暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

人間=神だと思う

2012-04-28 17:33:54 | Weblog

 人間=神だと思うのだけれども。生命=神と言っても良いかも知れないが。

 私達はコンピュータゲームというのをします。そのRPGゲームをしている時に、今ある世界にいる体の事を忘れて、PCゲームの中に意識を完全に移す事。それが地球上に生まれるというゲームだと思うのだけれども。

 でも、だからと言って、ゲームを作った人が、ゲームをする人よりも偉大な存在であると言う事にはならないと思う。同じ人間です。ゲームを作った存在を神と言うのであれば、神=人間=生命であると思う。

 コンピュータゲームだって。何らかのプログラムを作った上で成立している。そのプログラムの事を、宇宙の法則、科学の法則というのだろうけれども。

 神=人間=生命の目的は、面白い法則を持った宇宙を作る事。そして、皆=生命にその宇宙という楽しいゲームで遊んでもらうこと。

 苦労などという物が、宇宙というゲームで遊んでいる瞬間思えたとしても、それは幻想だから。それは、楽しいゲームの中のよりゲームを楽しんでもらうためのエピソードの一つにすぎないということで。宇宙は、人間=生命を困らせようとして、不幸に陥れようとして、宇宙を創造している訳ではない。多分、遊ぶ意思があって、作ったのだと思う。皆=他の生命に、楽しんでもらう為の物として。そういう宇宙でないと、皆遊んでくれないから、ということで。

 

 神は別にそんなに偉い存在ではないと思う。神=人間=生命だと思う。ゲームを作る側か、ゲームで遊ぶ側か。その違いに過ぎないと思うのだけれども。

 だから、神に頼るより、人間に頼った方が良いと思う。神は、ただの“法則を作った者”、プログラムを組んだ人とも言えるが、であって。遊ぶ相手は、人間=生命なのだからして。

 

 この宇宙というプログラムはなかなか面白い。私が生きているうちには無理かも知れないが。そのうち、この宇宙の科学法則が、ただのプログラミングに過ぎない事を、地球の科学者も気がつくと思う。そういう気がするのだけれども。

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物質的幸福と

2012-04-28 17:32:57 | Weblog

 物質的幸福と、精神的幸福はお互いに関係があると思う。物質的幸福が得られれば、精神的幸福も得られやすくなるし、精神的幸福が得られれば、物質的幸福も得られやすくなると思う。アフリカで、アフリカ人が戦争を平気でしているのは、アフリカにおける食糧生産が足りていないからだと思う。競争をしなくても、必要な物が手に入ると分かれば、競争は消える。結局、我々の文明精神が未熟なのは、我々の科学技術がまだ、未熟である事も原因としてあげられると思う。いくらでも豊かさを作り出せると知っていれば、豊かさを他人に与える事に対する躊躇はなくなる。豊かさを競い合いのすえにしか得られないと信じているから、他人に豊かさを与える事が出来ないでいるのではないかと思う。他人を幸福にする最初のステップは、自分を幸福と感じられる人間にすることだと思うが。結局、完全な豊かさを自分に与える事が出来ないでいたら、他人に対して、完全な豊かさを与える事が出来ないであろう。そういう問題があるような気がするが。

 

すべては、お互いに関係している。精神的幸福を実現しようとして、物質的幸福を無視するのは、愚かな事だと思う。精神的幸福を実現したいのであれば、物質的幸福を実現することに対しても関心を払わないと。魂の幸福を実現しようとして、物理的現実を無視するのは愚かな事だと思う。物理的幸福を実現出来れば、魂の幸福もそのうち実現されるような気がするのだけれども。人間はそれほど愚かな生き物ではないからして。

 

なんか、アジアで、経済発展が実現出来たら、(軍事)独裁国家が、民主主義国家になったみたいな。

最初から、完璧な国家なんてない。散々戦争をしまくった上で、『もう戦争は止めよう』となった訳で。中国だって、先進国並みの一人当たりのGDPになれば、そのうち民主主義国家になるよ。独裁政権国家の党首というのは、恐れている。『民主主義国家になれば、我々は民主主義国家の党首に殺されてしまうのではないか』と。その恐怖が消えれば、自然に民主主義国家になる。初めから、結論を求めてはいけないと思う。何でも、過程があるのだからして。

 

すべては関連している。だから。その関連性に気づけるようにしないといけないと思う。

映画で救われる人もいるのだから。経済的な事を無視してはいけないと思うのだけれども。“くだらなくても”あなたにとってはくだらなくても。それが存在すると言う事は、それで救われて、幸福を得ている人達がいっぱいいるのであろう。だから、何事も、『それはくだらない事だから』と言って、切り捨ててはいけないと思う。

しかし、人に『良い趣味ですね』と言われる趣味と。『困った趣味』と言われる趣味があると思う。パチンコは『下らない趣味』と言われる趣味であろうが。うーん。ソーシャルゲームで、月2万円出費する趣味は、『悪い趣味だ』と言われる。『良い趣味ですね』と『悪い趣味ですね』と言われる境界線は何であろうかと思う。『1500万円の車が欲しい』もあまり良い趣味とは思えないけれども。

 

その“趣味”によって、他の人が幸福になるかどうかが一つのポイントのような気がするが。“読書”は『良い趣味ですね』と言われる趣味になると思う。なぜかと言うと。読書によって、その人が知識を増やすと、他の人もその知識を得るチャンス(機会)が増えるから。

大体、大抵の人の“知識”は、他人がその人に言った事を、その人が他人に伝えているだけである。オリジナル(独自)の思考なんてめったにない。大体は、他人が言った事を人に言っているだけである。もちろん、その人の思考の中で、『これは人に説明して面白そうな知識である』とか、『この話は、人に話しても面白い話ではないな』とかいう判断はあるだろうけれども。基本は、他人が言った事を人に言っているだけであるからして。

うーん。

 

「宇宙の存在する目的は、暇つぶし」。こんな事、書いても、考えても、得な事は一切ないが。宇宙の目的を「暇つぶし」であるとするならば。良い暇つぶしであろうと思う。お金がかからない“暇つぶし”よりも、お金がかかる事を、“暇つぶし”としている人は、人生においてそれなりの報いはあるであろう。お金がかからない事が自分にとっての“暇つぶし”である人は、多分、お金がなくても、幸せだと思う。多分、それだけの事だと思う。

人生というのは、自己満足を得たら、成功だから。別にその人が幸せだったら、それで良いのではないの、と思う。

正しいとか間違っているとか言うのはないかもしれないけれども。自分と他人が“幸福になる思想”と、自分と他人が“不幸になる思想”があると思う。どうせなら、“自分と他人が幸福になる思想”を選びたいと思う。それだけの話なのだろうと思うが。その単純な事が、難しい人達が大勢いるであろう、ということで。

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幸福になれる考え方と

2012-04-28 17:32:07 | Weblog

 幸福になれる考え方と不幸になれる考え方があるように思う。

 

 日本に住んでいながら、日本の悪口を言う人達がいます。在日朝鮮人の人達とか、これをするから日本人に嫌われて、『じゃあ、韓国に帰れ』とか言われたりするのだけれども。これの応用編として、会社に勤めていながら、自分の会社の悪口を言う人達がいます。こういう人達が会社で出世出来るとは思いませんが。それでもその人達にとっては、それは真実の考えだから。言わざるを得ないのでしょうね。そういう事を考えてしまうことこそが、自分達が不幸になる原因であると気がつかずに。

 

 家族に対して、『誰のおかげで、飯を食べられると思っているのだ』と言って怒る人達がいます。まあ、人間的に見て、最低の行為だと思うけれども。何で、こういう発言が出てくるのかというと。周囲の人達に対する、感謝の念がないからだと思う。

 幸福になる秘訣は。まず、自分を幸福な状態にさせるように努力すること。2番目が、自分と関わりのある人を幸福になるように努力すること。3番目に、関わりのない他人を幸福になるように努力すること。だと思う。

 自分を幸せに出来ない人間が、他人を幸福にすることは出来ないし。家族を幸福にする事が出来ない人が、赤の他人を幸福にする事なんて出来ないと思う。一番は、自分で、二番が家族、3番が友人・知人で、4番が赤の他人なのである。自分と家族を幸福に出来ない人間が、社会を幸福にしようとするなんて、デタラメであると思う。しかし、社会活動家の一部の人達は、家族を不幸にしてさえ、社会を幸福にしようと努力するということで。そんな意見は、共産主義の活動家だけで十分だと思うけれども。

 

 会社の悪口を言いながら。一生を終えるのも、また、人生なのかも知れないが。そういう人達が、目の前にある幸福に気づく事はないと思う。

 仕事を辞めてばかりいる人達が幸福になることはないと思う。『欧米では、会社を変えるのは、普通の事である』と言うが。多分、そんなことはない。アメリカでも、『ファースト イン ラスト アウト(最初に入った人は最後に出る)』と言う。会社がリストラしようと計画した時に、最初に会社に入った人は、労働組合が守ってくれるので、最後までいられるという意味である。職を転々とする人は、多分、欧米でも幸福になれないと思う。『会社は変えても、仕事は変えるな』という言い方をすることもあるが。それは真実だと思う。自分がやっている仕事に幸福を感じられない人が、幸福に生きることは難しいであろう。

 

 神の秩序がどうのこうのの話ではなく。人間に関する秩序である。キリストは、『お互いに助け合いなさい』と言った。神の秩序に関する話は、科学者に任せておけば良いのかも知れないが。人間に関する秩序は、人が語らなければならないことであろうと思う。『仕事を転々とする人が幸福になることは難しい』。これは人間に関する秩序だと思う。それは真理なのだけれども。これを発見したとしても、ノーベル賞は取れないということで。

 

 客観的に見える幸福がある。でも。本当は客観的な視点から見て、幸福かどうかは問題ではないと思う。主観的な目から見て、その本人が幸福を感じて生きているか、不幸を感じて生きているかの問題だと思う。

 何で、『不平不満ばかりを口にする』人達がいるのだろうかと思う。自分一人の力だけで生きている人なんて、誰もいないのにと思う。誰だって、誰かに対しては迷惑をかけている。自分一人の力だけで、大人になった人は誰もいないと思う。だから、育ててくれた親に対しては、感謝をしないといけないはずなのに。その感謝なしに生きている人達が大勢います。結局、こういうのは、人間性の問題だと思う。親に対する感謝なしに生きている人、親の悪口を言って生きている人は、人間性が低いとみなされると思う。大体、本質的には、人の悪口をいうべきではないと思うが。それでも、言わざるを得ない人達がいるのだよね。そういう人とは関わりにならない方が無難だと思う。でも、悪口を言っている人にとっては、その話は、事実なのだよね。要するに、物の見方の問題だと思うが。相手の間違った部分にしか、目がいかないのは不幸な思考であろう。本当は相手の良いところばかり見ることが出来れば、ばら色の人生として感じられるようになるかも知れないのに。

 

 幸福とは主観である。でも、主観的幸福を感じている人は、客観的幸福も手に入れやすいと思う。主観的不幸を感じている人は、客観的に見ても不幸な人生を生きるはめになりやすいと思う。

 神に頼るのではなくて。人間に頼らなければならない。不幸になっても、支えてくれる人間がどれだけいるかと言うことで、幸福になれるか、不幸になれるかが決まってくると思う。罪を犯しても、周りの人達が、『あの人がこんなことをするはずがない』と言われる人と、『あの人なら、すると思っていた』と言われる人がいる。どちらが、幸福な人生を生きる可能性が高いであろうか。

 人間関係は、聖なる基盤だから、大事にしないと。人は自分の事を見ていないと思っていても、自分が思っている以上に見ていると思う。他人の評価ばかり気にするのは、ダメなのだろうけれども。他人の意見には、神の声が混じっている。それも真理だと思う。

 

 結局、自分のやっている事を愛せるかどうかという問題のような気がするが。自分のやっている事を愛す方法として、一つ目が、『自分が愛せる事をやる事』なのだろうけれども。2つめの方法として、『自分のやっていることを愛す』事も必要だと思う。すべての人が、自分の“やりたい事”とやらを仕事に出来る訳でもないし。“愛せる人”とばかり交友関係を持てる訳でもないと思う。だから。誰にとっても、ある程度は、『自分のやっている事を愛せる人間になる事』は必要だと思う。

 

 神様ってどこにいるのかな。本当は、すべての人と物事に対して、神を見れれば、それ以上の幸福はないのだろうけれども。

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そんなに頑張って

2012-04-28 17:31:20 | Weblog

 そんなに頑張って、結論を得ようとする必要はないであろう。

 天国に行けば、結論は簡単に手に入る。ある場所の事を考えたら、一瞬でその場所に行くらしいと。地球に生まれてきた理由は過程を楽しむためである。結論だけなら、天国にいれば手に入るのだけれども。なぜ、それが正解なのか、理由が分からないという問題がある。なぜ、それが答えなのかについて、知ろうとすれば、地球上における生まれ変わりという長い人生が必要な訳で。

 たくさんの人がこの地球上に存在すると言う事は。そのたくさんの人の数だけ、その人なりの生まれてくる目的というのがあるのだと思う。無価値な人生はない。だから、自殺はダメなのでしょうけれども。名誉と栄光を得る事が人生の目的ではない人の方が多数派であろう。『もうダメだ』と思っても、あきらめずに、自殺しないで生きていたら、それなりに、人生は続く。ただ単に、自殺は、『もったいない事である』という感じかも知れないけれども。光の部分のみを知るために、生まれてきた訳ではない。闇の部分をも知るために、人生は存在するのだからして。栄光のみの人生では生まれてくる価値がない。闇の部分も含めて経験するために、人生があるのだと思うけれども。

 

 美しい光景のうちの一つが。夜景のような気がする。暗い夜道を自転車で帰っている時に、家の明かりを見ると、とても幸せな気持ちになる。

 太陽のみの世界では、光の価値が分からない。周りが闇に包まれているからこそ、光の価値が分かる。だから、いかにネガティブ(否定的)に見える事実があったとしても。ネガティブな事実自体は、ネガティブな事ではないと思う。光の価値を知るために、闇がある。そう思えば、人のありがたみを知るために、人間関係の困難さがあるとも言えると思う。

 

 名誉と栄光を手に入れた人にしか興味のない人がいる。「その考えは、人生の8割、9割の喜びをどぶに捨てているようなものではないだろうか」と思うのだけれども。

 闇がなければ光の価値もないのだよ。知的障害者という存在がいて初めて、自分は恵まれているなあと感じる。この世界から知的障害者が消えたら、自分が幸福な人間であることが分からなくなるのではないか。

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天国に行きたいなあ

2012-04-28 17:30:27 | Weblog

 「天国に行きたいなあ」とつぶやく。その度に、「いや、ダメだダメだ、天国に行ったって、どうせまた、この地球に生まれ変わろうとするのだから」と思う。地球というのは、面白い場なのである。悪魔と神が共にいるから。悪魔がいるから神がいる。悪魔なしには、神も無価値なのである。おなかが減ったという経験があるから、おなかがいっぱいで幸せという経験が出来る。常におなかいっぱいであれば。おなかがいっぱいで幸せという経験は出来ないであろう。誰も辛い目には会いたくない。しかし、楽しいだけの人生からは何も学べないであろう。経験する事によって思考が生まれる。観念だけの結論を聞いても経験がなければ、それの意味することが全く分からない。自己の経験によってそれの意味する事が分かる。観念のみではそれの意味する事が分からない。

 

 霊界世界の介入があるらしい。ここ50年ほどの話らしいと。多分、人類が核兵器を生み出したからだと思う。人類を滅亡させる訳にはいかない。しかし、地球を天国のようにする訳にはいかない。

 人間は魂と精神と肉体の三位一体の存在らしい。魂は精神に影響を与える。精神は肉体に影響を与える。しかし、その逆も同じで、肉体は精神に影響を与え、精神は魂にも影響を与えるのではないか。おなかがすいていて、良いアイデアが浮かぶであろうか。散歩をしながら、色々な事を考えるのは楽しい。肉体を動かす事は精神にも影響を与えると思う。そして、精神的幸福は魂の幸福にも影響を与えると思う。いくら魂は大事だ、精神は大事だと言っても、肉体的要求を無視するのはいけない。霊界の介入は、物理的世界を良くするための介入も多く含んでいる。物理的世界を良くする介入なしに、精神的世界や魂の世界を良くする介入をしても多分あまり効果はないであろう。

 

 地球は貴重な生命系である。それは科学者も言っている。『地球型生命の惑星はこの銀河に10個ぐらいしかないのではないか』と。他の惑星にももちろん生命はいるのであろうが。地球のような生命は多分、銀河全体で見ても貴重であろう。ある霊界通信情報は、『地球のようなレベルの文明を持つ惑星を探そうと思えば、隣の銀河に行かないとない』と書いていた。

 私は、大体にして、文明というのが出来て3000年ぐらいしか経っていない存在が、『我々の科学は』とか言うのは、馬鹿な事だと思っているが。そういうのは、文明というものが出来て、科学というものが発明されて、10万年ぐらい経ってから言って欲しいと思っているが。今の我々の称する科学などという代物は、10万年後の人類(?)から見れば、子どものおもちゃみたいなものであろう。そんなものを『我々の科学は』などと言うべき代物ではないと私は思うのだけれども。

 宇宙の他の文明は、我々よりもずっと進化しているか、さもなければ、ずっと遅れているか、そのどちらかであろう。地球のようなレベルの文明はそうそうない。だから、今の地球は貴重なのである。

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幸せに暮らしていたら

2012-04-28 17:29:05 | Weblog

 幸せに暮らしていたら、人がすり寄ってきて聞いてきます。「どうしてあなたはそんなに幸せなの?」と。世界を幸福にしようとすれば、自分が幸福になるしか方法はないと思うのだけれども。アフガニスタンに戦争を仕掛けて、自分達も不幸になって、それでどうやって世界を平和にしようというのであろうか。そんな方法では絶対に平和にはならない。世界を平和にしようとすれば、まず自分達の内面を平和にするしか、それ以外の方法はないと思う。それ以外の方法は偽物の方法だと思う。9.11事件が起こっても、放っておけばよかったのではないか。「何もしないこと」それが世界を平和にする唯一の方法ではないのか。9.11事件を起こさないようにする為と称して、戦争を仕掛け、その結果自分達も不幸になり、また再度9.11事件を起こす火種を作ってしまった。悪を滅ぼすためと称して、悪人を殺しても、悪は消えない。悪がますます増加するだけである。9.11事件対応のまずさが理由かどうか議論の余地があるという人もいるかもしれないが。結果として、アメリカの国力は低下し、アジアの時代になろうとしている。さて、果たしてどうしたものか。

 

 イスラム教の国の大抵では、日本は親近感を持たれています。それは多分、日本人がイスラム教を嫌っていないからだと思うけれども。相手に議論を吹っ掛けたとしても、それで相手があなたに対して好意を持ってくれるかと言えばそうでもない。むしろ、議論なんてせずに、そのまま放っておく方が好意を持たれる。アラブのテレビ局のおかげで、アラブでは日本ブームなのだそうだ。そのテレビ番組が言う事によれば。『日本では財布を落としても、交番に届けるので。落とした財布は持ち主の所に戻ってくる。アラブでは、財布を落としたら、拾った人が喜んで自分の物にしてしまう』と。で、その番組のおかげで、日本に留学したいというアラブ人が増えたとか何とか。相手を平和を愛するように変えたいと思えば、自分が平和のうちに生きれば良い。そうすれば、戦争をしている国の人達は、平和に生きている国の人達にすり寄ってきてこういうであろう。『なぜ、あなた達はそんなに幸せなのか?』と。

 

 かたき討ち理論が、正論でも正義でもない事は、ハンムラビ法が今日本で正義になっていないことで分かる。『目には目を。歯には歯を』。『目を傷つけた者は目で償え、歯を傷ついえた者は歯で償え』という意味だそうである。仕返し主義は善行ではあるまい。キリストは言う。『右の頬を叩かれたら、左の頬も差し出しなさい』と。相手が悪魔でも愛してあげるのが本当の神の行いであると思う。

 「悪魔を創造してはならない」と思う。「悪魔なんていない。あなたの空想の中にしか」と。あなたがある人を悪魔と考えれば、その瞬間悪魔は生まれる。あなたが、その行為をただの人の行いであると考えれば、悪魔は生まれない、と。

 欧米人は、ナチスを悪魔の行為のように考えているようであるが。ナチスをそこまで追い込んだ第1次戦勝国の過ちについてもっと非難されるべきだと思う。ナチスを非難しても意味がないと思う。ドイツ人を批判しても意味がないと思う。ナチスをドイツ人をそういう行為をさせる所まで追い込んだ、第1次大戦の戦勝国の間違いについてもっと非難されるべきだと思う。誰も好き好んで悪魔になんかなりたくはないのである。昔、バブルの頃までの日本人もそう言っていた。『不幸な環境に育ったから、彼は、不幸な事件を起こしてしまったのである』と。『だから、犯罪に対して、厳しい処罰をすべきではない』と。被害者の権利よりも、加害者を守ろうという考えが多数派の時代がありました。それが『被害者の権利を大事にしなければならない』とか言い出して、厳罰化の流れが始まってしまった。昔は、『やくざの人でも仲良くしましょう』という考えが主流だったのに。そうではなくなってしまった。悪魔を排除する思考で、世の中が幸福になれるのかどうなのか。多分、日本の経済停滞のせいで、普通の国民が幸福を感じられる状態でなくなった事がそれが起こる背景の原因としてありそうだが。自分達が不幸な時、他人の不幸に思いやれる人は少数である。厳罰化の流れの裏には、日本人が幸福を感じられなくなっているという背景があると思う。

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悪の設定が悪を増加させる

2012-04-22 15:28:40 | Weblog

悪の認定が悪を増加させる

 

 イスラム教にはタブー、やってはいけない事だらけである。あれはやっちゃダメ、これもやっちゃダメという。キリストではないが、『あなたがたの中から、悪をやった事のない人がこの人を打ちなさい』と言ったら、すべての人が去っていくぐらいに悪が多い。

 タブーは少なければ少ないほど良い。ブータンでは、異なる家庭の男女が共に同じ家にいても、普通の助け合いなのだそうだ。イスラム教もこれぐらいのタブーさがなければ良いのになあと思う。膨大なやってはいけない事リストは、悪を作りだす。でも、神をすべてを含む集合であると考えるのであれば。神は悪魔も含まないと神にはなれない。本当の神とは悪魔をも含むものではないのか。悪魔を許さない神は本当の神とは言えないと思う。「あなたが悪魔でも愛してあげますよ」というのが本当の愛情であるはずだ。「あなたのほんの小さな過ちさえも許しませんよ」というのは神の行為ではないし、人間の行為とも言えないと思う。愛とは、相手が悪魔でも許す行為の事だと思う。

 

 アメリカにはアメリカなりのタブーがあって。同性愛者は迫害される。殺されたり、レイプされたりすることもあるようである。何の聖書の記述によって、同性愛者が迫害されるかについては知らないが。アメリカにはアメリカなりのタブーがある事は事実である。本人が意識的に選択した事でもないのに、なぜか迫害されるということで。

 やってはいけないことリスト、やらなければいけないことリストは出来るだけ少ない方が良い。重要なのは、人生/生命の尊重だ。後は、健康に気をつけようという事だけで良いと思う。人を殺す事はダメだけど。生命の尊重は必要である。共に分かち合う社会が出来れば良いのに。そしたら、社会から精神病が消滅するかも知れない。豊かさを見せびらかすのは、豊かな証拠ではなく、貧困の証拠であると思う。本当に豊かであれば、必要な富とは本当にごくわずかであろう。豊かさがないから目に見える富を欲しがる。そういう部分があるように思う。

 

 ちなみに。発展途上国が貧しい理由として。税金を取る事が上手く言っていない所にある。『税金を取られても良いよ、それで国と国民が豊かになるのであれば』という国民的同意が出来ていない所に発展途上国の貧しさがあると思う。

 日本人でも税金を取られる事を嫌がる人は多い。しかし、皆、『国の為に、他の国民の為に』と思って、税金を取られる事に対して同意している。大抵の人が正直に申告して、正しい税金を払っている。でも、ギリシャでさえ、額面上は消費税率20%であったとしても、大抵の人が5%ぐらいしか払っていないようである。国民全体に、“税金を払う動機”を浸透させるのは難しい。税金とは、『自分が一時的に不幸になったとしても、他人の為にそのお金が使われるのであれば、取られても良いよ』という国民的同意のある国でないと成立しないからである。

 先進国とは、精神の豊かさの証拠でもあると私が考える理由はそこにある。精神の豊かさのない国が先進国になるのは難しいと思う。私は国内で戦争をしている国に経済援助をするのは無駄ではないかと思っているが。国内で人殺しをやっている国が豊かになるのは難しいであろう。『発展途上国には先進国にはない精神的豊かさがある』という意見には同意しかねると言っているだけである。本当に精神的豊かさがあれば、豊かな国になれるはずではないか。精神的豊かさのある国が先進国になれないと考える方が難しいのではないかと思うが。

 

 関係のない話であるが。『日本人は、金持ちになっても、アメリカのように財団を作ったりしない』と言って批判的に言う日本人がいるが。日本人の善行は大人しく税金を払う事なのである。日本の企業で、税金対策と言って、ケイマン諸島に籍を移している企業について聞いたことがない。アメリカやヨーロッパの企業はたくさんそうしているけれども。その代わり、日本の企業は大儲けしても、財団は作らない。しかし、法人税は大人しく払っている。日本人はお金を政府に任せた方が社会的利益にかなうと考えている。欧米人は個人に任せた方が社会的利益は図れると考えている。その違いだと思う。アメリカ人の金持ちは意外と税金は払っていない。『金持ちほど税金は少ない』と偉そうに書いているアメリカ人の金持ちがいる。日本で日本人が、日本人相手の著作でそんなことを書けばその人は絶対に批判されるであろう。アメリカでは批判の対象にならないらしい。そこがアメリカと日本の違いだと思う。

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金で幸福が買えると

2012-04-22 15:27:45 | Weblog

 金で幸福が買えると思っている時点で浅はかなのだよなと思う。

 みんな、“必要経費”というのだよね。生活保護を受けている高齢者の人で、『高齢者加算が廃止されたら、葬式に出席出来なくなる』と言って、裁判所に訴えていた人がいたが。別に、葬式の香典なんて、近所の人なら、一回3千円とか多くても5千円とかでしょう。生活保護費から出そうと思えば出せるはず。葬式なんて毎月あるようなものではないのだからして。生活保護費から貯金することは禁止されていない。貯金通帳に入れる事に対してはある程度の制約はあったとしても。少なくとも箪笥貯金については何の制約もない。葬式参加費なんて、毎月の生活保護費から捻出することは難しくはないはずである。この人は一体何を言っているのだろうかと思う。もっと、生活が苦しくても、葬式参加費用を出している高齢者の人はいっぱいいるはずなのに。

 

 スペック婚と言うね。要するに、女性にありがちな、相手の収入だけを見て結婚活動をする人の事だけれども。相手の人柄は見ていない。そして、すぐ離婚するのだろうけれども。

 

 『貧しくても幸福な家庭は築ける』と言う。でも、幸福を感じられるようにするには、安い値段で手に入る幸福に対して幸福を感じられるような人間でないといけないと思う。咲く桜に幸福を感じられる人間は幸福である。1万円のフランス料理に『やっぱり安物は、ダメだ』と言って、ケチをつけざるを得ない人は不幸である。安物に対して幸福を感じられない人間から、お金が無くなれば、皆去っていくであろう。でも、安物に対して幸福を感じられる人間から金が無くなっても、人は去っていかない。金でしか買えない幸福にしか幸福を感じられない人は不幸だと思う。例え表面的に社会的に成功しているかのように見えたとしても。

 

 手取りで月16万もらっている人で、親元に暮らしておきながら、『消費税が10%になったら、自分らしさがなくなってしまう』と言っている人がいる。「金のかかる自分らしさだな」と思う。ヴィトンのバッグを買う事を、自分らしさと定義しているのであれば、本当に浅はかな自分らしさだと思う。結局、金があるから、その人について来る人がいるだけ。金がなくなれば、その人について来る人はいなくなる。そんなものが本当の自分らしさである訳がないではないか。本当にくだらない話だと思う。

 

 「100円マックで幸福になれる人は幸いである。彼らには神の祝福があるであろう」と思う。本当の幸福というのはそういうものではないか。皆がうらやましがる事、例えば世界一周旅行とか、そういう事に対してしか幸福を感じられないのは本当に幸福な人であるとは言えないと思う。金でしか買えない幸福にしか幸福を感じられない人は、幸福な人とは言えないと思う。

 

 『生活保護費は高すぎる』と文句を言っている人達の意見は正しいと思う。批判している人達は、生活保護額以下の収入で、幸せになれる自信があるようである。それが本当の幸福なのではないかと思う。『生活保護費でも高すぎる』と言っている人達に本当の幸福がやってくるであろう。社会的に認められた大金持ちではなくて。

 

 なんで、安い幸福で幸福を得られる人達の事を称賛する人がいないのであろうか。今の社会は“もっともっと”思考なのだよね。『もっと多くの富があれば、もっと多くのお金があれば、もっと多くの何々があれば』と。でも、本当の豊かさとは、今のままの状態を「豊かである」と感じられる豊かさだと思う。

 ブータンの国王が、『国民総幸福』と言っているようだけれども。私が感じる所によれば、ブータン人の幸福は、人間関係の助け合いの部分から来ているものだと思う。あんなに豊かな国民は他にないと思う。イスラム教の国では考えられない。他の家庭の男女が同じ家の下で寝るなんてことは。人間関係の豊かさがあれば、社会的に認められた富なんていらないと思う。人間関係の豊かさがないから、我々は社会的に認められた豊かさを欲しがるのではないか。本当は分け合えば共に豊かになれるのに。大抵の国、いやほとんどすべての国の人々はそれが出来ないでいる。イスラム教の国の人々がお互いに分け合う事が出来ていない事実は、金持ちと貧乏人との貧富の格差を見れば分かる。自分の持っている富を誇るのは、本当の幸福を実現した人間の行為ではないと思う。自分の持っている富の豊かさを誇らざるを得ないのは、豊かさの証拠ではなく、貧困の証拠だと思う。

 

 生きてゆくのに、そんなに多くの富が必要な訳ではない。

 客観的富を誇っている人達は勘違いをしている。彼らは、「生きていくのに、そんなに多くの富は必要ではない」という事を知らない。だから、富をつかんだまま、他人にその富を渡そうとしない。それがイスラム国家の貧困を作っているのであるが。でも、イスラム国家に限らず、そういう事は他の先進国でもある。インドで、ある有名な霊能者が、死んだ後、莫大な資産がある事が分かったという報道を聞いたが。本当に馬鹿な事だと思う。お金を稼ぐのは悪ではないと思うが。使わなければ無価値である。子どもに莫大な財産を残しても意味がない。寄付するなら、生きているうちにしないと。

 富があれば、社会的成功だと思っている人が大勢いる。でも、本当の豊かさとは、100円マックで幸福を感じられる人の事であり、何気ない日常に幸福を感じられる人の事ではないか。私はそのインドの有名な霊能者の人を間違った人であると感じる。

 

 孫を可愛がっている人と。孫をいじめようという人がいる。孫がかわいくて仕方ない人と。孫をいじめてやろうと虎視眈々と狙っている人がいる。さて、どちらの人と友達になりたいか。

 金さえあれば、幸福になれると信じている人達がいます。そして、『私にはそれがないから不幸である』と考えている人が大勢います。不平不満ばかりを言っている人がいます。誰もがうらやむ完璧な状態でないと納得出来ないみたいだけれども。『障害者が不幸な人達なのではない。健常者が幸福な人達なのです』と言っている人がいます。しかし、健康でありながら、不平不満だらけの人がいます。でも、寝たきりの病気を持ちながら、周囲に対して、感謝の言葉をかけている人がいます。さて、どちらが社会的な成功者であろうか。

 

 うつ病の話について。あるアメリカ人の話によれば。ある社会にはうつ病というのがないのだという。なぜなら、その社会においては、ある人が牛を失って悲しんでいたら、別の人が牛をその人にあげるからだという。我々の社会すべてがそのようになれば、この世界からうつ病というものが消えるのではないかと思う。日本人の一般的感覚とは違って、日本は世界的に見て、うつ病患者がとても少ない国です。アメリカには多い。それは多分、アメリカが競争社会だからだと思う。自己責任論は、うつ病を増加させると思う。うつ病を減少させたければ、牛を失って失望している人に対して、誰かが牛を与える社会にすれば良い。それだけの話だと思うのだけれども。

 

 しかし、これって、うつ病だけではなく。他の精神疾患でも同じようだけれども。病気をその病気になった個人の責任にすると、精神疾患の人は辛くなる。その人は悪くなく、悪いのはその人をそのような状態にさせた周りの人間であるとすれば、その精神疾患は消えるとか何とか。統合失調症に関するお話である。なぜ、先進国では統合失調症は予後が悪く、発展途上国では予後が良いのかに関する話である。

 

 夢が、『2500万円の車に乗る事』ではあまりにもむなしい。人が人としてあるのは、お互い助け合うためだと思う。夢が『2500万の車に乗る事』というのは、ただ単に自己顕示欲が強すぎるだけの話である。その車に乗れば、社会的な成功者だと人々から見てもらえる。その為の富が欲しい、と。夢としてはあまりにも、貧困である。もっと、世の為人の為になるような事を夢として描けないのであろうかと思う。

 

 ブータンの豊かさについて考えてみる。異なる家庭の男女が共に同じ屋根の下で寝る事が普通の事だなんて、絶対にイスラム教の国ではありえない。ニュースで、イスラム教の国である、パキスタンで、男性が女性に硫酸をかけて、その女性はヨーロッパの国へ亡命後、35回の手術を受けたが、自殺したという報道があった。その女性は手術のおかげで、口を動かせるようになったという。「35回も手術して、その程度にしか回復しないのか」と驚くばかりであるが。そんな酷い行為を平気でするのは、イスラムの教えなしではありえないだろう。神の言う通り、『世界を変えたいと思うのであれば、信念を変えなければならない』というのは正しい。男女がお互いばらばらだと、そして人間同士がお互いばらばらであると考えるから、こういう行為が平気で出てくるのである。

 

 「生命は皆同じだよ。だから、お互いの生命を殺しあってはいけない」というのは正しいと思う。まあ、本当は鶏も殺すべきではないのかも知れないが。そこまでは無理だとしても。口を聞ける人間を殺すべきではないと思う。日本の死刑制度について。私は、中国みたいに、執行猶予付きの制度にすれば良いのにと思う。「執行猶予10年の死刑判決」とか。そして、10年後にまた裁判をして、死刑を執行するかしないか判断すれば良いと。私はそう思うのだけれども。もっとも、中国は日本と比べ物にならないほど死刑は多いし。中国の執行猶予付き死刑判決は、『執行猶予1年の死刑判決』とかだけれども。死刑にならなければ終身刑だって。何でも厳罰化すれば良いというものではないと思う。日本も昔は終身刑でも出られた人の平均は15年だったのに、段々伸びていって、今では平均30年だってさ。何でもかんでも厳罰化すれば良いというものではないと思う。これでは単なる仕返しではないか。

 

 アメリカの刑務所制度は、犯罪者を増加させるだけである。刑務所にいるとお金を払わないといけないのだって。刑務所の民営化で、刑務所が仕事を請け負って、そのおかげで、その仕事を社会でやっている人の給料が下がっているのだって。こんなことをすれば、お金がない人は終身刑の方が楽だと思うだろう。馬鹿な人は、生活保護受給者の事を、『刑務所みたいな施設に入れて、監視せよ』と主張するが。刑務所の方が、生活保護よりも恐らく3倍以上のコストはかかっているであろう。刑務所の監視員は3交代制である。監視員の人手はただではないのである。生活保護は監視員がいらないから、刑務所の3分の1以下の費用しかかかっていないと思う。いくら刑務所を民営化した所で、生活保護よりもお金がかかる事は否定出来ない。刑務所にいる犯罪者から金を取る事を考える暇があるなら、刑務所に入れるべき犯罪者の数をいかに減らすかということを考えた方がずっと良い。どうせ、刑務所にいる犯罪者からいくら金を取った所で、それで刑務所運営費用が賄えるなんて事は決してないからして。アメリカでは刑務所人口が人口の1%か5%ぐらいいるとか何とか。全く変な話だと思う。コストを考えるならば、『嫌なやつは全部刑務所に入れちゃえ』主義を改めるしかない。でも、それが出来ないのが、アメリカの問題であり、日本の問題でもあると思う。

 

 悪を滅ぼそうとすると、ますます悪が増える。9.11で。アフガニスタンに戦争を仕掛けたせいで、アメリカ・キリスト教文明を恨む人はますます増加したであろう。

 相手に打ち勝とうとして、相手に議論を持ちかけ、相手の意思をくじこうとする人がいるが。議論には意味がない。ただ、その人の自己満足が得られるだけの話である。議論は意味がない。ただ、単に「そういう考えなのだね」と言えば良い。それで、おしまいなのだ。

 カウンセリングの基本だね。相手の言う事を否定せずに。『あなたはこういう考えを持っているのですね』と言って相槌を打つ事は。

 相手の考えが分かれば、世界を癒せる。『自分の持っている思考を認識することは思考を変えるはじまりではなく、終りである』とバーシャルは言っていたっけ。『自分の持っている思考が分かれば、その思考は既に自分にとっては効力のない思考である』と。

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やりたいこと2

2012-04-22 15:26:39 | Weblog

『やりたいこと』2

 

 人によって、やりたいこと、夢というのは色々あるのだろうけれども。その“やりたいこと”とか“夢”は、小さい事の方が簡単に実現出来る。人生というのは、客観的にどうかというよりも、自己満足を得たら成功だから。“誰でもすぐにかないそうな事”が夢とかやりたいことであった方が本人は幸せであると思う。やりたいこととか夢があまりにもでかすぎるというか金がかかる事だと、客観的には幸福に見えても、本人は不満を持って生きているという事があると思う。だから、小さな事に対して、幸福を感じられた方が人生は幸せだと思う。例え収入が少なかったとしても、自分は幸福を感じられるから。

 

 良く分からないけれども。私の家族は、フランス料理があまり好きではないようである。別に、それが良いとか悪いとかではなく。フランス料理が好きではなかったら。とりあえず、フランス料理が好きな人よりも、お金が貯まっていく。そして、貯金があるがゆえに、客観的にも幸福に見えるということで。

 いくら収入があっても、お金がかかる趣味を持っていたら、いくらお金があっても、幸せを感じる事は難しいであろう。そして、貯金もなくなり、客観的幸福も手に入れていないように見えると言う事で。

 

 小さい幸福で満足出来る方が、人生は幸せに生きていく事が出来ると思う。客観的幸福をつかむ事は人生の目的ではないと思う。主観的幸福を手に入れたら、大概の人は満足する。それで、人生というのは、十分回っていくものだと思う。主観的満足を手に入れたら、その人生は十分幸福なのである。客観的に幸福かどうかは問題にならないと思う。もちろん、主観的満足を手に入れた人の方が、客観的幸福も手に入れやすいと思うが。客観的幸福を手に入れる事は人生の目的ではないと思う。主観的幸福を手に入れる事が人生の目的ではないかと思う。

 

 まあ、端的に言えば。「お金を掛る趣味をやりたいことを持っている人は大変だね」という事なのだけれども。思考を変えられば良いのに。2歳と3歳と赤ん坊とを自宅において、自分は、一人で外食しにいって、その結果、赤ん坊は死んでしまったという事件がある。世間の人は言うであろう。『なんという馬鹿な母親がいたものか』と。でも、その人にとっては、育児が苦痛であったからそうするのであろう。まあ、世間の人は『なら、子どもなんて産むなよ』というであろうが。子どもにとっても、『子どもはかわいい』という人に育てられた方が幸せであろう。そして、『育児は大変だ』という人の子どもより、『子どもはかわいい』という人の子どもの方が社会的、客観的に見ても、立派な子どもに育つのであろう。問題は意識にあるのであって。客観的結果はその後に来るものだと思う。

 

 どうしても、パチンコが止められない人がいるのだよね。大学出ていてもそういう人がいる。『パチンコなんて、パチンコ会社が儲かるようにしか出来ていないじゃない』と普通の人はいう。まあ、そんなことは、普通レベルの知識があれば、普通分かる事なのだけれども。それでも、パチンコがやりたいことになってしまっている人がいる。なぜか知らないが。パチンコに興味を示さざるを得ない人がいる。不幸な趣味だと思う。その趣味を捨てれば幸せになれるはずなのに、と思う。

 

 本を読む趣味が良い趣味かどうかは分からない。でも、パチンコをする趣味を持つ人よりは、絶対に幸せになれるであろう。それは間違ない。

 神様って、不公平なのかなと思う。本当に神に対して、お願いをするなら。『私をお金持ちにしてください』と願うよりも、『安い事で、幸福を感じられる人間にして下さい』とお願いした方が良いのではないかと思う。

 知識なんて、ただの結果だ。本を読む趣味があれば、自然に知識なんて入ってくる。でも、お金儲けだけを目的に生きていると、知識を手に入れる事は難しい。騙されやすくもなるし。振り込め詐欺に引っ掛かる人について。以前は、私は、『さみしい人なのかな』と考えていたが。今は、『もしかしたら、新聞やテレビニュースを見ていなくて、振り込め詐欺に関する情報を知らない人なのかも知れない』と考えるようになった。

 

 詐欺師を非難する事は簡単である。でも、『知識があればそんな事に対してひっからないよ』という詐欺も多い。知識がなくて引っ掛かった人は、騙した人を悪い人だと言って、憎むが。本当は知識がないのが悪い。ブラジル人と合弁会社を作ろうとして、『ブラジル人に騙された』と言っても。ブラジル人相手に、完全に信用する方が悪い。ある程度知識ある人ならそう思うであろう。

 

 『貸した金を返してくれない』とか言って怒る人も大勢いるが。ある程度の常識人であれば。『お金が返ってくると思って、貸す方が悪い』と言うであろう。ちょっと世間的常識に値する知識があれば分かる事なのに。それが分からない。

 

 幸福に至る趣味と。不幸に至る趣味があると思う。本当に神に対して祈るのであれば。『私に不幸に至る趣味ではなく、幸福に至る趣味に幸福を感じる人間にして下さい』と祈るべきだと思う。金がかかる事が“やりたい事”なら、どう転んでも不幸にしか至らない。

 

 本当は神に対して、『簡単に手に入れる事に対して、幸福を感じられる人間として生まれさせてくれてありがとう』と感謝の祈りを捧げなければいけないかもしれない。金のかかる幸福しか幸福と感じられない人は本当に不幸であると思う。健康な生活保護受給者も、金がかかる趣味に対してしか幸福を感じられないから、今不幸を感じているのではないだろうか。だから、健康な生活保護受給者の人達は、世間の人達が『生活保護費は高い』と言っているにも関わらず、不幸を感じているのではないかと。

 単純に、『ご飯とみそ汁を食べているだけで幸せ』な人は幸せであると思う。そして、客観的幸福も手に入れやすい。『フランス料理でないと満足出来ない人』は、主観的にも不幸で、客観的にも不幸になりやすいと思う。

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仕事がないのは良い事だ

2012-04-07 11:33:39 | Weblog

 TPP反対論者は勘違いをしていると思う。反対論者の人達は言う。『TPPに加入すると、日本人の仕事は減ってしまう』と。でも、TPPの目的は世界全体でみた場合における仕事を減少させる事にあるのである。そこの所を考えておかないと。

 

 仕事が減るのは、豊かさの証拠なのである。食糧を得るのに苦労するような状況で、どうして、文化や芸術というものが生まれるであろうか。『働かなくても、食べる人』の増加は、人類の豊かさの証である。だから、ニートがいくら増えた所で、彼らが食べていける限りは全然問題ない。それは我々の豊かさの証なのだから。

 

 大体、1万年前の人類から見ると。『働かなくても、生きていける人』なんて、無駄の極地でしかない。でも、“働かなくても生きていける人”の出現が、社会を豊かにする。研究者や評論家なんていう人達は無駄の極地である。でも、彼らがいなければ、社会は豊かになっていかない。『労働者が主人公の国であるべきだ』とか言って。研究開発を怠っている国に未来はない。どれだけ、食糧生産以外に関わる人を増やせるか。それが文明というものである。

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