暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

良く分からないけれども

2012-05-31 18:08:57 | Weblog

 良く分からないけれども。

 

 間違っている事を、間違っていると言えないらしい。

 河本さん等の行為は明らかに不正行為なのに。犯罪者を犯罪者と言えないらしい。

 私が何か行動を起こすとか言う事はないかも知れないけれども。1週間前の私には戻れない。

 自民党に投票した事は、ほとんどなかったのになあと思う。でも、次の選挙があれば、自民党に投票するでしょうね。

 東日本大震災が起きた後よりも、私の考えが変わってしまった。

 

 生活保護に対して、ある程度知識のある人なら、河本さん等の行為が違法行為であることは明らかである。犯罪だから、名前を公表するのは、当然の事である。でも、名前を公表した、一国会議員の人を叩いているテレビ番組と芸能人の人達が大勢いる。この問題は、この国で、犯罪を指摘しても、犯罪者を擁護し、そればかりか、犯罪を指摘した人を個人攻撃するマスコミ関係者が大勢いる事を、露わにしてしまった。この事実を知って、1週間前の自分には戻れない。

 

 その価値感が変わってしまった記念に。この文章を書いた日付を書いておこうと思う。2012年(平成24年)5月31日(木)です。

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伝統ねえ

2012-05-26 18:23:40 | Weblog

『伝統ねえ』

 

 前の話と関係して、考えたのだけれども。『伝統がどうのこうの』とか言って、変化に反対する人達は、ばかばかしい意見だと思う。大体、イスラム教の間違いは、イスラム教成立当時、正しかった事を、今でも、“絶対的正義”であるとして、人々に従わせている所にあるのではないかと。時代に合わせて、正義も、変化させていかなければ、ならない。それが、正義だと思う。

 「永遠不変の真理」なんて、何もない。「永遠不変の真理」に“従う事”に人生を捧げていると、ばかばかしい人生を生きる事になる。“永遠不変の真理”を追い求めている、科学者だって。別に、今、“永遠不変の真理”とされている事に“従って”生きている訳ではない。新たにもたらされるかも知れない、“永遠不変の真理”を、追い求める事に、人生を費やしているだけである。彼らは、その意味において、“永遠不変の真理”に“従う事”に、人生を捧げている、宗教家の人達とは、違う、ということで。

 

 『伝統ではないから』と言って。新しい論理を、主張する人達の意見を、否定するのは、間違いだと思う。その人達は、『伝統だから』という理由で、新幹線に乗らないのだろうかと思う。『伝統だから』という理由で、自分の主張の正しさを、主張するのは、愚かな事だと思う。でも、世界を、“変化させたくない”、自分の正義を“変えたくない”という人がいるのだよね。それは、本当に、困った事だと思う。

 

 『伝統だから』という理由で、自分の正義を主張する人達は、昔の日本人の伝統に従って、米と野菜だけ、食べておけば、良いのにと思う。でも、そういう人は、いない訳で。伝統とか言っても、新しい正しさを否定するのは、愚かだと思う。大体、『伝統だから』という人達は、その伝統が、自分達にとって有利だから言っているだけで。自分達にとって、不利な論理なら、別の事を言うのであろう。そういう意味で、本当に身勝手な、『伝統だから』だなあと思う。そういう人は、この世界から、いなくなってしまえば良いのにと思う。

 

 まあ、すべての“伝統”が、悪いものではないのであろうが。でも、その“伝統”にも、新しい物を、常に入れていかなければ、消えてしまう運命にあると思う。“変化”を、拒否して存続出来るものは、何もないのではないかと思う。

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惰性

2012-05-26 17:50:42 | Weblog

 『惰性』

 

 バーシャルは、『ワクワクする事をして下さい』と言い、『何かやりたいことがあって、やってみて、それをやる事に疲れたら、休んで下さい』と言い、『あなたも、私達も、一瞬、一瞬、違う人です』と言う。

 大抵の人は、惰性で生きているのだよね。神は、『しなければいけない事は何もない』と言うが。そして、『若い時は、わくわくするような興奮と共に生きているが、年を取ると、わくわくするような興奮に満ちた人間関係を維持することが減ってくる』という趣旨の事を言っているが。

 結局、『義務感から、行動してはいけない』と言う事なのでしょうけれども。

 

 皆、最初の行動する時は、それが、『ワクワクする事だから』という理由で、行動しているのだけれども。でも、そのうち、無意識のうちに、飽きてくる。でも、大抵の場合、無意識だから、『以前、考えていた時は、それが、楽しい事だったから』という理由で、その行為を継続してやってしまう。でも、本当は、無意識では、その行動は、本当は、楽しいとは思っていない。無意識では、本当は、別の行動をしたいと考えている。その時に、『ワクワクする事をしなさい』という指標が、意味を持つ。『毎瞬、毎瞬、違う人だから』。本当は、毎瞬、毎瞬、その時に、『その時点で、一番、ワクワクすると感じる行動を、取らなければならない』。でも、その指標を知らなければ、大抵の人が、惰性で、選択してしまう。本当は、その瞬間、瞬間で、もっとも、ワクワクする行動を取らなければならないのに。

 

 本当は、人間というのは、「常に違った人間にならなければならない義務がある」と思う。昨日と同じままの人ならば、人生を生きている意味がない。変化する世界で生きていこうと思えば、私という存在も、変化しなければならない、ということで。その瞬間、瞬間で、“ワクワクする事”をしていけば、簡単に、自分を変化させることが出来る。つまり、“自分を変化させる結果”を実現させるのが、『その瞬間、瞬間で、一番、ワクワクする事をしなさい』という指標なのではないか、ということで。

 

 過去と同じ、自分で、永遠に生きたいと思ったって、それは、世界というか宇宙が許さない。幸せに生きたければ、自分を常に変化させていかないと。その“自分を変化させる”結果をもたらすのが、『その瞬間、瞬間で、一番ワクワクする事をしなさい』という指標なのではないか、ということで。

 

 「惰性で、行動してはならない」。『義務感から、行動してはならない』というのは、そういう意味じゃないかな、と思うのだけれども。どうなのかな。

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望まれている所に

2012-05-19 11:06:44 | Weblog

 『望まれている所に』

 

 『自分の望む事をしなさい』というが。不細工な人が、俳優になろうとしても、多分、不幸な目に合うだけだと思う。不細工芸人として、売り出すのであれば、別だけれども。

 『やりたい事をやりなさい』というが。本当は、『やりたい事』をやるよりも、望まれている所、仕事で言えば、職場の人に、『あなたに働いて欲しい』と言われている所、結婚相手で言えば、『あなたと一緒に生活したい』と言ってくれる人と、結婚するのが、人間の幸福というものではないだろうか、ということで。

 自分の意思の中で、『やりたい』と思っている事をするのも、意味があるのかも知れないが。『やりたい事』をやれなかった、実現出来なかったと言って、あきらめる事はないと思う。人に、『あなたにやって欲しい』と言われる事をやるのも、幸福なのだからして。

 いくら、『やりたい事』があったとしても、その『やりたい事』をやる事について、人から、『あなたは必要ない。能力不足である』と言われる事を、やろうとすると、苦しいだけだと思う。そういう場合は、周りの人から、『あなたにいて欲しい』と言われる事をするのが、人間にとっての、幸福だと思うのだけれども。

 

 結婚だって。自分が相手に対して、条件をあげても。相手にも都合があるのだし。自分が条件をあげるように、相手にも条件を付ける権利があると思う。

 『大企業に就職したい』と言っても、相手が、『あなたの能力では不足している』いうなら、あきらめるしかない。

 “あきらめ”は重要である。人間“やりたい事”をやるよりも、“望まれている所”に行く方が幸福だと思うのだけれども。もちろん、“やりたい事”をやれれば、それに勝る幸福はないのだろうけれども。“望まれている所に行く事”も、幸福の一形態だと思う。

 

 婚活をしている、40歳近くの女性で、『婚活で会う、男性は、困った男性ばかりである』と書いている人がいます。でも、『困った男性ばかりに会うということは、私もそう見られているのかな、と悲しく思った』というのが、正しいと思う。自分が感じる出来事というのは、すべて、自己意識の反映だからして。“不幸”を感じているなら、多分、自分の感じている“意識”が、おかしいのである。自分が不幸を感じているなら、自分の意識を変える必要がある。自分が、不幸を感じている時にただ、周囲の状況だけが変化することを期待しても、多分、期待通りに行かないと思う。自分の意識を変化させないと。

 

 周りの人間が、『馬鹿ばっかり』と思ったとしたら。多分、自分が『馬鹿な人間』なのである。そこの所に気がつかないと。ただ、周囲の状況が『自分の周りは賢い人ばかり』になる事を期待しても、上手くはいかないと思う。

 

 すべてのキーワードは自己にある。自分の置かれた状況が納得出来ない時に、『周囲の状況がダメだからだ』というせいにしても、意味がない。『なぜ、周囲の状況に納得いかないのに。自分はこの場所にいるのか。なぜなら、それは、自分はそういう選択しか出来ない人間だからである』という事に気がつかなければならないと思う。ただ、自分の不幸を嘆いているばかりでは何も変わらない。『今の自分はそれに値する人間なのだ』という事に気がつかないと。

 

 しかし、婚活にしても、何にしても。“不幸な気分”のまま、何かを成し遂げられると考えている人がいる。『妊娠活動』とかいう本を本屋で、見つけたが。ちょっと立ち読みしてみたけれども。『妊娠するのに、辛い思いをしなければならない』みたいな内容の本だった。本来、性行為というのは、最大の快楽とも言われている行為なのに。なぜ、辛い思いをしてしなければならないのか。多分、こういう発想では妊娠出来ないし。出来たとしても。『子育てがこんなに辛いものとは思わなかった』というだけの事であろう。なんで、快楽より、不幸な自分を選ぶのか。それが理解しがたい点だと思う。

 

 本来、どんな行為でも、祝福に出来るはずだと思う。“辛い思い”をするのは、“辛い思い”をしてしまう、自分に原因がある。

 “嫌だ”と感じてしまうのであれば。“しなければ良い”。でも、“苦労しなければ”幸福が得られないと信じている人達がいる。そういう発想こそが悪の原因なのに。

 

 「楽しみのうちに人生を生きる事が、人間の生まれてきた意味である」と彼らに対して、言ったら、彼らはどう思うのだろうかと思う。『楽しい事だけをしなさい。そしたら、自分が生きている意味を体現することになるから』と言っている人がいる。「“不幸な自分”を選択することに何の意味もない」と私は思う。

 

 大抵の人間が、私の目からすれば、「下らない事で悩んでいるなあ」と思う。多分、その人達が不幸になる原因は、『社会的正義に自分の行動を合わさなければならない』と考えているからだと思う。「妊娠出来なければ出来ないで、良いじゃない。それもまた、一つの人生である」というのは、その本の作者と読者の女性は信じていないのであろう。人の価値観に合わせる事は、人生の目的ではないはずなのに。多分、“人の価値観に合わせる事”が、自分の中で、常識化して、それに合わせられない自分を責める自分が、自分の中にいるのだろうね。それが、世界を不幸にさせている原因だと気がつかずに。

 

 “孤独”は、幸福になる必要要件ではないが。“孤独を恐れない”考えは、幸福になるのに必要な要件であると思う。“孤立”を恐れて、他人の顔色ばかりうかがって生きるのは、ばかばかしい。でも、多くの人はそういう“ばかばかしい”人生を生きているということで。

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婚活ねえ

2012-05-19 11:04:39 | Weblog

 『婚活ねえ』

 

大抵の人が、大企業に勤めたいと考えている。しかし、大抵の人が中小企業にしか、採用されずに、結局、中小企業で働く羽目になる、ということで。

 でも、なぜか知らないが。婚活は例外であると、思われて。“年収600万円以上”とかいう高収入を条件に挙げながら、何年も婚活をしている女性がいる、ということで。就職活動なら、とっくの昔にあきらめているはずなのに、ということで。

 なんで、過ちに気付かないのだろう。まあ、理由の一つが、『就職しなかったら、人から批判されるが、結婚しなくても、批判されない』と言う事にありそうだけれども。

 “年収600万以上”とか言っている女性は、本当に結婚したいのだろうか、と思う。条件が、完璧にそろわなければ、結婚しないと言っている女性は、本当に結婚したいと思っているのか、疑わしいと思う。

 

 まあ、その話はおいておくにしても。

 40歳近くで、結婚相手に山ほどの条件を付ける女性は、いかがなものかと思う。『自営業の人は嫌だ』とか。『年収600万以上でないと嫌だ』とか、『結婚したら、パートレベルの仕事しかしたくない』とか、『子どもは望まない』とか。

 単純に言えば、『自分は変わりたくない。ただ、“私は働かないで生活したい”という利益だけが欲しい』と言いたいのだと思う。

 子どもを産むつもりがなければ、年収600万もいらないと思うけれども。普通、お金って、子どもを育てるのに必要なものであって。妻を養うのには、必要ないと思うが。

 この女性は、結婚したいのか、働かないでいられる状況が欲しいのか、多分、後者の方だと思う。

 

 しかし、思うけれども。世の中には、『私は変化したくない』という人が多い。そして、『利益だけが欲しい』という人が大勢いる。

 20代の女性なら、『自営業でも良いよ』と言いそうな気がする。“気がする”だけかも知れないが。しかし、“自営業の人と結婚すると”、自分が変化しなければならない。それが、多分、40歳近くの女性には辛いのだと思う。

 『今のままの自分で、利益だけが得られる状況が欲しい』というのは、多くの人が望んでいる望みだと思う。

 評論家の人達でもいっぱいいるもの。過去と同じような説明しかしていない本を、延々を出し続ける人とか。読んでみても、新しい論点が何もない。昔、その人の本の中で、言っていた事の質の悪いコピーのような本を書いて、それで、収入を得ている人達が大勢いる。

 

 不老長寿の薬を人類が手に入れたら、人類は、これまでよりも進歩するのであろうか。それとも、衰退するだけなのであろうか。

 欧米人は、新しい才能を歓迎する。年功序列の論理を正しくないと考えている。“才能”のある人に名誉が与えられるのが正しい事だと考えている。

 日本には、昔取った杵柄で、名誉を保持し続けている人達が大勢いる。これも、一つの老害だと思うが。果たしてどんなものだろうか。

 

 若い人は、変化を受け入れる。しかし、高齢者が変化を受け入れるのは難しい。“自分を変えよう”としない、高齢者が山ほどいるのは、困ったものである。“若い人”の方が、簡単に、“自分を変化させている”と思う。

 

 年を取れば、賢明になるというものではないと思う。年を取れば、“自分を変えよう”としない人が、多いからである。

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被害者意識を持って 続き

2012-05-19 11:02:25 | Weblog

 (続き)

 問題は常に、認識の中にある。

 『私が変われば、世界は変わる』と言うが。世界は変わらない。自分が“認識する”世界が変わるだけである。

 「愛に満ちた世界を信じるのか、悪夢に満ちた地球を信じるのか」。それだけが問題だと思う。「悪魔に満ちた地球を信じる人達は、その地球を認識するであろう」と思う。結局は、ただの認識の問題なのである。

 

 被害者としての自分を信じる人達が、他者に幸福を与える事が果たしてありうるのであろうか。そこが問題だと思う。

 

 豊かさとは、今ある豊かさに気付く事だと思う。

 

 “条件付きの愛”について、考えた事がある。条件付きの愛を信じている人達はこう信じている。『痩せていないと愛されない。美人でないと愛されない』と。

 “無条件の愛”とは。『太っていても、愛す。ブスであっても愛す』だと思う。

 自分が幸福になるのに条件を付けている人達も同じである。『金持ちでないから、不幸だ。結婚して子どもがいないから不幸だ』と。

 “無条件の幸福”を信じている人達はこう言う。『貧乏であっても、幸せである。結婚して、子どもがいないけれども、幸福である』と。

 人類に対する偉大なる貢献の一つが。「私は幸福な人間です」と自分自身で信じている事であろうと思う。そうすれば、他者に対して、不幸を与えようとはしないであろうし、他者の幸福を喜べる人間になれるであろうから。

 被害者意識を持って生きる人達は、自分が不幸なったから、それを理由に他者に対して、不幸を与えようとする。それが世界における、最大の過ちの一つなのに。

 

 『家族が殺されたから』と言う理由で、殺した人達を、『殺したい』という人達は最悪である。本当はそれをさせない為に、法治国家というものがあるのだけれども。『目には目を。歯には歯を』は善行ではない。

 イラクでは、『イラク滞在中に、車で人を引いてしまったら、日本大使館にすぐに駆け込め』と言われていたらしいが。ただの過失でも、仕返しに殺そうとしていたら。その国では殺人だらけになってしまいます。そんな国に誰が行きたいものか、と思う。

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被害者意識を持って

2012-05-19 10:58:52 | Weblog

 被害者意識を持って生きるのも、罪の一種だと思うのだけれども。

 

 豊かな人が、その持っている金を、独占して、手放さない行為については、批判される。でも、先進国に住みながら、被害者意識を持って生きている人達がいる。これも、一種の”meイズム“(私主義)じゃないかと思う。

 貧困を誰か悪い人のせいにしている人達がいます。今自分が持っている豊かさに気付かないで、『私は不幸だ』という話ばかりをして生きている人達がいます。これも一種の『私(自分)だけが良ければ良い』という考えだと思います。

 

 自分の持っている豊かさに気付かないのも、罪なのです。その人達はおそらく他人から見て、豊かな状態になったとしても。『他人に分け与える豊かさを私は持っていない』というでしょう。そして、自分達は、不幸な人間であるかのように振る舞うでしょう。それが、人類が持っている大きな罪の一つであると気がつかずに。

 

 被害者意識は、悪を招く。『(犯罪)被害者の権利を』とか言って。結局、20年ほど前は、終身刑で仮釈放が認められた人は平均15年で出られたのに、今は30年になってしまった。多分、昔の日本人の方が、罪に対して寛容だったと思う。終身刑の人達の仮釈放までの時間が30年なんて。ほとんど仕返し主義ではないか。こういう事は良くないと思う。(ちなみに。これは、出られた人の平均で、出られなかった人や刑務所で亡くなった人は平均に含まれていません。)

 

 刑は重くすれば良いというものではないと思うのだけれども。大体、罰を与えるよりも、罪を犯させない環境づくりの方が、大事である。その努力を怠って、ただ単に、罰を与えれば良いのだ、という考えでは上手くいかないと思う。人間としての、愛のある行為ではないと思う。

 

 『「苦労掛けた」と言う人は、良い人。「苦労した」と言う悪い人』と書いていた人がいたが。本当にその通りだと思う。『苦労掛けた』と言う人には、周囲の人達に対する感謝の念があるが。『苦労した』という人には、周囲に対する感謝の念がない。

 本当は、世界のすべての状況に対して、感謝出来る人が、偉大な人なのではないか、と思うが。『苦労掛けた』という人は、自分が、他人に対してかけた迷惑について、何も考えていない。ただ、『苦労した』というだけで。『なぜ、苦労する羽目になったのか』と言う事について、何も考えていない。

 すぐ、『苦労した』と言いたがる、在日朝鮮人とかの人達は。本当は苦労する理由があるのだよ。彼らは、その理由を言いたがらないが。根本的には、北朝鮮という間違った国を支持してきた事にあると思う。

 在日朝鮮人の人達の生活保護率は1割程度という説もあるから。在日朝鮮人の人達は、日本に『迷惑を掛けている』。でも、その事に対する感謝の念がないから。普通の日本人から、嫌われるという訳で。

 

 ある特定の国に住むと言う事は。その国から、何らかの形による利益を受けている。だから。私は、ある国に住んでいたら、その国の悪口を言うべきではないと思う。もちろん、その国を良くしたいがための、批判であるならば、別だけれども。

 まあ、どんな批判でも、愛がないと、ダメなのだけれども。結婚相手の悪口を言っても良いが、そこに愛がなければ、言うべきではないと思う。愛のある批判を言えないのであれば、離婚すべきだと思う。勤めている会社の人に対して、愛のある批判を言えないのであれば、会社を辞めるべきだと思う。それが出来ずに、愚痴ばっかり言っている人のいかに多い事か。本当はこういう事こそが悪なのに。

 

 自分達の持っている富を手放さないのは、罪だという。なら、自分達の持っている豊かさに気付かないで、不平不満だらけなのも、同じ事だと思う。被害者意識こそ、諸悪の根源ではないか。自分が豊かさのうちにある事を“知って”いれば、他者に豊かさを与える事に対して、ためらいの念は消えるのに。自分が貧困の中にあると信じているから、他人に対して豊かさを与える事が出来ない。それは、罪であると思う。

 (続く)

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受け取る事だけを 続き

2012-05-16 18:38:41 | Weblog

 (続き)

 イスラム教の国で、税金という分かち合いが出来ないのは。元々が遊牧民族であったからであろう。まあ、はっきり言えば。遊牧民族とは、奪う側の人間で。農耕民族とは、奪われる、自衛する側の存在であろうと思う。

 

 『農業の開始と共に、戦争が始まった』のだって。奪うのは、遊牧民族。守るのは、農耕民族である。日本の米なんて、1年に一度ほどしか収穫出来ない。大抵の作物で、種を植えてから、育つまで半年ぐらいの時間がかかる。その実った、果実だけを奪おうとするのが、遊牧民族である。

 

 前に、『独立戦争の有無が、アメリカが経済発展出来た秘訣なのではないか』と書いたが。

 農耕民族にとっては、遊牧民族から、作物を守るのは、自分達の生命に関わる事だから、一致団結せざるを得ない。だから。多分、最初に国家を作ったのは、農耕民族のような気がする。

 『農業の開始と共に、国家が成立した』と考えるのは、不思議な思想ではないと思う。

 『他国からの侵略から守る事』が、国家の第1番目の存在する目的なのである。

 奪う側の、遊牧民族に、まともな国家運営が出来ないのは、ある意味当然の事のような気がする。

 

 黒人国家で、まともな国家運営が出来ている国は存在しない。元々、彼らは農耕民族じゃないしね。狩猟民族とでも言うべきなのだろうか。農業の基本が全然分かっていない。

 結果だけを与えても、過程がなければ、意味が分からない。今の世界は、先進国の人達が、今まで散々悩んで実現したものを、発展途上国の人達は、過程もなしに、結果だけ簡単に手に入る。しかし、結果だけもらっても、過程を経ていなければ、それが何を意味するかが、アフリカの黒人には何も分からない。

 

 中国に対して。「コピーを批判する先進国の人達がいるが。コピー出来るのは、ある程度能力がある証拠」と思う。世界には、「コピーすら作れない」国の人達が大勢いるからね。それが、世界の人口の半数以上なのだよ。だから。世界の大多数は貧しいままである、と。

 

 狩猟民族の問題点。何も努力せずに、果実という、結果だけ手に入れる事が出来ると考えている点。

農耕民族ではこうはいかない。作物が育つのに、すなわち、果実という、結果が出るまで、半年はかかるから。

『あれば、奪えば良い』という発想では上手くいかない。育てていく事を考えないと。

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受け取ることだけを

2012-05-16 18:36:35 | Weblog

 受け取るだけの事を考えている人達が、幸せになるのは、難しいのではないかと思う。

 

 婚活の話である。40歳近くの女性で、結婚相談書に登録して、相手の条件として、『年収600万円以上』でないと、ダメ、みたいな条件をあげる人達がいる。

まあ、単純に言えば、「そんな条件をあげているから、結婚出来ないのだよ」という事なのだろうけれども。

しかし、心理的に言えば。「相手に対して要求ばかりしているなあ」という感じ。

実際、20代の女性なら、相手の条件としてあげるのは、『年収300万以上』とかの条件であろう。なぜならば、20代の男性は普通その程度の収入しかないからである。下手に40歳に近いから、結婚相手の条件として、『年収600万円以上』をあげても、自分ではその間違いには、気がつかない。しかし、その高い年収要件を掲げる事こそが、恐らく一番の、結婚出来ない理由の気がするが。

 

本当は、40歳近くなのだから、『結婚相手の、親の世話は、私が見ます』みたいな要件をあげても良いような気がするが。

相手に対して、要求だけをして、自分は、義務を果たさないのは、嫌われる。当たり前の事のような気がするが。

 

なんか、女性の婚活だけは、別だと思われているのだよね。他に関する問題なら、簡単に、「他人に対して、要求ばかり突き付けるのは、良くない」と普通は分かるはずの事なのに。

 

ちなみに。『日本では、女性は差別されている』という人達がいるけれども。「本当だろうか」と思う。「職業差別はある。なぜなら、大抵の女性は、今就いている仕事を、“一生しなければならない仕事”と考えていないから」と。単純に言えば。『しんどかったら、辞めちゃえ』みたいな女性が多いということなのだろうけれども。男性の仕事に対するイメージは、『是が非でもしなければならない事』みたいな感じなのだけれども。要するに、仕事に対する、真剣さが違うから、日本で女性が、職業差別を受けるのは、しょうがないと言えば、しょうがないような気がする。

 

『女性は産む機械である』という認識は間違っているのであろうが。しかし、男性にとって仕事は、会社等で働く事であるが。女性にとって仕事は、子どもを育てる事である事は、否定出来ない事実だと思う。もちろん、子どもを産まないからといって、その女性に人間としての価値がないと言っている訳ではない。しかし、会社で働かずに、子どもも育てていなかったら、その人の存在意義はどこにあるのであろうか。

『思い通りにならない人生だからこそ価値がある』という。周囲のすべてが、思い通りになる出来事ばっかりだと、生きている価値がないのではないかと思う。私は、障害者が生活保護を受ける事を否定はしない。なぜなら、障害を抱えて生きると言う事が一つの仕事だから。つまり、「思い通りにならない出来事を抱えて生きている人達である」という意味において。しかし、家に引きこもって、何もせずに、健康でありながら、一人で暮らしていて、生活保護を受けたいというのは、ちょっと、間違っていると思う。「生活保護から、抜け出せなかったとしても、働く事には意味がある」というのは、“働く事”は、“思い通りにならない事に遭遇すること”だからである。“思い通りにならない”出来事が全く存在しない人生なんて、生きている価値がないと思うのだけれども。

 

『義務と権利』という。

20代の女性なら、結婚相手の条件として、『年収300万円以上』とか言う。20代で、年収300万円以上であった男性が、将来、年収600万円以上稼げる男性になるかは分からない。結局、これは女性にとっては、一種の賭けである。

でも、年収600万以上の男性と結婚したいという女性は、結果だけを見て、すなわち、その男性が、得た果実だけを見て、その果実だけを自分のものにしたいと考えているだけである。

 これでは、上手くいかないよ。当たり前と言えば、当たり前の話だけれども。

 

 生活保護の問題を考えてみる。

 皆が働く事が大好きで、仕事をするのが嫌いな人が少ない国であれば、生活保護費の額は増える。当然の事であるが。皆が働く事が嫌いで、貧しい国なら、生活保護費の額は少ない。当たり前の話である。

 利益ばかりを得ようという人達の国では、当然一人当たりの利益は減る。与える事の大好きな人達の国では、受け取る事だけしたいという人達の利益は多い。

 

 日本が貧困化すれば、生活保護費の額は減少する。当たり前と言えば、当たり前の話である。だから。生活保護を受け取っている人達は、働いて税金を納めている普通の日本人に対して、感謝しなければならない。『皆働いてくれてありがとう』と。でも、そういう感情を持っていなくて。『生活保護費が少ない』と言って、主張している人達が大勢いる。そこが問題のような気がするが。

 

 何らかの社会貢献をした人が、その社会貢献をした分だけ、社会から受け取る。それが理想の姿のような気がするが。何を『社会貢献である』と判断するかについては、議論の余地があるにしても。

 (続く)

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資源を理由に

2012-05-16 18:34:22 | Weblog

 「資源を理由に」

 『独立してもやっていける。なぜなら、我が国(地方)には石油(資源)があるから』と言って、独立した国に経済発展出来た国は存在しないのではないかと思う。

 今の若い人達は、知らないかも知れないが。東ティモールという国がある。確か、5年かほど前に独立した国であるが。彼らも言っていた。『独立してもやっていける。なぜなら石油資源があるから』と。独立してもやっていける理由に石油資源を挙げる国で、経済成長に成功した国はないと思う。今は南スーダンの人達も同じ事を言っているが。東ティモール独立後の時と同じように、南スーダンにも、先進国の軍隊が入って、治安維持に努めているが。おそらく、東ティモールと同じように、南スーダンも経済発展するのに失敗するであろう。なぜなら、独立してもやっていける理由として石油資源をあげているからである。

 

 『日本は素晴らしい国だ』みたいな、題名の本で、日本と対比して挙げられている国が、ハイチである。ハイチの人達は怠け者だという。働いているには、一部の人達だけで。後の人達は、仕事をしない、と。それで、ハイチのエリートはアメリカ等の国へ行って、ハイチには帰ろうとしない、と書いてあったが。私が、ハイチに生まれて、自分が働き者の人間であったとしても、同じ行動を取るだろうと思う。『なんで、自分に利益が得られないのに、多数派の怠け者の為に働かなければならないのか』と。普通、そう思うって。

 

 「貧しくなるのに努力はいらない。金持ちになるには、努力が必要であるが」と。働かないで、生活保護を受けている人達に対する批判の意見があるが。生活保護を受けるのに、努力は必要ない。金持ちになるには、努力が必要であるが、と。そこが、問題のような気がする。

 

 働く気のない人が金持ちになるのは、難しい。故に、働く意欲のない、ハイチに、いくら先進国の人達が援助をつぎ込んだとしても、無駄である。勉強する気のない国の人達の住む地域に、いくら、学校建設援助をした所で、無駄である。なぜなら、彼らには、勉強する意欲がないのだからして。

 

 他人は影響を与える事は出来るが。その人達を働き者にする事は、出来ないと思う。

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