福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

謝罪とは何か(2) 形骸化した現代の謝罪

2016年06月18日 17時10分56秒 | コラム、エッセイ
 謝罪は、直接被害を受けた当事者や関係者がいるならば、直に面会して誠心誠意謝罪するのが正しいやり方であるはずだ。なのに、謝罪はメディアの時代、特にTV時代を迎えて大きく様変わりした。謝罪そのものが形骸化してしまった。

 謝罪の意義がよく分からなくなっている。一体、謝られるべき方々は誰なのか?

 TVによる謝罪劇はニュースで頻回に流されるが、単なる視聴者である私にとって謝罪される理由は、ほとんど見当らない。単なる謝罪風景とみなしていればいいが、この謝罪風景を見ているとなんとも居心地の悪さを感じてしまう。

 特に、当事者の説明が一旦終わると、関係者が一斉に立ち上がって出席者に向かって頭をさげるが、その瞬間にプレス関係者は一斉にシャッターを切る。まるでメディアはこの瞬間のために謝罪会見に集まって来ているようだ。翌日の新聞、その他のプレスは例外なく頭をさげる一瞬がでかでかと掲載される。これは、晒し首以外の何物でもない。
 当事者が誠心誠意説明をしても、そのことが誌面に反映されていることは少ない。

 謝罪会見などの場合、報道番組の構成や、誌面のデザインはメディア側の思うように作られる。私はその構成にメディアの悪意、増長を感じ取り、「みせしめ・晒し者」としての側面をその姿勢の中に感じてしまう。公開処刑といいかえてもいい。

 本当の意味での公開処刑は近代以降は人権尊重の観点からどこの国でも禁止されているが、現代社会では形を変えて、メディアを介して行われ続けているのだ。謝罪会見などの場合はメディアは一般大衆の嗜虐嗜好を味方につけて巨大な権力者と変容する。そのことをメディア側は気づいているのだろうか。とてもそうは思えない。まるで扱いがワンパターンである。

 また、私たち視聴者の心の中に唯かを罰したい、唯かが罰せられているところを見たいという暗い欲求がドロドロと渦を巻いている。それは大人社会のいじめの心理とも共通している。

 謝罪会見の場には謝罪されるべき立場の方は一切同席していない。なのに頭をさげる。一体誰に向かって謝罪しているのか?メディアに対して謝罪?メディアの後ろに控えているだろう大衆に対してか??
 多分後者であろうが、こうした謝罪の形態は謝罪そのものを形骸化させてしまった。

 謝罪する側にはそれ用のマニュアルが用意されている。だから、本心とは思えない共通したスタイルで、謝罪会見が進められる。
 見る側はどうか?もともと謝罪を受けるべき立場にはない。だから、会見の様子は一種の娯楽として消費される。溜飲を下げる人もいるのかもしれない。

 謝罪会見における謝罪は完全に形骸化している。
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