まやの午睡

日常の記録です。

長く大変だった7月とそれでも感謝したこと。損失回避性。

2018-08-01 22:26:12 | 日記
7月は長かった。

1日にK ちゃんの2歳の誕生日を次女、パパくん、Kちゃん、末っ子ちゃんと祝った。

2日からは去年に続いてK ちゃんと末っ子ちゃんを連れてバカンス村へ。

自分の子どもたちは「自分たちのもの」だけれど孫ズは私たちのものでなく「親たちのもの」であずかりもの、とにかく無事に「お返しする」ことが至上命令になる私。(夫はその意味ではリラックス)

その後でKちゃんは無事に返したが末っ子ちゃんはそのままあずかり、その後で末っ子ちゃんと孫クンを「交換」し、孫クンに秋に備えて日本語特訓をした。
孫クンを「返した」後でまた次女とK ちゃんが来た。

その間中、日本から長男が来て、まずベルリンに出張、戻ってきてカナダの家族行事に出席、戻ってきてしばらくフランスにいてまたドイツに出張、うちを経由して東京に戻る、という「出入り」が続いた。途中で妹ちゃんや長女夫妻とも会ったので、フルサービスの「感情労働」だった。

夫と長男と孫クンの3人の組み合わせで何度か外出した時だけが、私はリラックスできた。
この3人はいずれも妹のいる「おにいさん」ズで、「耐えることがデフォルト」の人たちなので、こういう人たちといると私の「妹」モードが発現する。

逆に、妹である末っ子ちゃんや一人娘であるK ちゃんという組み合わせの時は、もちろん年齢が低いこともあるが、私は精神的にもくたくたになる。

「もう、だめ」と思った時に、偶然、ネットで、「子を持たない生き方」についての記事やコメントに行き当たった。

「子供のいない」女性には、子供を産まないことを「選択」した人も入れば、子供が欲しいのにできなかった人、タイミングを逸した人、流産や死産をした人、結婚できなかった人、結婚したくなかった人、などいろいろなケースがある。中には子供を持つことに全く興味のない人もいるだろう。

それでも、「子供を持たない」男には分からない実存的な葛藤が女性たちにはある。
女性とは「子供を産む」かどうかのカテゴリーであり、みな、「子供を産んだ母親」の娘だからだ。

「損失回避性」についても思いを巡らせた。
人はもともと、目先にあるものを「失う」ことを、その先に得られるものよりも過大評価するようにできている。

私の場合、夫と二人で暮らしている時の、静けさ、時間、自由、夫の献身など、今とりあえず自分のものだと保証されているものが、「孫や子供」の侵入によって失われる。

これは、たとえて言えば、結婚すれば今まで自由になっていた自分の時間、金、スペースがすべて半減する、だからメリットはない、と思うタイプの人と同じだ。
結婚したら失われるものもあるかもしれないが、安全、家族、連帯、互助など、得られるものもあるだろうことには考えが至らない。

「失うもの」が確実で、「得られるもの」は不確かである場合、人は、「損失回避」の道をとる。進化論的にも理解できる。

けれども、家族サービスによって「失われる」時間や自由ばかりに注目していると、「感情労働」はマイナスに傾くのだ。
でも、家族の人間関係が円滑にいくための投資であり、自由にならない状態をどうオーガナイズするかという訓練だと思えば、負担は変わってくる。

「子供を持つ」ことに由来するいろいろな課題は、物の見方のスパンを変えてくれる。

それでも、女性の場合は、そのような「損失回避性」とは別に、子供を持つかどうかには実存的な問いがついてまわるのだろう。

いろいろなケースのいろいろな体験談を読むうちに、確かに、私の長男に子供がいないことはあまり気にならないけれど(家名や家業を継ぐなどという立場の人は今でもいるにせよ)、もし長女や次女に子供がいなかったら、そのことで不全感がありはしないかなどと心にかけてしまうだろうと思った。

長女も次女も、親が離婚していない配偶者との間に子供がいて、姉妹にも、配偶者のきょうだいのところにも子供がいて、いとこ同士の交流もある。

なんというか、「目くるめく普通」だ。

その「目くるめく普通」のシンボルであるいとこ同士の末っ子ちゃんとK ちゃんを連れてバカンスに行くことで、末っ子ちゃんには自分より年下のいとこを守る体験をさせ、K ちゃんには上の子と遊ぶという体験をさせることができる。

互いの嫉妬やK ちゃんの背伸び、末っ子ちゃんの「退行現象」などいろいろある。
それを見て、こちらも、いくつになっても人間性について学ばせてもらえる。

この子たちを通して、50年後の地球の環境保全に関する決意をあらたにできる。

子育ては「謙虚を学ぶ学校だ」という言葉があるが、「孫あずかり」はその「謙虚さ」がエゴだの自尊心などを超えたさらには深いものになる。

ネットでいろいろな人の生き方や生き難さなどを知ることができて、「感情労働」の不毛な罠から抜け出せて過ごせたことを感謝するばかりだ。