まやの午睡

日常の記録です。

足の小指

2023-07-02 00:05:00 | 日記
暑くて素足の日が多くなったので、足の指の爪にペディキュアを塗ってみた。

テレビを見ながら乾かしている時に何となく左足の小指を見た。
いつもは正面しか見ていないけれどなぜかたまたま真横から見たら、その形がなんというか、意味なく変形しているようで思わず「醜い」というフランス語を口にした。

もともと足の形はよくない。子供の頃からトウシューズをはいていたからつま先がまとまって、外反母趾気味になっているからだ。でも別に痛くないし、靴を履く時も特に困っていないから気にしたことがない。
でも、小指は、第四指と同じように丸まっている。他の三つの指はまあすんなりとまとまっているのに。

その「醜さ」が印象的だったので、そばで仕事をしていた夫に「ねえ、ねえ、私の足の小指ってて、横から見たらすごく醜いんだよ」と言った。私が何度も言うので、はじめは無反応だった夫が、「醜いなんて言うものではない」と割と厳しく返した。
「だって、横から見たら縮こまってて醜いんだよ」と私が言うと、「足の小指は使っていないから退縮するのは当たり前で、美醜をいうのはよくない」とまじめに返す。
「手の小指だって短いだろう」
「あら、私の手の小指はピアノやヴィオラやギターを弾くから楽器の一部だし、短くてもすんなりして力も強いから醜くないよ。」
「そうかもしれない、でも、足の小指を醜いなんて言うものではない。」

ものすごく健全な反応だ。自分の努力やなんかでどうにもならない生まれつきの形状について美醜を唱えるのは「よくない」。
でも、まるで私のコメントがいじめや差別やルッキズムのハラスメントみたいだ。私も、他人の足についてならそんなことは言わないし、じっくり見たことなどないけれど、どんな人でも足の小指を横から見たら似たように丸まっているだろうなと思う。
自分でも驚いたのは、それでも、その形が手の指の機能的な美しさに慣れている目から見ると、「醜い」と映ったことだ。進化の前には猿のように手足の指が同じように木の枝などをつかめていただろうに、手ばかりが「文化」を担って、足の指は退化したのだろうが、その結果の手指と足指の「見た目の差」に驚いたのだ。
その底に、ひょっとして、手足や体が曲がっていたり縮こまっている状態の人を目にすると「醜い」と思ってしまう感覚があるのかもしれない。
すらっとして背中がぴんと伸びていて手足もしなやかな人を見ると「美しい」と思うのはいいとしても、実は、何らかの障碍やら事故やらでシンメトリーを失った人や体などを見て「醜い」と思うのと一対なのかもしれない。そういう反応を普通は抑圧しているから気がつかなかったけれど、自分の足の小指だから遠慮なく本能のままに「醜い」などという言葉がでたのかもしれない。

「ぼくは君に、君の小指を醜いなどと言ってほしくない」

と夫から最後にきっぱり言い渡された。

全世界を敵にしても私をかばい守ってくれる人だとは知っていたけれど、私の足の小指に向けた不当な言葉も看過できないのだ。

今思えば、私は先入観とか偏見とかも、しっかり刷り込まれた人だとは、昔から気づいてはいた。長男が2歳の時に日本でベビーシッターを探していた折に、一人、お茶の水女子大卒の女性が応募してきた時、私は真っ先に、「そんなえらい人にベビーシッターなんて務まるのかなあ」と思ったのだ。自然にそう考えた時に、それが自分でも不思議だった。
昔、母が私の中学時代の友達を海辺のバカンスにいっしょに連れて行ってくれたことがある。
で、別の時に、今度は大学の同級生を誘おうかなあと思って母に言ったら、「東大の女の子なんて怖くていやだ」と返されたことがある。その時に「それってないでしょ」と思ったのに、その後自分がベビーシッターを探した時に、似たような反応をしたわけだ。
理性的に考えればあり得ないような偏見でも、脊髄反射的にはいろいろと出てくる自分に気づき、そういうバイアスが判断や行動を歪めないようにずっと気をつけてきたつもりだった。

けれども、自分の足の小指を真横から見てすぐに出る言葉が「醜い」(日本語なら違ったかもしれないけれど。)だったことで、自分の人間としての器の小ささを再確認してしまった。