まやの午睡

日常の記録です。

1960年以前の小学校について

2019-10-01 18:26:24 | 日記
10月2週目の週末は義弟のうちに招かれている。

私たちは次女一家と一緒に行く。長女らも合流するので私たちが11人、そして義弟夫妻だ。
お天気がいいといいのだけれど。

9月前半は生徒もまだ来ないし、練習も始まらなく、ゆっくりできた。

毎日書いているブログをひと月先まで予約投稿してしまったほどだ。

9月下旬、中学に進学した孫クンからメールが届いた。

ついに自分のメールアドレスができたらしい。

内容は、学校からのアンケート用紙の写真で、祖父母、曽祖父母、知り合いなどから、1960年以前の小学校についてアンケートに答えてもらってそれをまとめるという課題があって、3日以内に返事してくれというのだ。

私の小学校時代というと1950年代では低学年。夫は小学校全部50年代だ。
婿クンの両親も答えただろう。
何時から何時までで、科目は何か、賞罰とその理由は何か、先生はどんな種類の人か、休み時間の過ごし方は何か、家からの距離、何歳まで通ったか、制服はあったか、などだ。

そんなことをあらためて思い出す機会などこれまでなかったので、夫と2人で頭をひねってそれぞれ答えを書いた。

今思うと、特にフランスの学校と違ってすごいと思いうのはその人数の多さだ。今でも覚えているけれど、「朝礼」があって、私が入学した頃は、いわゆるベビーブーマーがまだ全員小学校にいたので、教室が足らずに午前と午後に分かれる「二部授業」というのがあった。全員で2000人くらいいた。朝礼は校庭を埋め尽くして壮観だった。をお願い致します。

一クラスも45人とか50人とかでクラスもたくさんあった。質問にはなかったけれど給食当番や掃除当番というのもあったし、日直というのもあった。今の日本のことは知らないし、うちの子たちは、小学校は全員うちの向かいにある公立校にいたが、すでに私の頃というより、日本とはまったく違っていた。
石炭ストーブというのもあったっけ。ちょっとぬるぬるで臭いぞうきんを絞るなんてことも、中庭の掃除で枯葉を掃き集めることも、ゴミを焼却所に捨てに行くことも、みな、人生の中で小学校の時にしかしなかったことばかりだ。

夫の頃は、罰というのは手を頭の後ろに組んで立たされるというのがあったらしい。
私の記憶では、教室の後ろに立たされる、廊下に立たされる、一番ひどいのは水の入ったバケツをもって立たされる、というようなのがあったような気がする。
賞の方は、作文コンクールとかクラス対抗の合唱や合奏のコンクールがあった。
私はいろいろな賞をもらったので、朝礼で呼び出されて校長から賞状を受け取った。
全体としては、勉強はしなくてもできたので、ピアノ、バレー、お絵かき、合唱、お習字などのお稽古事に通い、後はいつも兄といっしょに遊んでいた。

校庭の遊びはドッジボールの他いろいろあった。

でも、このことで、小学校のいろいろなシーンを思い浮かべて愕然と今気づいたのは、当然ながら、あの頃の「先生」たちと言うのは、全員、自分たちはいわゆる軍国教育を受けた世代だったんだなあ、ということだ。

私たちは「戦後民主主義教育の子」ということで、前の世代の人たちが自分の経験の手本を示すことができない、というイメージを持っていたけれど、今にして思うと、「前にならえ、気をつけ、休め」とかの号令や、クラスでの起立、礼、着席、とか、彼らにとっての学校のあり方の名残で自然な部分だったのかもしれない。

クラスの中で各「班」に分かれて、班長などがいて班ごとの連帯責任みたいなのがあった記憶もあるが、それも戦中の「隣組」風のメンタリティを継承していたのかもと今になって思う。

まあ私はいわゆる大都会で生まれ育ったので、地方の人ならまた別の経験があったかもしれない。

小学校も1960年代になると、脱脂粉乳が瓶の牛乳になった。鯨肉もあったし、まずい魚肉ソーセージというのもあった。おかずの残りは全部混ぜられて、豚の餌になると言われて運ばれていった。
おかずは原則残してはいけないといわれていたのでまずいものはパンの間に挟んで持って帰ってうちの犬に食べさせたのを覚えている。

もう一つ、今思うと不思議なのは、担任の先生たちからプレゼントをもらったことだ。
担任でいる間はそういうことはできなかったけれど、もう学年も変わったので、プレゼントをできます、と言って、「フランス人形」などを贈ってくれた。
私は、友達は好きだったけれど、先生たちに思い入れはなかった。
親からのプレッシャーもゼロだったから、私のそういう何か根本的な「自由さ」が、戦中派の先生たちの「優等生」のイメージからかけ離れた何かまぶしいものだったのかもしれない。

半世紀以上たった今、孫クンの宿題をきっかけに回想してはじめて思い至る。

1960年代半ばになると、中学では各教室にテレビがあって、試験の時にテレビを使ったものもあった。
私はもう頭の中は完全に学校からドロップアウトしていた。兄といっしょに別の世界を生きていた。
でも、成績がいいので先生から文句を言われることはないし、男の子たちのマドンナ、女の子たちの憧れの対象なので、面倒なことはスルーできてストレスにならなかった。

うーん、孫クンもそろそろそういう年頃になるんだなあ。

うちの子たちは、フランスの学校が日本と比べて規律があまりにもユルイのでこちらも全然ノータッチで過ごせた。

なんだか同年代の人と、小学校の話をしてみたくなった。


コメント
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