衆の中にあって、狭い坑道の炭鉱夫が落ちてくる岩の重さの恐怖に戦慄を感じるように、私たちは取り残されていると感じます。しかしそこで、坑夫が頭上に一条の光を見たり、あるいは前方から彼に新鮮な空気の流れを感じさせる希望があります。世界が収束することで、同じ思いを持つ者どうしが、暖かさを生じ互いの協調によって、先が開いた道を取り戻せる希望です。私たちの先には2つの突破口があって、先の見えない鉄のカーテンと同時に、私たちを待っているもう1つの突破口が作られています。1つは現象の割れ目を越えて始めて見える突破口ですが、もう1つは互いの精神の内面的なもの{魂}を通して、他の人たちとつなぐ突破口です。この突破口を使って、ある日私たちは地下に埋もれた坑夫ではなく、人間として再び歓喜できる状況となります。

3つ目として、いろいろな習慣やしがらみの決定論が、物理学的、生物学的、精神的、社会的に、あらゆる瞬間で私たちを捉え巻き込んで、ときおり私たちの個性を忘れさせ混乱をおこさせる用意ができていて、この世の中は油断のならない冷酷な方法で、私たちを不安に陥れます。しかし、ここで再び、この不安はそれ自身で消え去ります。この宇宙に毅然として存在する生命進化に、固有に織り込まれた構造によって、私たちが以下の2つのことを認めるときに消え去ります。

1つは、私たちの意識の上昇が内省の最高点に達するとき、すべての混乱や不安定なことに対して、平衡や後退があるのではなく、持続的な統合に向かう先の状態にあることです。

もう1つは、この社会は全体の試練を通して、その精神が全員の一致する道にそって引かれていて、その道において私たちのそれぞれの個性は完成に向けて進んでいることです。

あらゆることを考えてみてください。この宇宙に生命を起こさせた力(愛の力)が、すべてに働いて私たちを充実させているのに、何を恐れるべきなのでしょうか。私たち自身が精神のまとまりの主流になっていくのであれば、それにはずれた一部のグループは存続ができません。この世界はまとまる方向に不可逆に進歩していきます。いわば、歴史におけるどの瞬間でも、これは人間の内省的な意識のとしてすべてに現れています。

 

端的に言えば、内省の現れが直接に不安の風を引き起こし、序列のない混乱とか多様な恐怖や怒りを生じることは避けられませんが、その同じ混乱させる多様があっても、いったん収束する方向が認められれば、その道に目覚めた人たちとともに、平和の風が世界中を通り抜けるのも避けられません。これには単純で奥深い理由があります。魂がともに一緒に集まる次元にある宇宙において、意識が研ぎ澄まされた心においては、どんなに不安があっても、「一緒になっていないもの」は私たちに不安を感じさせません。なぜなら、統合への道に対して異質で敵対することは、すなわち統合に対する忍耐の努力を強いられるからです。そして、統合に距離をおく「一緒になっていないもの」は後退します。繰り返して言うと、宇宙は私たちに不安を感じさせなくなります。しかし、ここでの変化で、より歓迎すべきことは、その巨大さは宇宙を著しく魅力的で愛すべきものにする傾向になります。究極的には、多様のレイヤが大きくなるほど、私たちを一緒にする流れが、必然的にすべてを包むような大きさになってきて、それに抵抗するすべての力に優り、私たちを吸い上げる渦巻きの中心化への強さが、より深い方向に約束されます。

いままで宇宙は暗く、冷たく、盲目的でした。しかしそこで光が当たり、暖かく、そして活性化します。魔術のように、物と人にあった不安が変えられて、実存的な愛の中へ平和へと逆転します。宇宙の引く力の中心は個性化することです。これを理解して、それを光栄であると知る人は、それ自身の超個性をもっているにちがいありません。ここで私たちは迷路から逃れて、苦悩から脱出します。そして自由になります。すべてのことは、この世界が中心とその心を持っているからです。そして、この変容にともない、以下のような結論が見えてきます。私たちの周りの現実を見ると、2つの論理的に可能な道が与えられています。1つは不安を通して窒息と麻痺へと確実に導く道です。もう1つは反対に、生きることへの情熱と同時に行動への衝動を生じさせる道です。ここで、この宇宙の2つの解釈の間で許されるべき躊躇はありません。

そして、これは単に道徳家や哲学者に適応されるのではなく、生物学者や物理学者にさえも適用されるべきことです。この世界の精神が組織的に収束することが、私たちに心の平和をもたらすという理由だけで、望ましいのではありません。私たちが日常的に空気で肺を満たすのと同じように、客観的に科学的に真実とみなされるからです。これが真実と思えるのは、それだけが私たちの意識にとって、真に生活できる雰囲気を生じさせるからです。この道だけが、この宇宙の構造と同質であるという理由によって、私たちが生きていかれるものだからです。人間という現象によって理解される、私たちの{生命}宇宙の方向が、間違いなく、その要素としての個人と全体を通して、より高いレベルにある「中心」での平衡を見つけるならば、そして、このプロセスが継続し最高になるには、私たち自身が全体として完全に中心化されたシステムになる以外には方法はありません。

 

Inspired from “A Phenomenon of Counter - Evolution in Human Biology or the Existential Fear” by Pierre Teilhard de Chardin.

 

 

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