福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

いじめ2016(6)節分などの神事・風習から身につく差別の心理 

2016年02月03日 10時02分48秒 | 時事問題 社会問題
 本日、2月3日(水)は節分である。
 わが家では賄いの石井さんが休暇を取って北海道に帰っているので、いつもやってきた豆まきとか、節分の料理は省略し、本日の夕食は購入した恵方巻き、豆料理にあやかって納豆巻きで済ました。恵方巻きはその年の幸運や金運を司る神様である歳徳神を祀るためという。神が居られる方向が毎年変わり、今年は南南東の方角だそうだが、そんなのは無視して舌鼓を打った。美味であった。

 今年は省略したが、我が家では毎年の豆まきは私が幼少のことから欠くことはなかった。多分、病弱な私の無事な成長も願ってやってくれていたと思う。成人になって子育ての頃は私が鬼役でやっていた。子供たちが独立してからは、単純化して自宅の各室の窓を開けて「福は内、鬼は外」と小声で念じながら、殻付き落花生を撒いた。

 この行事を通じて、私は鬼の立場と福の神の立場を演じたが、何で鬼は謗られ、福が敬われるのか、ほとんどその所以を知らないままに、両者を善玉、悪玉に区別してきた。私は「いじめ」問題に関心を持ってから久しいが、私が節分の行事、豆まきは理屈もなくおにたちへの差別感を助長する、あまり気分の良くない行事・風習だと思ってきた。

 ただ全国的には鬼も福の神の一人として「福は内、鬼も内」と鬼も歓迎する風習があるようだ。人間の多様性を受け入れるという点でははるかにいい視点である。

 秋田には男鹿のなまはげ、雄和のやまはげなどの行事もある。この場合のなまはげ、やまはげは神社からの使いで鬼とほぼ同義であるが、このC¥行事では善玉の役を演じている。各戸を回って幼児を対象に「泣く子はいねーか、よくない子はいねーか・・・」などと子供を脅して回るが、これも立派な弱いものいじめである。子供の心にはかなりインパクトが大きいようである。
 我が家の孫共が悪ふざけしてコントロール困難な状況になった時に「男鹿の神社に電話するぞ・・・」と言えば大抵は治ってしまう。これはしつけや教育というより、親による脅迫、「いじめ」である。

 地域の行事などを通じて物心がつく頃から「いじめ」、「差別化」を助長するような生活環境、教育環境の中で育っている。

 このような行事が直接的に幼児の心にトラウマを残していないだろうか。節分を機にちょっと考えた。
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