福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

昭和27年4月10日自宅消失(16) 我が家に及ぼした影響(6) 父の人生(3)

2016年06月08日 07時27分56秒 | 自己紹介・自伝
 私にとって父は良き親であった。
 勿論、いろいろ問題はあった。
 私への家庭内の教育は祖父母が厳しく担ってくれたので、自分の息子でありながら父は出る幕がなかった。そのために父から厳しい教育的なしつけは受けたことはなかった。しかし、祖父母の手前直接的表現が出来なかったのであろう、言葉の端はしに嫌味っぽい表現があり私を落ち込ませた。これは嫌な一面であったが、我が家の中で中年に達するまで祖父母に押さえつけられ、自分を発揮できなかったことを考えると理解できた姿であった。
 私も嫌味っぽいとよく言われる。気が小さくストレートに自分を表現できないこともあるが、父の影響も大きい、と思う。

 また、父には山師っけがあるらしいことは幼少の頃から会話を通じて感じていたし、余所の方から指摘されたこともある。祖父母間では株式の話、株券の話、証券の話などが日常的に交わされていた。幼少であった私には全く意味がわからなかったが、なんだか労力を使わないうまい話のように思えた。かなりの額を有していて、家の再建に大いに役だったらしい。これらの会話に父が関与することはなかった。なにしろ父にとって自由になる資金などなかったからである。
 祖父母死去、母の入院、私の進学と揃って一人になったところで、父はついにチャンスが訪れたと喜んだのであろう。我が家の蓄えをほぼすべてつぎ込んで利殖を図ったが、そう上手くいくはずもなく、すべて失った。
 早めに私どもが気づき止めさせたが、他に借金を作っていなかったことが最大の救いで、家屋敷の売却で一息つけた。広すぎる家屋敷から小屋に移ったことで老父母はメインテナンスの労から解放された。これは大きい、とてもいい意味での破産がもたらした副作用であった。
 私は、コツコツと働くことと浪費しないことは利殖と同じ、という考えに立つ。これは堅実な母の教えでもある。だから、私はこの筋の話には一切乗らない。嫌悪をも覚える。これは父が残してくれた教訓である。

 老父母の元には私は十分?な送金した。母が死去した後も希望で同額送り続けた。独居が困難になり秋田へ転居したが、引っ越し荷物の中に当時贅沢品とみなされていた30インチ超の大型TV、ヴィデオデッキ、電子レンジ・・・、2年間分ほどのロイヤルゼリーなどなど含まれていて驚いた。
 独居中に父は私どもの訪問を好まなかったが、その理由をその時点で理解した。
 楽しく一人暮らしを楽しんだのだろう。何も遠慮がちにコセコセすることはなかったのに。これも性格だね、と思う。私も受け継いでいる。

 中年期以降は糖尿病を患ったが、病識はほぼなかった。しかし、外面のいい父である、主治医に自慢したくて受診日の数日前から節制に努め血糖値を下げる努力した。尿糖に関しては検査時の尿に水を加えたこともあったらしい。受診後は川徳デパートで食品を買い込み、毎日たらふく食っていた。
 そんな父の様子を私は知っていたが、生涯を通じて我慢を続けてきた父である。私は見て見ぬふりをしていた。父は昭和58年秋田に引き取って2ヶ月で心筋梗塞を発症し厳しい状態に陥ったが、私は治療の中止を申し出、そのまま死去した。享年80歳であった。
 尊敬という言葉は似合わないが、人間味に溢れた大好きだった父への最後の親孝行であった。十分、生きた。後半はいい人生だったと思う。

 その他にもいろいろエピソードを残した父である。もう私以外には知る者はいない。
 昭和27年4月の自宅消失は、父の人生にもいろいろ影響を与えた。しみじみと思うが、自身が負うべき責任も大きかった。
 
コメント
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