『マイルス・デイビス:ライブ・イン・トーキョー1973』
放送局:NHK総合
放送日:2011年10月1日(土)=9月30日(金)深夜
放送時間:午前1時40分~午前2時40分(60分)
*近畿地方では10月4日(火)午前2:00~3:00の放送。
<mimifukuから一言>
ジャズ・ファンにとって大袈裟でなく歴史的放送として記憶されるだろう映像。
金曜深夜の放送は軽くお酒でも飲みながら番組開始を待つもよし、
リアル・タイムの時間まで禅僧のように心を無の状態にして放送を待つもよし。
ジャズ・ファンでない人も録画予約してフュージョンの原型とされるサウンドをチェック。
とここまでは一般向けの既定文。
マイルス・ファンにとってもジャズ・ファンにとっても、
評価が大きく分かれるエレクトリック・マイルスの時代。
1969年に発表されたアルバム『イン・ア・サイレント・ウェイ』が“その始まり”とされ、
静の『イン・ア・サイレント・ウェイ』に対し1970年発表の動の『ビッチェズ・ブリュー』は、
ジャズたる概念を帝王自らが瓦解させロックやファンクとの融合は強烈な印象を残し、
フュージョンの原型を作ったとさえ言われる後期マイルスの最重要アルバム。
*厳密に言えばエレキの導入は1968年のアルバム『マイルス・イン・ザ・スカイ』であり、
ジャズにエレクトリックを最初に取り入れたのはゲーリーバートンの『ダスター』とされる。
『ビッチュズ・ブリュー』に至るマイルスの心境の中で芽生えたジャズ表現の限界点。
マイルスの変化については以前に、
・ビパッブ →クール →ハード・パッブ →モード →複雑なコード・チェンジ
・エレクトリックの導入 →フュージョン →多様性(ファンクやポップへの傾倒)
と文字にしている(下記リンク参照)。
ビバッブからハード・パッブの変化は長時間の録音技術(SP⇔LP)が関係するとされ、
モードはハードパッブからフリーへの移行に対するマイルスの答えとしての混沌回避。
複雑なコード・チェンジは高いアンサンブル(重奏⇔均衡)を示す事で到達した演奏芸術。
特に、
ウェイン・ショーター、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスとの、
“黄金のクインテット”はアコースティック楽器によるモダン・ジャズ演奏の到達点として、
東西問わず最高の評価を得ている。
*ただし複雑に絡み合う重奏は初心者には聴き分ける事が困難で中級向き。
黄金のクインテットの活動時期に当たる1965年~1968年頃の挑戦と到達。
その時代、
絶えず変化する事に貪欲であったマイルスが意識した黒人ギタリストがいた。
ロックの革命児:ジミ・ヘンドリックスである。
*自叙伝によると1968年頃のマイルスが盛んに聴いたのは紹介のジミヘンの他に、
ジェームス・ブラウン、スライ&ファミリー・ストーンだったとの証言を残している。
またマイルスにジミヘンを紹介したのは2番目の妻:ベティ・メイブリーとの記述は重要。
映像を通して初めてジミヘンの演奏を観たマイルスは、
“やられた!”、“なんてこった!”と叫んだと言われる。
*ジョン・マクラフリンに連れられた映画館でのこと。
マイルス自身が目指したものは通好みの小難しい音楽ではなく大衆からの支持。
マイルス自身はジミヘンになりたがったしマイケルになりたかった。
自身のアイディンティティの証明はマイルスにとって生涯をかけたテーマだったとされ、
その意義には黒人(比較的裕福な家庭)として生まれた人種差別への強い抵抗。
*黒人ボクサー:ジャック・ジョンソンへの憧れは1970年にサントラ盤として実を結ぶ。
黒人音楽を学ぶ時、
ゴスペル、ソウル、ブルース、ロック、スイング、ファンク等が挙げられる。
特に、
ブルースのロバート・ジョンソンやマディ・ウォーターズは、
ミック・ジャガー&キース・リチャーズやエリック・クラプトンに強い影響を及ぼし、
ロックのチャック・ベリーやリトル・リチャードは、
ジョン・レノンやポール・マッカートニーにとってのヒーローだった。
スイングはジャズの原型となるビック・バンドの時代に
デューク・エリントンやカウント・ベイシーの楽団が人気を集め、
また、
ゴスペルはマヘリア・ジャクソンやアレサ・フランクリンなどの女性歌手。
ソウルはレイ・チャールズやサム・クックを経てオーティス・レディングが知られ、
ジャズの黎明期ではビリー・ホリディやルイ・アームストロングが名高く、
後のエレクトリック・ジャズに多大な影響を与えた、
ファンクの王者:ジェームス・ブラウンの名を忘れる事はできない。
マイルスにとって、
白人達が黒人の音楽を好んで歌い演奏し“商売の種”にする事を嫌ったという。
それは時代の中で黒人にとって音楽かスポーツでしか金儲けができない時代環境。
そのテリトリーを犯される事に対する怖れであったのかもしれない。
*ただし現実的にはプレスリーやビートルズが黒人の音楽(リズム)を大衆化することで、
結果的に黒人の音楽が若者達に受け入れられ市民権を得たとの見方もできる。
音楽家が音楽で食べるという事は共産主義体制や文化事業への補助金などの、
国家の援助がない限りは市民権(大衆性)を得なければ存在する事は困難で、
マンネリを嫌い常に変化を求めたマイルスの多様性は時代(市民権)との格闘。
*マイルスが目標とする音楽は自己満足ではなく黒人の地位向上と市民権の獲得。
マネジメント(マネージメント=管理、運営、経営)なる言葉が流行って久しいが、
マイルスへの最大評価はマネジメント能力にあったとする捉え方は的を射ている。
モード・ジャズの傑作と言われる『カインド・オブ・ブルー』でのビル・エヴァンスの起用。
クラシックに通じる白人ピアニストの登用は新しいアイディアに応じた音階を組み立てた。
複雑なコード・チェンジ(アンサンブル=均衡と調和)を達成した“黄金のクインテット”では、
ウェイン・ショーターやハービー・ハンコック等の知性派ミュージシャンを起用し、
エレクトリックへの挑戦はジョー・ザビヌルやチック・コリアの若い才能に賭けた。
演奏能力をフリーに求める傾向が顕著な時代でのアコースティク・ジャズの挑戦と限界。
その時に目に入ったジミ・ヘンドリックスの高揚感溢れるギターサウンドやビート感が、
マイルスをエレキの世界に導いたとの見方が現在では通用しているようだ。
ただし、
1960年代ではエリック・クラプトンが在籍した(3ピース)ロック・バンド:クリームが、
長時間の即興演奏(インプロビゼーション=アドリブ)をステージで披露し、
プログレッシブ・ロックの台頭などジャズとは異る歌詞を持たない多彩な演奏表現は、
マイルスが追求するジャズの到達点のテリトリーを侵しかねない演奏技術を見せ、
エレキ(電気・電子楽器)が生み出す音楽の多様性は時代の流れと共に、
ロックとジャズの垣根を超えた融合(テクノロジーの進化)を要求したと考えられ、
マイルスの先進性は時代に敏感だったマイルスにとっては当然の成り行き。
*1970年にマイルスがロックの祭典:ワイト島フェスティバルに出演する1年前、
1969年のニューポート・ジャズ・フェスティバルには英国ロック・グループが退去出演。
ジェフ・ベックやレッド・ツェッペリン等の大物の名とマイルスの心境は如何ばかりか?
時代の先取りと自身の想像力の限界を知るマイルスが取ったマネジメントが、
多くの若い才能にチャンスを与えた事実は帝王の帝王たる所以なのだろう。
1973年。
東京厚生年金で開催されたマイルスのコンサート映像はマイルスの断片に過ぎない。
しかしその断片の記録はジャズ・ファンにとっては掛け替えのない幻の映像。
*1968年頃からのマイルスは生涯2度目の麻薬中毒(&持病)に苦しんだ時代で、
70年前後は多くのミュージシャン達もまた薬物やアルコールにより命を落とす。
1975年の日本公演では、
怒涛の名作:『パンゲア』と『アガルタ』を生んだ。
しかし名作と誉れの高い、
『パンゲア』と『アガルタ』の時代は正気を失った中毒症状も指摘され、
本来は若手の演奏にヒントを与えながら交互に即興するマイルスの手法が、
自己主張を強調しジャズの目標概念(インタープレイ)からは遠く乖離した、
マイルス芸術の“汚点(頑強な自我)の時代”との見方を示した伝記映像は、
没後10年の2001年にNHK教育で放送された、
『ドキュメント地球時間:ジャズの帝王マイルス・デイビス(前・後編)』
*1975~80年までの約6年間は身体の痛みや中毒症状との闘い=休業・沈黙。
モダンジャズの巨人達の映像は数少なく今回放送される映像も、
10年に1度の邂逅との思いが強く私は何を置いても視聴する。
初期エレクトリック・マイルスは必ずしも取っ付きやすい音楽ではない。
パフォーマンスもロックのパフォーマンスと比較すれば動きは単調。
それでも巨人の存在感とカリスマ。
鑑賞する者は何かを感じる部分があるはず。
是非ご覧ください。
<関連記事>
*音楽と音学:JAZZの帝王/マイルス・デイビスを学ぶ。
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20111023
*マイルス・デイヴィスとは誰か(平凡新書)レビュー
→ http://blog.goo.ne.jp/mimifuku_act08/d/20080312
<関連番組>
*東京JAZZ2011(放送予定)
~NHK-BSP:2011年10月15日(土)午後2時~午後6時30分
~以下NHKホームページより記事転載。
ジャズの帝王マイルス・デイビスが亡くなって9月28日で20年を迎える。
このほど1973年に来日した際に東京・厚生年金会館で収録され、
NHKの「世界の音楽」という番組で放送されながら長らくテープが行方不明だった、
“伝説のライブ映像”が発見されデジタル・リマスター版で新たに蘇る。
番組ではエレクトリック・マイルス絶頂期の貴重な映像とサウンドを、
たっぷりと60分お届けする。
特別番組:『マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973』
放送:10月1日(土)午前1時40分~2時40分=9月30日(金)深夜
近畿地方。
放送:10月4日(火)午前2:00~3:00=10月3日(月)深夜
20世紀を代表するミュージシャンとして、
ジャズ界に君臨し続けたトランぺッター:マイルス・デイビス。
今年9月28日で没後20年を迎えるが現 在も音楽界に与える影響は計り知れない。
今回の特別番組では、
マイルス・デイビスが1973年に日本で行ったライブ演奏をたっぷりと放送。
ジャズの革新を続け様々なスタイルで自己の音楽の追及を行ってきたマイルスが、
エレクトリック楽器を大胆に取り入れ賛否両論を呼びながらも、
世界中の聴衆を圧倒していた 頃の白熱のライブ。
当時NHKが収録し放送したものの長年マスターテープが、
行方不明になっていた幻の演奏だ。
このほどアメリカで発見されデジタルリマスター処理が施され、
最高の映像とサウンドで当時の演奏が鮮やかに蘇った。
この演奏は、
マイルスにとって2度目の来日となった1973年のツアーのうち、
6月20日に行われた東京公演を収録したもの。
ツアー開始前日にはNHKのスタジオで4時間ぶっつづけてリハーサルを行うなど、
マイルスがこのツアーに対する力の入れようは並ならぬものだった。
「エレクトリック時代の最強のマイルス・バンド」と多くのファンが認めながらも、
同メンバーで残された録音は少なくまさにエレクトリック・マイルス絶頂期の貴重な映像だ。
没後20年を偲びジャズ・ファンのみならず総べての音楽ファンに、
「マイルス・ワールド」を存分に堪能してほしい。
案内役は、
ミュージシャンの菊地成孔さんと音楽ジャーナリストの小川隆夫さん。
<関連番組>
NHKアーカイブス『ジャズの帝王~マイルス・デイビス没後20年~』
~総合:2011年9月25日(日)午後1:50~午後3:00(70分)
*放送済(愛知県、岐阜県、三重県、石川県では未放送)
20世紀を代表するミュージシャンとして音楽界に君臨し続けたマイルス・デイビス。
「ジャズの帝王」と呼ばれたマイルスが逝去して今年の9月28日で20年を迎える。
1940年代のモダンジャズの黎明期から活躍をはじめそのリリカルで柔らかなトーンと、
優れた即興能力で一躍ジャズ界のスターダムに躍り出たマイルス。
その後もクール・ジャズ、モードジャズ、エレクトリック・ジャズなど、
自身の音楽を追求していく中で絶えずサウンドの変革を続け、
現代に続く様々なムーブメントの先駆者・革新者として、
ジャズ界のみならずあまたの音楽界に革命をもたらし続けた。
今回のNHKアーカイブスでは没後20年を経ても色あせることのない、
マイルス・デイビスの音楽と彼の波乱に満ちた生涯をたどる番組を紹介する。
また注目の映像として、
長らくテープが行方不明になっていたマイルス絶頂期の貴重なライブ、
「マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973」の一部を紹介。
さらに、
マイルスと共演経験のあるデイブ・リーブマンのニューヨークでのインタビューや、
東京ジャズで来日公演を行うベーシストのマーカス・ミラーらのコメントなども交えながら、
時代とともに変貌を遂げ常に最先端の音楽を追い求めた、
マイルス・デイビスの真の姿を見つめる。
ゲスト:菊地成孔さん(ジャズミュージシャン)
:小川隆夫さん(音楽ジャーナリスト)
キャスター:桜井洋子アナウンサー
*番組で放送された内容。
ETV特集『疾走する帝王~マイルス・デイビス:菊地成孔のジャズ講座』
(2007年6月24日初回放送※45分に編集)
マイルス・デイビスが音楽界にもたらした「革命」とは?
彼の65年間の人生を追いながら、新しいスタイルを創造しては破壊し、
また創造するという壮絶な生涯を日本を代表するサックス奏者でミュージシャンの、
菊地成孔(なるよし)が鋭く分析していく。
『マイルス・デイビス・イン・トーキョー1973(一部紹介) 』
1973年7月1日にその一部がNHK「世界の音楽」で放送されたが、
長らくテープが行方不明になっていたエレクトリック・マイルス最盛期のライブ映像。
もはやジャズとは呼べないロックもファンクも飲み込んだ、
マイルスだけにしか創造することのできない革新的なサウンドは、
世界中で賛否両論を呼んだ。
60分にわたるライブ映像の一部を紹介。