身内と縁が薄い。

2024-05-11 14:28:28 | Weblog

良くも悪くも僕らは、身内と縁が薄いのだ・・・そんな気がする。

「僕ら」と複数形にしたのはこのことを、晩年の佐治くんも言っていたからだ。

身内、というのは解釈のしかたが色々あるかもなのだが僕が言うのは

「血縁者」のこと。肉親とか、兄弟とか、親戚とか。

 

僕の場合、何故そうなったか?というと15歳の時に家を出たからだ。

福山から奈良県T市の高校を受験し、そこに入った。

そこは全寮制ではない(自宅生と半々くらい)のだが、僕は男子寮に入った。

そして、盆暮れにはそれぞれ一週間くらい家で過ごしたが、

実家の家族と暮らすことはもう、なかった。

僕は関西に定住した。大阪に20年以上住み、佐治くんが亡くなったので

今は京都に暮らしている。

 

多くの人がそうかもしれないが、もっと子供の頃から

とにかく、友達と遊ぶことがすべてだった。

学生寮なんて朝から晩まで友達と一緒で、毎日が修学旅行だ。

有難いことに僕は寮で親友が出来て、毎日夜中まで語り合った。

学校でも結局、自宅生の不良ぶった奴等のバンドに加入することになり・・・

いや、違うな、彼らとバンドを、イチから立ち上げたのだ。

奇蹟的にバンドは上手く転がりだして、

(幸運なことに)気が付いたら僕は彼らの仲間になっていた。

放課後は彼らとバンド練習をして、遅い時間まで寮に帰らなかった。

そして学校を卒業してからも、そのバンドは続き、僕は大阪でひとり暮らしをはじめた。

彼らと深く深く、時間をかけて友達になって行った。

冒頭に名前の出た 佐治くん、というのはそのバンドの中心人物だ。

2007年に41歳でこの世を去った。

バンドのもう一人の中心人物だった岩佐は1988年に不慮の交通事故で、

高速道路で壮絶な最期を遂げた。

まだ21歳だった。

そんないろんな事が、生と死が、運命的に絡まり合って進んでいた。

その運命の中心に音楽と、バンドがあった。

そのせいもあって、というか

我々はバンドに夢中になるあまり、血縁者の身内と余り、、交流がない、ということに

なってしまった。まぁ、しょうがないと言えばしょうがない。

親戚に関しては、もともと、いないのだ僕には、そういう人たちが。

父はほとんど「みなしご」に近かったらしいし、母は一人娘だった。

だから従妹とかいない。

本来ならいちばん近いはずの両親や祖母や、兄弟とも、年に何回かしか会わない、

という環境になってしまった。まぁ、それもしょうがない。

 

 

でも、ふと僕は

画家だった大叔父(祖母の兄)の間接的な影響下にいる・・・・・・・

ような気がすることがある。

 

もしそれ本当ならそれは、すごく皮肉なことだ。

 

 

大叔父は1969年にこの世を去っているから、

僕は彼と会った記憶もないのに。

コメント
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