暇つぶしです

私が思いついた事を書くだけのブログです。

4次元

2012-11-24 09:19:58 | Weblog

 4次元

 

 私は今まで、精神世界で言う所の“4次元”という言葉について。地球の数学者、科学者が言う所の4次元と同じであるとは思っていなかった。でも、もしかしたら、同じ、4次元なのではないかと思いついた。

 

 2次元の生命体、すなわち、平面の世界に住んでいる生命体がいるとして。我々3次元の生命体を認識出来ないだろうと思う。それと同じように、3次元の世界に住んでいる我々には、4次元の生命体は認識出来ない。

 2次元の世界に住んでいる生命体に、3次元の生命体が認識出来ないからと言って。3次元の生命体が、非物質的生命体であることは意味しない。

 今まで、“4次元の生命体”“5次元の生命体”と聞くと、「非物質生命体という意味か?」と思っていたけれども。そういう事ではないようである。

 

 ちなみに。3次元の生命体が、2次元の生命体を認識することは可能であると思う。しかし、かなり、狭い、制約された世界に住んでいるように見えると思う。

 「バシャールの星は良いな。人口密度が低そうで」と思っていたけれども。例え、地球の人口が今と同じであったとしても。地球が3次元から4次元に移行したら、地球の人口密度は、相当、めちゃくちゃ減るであろうと思う。今まで、aの3乗の体積の部分にしか住めなかったのが、aの4乗の世界に住むことが出来るのだからして。

 

 『笘米地英人、宇宙を語る』の本の中にこういう文章が出てくる。『我々の日常次元は通常四次元までの世界です。しかし、超ひもと呼べるぐらい小さなサイズになると、十次元もしくは十一次元という次元を想定しないと、理論が整合的に成り立たなくなってしまいます。(以下、略)』

 すなわち、宇宙は、十次元もしくは十一次元で出来ているのに、私達が認識出来ていないだけの可能性が高いという事だと思う。

 

 臨死体験者の話を、天国に行った話であると信じない人達は、臨死体験の話が人によって異なることを持って、『臨死体験が天国の話であるというのは、間違いである』と言っているらしい。

 でも、それは私から見れば、「宇宙人が地球の砂漠のある地点に降り立って、そこで見た光景で地球はこういう所であると考えるようなもの」と思う。天国は地球よりも、ずっと広大なのだからして。ある臨死体験者のお話を聞いて、それが天国のすべてであると考えるべきではないと思う。『天国を見た』という人達の見た光景は色々ある。でも、それは天国のほんの一部分に過ぎない。天国すべてを見られる人、存在なんて、存在しないだろうと思う。

 

 天国を四次元の存在であると想定すると。天国が地球よりも、広大なのは当然である。

 ちなみに、いわゆる霊能者というのは、三次元、地球次元に存在する霊、魂を見ているに過ぎないと思う。

 私のインスピレーションによれば。四次元世界に存在する天国もあれば、5次元世界に存在する天国もあると思う。まあ、さすがに六次元の天国に住んでいる存在が、3次元の世界に生まれ変わろうと思うかと思えば、その可能性は低いと思うが。

 

 地球の次元上昇、3次元から4次元になることを主張する人達がいます。まあ、そりゃ、皆が皆、3次元から、4次元に行ける、つまり、認識出来るようになる訳ではないというのは、正しいと思うが。

 三次元の地球にいる霊、魂を、天国すなわち、四次元の世界へ移行させようと努力している人達がいるのだけれども。私達の地球が、4次元になるのであれば、当然であろう。四次元の地球を認識出来た人達に、へんてこ霊を認識させる訳にはいかないからということで。

 

 バシャールは地球に住んでいる人達がそれぞれ分離した世界の地球に住むようになると主張する。四次元に住む生命体から見れば、別におかしな意見ではないであろうと思う。今の地球が存在する3次元とほんの少しずれた、3次元なんて、いくらでもある訳だからして。

 

 バシャールは、『地球に住んでいる人達が、核兵器を使うと、他の次元にも影響が及びます。だから、地球人が、核兵器を使うことを阻止しようと努力しています』というが、当然の事だろうと思う。2次元の生命体が、核兵器を使えば、3次元の生命体も影響を受けるであろう。2次元の世界に住む生命体は3次元の世界に介入出来ないが。3次元の世界に住む生命体は、2次元の世界に介入可能であろう。

 しかし、三次元の世界に住む人間には、2次元の世界に住む生命体が、『あまりにも、制限された世界に住む生命体』に見えても、当然だと思う。それと同じように、4次元の世界に住む生命体は、三次元の世界に住む生命体の事を、『あまりにも、制限された世界に住む生命体』と表現しているのだと思う。

 

 次元が変わると認識が変わる。高い次元に住む生命体が低い次元に住む生命体の事を指して、『あんな狭い所に住む生命体』と思って、感じてしまうのは、当然の事だと思う。

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楽しいと思う事を

2012-11-24 09:18:09 | Weblog

 「楽しいと感じることをしなさい」というのは教えとして、シンプル(単純)過ぎるのだろうかと思う。

 バシャールの本に書かれてある、『ワクワクすることをしなさい』のワクワクは英語表現では、『エキサイティングなことをしなさい』である。つまり、『興奮することをしなさい』。それを言うなら、アップル創業者のスティーブ・ジョブズの、『情熱を傾けられることをしなさい』と同じであろう。スティーブ・ジョブズは言う。『情熱がないととても出来ない。普通の損得勘定の人でなら避けて通るような事を我々はしようとしているのだから。そんなことは、よほどの情熱がないと出来ない』と。

 

 『情熱を傾けられることをしなさい』というのは、絶対に怠ける為の意見ではない。どんなことでも、情熱を傾けられる事をするのは、その人の生きた意味を体現することになるのだからして。

 

 自分の信念に従うことは重要である。大抵の人は他者が自分に言ったことを『正しい事である』と言って受け入れている。でも、それは、違うのではないかと思う。

 

 『仕事だからという理由で仕事をしている人は、熱狂的に好きで、仕事をやっている人に負ける。だから、好きな事を仕事にしなさい』と書いている人がいる。

 

 『私達は皆特別な存在なのだよ』という。でも、その特別さは、他者の考えを正義であるとして受け入れている限り分からないと思う。それぞれの人間が完璧な個性を発揮することによって、世界は完璧な世界となる。

 完璧に自分を愛せると、完璧に他者を愛せるようになる。

 自分を愛していないから、他者を愛せない。他者に対する判断は、自分に対する判断と同じである。

 

 『あなたの人生の目的は、霊的な師に従うことではなく、あなたが霊的な師になることである』という考えを受け取った人がいる。

 『誰かに従え』という教えはその“誰か”を迫害する意見に繋がる、という意見もある。

 『誰かに従え』ではなく、「自分の中の神性に従いなさい」と言った方が良いと思うのだけれども。

 

 霊性とは、自分の中の神聖に繋がる事であって。誰かを神聖視することではないと思うのだけれども。世界はこの考えを受け入れることが難しいのだろうかと思う。

 他者を神聖視する前に、自分を神聖視した方が良いと思うのだけれども。

 誰にとっても、自分という存在は特別な存在なのである。その事を無視すべきではないと思うのだけれども。

 誰に言われなくても、皆、自分の事は自分にとっては、特別な存在であると知っている。

 本当は誰に言われなくても、自分は自分にとっては特別な存在であることを知っているのに、宗教は、自分以外の『特別な人』を自分自身よりも、特別な存在であると、見なさい、信じなさい、考えなさいと教える。それが、人類が不幸を感じる最大の原因のような気がするが。どうだろう。

 

 バシャールは『自分にそんなに厳しくしないで下さい。あなたはそんなにいじめられるような人ではありません』というが。これは、名言だと思う。

 皆、自分に対して厳しすぎるのだ。例え、殺人者でさえ、神の愛を受ける権利があると思う。

 殺人者は自己評価が低い。親の愛をたくさん受けたと信じられる人で、人を殺す行為を正義であると言う人達がいるだろうかと思う。

 『私は愛を受けていない』『愛される価値のない人間である』と信じているから、他者を傷つける事を当然視するのであると思う。

 

 加害者は大抵、『自分は被害者である』と信じている。まあ、そういうもの。

 幸福を感じている人が他者を傷つける行為なんて、するはずがない訳で。

 だから、ドイツをそういう状況に追い込んだ、第1次大戦の戦勝国の責任は言われるべきだと思うのだけれども。

 

 条件を付けて。『これを守らない人達は永遠の地獄に落とす』という存在を神と信じている人達がいる。

 でも、人を愛すのに、条件なんて必要なのかと思う。

 それは自分を愛すのに、条件が必要であると言っているのと同じ事だと思う。

 世界のすべての人を愛すことは普通の人間には、難しいであろうが。自分を愛すことを、世界のすべての人に勧める事は、非難される行いではないと思う。

 

 小学校の時の先生は、『自分に厳しく、他人に優しく』と言っていたが。今の私なら、『自分に優しく、他人にも優しく』と言うと思う。

 自分に厳しい人達は他人にも、厳しくなる。だから、まずは、自分を甘やかさなければならない。

 心理的トラウマを解消させる方法として。“子供の自分を想像して”、『あなたは愛されているのだよ』と言ってあげるという方法がある。

 大抵の人は、心の中に、“子どもの自分”を持っていて、その子どもは、“愛されたい”と思っている。それは、大抵の人がそうだと思う。だから、この想像は大抵の人に効果があると思う。

 

 「自分の中の神聖に従いなさい」と言うと。頑固な宗教的教えは台無しになってしまう。『神の教えに従え』と言えなくなってしまう。

 イスラム教徒すべてが悪人ではないことは知っている。でも。『条件付きでしか神は愛さない』神を正しいとしている限り、世界を幸せにすることは無理だと思う。

 

 “ハッピー”は、英語では、“楽しい”を意味するらしい。

 “楽しいこと”をすることが、幸せに至る道であり、そして、世界を幸せにする道なのだと思う。「楽しいことを否定して、世界を楽しくすることは出来ない」と思う。

 自分に厳しい人は他人にも厳しい。自分に許していないことを、他者がするのを幸せのうちに、認められる人がいるのだろうかと思う。

 だから、他人に幸せになって欲しいと望むのであれば、まず、自分が幸せになることが必要であると思う。

 だから、『条件付きの愛』を信じる人達のことを『愛ある人間である』とは言えないと思う。

 

 『条件付きで人を愛す』と言っている限り、他者と世界を本当に愛すことは無理だと思う。

 結局、愛がすべての原因なのだ。

 『間違っている人』なんていない。私もあなたも、皆、不完全なのだ。完璧な人間、存在なんて、誰一人、何一つとしてない。

 『宇宙には完全なものは、何一つとして、ありません』。『「あなたは完璧ではない」と言われたら、こう反論します。「この宇宙は不完全さがあるが故に私達生命が生まれたのに」と』。最近見た、NHK、BSの宇宙に関する番組で宇宙物理学が言っていました。

 ほんのわずかな不完全さ、それが、宇宙に物質的生命、世界が存在出来る理由なのだって。

 

 『ワクワクすることをしなさい』を、『辛いと感じている仕事を辞めなさいという意味か』という人がいます。

 でも、人生の目的とは、人生全体を幸福にすることである。すなわち、“辛い”と感じている仕事を辞めた結果、もっと、辛い状態になるのであれば、その仕事を辞める選択は間違っていたと言えると思う。

 『楽しいことをしなさい』と言って、遊びまわって、借金を作る事は、後で、辛い思いをするだけなので、全然、楽しい事ではないと思う。

 なんらかの制約があるのは仕方ない。でも、その制約の中で、出来る限り、楽しいと感じる事をやる、決心を持つ、ということだと思う。

 

 変な神を信じている人達がいるのだけれども。

 「あなたがそれをすることで、世界が幸福になる事をしよう」。それは、凡人には、難しいとしても。「あなたがそれをしても、世界が不幸にはならないような事をしよう」。「あなたがそれをすることによって、世界が不幸になるような事はやめよう」。

 人生に掲げるべき目標とはそれで良いのではないかと思うし。これ以上の目的というのは、ないと思う。

 

 しかし、絶対的な神、唯一の神を信じている人達が大勢いるのだけれども。

 世界は相対性の世界なのだ。

 共産主義は、崩壊した。“科学的”“客観的に”富を分配出来るとうたった、共産主義は崩壊した。そして、“客観的に富を分配することが出来るとはうたわない”資本主義が、生き残った。

 昔は、ドルを金に変える事が出来、それぞれの通貨はドルと固定相場であった。つまり、ある政府の発行したお金はある量の金と交換する事が可能であったという意味である。そして、金とは永遠の価値を持つものとされた。つまり、通貨には永遠の価値があるとされていた。

 今は、変動為替相場で、ドルは金と交換不可能である。つまり、現在の為替相場は相対性の世界である事は誰にも否定出来ないと思う。

 唯一の神を信じる思想も同じである。つまり、“絶対的な神、正義が欲しい”という信仰である。

 でも、私達は相対性の世界にいるのだから。『聖書だけ読んでいれば良い。なぜなら、そこにすべての答えが書かれてあるから』とは言えない。

 キリスト教は宗教としては、不完全だと書いている人がいる。イスラム教は宗教として完璧なのだそうである。でも、キリスト教徒が科学を生み出せたのは、キリスト教が、宗教として不完全だからだと思っている。完璧な宗教は科学を生み出せない。完璧でない宗教であるが故に科学を生み出せたのであると思っている。

 

 たった一つの情報源から、すべての答えが得られるという考えは、霊的な衰退につながると思う。事実はそうじゃない。多くの情報から、自分の頭で、相対的に思考する。それが、相対性の世界の現実なのであるという事で。

 

 世界の人達が、『世界とは相対性の世界だ。絶対的正義も、絶対的悪もない。たった、一つの情報源の情報からすべてが分かるというのは、過ちである』と気付くのは、いつなのだろうね。

 何となく、そんな気がするのだけれども。

 

 どうせ話をするなら、楽しい話がしたい。人の非難をする事に人生を費やすのは、あまりにももったいないと思う。たとえ、人生が辛いものであったとしても。楽しく話をしよう。そうすれば、楽しく感じられるようになるのではないか。そう思うのだけれども。

 

 イスラム教徒の過ちは外国人の書いた本を読まない事だと思う。『自分だけ、自分達だけで完璧だ』と思うのは、あまりにも傲慢だと思う。

 知識が人を幸福にしてくれる。知識なしに幸福になる事は難しいのではないかと思う。

 他者が与えてくれる知識について、もっと、感謝すべきであると思う。

 たった、一人で完璧な人なんて、誰もいない。その認識が必要なのではないかと思う。

 

 ちなみに。自殺について。私も、良い事であるとは思わない。

 “辛い”と思っていても、最後まであがくべきだと思う。大人しくあきらめて、死ぬのは、善行ではないと思う。

 『他者に迷惑をかける心配』についてはすべきではないと思う。どうせ、人はお互い助け合って生きているのだからして。助けるという部分を他者に与える事は世界にとって必要な事である。

 ブッダは言う。『貧しい人から施しを受けなさい』と。信者が驚いて言った。『金持ちから施しを受けなさいの間違いではないのですか』と。ブッダは言った。『金持ちは施す機会が多くある。施す機会のない、貧しい人に施す機会を与えなさい』と。

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やってはいけないことリスト

2012-11-24 09:16:19 | Weblog

 イスラム教もユダヤ教も、やってはいけないことリストが山ほどある。そして、やらなければならないことリストも山ほどあるらしいけれども。

 人に対して、やってはいけないことリストを掲げる前に、他に何か言えることはないのだろうかと思う。

 

 『自殺は駄目だ』『あなたはダメな人間だから、不幸になって当然である』という前に、その前に言えることは何かないのだろうかと思う。

 

 キリスト教では自殺は悪である。もちろん、自殺が悪なのはキリスト教だけではないが。

 フィリピンではカトリックが信じられている為に、離婚が禁止されている。一生仲良く夫婦で暮らしていける人達ばかりが人間というものではないと思うのだけれども。

 

 確かに理想は素晴らしい。『自殺はすべきではない』『出来るだけ離婚はしない方が良い』。それは正しい。でも、それを、すべての人間に押し付けるべきではないと思うのだけれども。

 

 理屈は理屈として。あるのだけれども。「人間そんなに完璧な人ばかりでもないし」。ついでに言うと。「私も、人のこととやかく言えるほど立派な人間ではないし」というのがある。自分のことを、絶対的な善の側に属する人間と考える人がいるとすれば、それはただの傲慢であろうと思う。人はお互い助け合って生きているのだからして。自己だけで、すべてが完結する人なんて、誰もいない。

 

 日本の神様は、『あれをしなければならない。これをしてはならない』とは言わない。行きたい時に拝んでいても、良いことをしてくれる。神様自体が不完全な人間のような存在だからである。たった一つの完璧な神を信じる人達は、神は完璧であるが故に、人間も、完璧でなければならない。でないと、永遠の地獄に落ちるのだって。

 

 小学校の時、ギリシャ神話の映画を見てめちゃくちゃ泣いた記憶がある。「なんて、酷いことをさせる存在がいるのだろう」と思って。永遠の罰を与える。「なんで、こんな酷いことをさせる存在がいるのだろう」と思った。

 キリスト教やイスラム教の地獄はもっと酷い場所であると、後で知ったが。

 

 こんな地獄を想像する、イスラム教徒やキリスト教徒は、とても酷い人間であるという結論に達しても不思議ではない。どっちにしても。キリスト教徒は根本的には信用していないけれども。

 

 排他主義的宗教という。キリスト教の終末に関する本を読んだことがあるけれども。『駄目な人』『間違っている人』を、全部取り除いていけば、ほんのごく少数しか残らないのではないかと思った。

 イスラム教の教義を厳密に考えると、正しい側に属する人達はごくわずかであろうと思う。

 でも、それでも大抵の信者は、自分達は正しい側にいると思っている。変なのと思う。

 

 『男性だから正義だ』と言われて。自分達の正しさが保障されたとでも思っているのだろうかと思う。

 

 キリストの言うように、『あなた達のうちから、過ちを犯したことのないものが、まず、打ちなさい』と言われたら、打つものは誰もいなくなる。

 でも、にも関わらず、イスラム教徒は、自分は正しい側に属していると信じている。本当に変な話だと思う。

 

 根本的には、『不完全な人間を愛せない』という問題があるように思う。

 それと、『自分達の側は神の側なのだ』という証明を欲しがっているように見える。

 

 現世で不幸に陥れることが出来ないから、永遠の地獄を想像して、『彼らは永遠の地獄に落ちるから良いのだ』という現実では得られない憂さ晴らしをしているようにも見える。

 イスラム教徒と、オウム真理教とどちらが悪なのか、私には分からない。オウムの方が悪とされているのは、ただ、日本人を殺したかどうかの判断に過ぎないと思うが。

 

 「神は人間の不幸ではなく、幸せを願っている」と、語れば、宗教的コミュニティーから追い出されてしまうのだろうかと思う。

 

 イランでの、『音楽を聞いてはいけない』について書く気力もなくなってきた。つまり、『神は人間が幸福になることを許していない』というのと同じことだからである。

 

 『苦しむ事が、善なのだ』という思想があるように思う。

 日本の神道の滝に打たれる行のように。苦しめば、修行になるという発想もある。

 

 「人間にとって、楽しい事と感じる事をする事が善なのですよ」と大抵の組織的宗教では言わない。それぞれの人間にとって、何が楽しいと感じるかということは別に組織的宗教に聞かなくても、自明の事として、個人それぞれが分かる。そうなったら、何か困る事があるのだろうかと思う。

 

 「善とは自分と自分達が幸福を感じることをすることである」と言ったらどうなのだろうかと思う。「人生をもっと、楽しんで良いのだよ」とあなたの中の霊性はそう言うのだけれども。組織的宗教がそれの邪魔をするということで。

 

 難しい問題だ。意外にこの問題は根が深い問題のように思う。一見簡単な問題のように思える。「あなたがこれをやれば幸福と感じられることをしなさい」という教えは。でも、大抵の人にとって、それは信じる事が難しい教えになっているということで。

 そして、その背景には、『他者に不幸を与えるのが、善である』という思考が潜んでいるように思う。

 性悪説の理論である。『人間は根本的に悪だから、放っておくと悪に染まる。だから、罰で脅して、正しい行いをさせなければならない』という思想である。

 

 何を守ろうとしているのだろうね。

 中国では昔から酷い刑罰が行われてきた。『出来るだけ苦しめて、死なないように』という刑罰もたくさんあった。なんで、人に対してそんな酷い行いが出来るのか分からないけれども。

 

 日本人は原爆について語る。戦争で死ぬのは構わない。でも、原爆投下後、後で苦しむのは、不当なことだと思っている。

 

 本当に世界のすべてが、『人殺しは悪である』『戦争は悪である』と考えるようになれば。世界は一瞬にして、平和になるであろうと思う。平和を愛す考えがないから、戦争は起きる。殺人者は『これは悪だ』とは言わない。『これは善だ』『仕方なかったのだ』という。信じている事、考えていることが、現実を引き起こす原因になっている。

 

 

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何を想像するか

2012-11-20 17:22:15 | Weblog

 橋下さんが、『国会議員と、地方の首長を同時にやれないのはおかしい』と発言した、と。

 普通の人はそんな疑問思いつきもしないであろう。よくそんな疑問を思いついて、発言するなあと思う。もちろん、何らかの政治意図はあるのであろうが。

 

 ある男の子が、『僕とキスして下さい』という看板を掲げて、女性歌手の発表会に現れたという。で、実際、その男の子は、その女性歌手にキスしてもらったそうだけれども。

 

 大抵の人が思いつきもしない意見を言う人がいて。思いつきもしない思考を思いつく人がいる。そして、大抵の人がやってみる前から、思いついた段階で、『そんなことは無理だよ』ということを実行する人達がいる。

 

 橋下さんは、石原さんの事を評価しているのだろうか。石原さんも、『東京のアメリカ軍保有滑走路は返還されて、東京都のものになるべきである』と20年ほど前に、発言した。一般新聞の扱いは、『そんなことは無理だよ』というものだったらしいけれども。言う前にあきらめるのは、もったいない。想像して、「実現したら素晴らしいなあ」ということはなんでも言ってみるべきだと思う。政治家というのは、むしろ空想力が必要なのではないか。「想像する限りの素晴らしい未来を描きなさい」。その空想力が必要なのではないかと思う。

 

 今の政治が下らないというのは、上げ足取りばかりしているからだ。そうではなくて。理想を語るべきだと思う。でもそれをすると、馬鹿なマスコミは、ケチを付ける。あれでは、良い未来は築けないと思うのだけれども。

 

 『そんなことは無理だよ』と言う人達が新しい未来を作ることはないであろうと思う。普通の人達が、『そんな事は無理だよ』と言うことを、言って、実現しようと努力する人達が、リーダーであり、世界を変える人達なのではないかと思う。

 

 一人一人は小さな人間に過ぎない。でも、理想を想像しなければ、何も始まらないと思う。妥当性ばかりの思考で、新しい未来が来ることはない。そう思うのだけれども。

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物理法則の不思議な所は

2012-11-20 17:20:25 | Weblog

 物理法則の不思議な所は、『この宇宙におけるすべての場所において、同じ物理法則である』ことである。科学もそうだ。『この宇宙のあらゆる所において、人類が発見した科学法則を使う事が出来る』。

 でも、私達は心の狭い宗教を信じている。ナショナリスト達が信用出来ないと思ってしまうのも同じである。科学として、何らかの思想を信じる事は出来ないのだろうか。全人類、全宇宙の人達が信じることが出来る思想はないのだろうかと思う。

 

 まあ、思想は目には見えない。だから、どんな思想でも、人は信じる事も、出来るし、信じさせる事が出来る。だから。『どんな悪行でも神のせいにされうるし、実際されて来た』と、『神との対話』の神は言う。

 人を迫害する理由として、神の言葉、命令は使われるべきではないし、そんな教えを信じるのはおかしいと思う。でも、他者を迫害し、自分達だけを、特別な存在だと言い張る理由として、いわゆる、宗教というのは、使われてきた。

 同性愛者を殺す理由として、イスラム教徒は、『神の命令だから』という。そんな教えを、我々は、正しい教え、聖なる教えであると、いうべきではないと思う。

 

 日本の存在が奇跡なのは。遊牧民族と接触した事がないからであるという説がある。

 『日本人とユダヤ人』の本の中に、こういう文章が書かれてある。『農民が作物を収穫するのと同じように、遊牧民族は、農民の作物を奪って、農民すべてを殺す。ある指導者はこれをやめさせるには、それをした、遊牧民族すべてを死刑にするしか方法がないと、考えた。実際、これ以外の方法はないであろう』と。

 

 日本は終身雇用が原則とされている社会で。アメリカでは、『30歳になるまでに、平均3回転職する』社会であると言われている。昔、日本における職場の女性差別を説明する理由として、『女性は結婚したら、仕事を辞めるからである』と言われた。つまり、知識、経験の蓄積こそが、尊ばれた、ということである。アメリカ人はすぐに、『才能』という。日本人は、元は皆ゼロで、努力して、知識を蓄積することによって、立派な大人になるという考えである。アメリカでは、日本で教育を訳される言葉を、“エデュケーション”、“引き出すこと”という意味の単語で表現するらしいと。つまり、元からある才能を、引き出すための知恵を与えるのが、教育の目的である、という意味だと思う。

 

 日本人は、株等で、お金を儲ける事を、正しいお金の儲け方であるとは思っていない。“株屋”は、間違いなく、中傷する言葉であるということで。

 でも、本当は、育てるよりも、奪う方が簡単なのだ。育てるのは、難しい。農作物を育てるのに、種まきから、収穫まで、半年は掛るし、雑草を抜くのも大変である。しかし、奪う方は簡単だ。ただ、農民の植えた作物が育った所で、農民の持っている作物を奪い、農民を皆殺しにすれば、良いだけの話であるということで。

 

 日本人は大変だ。一生懸命働いてさ。ただ、地下資源で豊かな生活を送る方が、よっぽど楽である。

 でも、日本人は地下資源が発掘されても、働くのであろう。色々心配になって。

 

 日本の宝くじは世界一、当たっても、あまりお金が得られないといわれている。外国人は要するに、働くことが嫌いなのだ。

 

 価値ある製品を生み出すのは、難しい。その努力をなぜ、日本人は続けられるのか。それは、遊牧民族に、根こそぎ、自分達の富を、奪われた経験がないからだと思う。

 奪うものがいなければ。例え、時間が掛っても、育てる事に価値があると思える。奪われる可能性について考えていたら、そんな地道な、努力は出来ない。努力するとすれば、高い防護壁を作り、戦うための準備をすることであろう、と。

 

 日本人は殺人事件が起きたら、大騒ぎする。でも、アフリカでは、1ドル、80円の銃で人殺しが出来る。現実問題としては。一人の人間を救うのは大変だ。しかし、一人の人間を不幸に追いやることは簡単に出来るということで。日本で、人殺しが難しそうに思えるのは、物理的現実ではなくて、心情の問題である。

 

 ある、イスラム教の国では、『娘が、男の子の顔を見た』という理由で、硫酸を掛けて死なせたのだって。娘の親は、自分達が加害者のくせに、『これは娘の運命だ』と言っているというが。何が、運命なものか。大体、硫酸なんて、その国では、10円ぐらいで手に入るであろう。日本でそんな事件が起こらないのは、日本人の意識に、『それは絶対的にダメなことである』という考えがあるからであって。硫酸の価格が高いせいではない。

 

 心優しき宇宙人がいたとして。こんな地球に来たいと思うであろうかと思う。ネコ型宇宙人がいたとして。『こんな所に来たら、我々は皆殺されてしまう』と思うであろうと思う。ゾウ型宇宙人でも同じだろう。人型宇宙人がいても。『こんな野蛮な所に来たくない』と思うであろうと思う。

 

 宇宙人が姿を現さないのは、科学的にみると(私が)科学が発明されて、数百年ほど経っていない惑星だからだと思う。宇宙というか、銀河系全体でみると、100光年なんて、ものすごい近くのお話である。電波が発見されて、100年ぐらいしか経っていない。つまり、地球で発信された電波は、まだ、100光年以内あたりにしか届いていない。

 銀河系に知性を持つ宇宙人はいるかという話で。答え、1。私達の地球しかない、という答えを出す科学者がいるようだけれども。まあ、いずれにしても、地球のような生命形態のある惑星は銀河全体で見ても、珍しいのであろう。100光年以内に、地球のような惑星が存在しなかったとしても、驚くべきことではない。地球の文明が、1万年ほど続けば、宇宙人の存在が、科学的に明らかになるかも知れない。たかが、数百年ほどの、科学で、知的な宇宙人の存在の証拠を探し出そうとする方が、無理な気がする。

 

 心優しき宇宙人がいれば言うであろう。『同一種族でお互いに殺しあうのは止めなさい』と。そして、『人殺しを正当化する倫理を正義などというべきではない』というであろうと思う。

 

 昔、子供の頃、「植物のような人間であれば良かったのに」と考えたことがある。植物が太陽からのエネルギーで、生きていけるように、人間も太陽からのエネルギーで生きていければ良いのに、と。

 残念ながら、日本人医者、栄養士に言わせれば、タンパク質すなわち、動物性のものを食べなければ、人間はあまり健康になれないようだけれども。

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占い

2012-11-20 17:18:42 | Weblog

私は占いを信じていないのだけれども。

 

病院に行って、『あなたは、このままでは、糖尿病になりますよ』と言われたとする。

それで、食生活等を改めれば、糖尿病にならないし、何もしなかったら、糖尿病になるであろう。

結局、どんな運命が予想出来たとして。その人自身の判断と選択を超えるものは、何もない、ということだと思う。

 

ハンセン病の問題について、考える。今は、ハンセン病は薬で治る病気だけれども。しかし、ハンセン病で失明した人が、薬によって、目が良くなるということはないであろう。

運命があったとして。それでも、最善の努力をして、悪くしないように、出来る限り、より良い未来を切り開くための努力は必要である、ということだと思う。

なんか、占い好きの人達って、そこの所を勘違いしているように思う。占ってもらって。で、じゃあ、その結果を聞いて、あなたは、どうするのか。それが一番の問題のはずなのに。そこの所が、無視されている、ということで。

 

まあ、占いごときに目くじらを立てるべきではないという意見もあるであろうが。

結局、自分のすべき決断を他人任せにしているだけではないかと思う。そんな占いなんてせずに、病院に行けば、あなたが将来何の病気で苦しむのかについての、可能性を教えてくれると思う。人間にとって、一番大切なのは、健康である。それについて、注意を払わない占いなんて、何の意味もないと思うのだけれども。健康診断を受けずに、占いに人生を費やすなんて、無駄なお金の使い方だと思うのだけれども。

 

未来予測は良い。でも、問題はそこではなく、「あなたはどういう未来であって欲しいと望むのか」。そこが問題であると思う。私達すべてが、平和と命を大切にする未来を望むのであれば。世界は、すぐにでもそうなると思う。戦争と争いと競争を望んでいる人達が、大勢いるから、今の世界はこんな風なのではないのか。そんな気がするのだけれども。

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本当の愛とは

2012-11-19 19:05:20 | Weblog

 『完璧なものしか愛せない』というのは、本当の愛ではないのだよね。『不完全でも愛す』『不完全だから愛す』というのが本当の愛な訳で。『完全ではないから、愛さない』というのは、愛ではない、と。

 

 悪魔が隣にいても、愛せる人というのが、本当に愛のある人間な訳で。条件付けて、『あなたは、不十分な点があるから、永遠の地獄に落とします』などという存在が、神な訳ないではないかと思う。私の目から見れば、世界の多数派の人達は、『神を信じる』と言いながら、「実際は、悪魔を信じている」、まあ、「神のふりをした、悪魔を信じている」ように見える。

 

 神がどうとかいうから、言い争いをしなければならないのだ。「人として、素晴らしい人とはどんな人か」を考えれば。本当の神とはどんな存在かすぐに分かる。本当に素晴らしい人間よりも、さらに素晴らしい存在が、神であろう。なんで、世界の多数派の人達は、悪魔を神と言い張るのか、分からないということで。

 

 老人介護の仕事をしていて。『人生の先輩を話が出来て、素晴らしい経験が出来た』という人がいる。大抵の人達が、その仕事を、苦痛の多い、キツイ、汚いの仕事であるというのに。

 

 障害者だからと言って、人格的に素晴らしい人達であるとは言えないと思う。しかし、健常者の人達に、『障害者の人達に対して、何かを与えている』という部分に気づかせてくれるという仕事をしていると思う。

 世界というのは、与えるだけでは、不完全で。受け取るだけでも、不完全らしいので。

 

 最近、『相手の親切を受け取る』のも、親切ではないかと思い始めている。

 相手の親切をむやみやたらに拒絶することは、善行ではないと。与え、与えられるという関係が、人間として、自然な、あるべき状態なのではないかと。

 

 神が現れたとしたら。『私は神ではない』というかも知れないなと思う。

 『神に頼るのではなく、自分自身に頼りなさい』『神に頼るのではなく、人間に頼りなさい』が、神のメッセージのような気がする。

 

 足りないものを数えるより、あるものを数えた方が良くないか。

 なんで、足りないものを数えて、あるものを数えない人達が大勢いるのだろうかと思う。

 

 “自分の理想をすべて、実現出来た”人なんて、この世界に存在しないと思う。人生というのは、多分、ほとんどすべての人にとって、理想通りにはいかない。でも、問題は、それを愛せるか愛せないか。それがその人が幸せを感じて生きていけるか、不幸を感じて生きていくかの差ではないかと。

 

 最大限の努力をして、今の結果になったのであれば。あきらめるしかない。

 お見合いで、結婚した人なんて、大勢いる。でも、それでも、結婚相手を愛している人達は大勢いる。問題は愛せる人と結婚出来るかではなくて。結婚した人を愛せるかどうかではないかと。

 

 障害者の人達を愛せる人達は愛がある人達だと思う。障害者の人達が愛せる人間かどうかは、その人達が人を愛せる人間かどうか、見分けるリトマス試験紙のような役割をしていると思う。

 

 「良い人というのは、人の事を『良い人だ』という人の事」だと思う。他者に対する評価は自己に対する評価であると思う。人の悪口を言う人が“良い人”には見えない。

 悪魔を信じるのか。神を信じるのか。それが問題であると思う。

 不幸を嘆いて生きる人。幸福に感謝して生きる人。物理的現実は、どちらも、同じように見える。

 ぐちゃぐちゃと、自分の不幸を嘆いている人達はうっとうしい。「そんなにいうほど、不幸でもないでしょう」と思う。「もしかしたら、客観的には私の方が不幸のような気がする」。でも、不幸を嘆いている人達は実際に存在する。例え、私の目から見れば、「そんなに不幸であるように見えなかったとしても」。

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なぜ美しいものを

2012-11-19 19:04:01 | Weblog

 美しいものを信じられない人達の方が、この世界の多数派なのだよね。『ハーバード大学を出た人の臨死体験について、書かれた本』がアメリカで発売されたそうなのだけれども。ネットで検索してみたのだけれども。多数派の人達は、この話を信じていない。『ただの、脳内現象である』とか言う。でも、私からすれば。「信じない選択をする事がとても、難しい」。話として、あまりにも、美しすぎるからである。想像するだけで、うっとりする。「なぜ、こんな美しすぎる話を皆信じないのだろうか」と思う。どうせ、信じるなら、美しい話を信じた方が、人生幸せなのではないかと思うのだけれども。

 

 でも、人口の多数派の人達は、『この宗教を信じない人は、永遠の地獄に落とす』という宗教を信じているのだよね。

 

 本当は、現実が地獄である事が、世界の現実が悲劇的である理由ではなくて。世界の多数派の人達が、美しい話を信じずに、地獄の話を信じている。それが、この世界が、地獄的な世界になる、理由ではないだろうか、と。

 

 天国では、その人が信じている事が実現する。だから、地獄を信じている人達は、天国でというか、死んだ後、地獄を経験すると思う。

 そして、地上でも、地獄を信じている人達は、地獄を感じ、天国を感じている人達は、天国を感じるのだと思う。結局、人間というのは、自分が本来信じている事しか、信じられない。

 

 何の話をしたいかというと。美しい理想をイメージすることは罪ではないということである。本当は、世界のすべての人達が、今あるより、もっと、素晴らしくて、美しい未来をイメージすることに成功出来れば、未来は、すぐにでも、今よりも、ものすごく、良い場所になるであろう、ということである。

 

 ジョンレノンのイマジンという歌は、アメリカやイギリスでは、歌う事が政府によって、反体制的であると見なされた時期があったらしい。つまり、政府が、美しい未来をイメージすることを、人々に禁止した時期があったという意味である。

 「私達のすべてが、美しい未来を見ることが実現出来れば」今すぐにでも、未来は素晴らしいものになるであろう。結局、世界のほとんどすべての人達は、想像力が貧困で、不幸な未来しかイメージすることが出来ない。それが、私達の未来が、あまり良いものにならない理由ではないかと思う。「想像出来うる限りの美しい未来をイメージしなさい」。それが、良い未来を創る唯一の手段であると思う。

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信じられないが

2012-11-19 19:02:05 | Weblog

 信じられないが

 

 バシャールの言う、未来について、信じられないが。良い未来を創りだそうと思えば、良い未来を予想しないと始まらないのだよね。今の現実しか見ない、見えない人達が、良い未来を作り出せるということはあり得ないのだよね。

 

 アップルの製品が、そんなに素晴らしい製品のようには私には思えないが。ipodを持っているが。最初、音量の変更方法が、分からずに、1時間ぐらい悩んだ。アップルのパソコンも、その当時、『玄人向け商品』というのが、パソコンを使う人達の認識であったと思う。でも、最初に理想を描かない限り、何も始まらない。もちろん、理想だけではダメで。それを現実の世界に、実現させる能力が必要になる。左翼主義的思想が、存在する価値のない意見であるとは思わないが。現実に実現出来る能力が、その人達に備わっていなければ、理想主義は、あまり価値がないと思う。

 

 こういう話がある。昔、女性政治家の人達が、『夫婦別姓を法的に認めさせよう』とした。しかし、その人達は、『結婚した段階で、子どもは、夫婦どちらかの姓であることを、決める。その条件で、夫婦別姓を認める』という法案に反対した。結局、その法案は通らず、夫婦別姓は、今の状況である、というお話である。

 これとは別にこういう話がある。性同一性障害の人達が、『元の性とは違う性に、戸籍上の性を変えられるように求める法案』を成立させたいと望んだ。そして、彼らは、『まずは、子どもがいない人については、性の変更を戸籍として、載せる案』が法案として通過することを認めた。そして、その5年後ほど後に、『子どもが、18歳を超えている人については、性の変更を戸籍として載せる案』が法として認められた。

 さて、この、夫婦別姓を求める人達の意見と、性同一性障害の人達の意見。どちらが、国民に認められ、社会的権利のある意見と言えるのだろうかと思う。

 妥協出来ないのは、罪なのである。理想主義は良いとして。この世界に実現出来なければ、価値があるものとは言えないと思う。

 

 橋下さんは、偉いと思う。選挙公約として。『高齢者が無料で、市営バスが乗れるパスを廃止する』と約束した。しかし、議会の反対によって、それは実現出来なかった。そしたら、次は、『高齢者は、市バスを乗るごとに、1回100円を支払わなければならない』という法案を成立させようと考えた。しかし、それも、議会の反対にあって、失敗し。そして、『1回50円なら、どうか』と言った。そしたら、それは、実現された。という話である。

 理想主義は理想主義として、必要なのだけれども。最大限の努力をした上で、妥協しなければならない。それが、能力のない、政治家には、出来ない、ということで。

 

 1流の、科学者は、ファンタジー小説とか、SF小説とか好きだと思うのだけれどもなあ。

 私達が、ファンタジーだとか、SFとか言っている事、すべてが実現するのが、本当の未来だと思う。理想主義と、それを現実世界に実現する努力。その二つが、ないと、新しい未来を創る事は出来ないと思う。

 

 今の日本の、消費者向けの製造業は、ぼろぼろである。多分、夢を描く人がいなくなったからだと思う。新しい世界を作ろうと思えば、多くの人が見ていない、夢、理想を描かなければならない。妥当性、現実しか見えない思考で、人々が驚くような商品なんて、作れるはずがない。

 

 物を考えるにあたって、ドラえもんを参考にしていると言っていた、発明家がいた。発明家というものは、ドラえもんの道具をこの世界にもたらすように、努力する義務があると思う。今ある現実しか見えない思考で、革命的、発明なんて、出来るはずがない。

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スティーブ・ジョブズの言った事について

2012-11-19 18:59:51 | Weblog

 スティーブ・ジョブズの言ったことについて、もう、一度考えてみる。

 『「現状維持が出来れば、良いのだ」と言っている人は、現状維持も出来ない』と書いていた人がいたが。

 結局、技術開発なしに、新しい事に挑戦することなしに。『このまま、富を維持出来れば良い』と考えている人達が、社会の中枢にいる事は、絶対に良いことではない、と。

 『パイを大きくする事を考える人達と、パイを平等に分ける事に一生懸命になる人達』というたとえを使った話を書いていた人を見かけた事があるが。『パイを平等に分ける事に一生懸命な人達のみでは、世界は平和にならない』と。

 パイを大きくする人達というのは、新発明をこの世界にもたらそうとする人達の事だと思う。宗教家や思想家達は、“パイを平等に分ける”方法について、議論する。正確には、パイを増加させる方法については、語らず、パイが同じ状況の中で、それぞれの人達が幸福を感じていきる方法について、説くのが、宗教家や、思想家と呼ばれる人達の事だと思う。でも、それでは、「世界は平和にはならない」。

 スティーブ・ジョブズは言う。『エジソンのほうが、マルクスとニーム・カロリ・ババ(インドの有名な聖者)を合わせたより世界をよくすることに貢献したんじゃないかって思いはじめたのは、あのころだった』と。

 私も、その意見に賛成である。大体、マルクスは、「世界を悪くするのに、貢献した」のは、今の状況を見れば、一目了然である。

 ローマ・カトリック教会は、エジソンを聖者であるとは言わない。でも、本当は、宗教者が認める聖者よりも、発明家の人達の方が、人々を幸せにした、聖者であると思う。

 宗教とは、新規発見がない状況における、感情のごまかしではないだろうかと。そう思うのだけれども。

 

 フィンランドのノキア社が投資不適格だって。『日本の携帯電話は、ガラパゴス化していて、駄目だ』と言っていた人が、どう責任を取るのだろうかと思う。もっとも、評論家というのは、常に、責任を取らないが。

 

 技術開発といっても、薬の開発も開発である。製造業に限定される訳ではない。しかし、金儲けだけを目的化するのは、違うと思う。『どんな方法でも、お金を得られればさえ良いのだ』という思想を、善とすることは、出来ないと思う。

 

 『どんな方法でも、お金さえ得られれば』の思想で、偉そうにしている人達が、アメリカとかヨーロッパには一杯いるのだよね。それが、最大の、アメリカと、ヨーロッパの問題であると。

 アメリカはともかくとして。ドイツを除くヨーロッパにまともな製造業があるのか。アメリカとアジアが開発した技術の使い古しを、『手作業で作りました』と言って、高く売っているだけの製造業を、製造業と呼んでいるだけで。新しい技術開発が何もない、と。それが、彼らの言う所の製造業なのだよね。

 (ちなみに。ドイツの製造業も、新技術の開発とやらを、しているようには見えないが。)

 

 

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